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<東京怪談ノベル(シングル)>


笛の音から逃げろ


 はっきりとしない生き方が、今回の顛末を生んだのか。
 物部真言に喝を入れたか。或いは、気まぐれで目をつけられただけか。ともあれ真言は、危うく死ぬところだった。宇宙にはきっと、数えるための単位も足りないほどの数の命があるだろうに、よりによってその夜、物部真言が『彼』の遊び相手として選ばれてしまったのだ――。



 都市の上空には、常に低音がたなびいていた。風の唸りだろうか。東京中に血管のように張り巡らされた車道を、車が走る音の多重奏だろうか。或いは神の寝息、いびきなのかもしれない。
 その夜はその音が、いやに大きく聞こえるような気がした。

 今日は、朝とも言えない時間に目を覚ました。確か、11時を回っていたような気がする。昼間のバラエティを見ながらだらだらと食事をし、なんとなく真言は自宅を出ていた。今日はもともと仕事も入れておらず、自由な日だった。
 とは言っても、真言にとって、『自由な日』とは、ほぼ毎日のことである。辛うじて『住所不定』ではないが、限りなく『無職』には近い。
そうして今日は、ふらりと立ち寄ったアトラス編集部の依頼で、取材をすることになった。結局その取材も、真言はほとんどなにもすることなく無事に終わり、パン代と大福代を稼ぐことができた。
べつに真言に、やる気がないわけではない。こんなことではいけないと、自分の行く末を案じている。今日のアトラスの取材にも、真言はちゃんと真面目に向き合った。ただ単に、アトラス編集部が掴んだ情報がガセで、怪奇現象などなにひとつ関わっていなかったというだけだ。もし、今日の取材中に霊障が起きたり妖怪が襲ってきたりすることがあったなら、真言は同行者を守るために動いたはずだ。彼にはその気があったし、実力もあった。
ごおおおう、と街の空は唸る。
――空回りしてるわけじゃない。たぶん。
けれど、空の唸りは、大いなる意志が空回りをしている音なのかもしれない。

「……」
 ふと、真言は顔を上げた。
 時刻は午後11時。目覚めたのはちょうど12時間前。深夜だ。彼は少しも眠くはなかったが、街はすでに眠っている。あと5分ばかり歩けば、真言の自宅だ。この辺りは、『眠らない街』と謳われる都心とも離れた住宅街で、午後も8時を回れば静まり返る。ただひとつ、空のあの低い唸りだけが音として存在している。
 そんな深夜の街で、まだ営業している店があった。コンビニエンスストアではない。煙草の自販機の横に、ぼんやりとした光。
 和菓子屋だった。
 ――そんなんありかよ。
 甘味好きだが生クリームが苦手な真言は、和菓子を好む。大福や饅頭を買う自分の姿が、すこし情けなくも爺くさく思える彼だが、好きなのだから仕方がない。街中で和菓子屋を見れば思わず足を止めてしまうほどだ。
 けれども、ここは真言の生活圏だ。和菓子屋があったなら、とっくにその存在を覚えていて、何度も通っているはずである。
 真夜中だというのに、店は間違いなく営業中だ。ショーケースには、桜餅や柏餅や落雁、麩菓子、餅、団子、饅頭が、ぎっしり詰まっている。ショーケースの上に両肘をつき、両手を組み合わせている店員がいる。顔は、わからないが。
 そう、顔が、わからない。なぜか店員は、暖簾をかぶっているのだ。
 ――ヤバイ。絶対普通じゃない。早く帰るぞ。ヤバイ奴とかヤバイ物には触れるな。あえて突っ込むな。とっとと帰って寝たほうがいい。
 和菓子屋には立ち寄らず、真言は自宅に向かって歩き出す。
 空は、いまや吼えている。なにかを拒絶し、吐き出そうとしているらしい。

 しばらく進むと、また、明かりが自販機の横を照らしていた。
 深夜11時過ぎ、橙色のスポットライトに照らし出されているのは、職業安定所だった。ぎくりとして、真言は足を止める。『求人』と大きな文字で印刷された張り紙が、ドアをびっしりと埋め尽くしていた。そして、そのドアの前には、黒いビニール袋をかぶった男が、軍人のように背筋を伸ばし、「気をつけ」の体勢で突っ立っているのだ。
 思うまでもなく、それはヤバイ雰囲気をかもし出している。
 不意に男が動いた。そのときにはすでに真言は息をすることさえ忘れてしまうほど硬直し、顔を見せようとしない男を見つめていた。男は動いた。動いて、張り紙だらけのドアを開いた。
 いったいどこから、いつの間に、現れていたのだろう。ぞろぞろと近辺の住民と思しき人間が現れ、異様な職安の中に――ドアの向こうに入っていくのだ。
 夢だ、と真言は思った。
 空の音が大きすぎるではないか。

