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□片隅談話□
呼吸をするたびに、きんと冷えた空気が胸の中へと満ちていく。外からも内からも凍えさせられそうだ、と胸の中で呟きながら、城ヶ崎 由代は雑踏の中を歩いていた。
既に太陽は低く、ビルとビルとの隙間から溢れた橙色の光が道行く人々の姿を照らし出している。あと三十分もすればこの街も夜に覆われ、長い闇の時に入るだろう。
忙しなく歩き去っていく人々を尻目にあくまで自分のペースで歩き続けながら、由代はネオンの点り始めた看板を何とはなしに見上げた。あちらにはリース、こちらにはツリー。緑と赤の見慣れたカラーリングが鮮やかに輝く様は目にも楽しいものだったが、由代はすぐに顔を前へと戻した。彼にとってそれらは少しだけ眩しすぎたからだった。
目の中に残る残像を払うように瞬きをしつつ、視線を戻した時だった。
いつもは特に気に留めていない和装小物店の前にさしかかったところで、由代はふと足を止める。
「おや」
人がふたりも並べばいっぱいになりそうなショーウィンドウの前に、ひとりの女性が立っていた。まだ年若いというのにしっかりと着物を着こなし背筋を伸ばしている様は、冬の空気とはまた違った気持ちのいい緊張感を見る者に与える。
由代は彼女の名前を知っていた。高柳 月子、それが彼女の名だ。
ともすればきつい印象ばかりを与えがちになる眦のつり上がった瞳が、今はどこか温かな色を宿してショーウィンドウの向こう側を見つめている。ふと興味を抱いた由代がそっと後ろから奥をのぞき見ると、ガラスの向こうには冬の新作と題された色とりどりの小物たちが、可愛らしくディスプレイされていた。
来年の干支扇子や帯飾り、小さめで可愛い巾着、それに根付。年の瀬も近いからか、招き猫や福の神をあしらったデザインの物も並べられているショーウィンドウは、控えめな華やかさをもって街の片隅で薄く輝いている。
ともすれば季節を示すネオンに塗りつぶされてしまいそうな小物たち。だがネオンには目もくれず、一心に赤や藍色の小物たちに見入っている月子の姿を見て、由代は穏やかに微笑んだ。
――――この人は美しい物を見つけるのが得意なのかな。
「高柳さん」
由代は驚かさないように、静かな声で月子の名を呼んだ。
目を見開きながら振り向く彼女の視線から外された小物たちが、少しばかり残念そうに見えたのは、気のせいではないかもしれないと由代は思う。
美しく細工を施された小物たちは確かに月子を魅了していたが、けれど彼らこそが逆に、優しくたおやかな彼女に魅入られていたのかもしれない、と。
「びっくりしましたよ、本当に。まさかあんな所で城ヶ崎さんに会うなんて思ってもみませんでしたから」
「驚いたというのは僕も同感だね。でも意外ではあったけれど、ちょうど良かったのかもしれない」
「え?」
寒さのせいだろうか、隣を歩きながら僅かに頬を赤らめている月子へと由代は微笑む。
「君といろいろ話をしたいと思っていたんだ。こうやって逢えたのも何かの縁だし、もしよければ話がてらお茶でもどうかな。近くに僕の行きつけの店があるんだけど」
「いいんですか?」
「もちろん。ああ、もしも用事がなければの話だけど」
「いえ。あたしも今帰りですし、それにこの寒い中をずっと歩いているともう寒くてしょうがなかったんです。ご一緒します」
そう言って、月子は切り揃えられた髪の向こうで笑う。気性と同じくさっぱりとしたその笑顔につられるようにして由代も笑うと、「それじゃあ」と歩幅を合わせて目的の店への道筋を辿る。
「どんなお店なんですか?」
「なかなかいい物を出してくれる甘味処でね、とっておきの所さ。僕も散策がてらよく通ってる」
