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<東京怪談ノベル(シングル)>


風がそこにいる


 いまだ都会の空の上には、低音が居座っている。
 ごおおおおおう、と唸り声を上げている。呻き声にも聞こえる咆哮だ。
 彼は風を聞いていた。彼方の車のクラクションが、唸る風に乗ってやってくる。ひょっとしたら、彼方で誰かに殺されている最中の、女性の悲鳴も乗ってくるのではないかと思っていた。

 物部真言は、救えなかったのだ。

 数日前、真言の友人の友人という女が、彼を頼ってやってきた。かいつまんで言えば、その女は結局助からなかったのだ。
 ふらふらと、確かな『居所』も持たずに生きる自分は、いい加減だと自覚していた。きっと今回のみじめな結末は、天かなにかが(もしかすると、物部の始祖か)自分に喝を入れたのだと――思っていた。そのとき見た光景は、目を覚ませ真言、という啓示そのものだったのかもしれない。
 真言、おまえがそんなことだから、この女は死んだのだ。誰かに救いを求めていた女だ。おまえはこの女を救えたかもしれない。だがおまえがなにもしなかったから、この女は死んだのだ。
 誰かが自分の心に、直接そう怒鳴りつけてきていた。
 真言は、それで終わりだと思った。自分が叱られ、それでこの事件は終わったと思っていた。依頼人は殺されてしまった。
 殺されてしまった、――風に。

 ――こんな俺を、頼りにしてくれたんだから。俺は力になりたかったんだ。ちくしょう。……ちくしょう!


 彼女は骨董品屋で黒縞瑪瑙のブローチを買ったと言った。それから、山吹色の封書が毎日届くようになったという。蝋で封印された封書の中に入っているのは、いつも一枚の紙片だけだ。どうやら本のページを破ったものであるらしい。真言もそれを見せてもらった。
 ページに書き連ねられているのは、日本語ではなかった。そして英語でもなかった。だが、一文はさほど長くなく、詩か戯曲が書かれているものと思われた。
 その、読むこともできないページの片隅に――これだけは、日本語で書かれていたのだ。
『黄の印を見つけたか』
 その一節を読み終えたとき、ようやく真言はまともに彼女の顔を見つめた。
 彼女には、妖怪でも幽霊でもないなにかの気配がまとわりついていた。具体的にどうしたらいいのかわからなかったが、とにかく、彼は彼女を助けることにした。友人とともに彼女の家に行き、誰が山吹の封書をポストに投げこんでいくのか、見張ることにした。
 真言が玄関口に張りつき、友人と依頼人が部屋にこもっていた――白昼のことだった。


 空が黄の雲に覆われた。
 空を蹂躙するは、山吹とも黄土色とも、その両方ともつかぬ色。
 ぐるぐると渦巻く黄と黄と黄。黒い稲妻が、ぴしり、ぱしり。
 白昼はどこかに行ってしまった。閉めきっていたはずのドアが開き、乾いた生温かい風が飛びこんできて、真言はそんな異様な空を見るはめになった。
 風がごおうと唸り、凪ぐ――そのとき、真言の友人と依頼人の、凄まじい絶叫が上がった。
 真言は救えなかった。
 自分を頼ってやってきた女を。
 黄色の風が家中を駆け巡り、狂気に駆られた悲鳴が響きわたる中、山吹の封書のことなど忘れて、真言は部屋まで走った。ドアは外れ、喉や目をかさかさに乾かす風が吹き荒れていた。黄色と黒の縞模様を浮かべる空を、蜂とも死体とも蝙蝠ともつかない生物が飛びまわり、うぅううぅうと唸って、ぎゃたぎゃたと笑い転げていた。
 笑い転げているような声を上げているのは、その生物だけではない。
 真言の友人が、床にへたりこんで、涙を流しながら、ぎゃたぎゃたと声を上げていた。
「おい! しっかりしろ! か、彼女は!?」
「ぎゃぎゃぎゃきゃきゃきゃ……! ぎゃっ、ぴ、けかかかこここここ……こ」
 これ。
 正気を失った友人が見つめ、震える指で指さしているものは、びよびよと床に広がっているなにかだった。肌色と赤と白が混ざり合った肉塊に見えた。目をこらした真言は、あッと叫んで後ずさりをした。
 依頼人だ。
 全身の骨を抜かれ、何日も何日も鍋で煮込まれでもしたかのようだ。人間ではないなにかに変容しているとしか思えなかった。でろりとのびてしまった依頼人は、ぴくりとも動かず、声も発していない。きっと、おそらく、死んでいる。手を伸ばしてその身体に触れ、体温を確かめる勇気が――真言は、ほしくてたまらなかった。
「ど、どうして……どうして、こんな――」
 真言は窓の外を見た。
 そこで、なにかを見た気がした。
 けれども、黄色に渦巻く空と黒い稲妻がはじけ、なにかの視線を感じた気がした途端、真言は意識を失っていた。

