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幸せの空間
あなたが生まれた記念日に
「……」
ハンドルを握ってみたり、点いていないのが分かっているランプが点いていないか確認したり、手の動きを間違えてワイパーを動かしてしまい、その音に何より自分自身が驚いたり。
――落ち着かない。
車の中でそわそわしている自分を、通りすがりの人が皆覗き込んで見ているような気がして仕方なく、槻島綾は必要以上にきりりと表情を引き締めて前方を見詰め続けていた。
今日、11月21日は、待ち合わせの相手――千住瞳子の誕生日。
互いに忙しくて、電話で時々話をするのがやっとだったスケジュールを調整し、今日とクリスマス当日は何とか空けて貰い、クリスマスコンサートのチケットを手渡しにやって来たのだ。
最も、名前を聞けば「あ、あのひと」と誰でも知っているような名指揮者による第九のチケットなど、一ヶ月前のこの時期になど逆立ちしても取れる筈がない。そもそもが親のコネを使ってキープしてもらったと言うちょっと自分としては情けない入手方法だったのだから。
おまけに本当は、現在そろそろ始まっている年末進行のお話で、来月のクリスマス直前までは結構忙しく、今日が瞳子の誕生日で無かったら強引に休みを取るなんてやらなかった。……このあたりは瞳子が恐縮してしまうだろうから、内緒にしておこうと思う。
そんなこんなで、疲れた顔をしていないかどうかバックミラーでチェックしつつ、昨夜久しぶりに聞いた彼女の声を耳の中でリフレインさせながら、次第次第に緩んでくる唇を抑えきれずに、誰も見る者がいないというのにきょろきょろ周囲を見回したりしてその不審者っぷりを余すところなくさらけ出していたのだった。
やがて、体感時間で数時間程経った頃、大学の門から、数人の女子大生達が現れ、その中に目的の女性がいる事に気付いて綾が口元を綻ばせる。
女性達は門前で分かれ、思い思いの場所へと足を向けていく。――秋が深まる中でも若々しいからだろうか、その顔はそれぞれ楽しげに微笑を浮かべており、秋のアンニュイな雰囲気などはあっさりと吹き飛ばして見えた。
そして、こっそりと瞳子と一緒に出て来た学生の中に男性が混じっていなかった事に内心ほっとする。勿論、表には出さないつもりだ。ただの学生仲間を気にする様子は彼女には見せたくないのだから。
待ち合わせ場所……綾が車を止めたあたりへ急ぎ足で近づいて来る瞳子を、二重のガラス越しに眺めながら、綾は彼女が気付くように車の中で軽く手を上げた。
途端、その仕草で綾と気付いた瞳子がぱっと表情を変える。
それは、先程までの友達に対する笑顔とはまた別のもので、
「……はう」
――か、可愛い。
照れくさいから絶対に気付かれてはならないと思いながらも、心臓を直撃した笑顔に綾は思わず小さく声を洩らしていた。
*****
ほとんど無意識に、そしてスムーズに車を発進させてから、二人は暫く無言のままだった。互いに久しぶりという気持ちもあったのだろうが、綾のスーツ姿というのが新鮮で、瞳子にとっても照れが先に走っていたものらしい。
綾にしてみればそれほど特別な意味は無く、チケットを受け取りに行く時にややフォーマルスタイルにしただけだったのだが、瞳子は綾の普段のラフな格好を見慣れているだけに、とても新鮮に映っているようで、助手席に少し固くなった様子で座っている。
「ええと……すっかり寒くなりましたね」
何か言わなければ、とハンドルを握りながら考えに考えていた綾が、ようやく搾り出した言葉がこれだった。
「あ、はい、そうですね。紅葉は綺麗ですけれど、朝晩は随分冷えるようになったみたいです」
だが、瞳子も何かの言葉を待っていたらしい。
こくんと頷くと微笑んで、綾の方へ身体を向ける。
それが糸口となって、暫く世間話に興じていた二人だったが、
「あ、そうです」
何かを思いついたように、今まで走っていた方向からウインカーを出して移動し始めた。
「どうしたんですか?」
「提案なんですが……あ、もちろん瞳子さんが嫌でしたら戻りますが、服を買いに行きませんか。コンサートでも着られるようなドレスを」
「え……っ、と、あ、そ、そうですね」