「この辺りは、よく来られるんですか」
「ああ、この辺は掘り出し物を見つけてくる古書店が多くてね。いつもではないけれど、待ちに待った本を手に入れた時なんかはどうしても我慢がきかなくなって、つい珈琲をすすりながら読みふけってしまうこともある」
「何か意外」
見上げてくる目が子どものように開かれているのを知り、「そうかな」と首を傾げた由代へと、月子は「そうですよ」と瞬きをして返す。
「あたし、城ヶ崎さんはてっきり家に帰ってからじっくり読むタイプかなって思ってました」
「そうだねえ。家で静かに読むのも好きだけれど、気に入りの店で読むのもなかなか好きだよ。自分で用意しなくとも注文すれば珈琲は出てくるし、片付けの心配もいらない。まあ、用事を終えればまた寒空の中へ出て行かなければならないのが痛いけれど」
「あははっ、それは確かにそうですね。あたしも一旦暖かい所に入ると、外に出るのをためらいますし」
「だろう? ……ああ、ここだ。さあ、お先にどうぞ」
「え?」
ごく自然にドアを引いて促す由代の仕草に月子は一瞬ためらったが、やがて僅かに顔を伏せながら古びた木枠をくぐった。
後ろ手にドアを閉めた由代は、奥から響いてきた「いらっしゃいませ」の声に頷きで返すと、暖かな空気にほっと息をつく。ここにはいつも同じ空気が漂っている、それが由代の気に入っている理由のひとつだった。ただ止まっているだけの時ならば淀んでしまってどうしようもないが、ここには不思議と淀みの代わりに静寂だけがある。
落ち着いた色の木々で構築された店内、同じ色をした木の棚にはよく磨かれた陶器が並べられ、天井から吊り下げられたランプの光を受けて薄い影を落としている。手作り独特の穏やかな風合いを漂わせた民芸家具は古びてはいるが、どっしりとした風格をもって店の足元を締めていた。
かといって、決して遊び心を失っているわけではない。その証拠のようにドアベルには柊が、そしてレジスターの隣にたたずむ真鍮の伝票さしには、手製らしい枯れ木でできた小さなリースがささやかに紐でくくりつけられており、とあるイベントの到来を囁くように告げている。
先に入った月子は店の中央に位置する柱時計を物珍しげに眺めていたが、由代がドアを閉めたのに気付いて振り返った。口元がほころんでいる。
「素敵なお店ですね。それにこんな柱時計を見たの、子どもの時以来」
柱時計を背にした和服の月子を見て、由代は静かに笑んだ。
「どうしたんですか?」
「いや、君の姿はよくこの場所に似合っていると思ってね」
「お上手ですね、もう」
ショールを外しながら相好を崩す月子へと笑みだけで返し、由代は既に指定席のようになっている一角へと彼女を導く。
その際に、昔ながらの赤と黒だけで印刷されたカレンダーの残りがあと僅かなのに気付くと、由代はマフラーを外しながら驚いたように息をついた。
「ついこの間がハロウィンだったのに、早いねぇ。もうこんな時期になっているとは」
「あっという間に街中はクリスマス一色ですしね。もうすぐ雪もちらつき始めるんじゃないかしら」
そんな会話をしながら品書きを眺め、やがて由代は珈琲とあんみつを。月子は緑茶と、注文を取りに来た店主お薦めのお茶請けを頼んだ。
自信作なんですよ、とおっとりと口の端を浮かべる老店主を見送ると、「クリスマスといえば」と由代は口を開く。
「今年も中央のツリーは話題になっているらしいね。あそこのツリーはいつもテレビで全国中継されるぐらい有名らしいし、確か今年の色は――――何だったっけ」
「今日組み立てている所を通りすがったんですけど、青と白がイメージカラーみたいですよ。ツリーが真っ白でした。でも毎年思うんですけど、あんなにごちゃっと飾りをぶら下げてツリー折れたりしないのかしら。願い事を下げる七夕でもあるまいし」
