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<東京怪談ノベル(シングル)>


鏡の国の花霞


 ひどい混雑だった。
 迷子のおしらせすらもかき消されているほどの雑踏だ。
 日曜だから仕方ない、と言えばそれまでだが、それにしても人が多い。夜の都心の駅にみられる混雑と違うのは、顔ぶれに子供のものが多く見受けられるからだろうか。騒がしさも都会の喧騒とはまったく違っている。表情は明るく、声も高い。
 賈花霞の歓声と表情も、この混雑の中に溶けこんでいる。彼女は小学生であったし、家族との外出は大好きだったし、遊園地で遊ぶのも大好きだ。
「すっごーい! すっごい人! みんなゆうえん地すきなんだね!」
 名物ジェットコースターの行列は、最後尾が2時間待ち。ありふれたメリーゴーラウンドでさえ、並ばなければならない混雑だ。この遊園地オリジナルのケースに入れて売られているキャラメルポップコーンの屋台ですら、子供たちや親たちに囲まれている。
 自分があの放送の世話にならないように、花霞は家族のそばを離れないようにしようと考えていた。はじめのうちは。
 けれども、彼女は結局、家族のそばを自ら離れてしまっていた。知らぬ間に離れていたわけでも、家族とともにいるのが嫌になって離れたわけでもない。
 花霞は、ウサギを、見たのだ。

 はじめにそのウサギを見たとき、花霞は驚いた。
 ただのウサギではなかった。人ごみの間を縫うようにして、ぴょこぴょことウサギは歩いていく。人間のように、服を着て、靴を履いて、風船を手にしていた。特別急いでいる風には見えなかったが、どこかに向かって歩いているのは明白だった。
 遅刻だ遅刻だ、急がなきゃ!
 ウサギに急いでいる節はないのに、花霞の脳裏には、『不思議の国のアリス』の有名すぎるセリフが浮かび上がる。

 花霞はウサギを追って歩き出していた。ウサギは手にした風船をふわりふわりと煙のように揺らしながら、脇目も振らず歩いていく。
「まって!」
 花霞は思わず、声をかけていた。
「まって、ウサギちゃん!」
 ウサギはようやく、振り向いた。きょとんとした様子でもあり、微笑んだようでもある。目は血のような赤だった。かれは追う花霞を拒みはしなかったが、けして誘いもしなかった。ウサギはとことこ、歩いていくのだ。
「ウサギちゃ――ぶっ!」
 ウサギにばかり気を取られていた花霞は、横合いから突っ込んできた男の子数名になぎ倒された。男の子は他の子供たちにもぶつかり続けている。彼らにも悪気はない。はしゃぎすぎてテンションがおかしな方向に向かっているだけだ。男の子たちを怒鳴りつける母親と父親も必死の形相だった。
 倒れた花霞は服や手についた土を払いながら、よろよろと起き上がる。花霞を『轢いた』男の子たちはもう、はるか彼方だ。
「いたたた……んもう、まわりよく見てあるいてよぅ」
 そうぼやいてから、彼女はあらためて辺りを見回し、それは自分にも言えることだったと痛感した。

 彼女は、家族とはぐれてしまっていた。

 ウサギの姿も、見慣れた姿もない。きょろきょろと蒼い視線を泳がせながら、とぼとぼと花霞は歩いた。迷子になってしまった。こんな、迷子のお知らせもかき消されてしまう混雑の中で。
「こまったなぁ…………あッ」
 彼女の視界に唐突に飛びこんできたのは――まるで、示し合わせていたかのようでもある――例のウサギだった。風船をぷかぷか揺らしたウサギは、ミラーハウスの中へと入っていく。誰もがそのミラーハウスの入口の前を、素通りしていく。あたかも、ミラーハウスなどそこに存在していないかのように。
「……」
 知らず、花霞の足は、そのミラーハウスの入口へと向けられていた。