 気がつくと風はやみ、正気を失った友人と、見るも無残に死体になった依頼人が、真言の前に横たわっていた。
「……ごめん……」
 真言は、よろよろと依頼人の成れの果てに近づいた。
「ごめん、俺は……なにも……」
 不意にまた、風が吹いた。窓が開いているのか……割れているのか。乾いた風が、忍び寄ってくる。
「あ……」
 人間のかたちをとどめていない死体が、その風に吹かれた途端、かさかさと音を立てて乾きはじめた。数年間回し続けたビデオを早送りした勢いで、死体は干からび、崩れ、風にさらわれていく――風化、していく。

『黄の印、見つけたぞ』

 なにかが真言の頭の中でささやいた。
 空は、もうなにごともなかった青色であった。その青があまりに薄く、あまりにまぶしくて、真言の目に涙が浮かんだ。
「あ、はあははあ、はいあはいあ、えぶらぐるぶるん……」
 部屋の隅で、震えながら真言の友人がかすれた声を上げる。
 真言は振り向き、友人に近づいて、その顔に両手を添えた。
「俺を見ろ」
「そるるんぐるん……はいあはいああすたああああ……」
「俺を見ろ!」
 かちっ、と視線が真言の目を貫く。その瞬間を、真言は逃さなかった。かさかさと風のようにささやいて、真言は祝詞を上げ始めた。
「高天原に神留ります……皇神達の鋳顕したまふ……十種端の宝を以って――」
「はいあ! はいあ! ぶるぐらるんぐるんらどんぐんる! はいあはいああすた!」
「波瑠布由良由良而布瑠部由良由良由良止布瑠部!」
 すう、と一呼吸。
「神通神妙神力加持!」


 ぱん、と白い光が弾けたあと、真言の友人はこの世界に戻ってきた。
 風が吹き、がたがたと窓が揺れ始めてから、真言に真正面から見つめられつつ目覚めるまでの記憶が抜けている――と、言っていた。
 それでいいのだ。
 見てしまえば狂ってしまうようななにかが現れ、なにかを成し遂げていったに違いないのだから。主を失った家から出たふたりを、東京の湿った風が包んだ。高地の砂漠で吹いていそうな黄色の乾いた風は、どこにもない。
 けれど風が煙草屋の看板をぐらりと揺らしたとき、真言とその友人はびくりと飛び上がっていた。


 風にさらわれていった彼女をまだ救えるだろうかと、真言は空の下で考えた。
 ごおおおおう、という低い唸りの下で。
 死んでしまったのなら、生き返らせることができる。そう易々と起こせる神の奇跡ではないが。
 狂ってしまったのなら、正すことができる。魂が、肉体が、真言の目の前にあるのなら。
 けれど彼女は、得体の知れないものに印をつけられ、時が満ち、回収されてしまっただけなのではないだろうか――。生きてもいないし、死んでもいない、手の届かないところにある存在になってしまったのではないか。
 そんな曖昧な存在に、祝詞を上げて、思った結果が出せるだろうか。
「ごめん……俺、……怖いんだよ……。俺さ、……こんなんだから……まだ全然、力もないから……!」
 唸る空の下で真言は呻き、空に押し潰されて、膝をつくのだった。




〈了〉