突然のその言葉に戸惑いながら、そう言えばフォーマルな服は持っていなかった事を思い出して、お願いします、と小声で続ける。
「直前に服が無いって慌てるところでした」
しかも、自分が敬愛してやまない指揮者のコンサートに行けると言うのに、そこまで気が回らなかったとちょっとしゅんとする瞳子に、
「瞳子さんなら、きっと途中で気付いていましたよ。まだ一ヶ月先の事なんですし」
今回は僕が思いついただけですから――と、綾が内心ほっとしつつ、表面では平静を装って、本当は最初から行くつもりだった店へと車を走らせる。
そして、
「これはどうでしょう?」
「……少し派手過ぎないでしょうか」
襟元に花が咲き誇る可愛らしいデザインのドレスを見せられて、躊躇する瞳子の姿があった。
綾の良く知る店なのだろう。店員も上品な笑顔を浮かべ、瞳子を必要以上に固くしないよう気遣いながら、無駄の無い動きを見せているのが分かる。
瞳子にしてみれば、普段こうした行きつけのブティックなど無いために、心拍数が上がりっぱなしだったりするのだが。
「瞳子さんは、どういうデザインが好みですか?」
いくつか瞳子に似合いそうなデザインの服を選んで見せている綾が嬉しそうに微笑みながら問い掛けてくるのを、迷いながらもこれ、と選んだのは、
「どうでしょう、か?」
「良く似合っていると思いますよ」
ややシンプル過ぎるような気がしないでもない、淡い色を基調にした落ち着いた感じのフォーマルドレスだった。
と言っても地味という訳ではなく、揃えるアクセサリ次第で印象ががらりと変わってしまうような服で、若々しい彼女にぴったりのもの。
綾も最初はもう少し華やかな服の方が、と考えていたようだったが、試着した様子を見て瞳子のセンスが間違っていなかった事を確認したようだった。
「それでは会計をお願いします」
「あ、いえっ、私が払いますから」
「いいえ、ここは僕に払わせて下さい」
当たり前のように綾が財布を取り出したのを見て、慌てる瞳子。
そんな彼女を見てくすっと笑った綾が、
「黙っていてごめんなさい。実は、あのチケットは僕が買ったものではないんですよ。親のコネで譲って貰った品でして……ですので、僕からも贈らせて下さい」
にっこり、と嬉しそうな笑顔を見せながらこう言う。
つまり、最初からこの店へ案内するのは予定の内だったと瞳子が気付いたのは、そうして支払いを終えた綾に連れられ、ドレスを包んだ箱を手に車に乗り込んだ後の事だった。
*****
「丁度良い時間ですね。それでは、食事に行きましょうか」
「……何だか、すっかり騙された気分です」
「怒りましたか?」
「――いいえ、でも……まだ、夢みたいで」
後部座席に置いたブティックの紙袋へちらちらと視線を注ぎながら、瞳子が言う。
「あの、本当にいいんですか? あんなに高価なものをいただいてしまっても」
「ええ」
綾はゆったりとしたペースで車を走らせつつ、こくりと頷く。
「僕の気持ちとしては、オーダーメイドでドレスを作って貰っても良いくらいですよ」
「そ、そんな、それはいくらなんでも……」
「それくらいの気持ちだという事です。だって、瞳子さんのお誕生日ですからね」
その言葉に、かあっと顔が赤くなった瞳子が、綾から見えないように窓の外を流れる景色へと顔を向けた。
それから暫くして、車がレストランの駐車場へ止まる。
外に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。
「日が落ちるのも早くなりましたね」
「本当ですね」
そんな事を言いながら、上品な作りのレストランへと入って行く。
「いらっしゃいませ。二名様ですか」
「はい。予約をした槻島です」
「槻島様ですね。――どうぞこちらへ」
綾の名だけで分かったものらしく、すぐに席へと案内され、長い横文字のメニューと格闘したのち、フレンチレストランらしい格式高そうな雰囲気に呑まれた瞳子がようやく我に返ると、滑らかな動きのウェイターたちによって前菜が運ばれて来る所だった。
「……大丈夫ですか?」
「あ! はい、大丈夫です」
酒を口にしてもいないのにほんのりと上気した瞳子に、心配そうな声がかけられる。
「前もって言っておけば良かったですね」
「それはそれで、やっぱり緊張していたと思いますけど……」