『ようこそ、かわいいおじょうさん』

「わっ!」

 ミラーハウスに入るなり、花霞は驚いて立ち止まる。鏡張りの暗黒の中、だんだら模様の衣装を着たピエロが、『ようこそ、かわいいおじょうさん』とマジックで書かれたスケッチブックを手にして突っ立っていたのだ。左手にスケッチブックを持ったピエロは、右手に――じたばたもがくウサギの耳を掴んでいた。
 ぺらり、と器用にピエロがスケッチブックのページをめくる。
『こいつについてきて まいごになったね?』
 ばうん、と花霞の背後で重い音。は、と花霞は振り向く。
 ドアが閉まって、花霞の周囲は闇に包まれた。すぐに、あやしい色の明かりがついて、鏡張りの世界が照らし出されたが。
 しかし、もう一度花霞に向き直ったとき――そこに、だんだらのピエロはもういなかった。新たなページが開かれたスケッチブックが、床の上に残されていた。
『ぼくをつかまえてごらん。だしてあげるよ。かわいいおじょうさん』


 光は、蛍光灯や電球のものではないらしい。不規則にゆらめき、頼りない明るさだ。おそらく、ランプや蝋燭の類だろう。
 花霞はなぜかスケッチブックを大事に抱えて、鏡の迷路の中を歩き出していた。
 壁――いや、鏡に映るのは、頼りない光に照らし出された自分の顔。顔、手、足。顔。どれも、ここを照らす明かりのように不安げだ。
「ピエロちゃん!」
 花霞の声も、光のように跳ね返る。
「すぐつかまえちゃうよ! 花霞ね、人のけはいがわかるもん!」
 そう、花霞には、わかるのだ。
 ことに、負の感情を帯びたものや人間を探ることに長けている。それに、聴覚にも優れていた。ピエロが立てる音なのか、それても耳を掴まれてもがくウサギが立てるのか、花霞が立ち止まっていても、どこかでどたばた音がしている。
 ――ん! こっち!
 花霞はスケッチブックを抱えて、右へと走り出す。しかし、何歩も走らぬうちに――
「ぶ!」
 自分に体当たりをされて、黒い床に転がった。
「いったぁ……」
 額を抱えて前を見れば、額を抱えている自分の姿が目に入った。鏡だ。鏡の壁。
 転んだ拍子に落としたスケッチブックが、開いていた。
『おにいさんとおとうさんのところにかえりたいでしょ』
 こくり、と花霞は固唾を呑んだ。
 ピエロは、花霞が誰とこの遊園地に来たか知っていたのだろうか。
 花霞は手を伸ばし、スケッチブックのページをめくる。
『かえりたい? かえりたい? かえりたい? うさぎのほうがきになる? かえりたい? ほんとうにかえりたい? かえりたい? かえりたい?』
「……かえりたい。花霞、ぜったいもう、離れないもん」
『うさぎのほうがきになるんじゃないの?』
 振り向いた花霞は、
 息を呑んだ。

 耳を切られたウサギが、いつの間にか背後に転がっていたのだ。

 しかし、ウサギに近づいた花霞は拍子抜けした。ウサギの切られた耳の付け根からは一滴の血も出ていない。耳を切られているのは、ウサギのぬいぐるみだった。
「花霞……ぜったいかえる!」
 その目を細めて、花霞はまた走り出す。
 もうスケッチブックは捨てていた。耳のないウサギに目もくれない。
 ミラーハウスの中の迷路を迷わず歩くには、床を見ながら歩けばいい――そんな攻略法も、花霞は知らない。知らないが、彼女はもう壁にぶつからなかった。乱反射する気配と音を辿り、花霞は迷路の中を走り回る。
 さっ、
 さっ、
 からかうように、逃げるように、ピエロの白い顔や服が視界をかすめる。
 ばっ、
 ばっ、
 花霞の蒼い視線と髪飾りの光が、鏡の上を行き来する。
「ピエロちゃん!」
 無言で笑っているピエロの姿を、花霞が見い出したのは――鏡の中か、それとも虚空の中なのか。
「つかまえたっ!」
 花霞が生み出す風と、髪と、指のひらめきが、鏡を粉々に撃ち砕く。
 花霞はだんだらのピエロに、抱きついていた。


 彼女がもんどり打って飛び込んだ先は、はぐれた家族の胸の中。
 ミラーハウスの暗闇も、ウサギも、ピエロも、ひとりぼっちの沈黙も――すべては消えて、騒がしい幸福の音がもどってきていた。
 迷子を知らせる声は、相変わらず、雑踏の中。この声の中に、花霞の姿を求めるものも、入っていたのだろうか――。
「ごめんなさい! 花霞、もうどこにもいかない!」




〈了〉