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迷い子(後編)
【0】
小雨に濡れる夜の町。
窓の形に切り取られた夜景を楽しむ――どうせ殺風景な雑居ビルしか映らないのだが――というにはあまりにも重い溜息が事務所に流れた。
草間武彦は『怪奇ノ類 禁止!!』などと貼り紙がされた壁を眺め、「あー」と無意味にぼやく。
短くなった煙草を、すでに吸殻が山と積まれた灰皿に押しつけ新しい煙草に火をつけた。
「あんまり溜息つくと、しあわせが逃げちゃうんだよ?」
すぐそばから聞こえた声に、武彦はあえて意識を外す。あらぬ方向を向き、明日は晴れるかな、などと考えた。
「ねぇ、聞いてる? おにーちゃん」
幼い声が不思議そうに響く。
白磁のような小さな手が伸びて、ソファでだらしなく手足を伸ばしている武彦の耳を引っ張った。
武彦はこれも無視したが、相手がそれを許さない。小さな両手で武彦の顔を挟み、ひょい、と顔を覗きこんだ。
「人の話聞かないのは悪い子だよ」
にこ、と鼻が触れ合うほどの距離で可愛い女の子が笑う。手触りのよさそうな黒髪に素朴な和服、歳は十かそこらだろうか。
武彦はうんざりしたように眉をひそめ、仕方なく女の子の手を引き剥がした。柔らかい手は、けれどぞっとするほど冷たい。
――ああもう、なんだってこう。
武彦は頭痛を覚えて額に手を当てる。
「? おにいちゃん、だいじょうぶ?」
「……だれのせいだと思ってるんだ」
「だれのせい?」
女の子が無邪気に首を傾げる。こうして見ている限りでは、稚い女の子そのものだ。――体の向こう側がすこし透けて見えるが。
「おまえのせいだろうがーーっ!!」
……と叫びたいのを必死で堪え、武彦は古風な黒電話の受話器に手を伸ばした。
「……あぁ、すぐに来てくれ、至急」
今朝から女の子の幽霊につきまとわれてるんだ――と心底疲れた声で呟いた。
【1】
文字通り――とはさすがにいかなかったが、連絡を受けたシュライン・エマは一時間と経たずに草間興信所に現れた。日参しているといっても過言ではない場所だ。もとより迷うはずもない。
いつものように長い黒髪をきっちりとまとめた姿で現れたシュラインを、武彦は救いの神が現れたと言わんばかりの顔で出迎えた。草間零はシュラインのコートを受け取ってハンガーにかけながら、ずっと渋い顔をしていたんですよ、と苦笑する。
外は相変わらずの雨。予報では一晩中雨が降るという。
その雨に濡れる窓の前、すこしくたびれたソファの端にちょこんと女の子が座っていた。武彦に寄り添うように収まったその姿は、一見すれば兄妹――いや、やはりどう繕っても親子のように見える。
思わずそんなことを考えて、シュラインは小さく笑った。
「……おまえは笑うなよ。頼むから」
武彦がげんなりと肩を落とす。
その隣で、件の女の子は不思議そうにシュラインを見上げていた。受話器越しに聞いた通り、黒髪の幼い女の子だ。特に目立つ柄があるわけでもない素朴な着物に身を包み、小さな足は素足のまま。
シュラインは短く武彦に謝ると、目線を合わせるように女の子の前に屈んだ。
「初めまして、シュライン・エマよ」
「? おねえちゃん、おにいちゃんの恋人?」
素直な言葉にシュラインは目元を和ませた。女の子の隣では、武彦がすこし照れたようにあらぬ方向を向いて煙草の煙をくゆらせる。
「ええ、そう。いい人よ」
シュラインが微笑むと、女の子が花開いたように笑った。その笑顔に惹かれるようにシュラインは女の子の手を包み、その手の冷たさに一瞬体が震える――それはすでに鬼籍に入った者の熱。