『何故、そう思う』

 空が、嘲るようにして真言に言葉を投げかけた。
『何故、夢であると思うのだ。これもまた真実のひとつ。おまえの世界だ』
 走ろう、と真言は思った。走って逃げたほうがいい。
 いや、それよりも先に。
 あのわけのわからない男が門番をつとめる職安、そこにぞろぞろと入っていく人間をなんとかしたほうがいい――真言は、咄嗟にそうも考えた。あのドアの向こうは、ヤバイ世界なのだ。ふらふらと、頼りない足取りで歩いていく人々を、真言は放っておくことができなかった。
「おい、……行くな!」
 ぐい、と夢中でひとりの女性の肩を掴む。彼女は振り返った。彼女には顔がなかった。けれど、笑っている気がした。笑顔が真言には見えたのだ。

 ――夢だ! 現実じゃない!

 弾かれたように、真言は女性の肩から手を離し、後ずさりをした。ドアが開け放たれた職安からは、ごおうごおうと空の音が聞こえてくる。
 ああ、これは。
 この音は、もっと恐ろしい音を隠そうとしているのではないか。人間が聞けば恐怖のあまり発狂してしまうような、恐るべき音を――空が、隠してくれているのではないか。
『おまえがおまえの神を捨て、おまえがおまえの生きたいように生きる日を、誰かが待っているかもしれんぞ』
「……あんた……誰なんだ。どういうつもりで、俺に、こんな……夢を見せるんだ?」
『さあて、わたしは誰なのだろう。様々な名で呼ばれ、様々な姿で見止められる。わたしのことは、おまえに関係ないだろう。問題はおまえが、このさきどう生きるかだ。わたしは今宵は気分がいい。おまえに「鏡」を見せてやっている』
「……鏡?」
『ふふふふふふふ、空だ。空はおまえを包む鏡だ。ははははははは』


 空の悲鳴が、なにかの音色をかき消そうと、躍起になっている。
 真言は気づけば耳をふさいで、己が信ずる神に祝詞を捧げていた。聞こえてくるのは、物部の歴史が繋いできた祝詞だけだ。そうであってほしかった。
 貌も名前もない声に心を揺さぶられるのは、まっぴらだ。
 正体のない声は、自分の声にしか聞こえない。
 ああ、あの声は。
 あの声は物部真言の声。もはや、彼にはあの声しか聞こえない。祝詞が、奇妙な旋律を紡いでいるような気がする。

「エ・エ・ヤ・ハアアハア!! イグナイイ! イグナイイ!」

 空が一瞬よろめいて、あの唸り声が途切れた。
 聞こえてきたのは、笛の音だ。
 空にさえぎられていたのは、なにかを称えるかのような、狂った旋律だった。
 得体の知れない声は、物部真言のもとを去っていく。哄笑を上げながら、空の裂け目へ戻っていく。暖簾をかぶっていた店員も、ゴミ袋をかぶっていた男も、顔のない女もみんなみんな、消えていく。もうよかろう、とでもいうように。
 真言ははあはあと荒い息をつきながら、目を開けて、耳から手をどける。
 午後11時。
 深夜の空は、じっと口をつぐんでいる。
「ああ……」
 自分は生きたいように生きてはいけない。真言は、そう思った。無貌の神は、気まぐれに、それを教えてくれたつもりだろうか。生きたいように生きてしまえば、また、あの笛の音がやってくるに違いない。そして今度こそ、自分をどこか遠くへ連れて行ってしまうのだ。
 ――俺は、目をつけられちまったんだ。それもこれも、俺が、隙だらけだから。
 目の前には、職安などなかった。すこし戻ったところにあった和菓子屋も、きっとなくなっている。
「……仕事、探そう」
 そう、それもアルバイトではなく、正社員の。
 冷や汗を拭いながら、午後11時の空の下を、真言は確かな足取りで歩き始めていた。




〈了〉