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唯有明の月そのこれる
ちん・どん・しゃん、
ちん・どん・しゃん、
茹だる夏の夜、調子はずれの囃子が響く。
ちちんどんしゃ、ん、
都の、四辻ばかりの往来に。
調子はずれの囃子のように、行列の足並みもてんでばらばら。
そもそも、行列には足を持たぬものもいる。けけけけけ、と笑いながら練り歩く、かれらは人ならざる物の怪どもだ。
聴くものをおびやかす囃子は、琵琶や笛、太鼓に手足がついた付喪神が奏でている。かれら自らが奏でるにくわえて、横合いからちょっかいを出す小鬼たちが、付喪神の音色に余計な付け足しをするのだ。中には小鬼のそんな茶々を振り払う付喪神もいたが、多くはいらぬ奏者を受け入れて、調子のはずれた演奏を楽しんでいた。
行列は、どこからやってきたものか、誰も知らない。
夜行を成す百鬼どもすら知らない。
知らぬ間に、行列になっていただけのこと。
百鬼夜行を目の当たりにした人間から、見物料として魂を頂戴し、彼らはぞろぞろと往来を行く。
ちんどんしゃんという音色には、からんころんと、一本歯の下駄が鳴らす音も混じっていた。山から下りてきた天狗たちも、酒を呑み呑み歩いているのだ。
不意に、その天狗たちのひとりが振り向いて、おう、と声を上げた。かれがはじめに、行列のしんがりにいつしかついてきていた、ひとりの童女を見止めたのである。
「見やれぃ、ぬしら。何とも可憐な獄の遣いよ」
「おうおうお」
「まことに可憐じゃ、近ぅ寄れ」
げらげらげらと、天狗たちは笑った。息には酒の香りが混じっていたが、誰も髄まで酔ってはいない。天狗たちに手招きをされ、妖たちに好奇の眼差しを投げかけられながら、童女が歩みを早めた。
氷色の汗衫を着た、黒髪の童女だ。髪には彼岸花をさしていたが、その彼岸花の色さえ、ぼんやりと光る蒼なのだ。童女の目も、暗闇の中で煌々と光る、蒼だった。
「ちいさな遣いよ、名は何と云う」
「あけはよ」
「あけは」
「明けの葉か」
「いやいや、朱の刃やも」
「違うぞ、七宝だ! 緋色の水晶、緋玻と書くものぞ!」
甲高く吼えたのは、餓鬼のひとりだった。童女の名前を聞いて、行列の後尾は束の間盛り上がった。童女の周りを、言葉が飛び交う。その言葉の中には、童女の兄や父や母の名前も入っていた。
緋玻は、よく知らなかった。
自分がこの筋では名のある一族のものであるということを。閻魔帳に記された魂を回収できるばかりか、閻魔帳の記述を改竄する権限まで与えられているのだ。
緋玻が名乗ってから、彼女を見下ろす妖や鬼たちの目が少しだけ変わった。それは畏敬の眼差しに似てはいたが、かれらの口元から笑みは消えない。緋玻が愛らしい容姿を持っていたし(特に、きょとんとした表情は格別可愛らしかった)、まだまだ幼かったからだ。鬼たちは緋玻に、期待をしている――そんな目を向けていた。
「我らは明けまで練り歩く。しんがりを務めてもらえるか」
「うん。あけは、はじめてのおつかいなのよ。とうさまにいいつけられたの」
「そうかそうか。今宵は良き夜じゃ」
「ねえ、おんみょうじとかでてきたら、みんなかえっちゃう?」
「これだけの数がおれば、内裏の陰陽師も手出しはできまい」
「己の姿を消すがせいぜいであろ」
「もしものことがあれば、鴉天狗めが抱えて飛んで逃げるぞな」
「おんしを見殺しにしてしまえば、閻魔に怒鳴り散らされる」
人間がも身を守るために群れることがあるように、妖もこうして列を成して歩いてゆく。いかなる術者も、いちいち百余りの鬼を相手取ろうとは考えないだろう。
日頃から僧侶や陰陽師には気をつけろ、人間だからといって侮るな、と親兄弟から言い聞かせられている緋玻だったが、それを聞いて安心した。
どんどんひゃらり、と行列は行く。
京の茹だる暑さも、煉獄の炎山に比べぶれば、涼しいものだ。
輪入道の額に乗った鉄鼠が、夏の夜で歌を詠んでいる。