シュラインの表情に気づいたのか、女の子はこくりと首を傾けた。
「どうしたの? おねえちゃん」
「あぁ……名前を聞いてないな、って思って。お嬢ちゃん、お名前は?」
「なまえ?」
「そうよ、名前」
「…………」
女の子は反対側へと首を傾げ、意味もなく部屋を見回し――ふるりと首を振った。
「わかんない」
「――覚えてない?」
「うん」
「そう……」
「いけないこと?」
不安げに尋ねてくる女の子に、シュラインは安心させるように微笑んだ。覚えてないというのなら仕方ない。宥めるように女の子の頭を撫でてやる。
シュラインは視線を移し、武彦を見やった。
「武彦さん、今朝から、って言ってたわよね。どんなふうだったか話してくれる?」
「ああ……」
武彦は煙を吐くと、思い出すように染みのある天井を仰いだ。
この日は朝から冷たい風が吹いていた。
すでに木々は色づき、枯れ落ちた葉が風に混じって流れる季節。毛布から出るのが億劫になる寒さに、武彦は悪態をついた。
零になかば追い立てられるように起こされ、ソファに陣取って煙草に火をつける。
ふぅ、と息を吐けば灰色の煙が天井へと消えていった。
こん
「ん?」
零が朝も早くから掃除に精を出している中、奇妙に耳に通る音。音の出所を探して視線を巡らせるも、特に気になるものはない。
「なぁ、零」
「はい?」
掃除機をかけていた手を止め、零が何事かと武彦を振り返る。
「今なんか聞こえなかったか?」
「? いいえ?」
「……あ、そう。ならいい」
気のせいだろうか。
寝起きだしなぁ、と武彦は煙草を銜え、再びソファに体を沈めた。鉱石ラジオに手を伸ばし、スイッチを入れる。軽く調節すると、どこか古めかしい女性の歌声が流れてきた。
こん
「……あ?」
掃除機の騒音と、ラジオから流れる歌声と。
なのに、はっきりと耳に届く小さな音。
例えば玄関を叩くような――
「なんだ? だれか来てるのか?」
武彦は面倒臭そうに寝癖がついたままの髪を掻き、重い腰を上げた。煙草を銜えたまま玄関まで行き、ノブに手をかける。
――なんでそこで止めなかったのか、とあとになって思う。ブザーも鳴らさず、よくよく考えてみればおかしいではないか。
「はいはい、朝っぱらからなんの用で――」
相手を探すように下がった視線が、一点で止まる。
「おにいちゃん、だぁれ?」
扉の前に立っていた女の子は、それはそれは不思議そうに首を傾げたのだった――
「で、今に至る?」
「……そう。一日中だぞ!? いきなり中に入ってきて、”あれはなに”、”これはなに”って質問攻めだ! しかも俺が外に出かけようとすると泣き出すし……」
つまるところ、一日女の子につきっきりだったというわけだ。
――朝、連絡くれても良かったんでしょうに。
シュラインはそう思い、あるかなしか、笑みを浮かべる。結局泣く子には逆らえなかったのか、と武彦の良心を思うとすこし微笑ましかった。
だが、問題はそこではない。
服装だけ見れば、この女の子はどう見ても昔の子――死んでから少なくとも五十年は経っていそうな。なのに、いまもこうしてここにいる。
原因は、どこに?
「ねぇ、どうして武彦さんのところに来たの?」
常より優しい声音で問いかける。
シュラインと武彦が話している間零に構ってもらっていた女の子は、気づいたように顔を向けると、うーん、と唸った。
「……知ってるような気がしたから?」
言いながら首を傾げる。
自分でもわからないのだろうか?