「幹はよっぽど頑丈に造られているんだろうねえ。加えて、多くの飾りを下げられる幹となると太さもかなりのものだろう。それにあの高さだ。真下から見上げてみれば、きっとあらゆる意味で壮観だろうね。ツリーが白なら飾りは青か、白によく映えそうだ」
「そうですね、きっと綺麗だわ。――――あの、城ヶ崎さんはツリーを見に行ったりする予定は?」
月子の問いかけに、運ばれてきた珈琲を一口すすって由代は苦笑する。
「なにぶん僕はもう長いことこういった行事とは無縁でね。この時期は秋の間に集めた本を読みながら過ごしているうちに、あっという間に年が明けているというパターンが多いんだ。冬は空気こそ冷たいがその分頭も冴えるし、読書や研究も色々とはかどるんだよ」
「あら、あたしはてっきりいいお相手と過ごしているのかなって思いました」
「そんなにもてる方でもないさ。出会いもないしね」
湯のみを置いた月子は意外そうに瞬きをすると、由代があんみつを食べている間に考えるように目を伏せ、すぐに視線を元に戻す。そこには決意の色が漂っていた。
「あの、城ヶ崎さん」
「うん?」
あんみつを飲み込み顔を上げた由代へと、月子はやや早口で続ける。
「あたしの勤め先は和菓子屋ですから、クリスマスとかはあんまり関係ないんです。この時期売れるのは和菓子じゃなくてケーキの方ですし」
「うん、そうだろうね」
「和菓子が売れるのはやっぱり年末年始にかけてですから、今はそれに向けての仕込みやら何やらで立て込んでいるんですけど、あたしはまだ年始の細工はさせてもらえないから、この時期は暇で」
「うん」
「中でもクリスマスの当日はやる事もそんなにないし、夕方ぐらいにはあがらせてもらえるんです」
「――――――――そうなんだ」
つり上がった、気の強そうな眦が薄く染まっているのを見つけて由代は柔らかく微笑むと、あんみつをもうひとさじ口に放り込みながら咀嚼して一時、考えた。そういえば自分は先の言葉通り、もう随分と夜の明るさの中へと飛び込んでいない。
こんな時期に一人で寒い中を出歩くのは面倒かもしれないが、二人ならば寒さも何かに姿を変えるだろうか。
「ねえ、高柳さん」
「はい?」
「話をしているうちに、久しぶりに外に出てみたくなったよ。君さえよければ夕方からでもクリスマス気分を楽しみに、一緒に出かけるっていうのはどうだい?」
「えっ」
月子の動きが一瞬止まり、しかしすぐに首は縦に振られる。細められた瞳は表情からきつい印象を拭い去り、ただ笑顔だけを美しい顔に残していた。
「さあ、それならもう少しばかり長居して相談しなくちゃいけないね。その日どこを回ろうか、二杯目のお茶でも飲みながらゆっくり決めていこう」
「城ヶ崎さん、それならひとつ提案していいですか?」
「どうぞどうぞ」
「うちの店、季節ごとに上生菓子を置いてるんですけど、ちょうど今時期は冬の新作が店頭に並んでいるんです。よろしければその日、お会いするついでに……って言ったらなんですけど、是非それを食べてもらいたいんです。どうですか?」
「それはいいなあ。君の所の新作か、楽しみだ。――――ああ、それなら夕方あたりに僕がそっちに迎えに行こうか。そうすれば君と一緒にお菓子も迎えに行けるしね」
「あら、あたしはお菓子のついでですか?」
悪戯な、けれど彼女らしくさっぱりとした調子の問いかけに、由代は穏やかな表情で答える。
「さあ、どうだろう?」
静寂はほんのひと時、後に弾けるのは笑い声。
店の片隅で交わされるふたりの相談事は、しばらくは終わりそうにもなかった。
END.
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