燐の炎に吸い寄せられて、蛾や羽虫がヂッと断末魔を上げ、燃え尽きた。
ちんどんひゃらり、と緋玻も歩く。
けれど彼女は、すこし不安になってきた。今回は遊びではなく、遣いで来たのだ。炎の蝶や式神も連れてきていたし、行列の鬼や妖たちも自分を守ってくれているが、彼女ははじめて遣いに来た。成果もなく地獄には戻れない。
緋玻は不安になっている。何故なら、連れていくべき魂が見当たらないからだ。百鬼夜行の奏でる囃子、哄笑、雑踏が聞こえると、人間たちは屋内に閉じこもり、戸にかんぬきをかけている。
それに、今宵は熱い夜だ。誰も、好き好んで夜歩きはしない。
――どうしよう。とうさまにおこられるかな。あにさまにわらわれるかも。かあさま、がっかりするかもしれない。
家族の同伴もない、初めての遣い。緋玻はこの日が来るのを指折り数えて待っていた。
――おしごとって、たいへんなんだなぁ。
ふぅ、とため息をついた、そのとき。
緋玻の視界に、牛車が飛びこんできた。
ちん・どん、しゃん。
ちちん・ど・しゃ、ん、
「おうおうお、肥えた魂じゃ」
ちん・どん・しゃん、
「見たな、人間。見られたからには、生かして帰さぬ」
猫又と妖孤が、牛車の牛を驚かせた。ぶもうぶもうとわめく牛は、泡まで吹いて暴れ回る。そのうち、牛と車が外れた。従者はとっくに腰を抜かして、湿った地べたにへたりこんでいる。しかし、牛車の中の人間は、決して顔を出そうとはしなかった。
車を振り払った牛は、凄まじい勢いで走り始めた。その背に、餓鬼と小鬼に乗せて。
妖怪たちが、けらけらと笑いながら牛車に手をかける――。
「まって」
緋玻が声を上げた。
その声は、夏場の都には不釣合いなほど、澄んで、涼やかだった。
「そのひと、あけはがもらってく」
すすりすすりと、汗衫の裾を引きずりながら、蒼い目の鬼が牛車に歩み寄る。妖怪たちは、道を開ける。ちんどんひゃらりと、囃子の調子が不思議と揃っていく。
嗚呼これは、裏神楽か。音に合わせて緋玻が進む。
くすりくすりと、緋玻は笑って、牛車の簾に手をかけた。
ゆっくりゆっくり、笑みながら、彼女は簾を持ち上げていく――。
「あれぇ?」
緋玻が小首を傾げると、なにごとかと呟きながら、鬼たちが牛車の中を覗きこんだ。
「だぁれもいない」
「うむ、たれもおらぬ」
「見えぬ」
「みえないね」
「異なものぞ。脂といばりの臭いがするに」
「かくれんぼかなぁ」
「けけけけけ、うまいこと隠れおった、人間が隠れおった」
しゃっ、と緋玻は簾を下ろす。
にこにこ笑って、ゆっくり振り向く。隠れていない人間も、それ、そこにいるではないか。青褪め、震え、尻餅をついた体勢のままの、いやしい従者だ。
「それじゃ、このにんげん、つれてこ」
きらり、と蒼い目が輝いた。
ひいい、と従者が声にもならない悲鳴を上げた。
従者の身体は二、三度跳ねた。ほの白い魂が、彼の口から音もなく飛び出す。緋玻はそれを、ひょいと抱えて、そっと両手のひらの中にとじこめた。蝶を捕らえたときのように。
従者は倒れたまま、動かなくなった。恐怖のあまり死んだ、ととらえることも出来よう。
「よかった。あけは、おつかいできたわ」
「ならば丑寅の門より、都を出るとしよう」
ひひひひ、けけけけ、ちん・どん・しゃん。
百鬼夜行は、再び都を歩き出す。囃子の調子は、またもやはずれてゆくばかり。
緋玻は東の空に、細い細い月が浮かんでいるのを見たのだった。
牛車の中から、青褪めた、夜着の貴族が恐る恐る顔を出す。東の空に、月が浮かび始めた頃に。
鬱陶しい夜の暑さはどこかに消えて、総毛立つ冷気が残されていた。それは、氷色の汗衫の童女が残していったものか、はたまた夏の早朝の風か。
貴族の手には、汗で濡れた御守があった。
五芒星の縫い取りがある、御守だった。
路地に転がるひとつの死骸が、明け方の悲鳴を呼んでいた。
〈了〉
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