「……まぁ、武彦さんがなんとなくそういうものを呼び寄せる体質なのかもしれない、っていうのもあるけど」
「ちょっと待て。勘弁してくれ」
武彦の抗議をさらりと流し、シュラインは女の子と目線を合わせた。
「どこらへんが知っているような気がしたの?」
「えっと……なんだろう。最初は、なんだかなつかしい気がして」
「なつかしい?」
「うん……わたし、ずっと道に迷ってて。行きたい場所があるのに、道がわからないの。それでずっと…………そうしたら、なんだかこっちから知ってるような感じがしてきて、来たら」
「武彦さんがいたのね」
「うん」
「でも、武彦さんのことは知らなかったんでしょう?」
女の子はこくんと頷き、初めて見た、と素直に告げる。
「でも、なんだか……見てたら、あの子に似てるかも、って思ったの」
「あの子?」
シュラインと武彦、零の視線が子どもに注がれる。
女の子は両腕をいっぱいに広げて、このぐらいの、と言った。
「いつもひとりぼっちでいた。……村の人たちは、見た目が違うから、ってその子のこといじめてて。本当は優しい子なのに、ひどい」
女の子は哀しげに俯き、眉を寄せる。
「――友達?」
「ともだちだよ。いつもこっそり隠れて遊んでた……見つかると、その子がいじめられるから」
「その子、どんなふうに他の人と違っていたの?」
「…………目、ひとつだけだったよ」
女の子は呟くように、ぽつり、と声を零した。
シュラインの脳裏になにかが掠める。
「――村の人たちは鬼だって言ってた。鬼とは遊んじゃいけないんだって。ひどいことをするから、って。でも、村の人たちのほうがずっとひどいよ。なにもしてないのに、どうしていじめるの?」
涙の滲む声。悔しくて仕方ないと言いたげなその様子に、武彦と零は言葉を詰まらせる。
――『――のあたりには、神隠しがあるらしいですよぉ! ドキドキ』
――”昔々その昔、優しい鬼がおりました”
――「赤い着物の、女の、子」
――「隠し鬼といえば……塚があったわね」
――「みんなが待ってるの。お人形さん、とってこなきゃ」
シュラインは我知らず、険しく双眸を細めた。
まだ色褪せるにはすこし早い記憶――あれが起こったのは数ヶ月前のこと。
あの時見た異形の姿を、まだ覚えている。
「……シュライン、どうした?」
「シュラインさん?」
訝しげな声に取り繕うこともせず、シュラインは腰を伸ばした。記憶を頼りに、資料を無造作に突っ込んでいる棚を漁り始める。
突然のシュラインの行動に、武彦たちはなにがなにやら、ただ見守っているしかない。
「……あったわ」
シュラインは見つけた書類を引っ張り出すと、それをソファの前にあるテーブルの上へと置いた。
武彦たちの視線がその資料に向けられる。
白黒の古ぼけた写真を挟んだクリップ。人形を抱いて笑う少女の――
「……ん? これって前の……」
「お婆さんが頼んでいったやつですよね? 娘さんを捜してほしい、っていう」
「そうよ」
「これがどうかしたのか?」
シュラインが推測を口にしようと開きかけると、女の子の手がその写真に伸びた。じっと目を凝らし、食い入るように見つめている。
「……ここ」
「え?」
「おねえちゃん、わたし、ここに行きたい」
シュラインは武彦と目を合わせ、再び女の子の前に屈んだ。
「どうして?」
「この近くに、あの子がいるような気がするの」
「……友達が?」
「うん。……ここもそんな感じがしたけど、こっちのほうが強い」
「ここも?」
老婆が興信所を訪れたのは数ヶ月前。
その老婆が残していったその地の「匂い」に女の子が惹かれたのだとしたら。
――あの子、っていうのはやっぱり……。
「……その友達に会いたいの?」
シュラインが問うと、女の子は強く頷いた。
「だってわたし、約束してたんだもの。いつもの待ち合わせ場所、いかなきゃ」
「約束?」
「いっしょに遊ぼうって」
「そう……」
思い出す。
あの地の図書館に所蔵されていた昔話の本にあった『かくしおに』の物語。
昔々その昔、優しい鬼がおりました。
けむくじゃらのその鬼は、ひとりぼっちでいつも寂しがっておりました。
村の子どもたちと一緒に遊ぼうとすると、「鬼が出たぞ」と逃げられてしまうのです。