やや照明を落とした雰囲気の良い空間で、ゆったりと過ごすうちにようやく瞳子もリラックスして来たらしい。
静かに言葉を交わす口元も綻んで、時折柔らかな笑みが混じるようになって来た。
「……あ……ピアノですね」
そこへ、店内の端に置いてあるグランドピアノからクラシックなメロディが流れ出す。見れば、ピアノを演奏している女性と、その側でフルートを構える男性がいて、
「え?」
ちら、と、瞳子が自分達を見ているのを確認するかのように視線を向けると、そこから柔らかな音がピアノの音色に合わせて滑り出して来た。
その曲が奏でられると同時に、店内のざわめきが次第に静かになっていく。
思いがけない演奏に、皆が酔いしれているようだった。
「……全く。随分としつこく理由を聞くと思ったら、こういう事でしたか」
その演奏を邪魔しないようにしながら、綾が呟いて苦笑する。
「どう言うこと、ですか?」
他の客と同じくうっとりと演奏に聞き入っていた瞳子が、綾の言葉にぱちぱちと瞬きして綾の顔を見た。
「あのピアノは、パーティなどで貸切にした時に使う事がほとんどなんです。今日のように突然演奏するなんて事は滅多に無いんですよ」
「そうなんですか……今日はどうしてなんでしょうね」
「ええっと、ですね」
ほんの少し、綾が照れたような顔を見せると、
「僕が、今日が瞳子さんのお誕生日だからだと言ってしまったからのようなんです」
そう言って、このレストランのオーナーシェフが、綾の知り合いだと言う事を告げる。
「予約した時に何だか嬉しそうだったのが気になっていたんですが……」
「……何だか、申し訳ないですね。私のためになんて。でも、嬉しいです」
そう言って瞳子が微笑んだ、その時、
「こちらはシェフからのサービスになります」
いくつものデザートが載せられた皿を、にこやかな顔のウェイターが運んで来たのだった。それも、デザートはメニューにないものばかり。
「あ、あの……良いんですか?」
まだ流れている音楽だけでなく、こうしたものまで出されて驚いている瞳子が、おずおずと綾へ訊ねる。
「彼の好意ですからね。受け取って下さい。……何も無ければ、僕が同じような事を頼んでいたと思いますし」
甘えさせてもらいましょう、そう言って綾が微笑む。
「……こんな誕生日は初めてです」
口の中でほろりと溶けて行く甘いデザートに目を細めながら、瞳子はそっと呟いていた。
*****
演奏付きの食事も終わり、奥から出て来たシェフに何度もお礼を言った後の事。
二人は車の中にいた。
夜の、様々な色の光が溢れる中を、余韻を楽しむように無言で車を走らせる綾に、
「今日はありがとうございました」
瞳子がぺこりと頭を下げながら言う。
「楽しめましたか?」
「はい、それはもう……何だか、夢を見ているみたいです」
「それなら良かった」
綾がほっと息を付きながら言う。
「正直に言いますと、本当に楽しんで貰えるかどうか、不安だったんですよ。せっかくの瞳子さんのお誕生日なのに」
「そんな事、ないですよ。こんなに素敵な誕生日は初めてでした。いい思い出になります」
ふるふると首を横に振ってから、嬉しそうに微笑む瞳子に、綾も釣られて微笑を浮かべた。
「出来れば毎年やりたいですね。来年も、再来年も、その先も」
「そ、そんな、毎年だなんて申し訳なさ過ぎますよぉ」
慌てた様子の瞳子にくすくす笑いながらも、さらりと言ったからか、言葉の裏に気付かなかったらしいとほんのちょっぴり残念な思いを浮かべる綾。
瞳子は瞳子で、否定じゃなく深く突っ込めば良かったと反省する事しきり。だが、今更訊ねるのもわざとらしいと、こちらも内心でため息を付きながら表向きはにこりと笑みを浮かべた。実際、嬉しくて頬が緩んでくるのを止められなかっただけだったのだが。
――でも、と瞳子は言葉に出さず、心の中でだけ呟く。
本当は、誕生日にこうして綾さんと会えた事、それが一番のプレゼントだったんですよ、と。
あと少しで自宅に着いてしまうのが残念なくらい、あっという間のドライブ。
最後は沈黙が増えた二人だったが、無言でいながらも、そこには穏やかな空気が流れていた。
-了-
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