寂しくて寂しくて、鬼はいつも泣いておりました。
そんなある日、赤い着物の女の子がやってきました。
「おにさん、おにさん、どうしたの?」
「泣いてるの」
「どうして泣いているの?」
「さみしいんだもの」
「どうしてさみしいの?」
「だって、だれも遊んでくれないんだもの」
「じゃあ、わたしが遊んであげる」
優しい女の子は、笑って鬼の手を取りました。
鬼は喜んで、女の子と毎日毎日遊びました。
けれども最後の日、かくれんぼをしていた鬼は女の子を見つけることができませんでした。
おいおい泣いた鬼は、あちこち探して回りますが、どうしても女の子を見つけることができません。
女の子はとうとう見つからず、鬼はひとりぼっちになりました。
そうして鬼は、子どもを見つけるとその女の子と勘違いをして連れていってしまうようになったのです。
神隠しに遭う赤い着物の子どもたち。
いつしか赤は禁忌になり、だれもそのことを口にしなくなる。
「……武彦さん、あの事件のことはあとで説明したと思うけど」
「ああ、聞いたよ。行方不明だった子が戻ってきたって話だろう、唐突に」
「そう。しかも五十年前と同じ姿でね」
人形を抱え、笑っていた少女。
その少女の傍らにいたあの異形。
「一つ目で毛むくじゃら、大きな口に長い爪……」
シュラインの呟きに女の子が顔を上げた。
武彦が眉をひそめる。
「……じゃあ、なにか? その時の化け物とこの子の探し人が同一人物だって?」
「化け物じゃないって言ったでしょ!」
まなじりを上げて抗議する女の子に、武彦が困ったように頭を掻く。
シュラインは女の子を宥めるように撫で、心を決めるとその顔を覗きこんだ。
「その子に会いたいのよね?」
「うん」
「なら、私が連れていってあげるわ」
「本当!?」
ぱぁ、と女の子が破顔する。
いいわよね? とシュラインが武彦を見やると、武彦はすこし悩んだ末に「頼む」と頷いた。
【2】
一晩大地を濡らした雨は、翌朝にはすっかり晴れていた。
女の子の霊を連れたシュラインが数ヶ月ぶりにその町に現れたのは、翌日の夕刻のこと。
もうすこし早く着いていてもよかったのだが、なんだかんだと時間がかかってしまったのだ。
理由のひとつには、女の子が事あるごとに質問してくる、というのもあるのだが。
――電車も、ラジオも、電灯も知らない。
よくよく聞いてみれば、女の子が生まれ育った村は悪天候によって飢饉に見舞われたこともあったのだ、と。
飢饉など、いまの日本では到底考えられないことだ。
それだけ長く迷っているのかと思うと、すこし哀れだった。
「ねぇ、おねえちゃん」
閑静な住宅地をシュラインに手を引かれて歩きながら、女の子が不思議そうに顔を上げる。
最初この区画に入ったときは「ここだここだ」と騒いではしゃいでいたのだが、女の子の記憶にある風景とはすっかり様変わりしてしまっているのだろう。なにがどこにあるのかもわからず、結局こうやって手を引いてやっているのだった。
「さっきなにか買ってたよね? なぁに?」
シュラインは「ああ」と笑う。一度足を止めて、真新しい紙袋から一本の造花を取り出した。
赤い花弁の花。
「ほら、これがダリアよ。本当は生花がよかったんだけど……夏の花だから」
前の依頼で名前の上がった花だ。この花を食べて亡くなったという女の子――
関連性は低いだろうが一応、と思って女の子に尋ねたとき、女の子は「だりあ?」と首を傾げたのだった。ネットで検索して見せてやってもよかったが、実際手に触れるもののほうがいいような気がして、つい先刻駅前の店で購入したものだ。数ある色の中で赤を選んだのは、前の依頼を思い出してのこと。
シュラインはその造花を女の子に手渡す。
「昔はよく見かけたそうよ」
女の子はその造花を受け取り、ぼんやりと眺めている。
やはり関係なかったか、とシュラインは苦笑し、再び女の子の手を引いて歩き出した。
冷えた風にせかされるように、空にはすこし朽ちた金色が広がっている。西日は眩しさを増して、世界に別れを告げようと意気込んでいた。
なだらかな坂の向こうに、濃く陰影をつけた塚が見えてくる。ごくありふれた道端に佇む奇妙な塚。
そこには、鬼之塚、と刻まれているはずだ。
幾分緊張の面持ちで足を進めていると、ふと、手が引かれる。
何事かと視線を落とすと、そこには立ち止まった女の子がいた。造花を見つめ、微動だにしない。
「どうしたの?」
怪訝に思ったシュラインが腰を屈めて目線を合わせるも、女の子は動かない。
「……おもい…だした……」
小さな唇から声が零れる。
眉をひそめたシュラインはさらに問いかけようと口を開いたが、違和感に気づいて口を閉ざした。
ぽつり、と女の子の胸元に滲む赤い色。
その赤が、まるで湧き出す水の如く着物を染めていく。
「な…………」
「思い、出した……わたし、あの子がずっとひとりぼっちだったから、友達になろうと思って」
どちらかといえば白に近かった生地が、またたく間に赤く、赤く。ダリアの造花より鮮やかに――まるで。
「きれいな花が咲いてたから、あげようと思って、摘んだの。そうしたら……急に、だれかが」
まるで血のような。
「――後ろから、刺されたんだ」
造花の向こう、虚空を凝視する女の子の目から透明な涙が溢れる。
予想だにしなかった展開に絶句するシュラインを仰ぎ、女の子は訴えた。
「わたし、死んでたの? もう、死んでたの? あの子と仲良くなる前から、もう――」
女の子の手から造花が落ちる。氷のような小さな手に腕を掴まれて、シュラインは顔をしかめた。足元では、落ちた造花が不自然な早さでぼろぼろと崩れていく。
「……家に帰ろうと思ったんだ。ずっとお母さんとお父さんに内緒で遊んでたから、久しぶりにちゃんと家に帰ろうと思って――それから、ずっと。ずっと! ねぇ、わたしはいつから死んでたの? いつから帰ってなかったの? いつから――!」
たまらず、シュラインは女の子の体を抱きしめた。熱を奪うような冷たさに痛みを覚えるも、無言でそれを押し殺す。
「……どうして、覚えてないの? 名前……お父さんとお母さんがくれたのに、どうして……」
「――きっと、心配してるわ」
落ちてきた声に、女の子が顔を上げる。
「きっと心配してる。今も――ずっとね。あんたの帰りを待ってるわ」
「……ずっと?」
「ええ、ずっとよ」
「…………」
すこしだけ安心したように緩んだ女の子の顔。だが、その顔はすぐに消えてしまった。シュラインの肩越しに視線を伸ばして目を見開く。
「? どうしたの?」
つられたようにシュラインも振り向き、その先にあるものに気づいて表情を強張らせた。
黄昏を背に、佇む黒い影。
人にしては奇妙なシルエットのそれは、ぬらりと光る一つ目を無感動に女の子に注いでいた。ひょろりと伸びた足を動かし、ゆっくりと近づいてくる。
女の子は一瞬泣きそうな顔をして、それでもするりとシュラインの腕から抜け出した。
「……おねえちゃん、ありがとう。やっと会えた」
「…………」
笑ってみせる女の子にどう声をかけたものか。シュラインは眉をひそめ、口を閉ざした。
言い伝えが事実ならば、あの鬼も死んでいるはずだ。ならば、会えば互いに成仏できるのでは――と思っていたのだが。
一抹の不安が胸に灯る。霊に対して直接なにかできるわけでもない己が口惜しい。
女の子は駆け寄るでもなく、ゆっくりと異形へと歩み寄った。互いに手を伸ばせば届くほどの距離になると、女の子のほうから異形へと腕を伸ばす。
「……ごめんね、遅くなっちゃった」
毛むくじゃらの体に顔を埋め、女の子はふわりと微笑んだ。
見下ろす異形の目はどこまでも無表情で、喜んでいるのか怒っているのかすらわからない。そういう感情がないのか、それとも抜け落ちたのか――ただ、人の目には映らないだけなのか。
その異形の大きな口が、もぞり、と動いた。
「ヤク、ソク」
ぞっとするような奇妙な声。
だが、女の子はにこりと微笑んで頷く。
「うん、約束だよ――約束したから。ずっと、友達だよ」
女の子はシュラインを振り返り、すこしだけ泣きそうな顔をした。
「……ずっと一緒にいるって約束したの」
「……いかないの?」
互いに安らかに眠れる場所へ。
その意味を汲み取りながら、女の子は寂しそうに首を振る。
「……友達を置いていけないよ」
だって、この子にはそんなことはわからないんだもの。
シュラインは絶句し、思わず一歩踏み出した。それを遮るように、女の子が笑う。
「それにね、この子だけじゃないみたいだし」
その時になって、シュラインはようやく異形の背後に何人もの子どもが立っていることに気づいた。どの顔も一様に幼く、まとっているのは赤い服ばかり。生きているのか死んでいるのかすら定かではない、無邪気で白い顔。
――その中に見覚えのある少女を見つけて、シュラインは小さく呻く。
「この子たちだって、置いていけないでしょ? だから、わたし、ここにいるよ……お母さんたちには心配かけちゃうけど――嘘吐きにはなりたくない」
異形と並んで、女の子は「おねえちゃん」と微笑んだ。
「いままでありがとう。おにいちゃんたちにもお礼言っておいてね」
「……どうしても?」
「どうしても、だよ」
「…………」
「そんな顔しないで。大丈夫、もしこの子にもそれがわかるときが来たら――きっと、ね」
そんな日が来るのだろうか。
こうして女の子が傍らにいてさえ、異形にはなんの表情も見て取れないというのに。
それとも、女の子には異形の心の機微がわかるのだろうか――
「……いつか、いくのね?」
「うん」
「約束できる?」
シュラインの言葉に、女の子はすこし目を瞠り、次いでくすぐったそうに笑った。
「うん、約束。絶対だよ、おねえちゃん」
「どこに行けばいいのかはわかる?」
「きっと大丈夫。……きっと、お父さんたちがいるから」
「そう……」
シュラインはかすかに微笑んだ。
――これ以上は、祈るしかないような気がして。
「じゃあ、私は帰るわ――もう、その子に子どもを連れてこさせちゃ駄目よ?」
「わたしがいるから大丈夫だよ」
「……なら、安心だわ」
できればこれ以上嘆きを広げないでほしい。
子を奪われた親は、確かに傷ついていたのだから。
「それじゃあね。おねえちゃん」
「……ええ」
女の子が促すと、異形と子どもたちが踵を返す。ばらばらとふざけるように走り出す子どもたちの後から、異形と女の子が手を繋ぎながら一歩一歩ゆっくりと塚へ向かっていった。
じゃれあう声、鈴のような笑い声、小さな小さな、軽い足音。
やがて子どもたちの影が消え、異形と女の子の姿も夕闇に溶けるようにかき消える。
「…………」
シュラインは溜めていた息を吐いた。
力がないのが悔しい。
あれば、もうすこしなにかできたかもしれないのに。
沈む思考に苦笑し、シュラインはくるりと塚に背を向けた。いつか、と交わした言葉を胸に刻む。
「……いつか、きっと」
あの子たちの魂が安からんことを――
あの少女の顔が気にかかって調べてみると、前の依頼人であった老婆は少女が戻ってきて間もなく息を引き取っていたことがわかった。
その後少女の行方は知れず、ほどなくして捜索も打ち切られた。
なにしろ、身内らしい身内も残っていなかったので……。
神隠しの噂は時が経つごとになりをひそめ、やがて人々の口に上ることもなくなった。
思い出したようにあの町には赤い色が出回るようになり、古い禁忌はいつしか忘れ去られた。
老婆が暮らしていた家は取り壊され、今では別の家族が新しく建てた家で暮らしている。
塚だけは、まだそこにある。
ときおり、その辺りから子どもたちの笑い声が聞こえてくるという噂も――
fin.
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●登場人物
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
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●ライター通信
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参加PL様
お待たせしました。
前編に続いての参加、ありがとうございます。
強引に、ではなく成仏の手助けを、という姿勢でしたので、このような内容になりました。
結果はこうですが、いかがだったでしょうか…?
また機会がありましたら、宜しくお願いします。
ありがとうございました。
雪野泰葉
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