コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


 □紫蝶夜行□
 
 
 季節が冬に入り始めたにしては暖かな夜、細い細い三日月の下を深山 呉羽はほてり、ほてりと歩いていた。
 もし誰かがその様子を見ていたのならば、彼女が一歩足を前に進めるたびにそこが地面である事を不思議に思っただろう。そう思わせるほどに呉羽の歩き方は現実味に欠けており、ともすれば宙を進んでいるかのようだった。足音もろくになく、砂や石を踏む響きさえない。
 この騒がしい都はどこに行っても人が絶えないというのに、呉羽の歩む通りには人っ子一人いなかった。建てすぎて曲がりくねった道しか残らなかった住宅街、既に家々のカーテンは厚く閉ざされ、狭間に申し訳程度にある道では、街灯の灯りだけが頼りとなる。
 時折またたく蛍光灯の下をくぐるようにして、呉羽は歩いていく。あてどなく、とめどなく。
 
 伏し目がちに歩を進めていた呉羽が顔を上げたのは、何のことはない、他の気配を感じたからである。呉羽は歩きながら金色の目を前へと向けた。するとなにやら鞄らしきものを乱暴に振りながらこちらへと歩いてくるひとつの人影が見えてきた。
 その人物はどうやら女のようだった。鞄は流行りのものらしいがぞんざいに振り回され、その風格も消え失せている。
 呉羽はひとつの街灯の下で足を止めた。きつめの顔立ちをしたその女は相変わらず鞄を振り回しながらどんどん迫ってくる。パンプスをコンクリートに叩きつける、怒りを滲ませた歩みで。
 女はそのまますれ違うはずだった。それも当然だった、呉羽と女には面識がない。これまでも、きっとこれからもそうだろう。
 だが足音は徐々に勢いを失い、呉羽のすぐ側で、止まった。
 
「……………………」 
 
 呉羽が静かに横を向くと、同じ灯りの下に女の姿があった。
 女はなんとも不可解だという感情を隠しもせずに、呉羽を見つめている。その理由を分かっている呉羽は特に何も感じずに、ただぼんやりと女と視線を合わせていた。 
 沈黙は数秒続いたが、しかし女に立ち去る様子はなかった。手にした鞄をゆらゆら動かし、口を開いては閉じる事を繰り返す。その様は奇妙なものだったが、呉羽はくすりともせずに女に視線を送り続けていた。
 やがて、どこからともなく現れた夜色の蝶が女の視界を一瞬だけ遮ると、とうとうその口から言葉があふれ出してきた。
 
「……私、とある人の秘書をしているのね。ああ、とても偉い人だからもちろん名前は言えないんだけど、とにかく私はそういう人の下でスケジュール管理をしたり会議に出たり、いつも色々な雑務をこなしているの。忙しいけど給料はいいし、とても充実してるわ」
「ええ」

 唐突に始まった女の身の上話にも少しも動揺せず、呉羽は相槌をうつ。
 
「でもね、いくら充実してるって言ってもそりゃあ悩みだってあるのよ。相手してるのがお偉いさんだからはっきりと言えないけど、あの助平じじい、スケジュール伝えるたびに人の尻触ってきたりしてさ」
「……そうなの」
「ええ。女を一体なんだと思ってんのかしら、あのハゲ。それに聞いてよ、今日なんて尻どころか胸触ってこようとしたのよ?! あんまりむかついたもんだから、資料取るふりして思いっきりぶつけてやったわ。明日何か言われるかもしれないけど、泣きまねでもすれば一発よ。あーあ、ちょろい上司でむかつくやら情けないやら」
「そうね……」

 それでさ、と女は旧知の友に語りかけるように身を乗り出した。
 
「腹が立ってたから、頭冷やすのもかねて公園に行ってランチにしたのね。久しぶりにひとりで食べるランチって何か味気なかった。誰かと食べると気を遣うけど、でもやっぱりひとりで食べるのは寂しいなーって思ってたのよ。そしたらさ、なんかいつものメンバーが公園集まってきてくれたのね。どうしたのって聞いたら、やっぱり一緒に食べようって」
「あら」
「おかしくない? まるで小学生みたいでしょ、むかついてひとりでご飯食べようとしたのに、それを心配した仲間が来てくれるなんて。でも私嬉しかった。あのハゲはいけ好かないけど、この職場で働いていて良かったーって思った。改まって言うのが恥ずかしかったから、皆には言わなかったけどね……でも良かったって、すごく思った」
「……ええ、ほんとうに」

 ふわり。
 辺りを漂っていた蝶は、いつしか二匹に増えていた。蝶たちは黒と濃紫の羽を音もなく動かしながら、女の周囲を舞い続ける。
 
「でもさ、せっかく気分いいまま今日は終われそうだったのに、最後の最後でケチがついたのよ。帰る段階になってあの男、自分がしくじったくせにその不始末を片しておけって私に言ったの。そりゃあ秘書なんてそういう仕事も仕事のうちだって分かってるわよ、実際慣れてるし。だけどあいつが仕事の後に女とホテルに行くのを知っていたから、なおさら腹が立ったの。その女と会うのも私がセッティングしたんだもの、馬鹿らしいったらありゃしない」
「そうね……」
「仕事は終わったものの、どうにもムシャクシャがおさまらなくてねー。だからこうやってバタバタ帰ってきたってわけ。……ああ、もうこんな時間じゃないの! いつものドラマ予約しといて良かった」

 女は宝石のはまった腕時計を見ると、顔を上げた。そこにはつい数分前と変わらない呉羽の茫漠とした表情だけがあったが、女は満足したように深呼吸をする。
 蝶は三匹に増えていた。
 
「あー、何かいろいろ話したらすっきりしたわ。こんな事一気にぶちまけられるなんて人、そうそういないもの。ありがとう、今日はよく眠れそうだわ」
「……いいえ」
「でも何で見ず知らずのあなたにこんな事話しちゃったのかしら? ……まあいいか、それじゃあ私、行くわね」
「ええ……さようなら」

 そう言って街灯の下から抜け出した時だった。女は僅かに眩暈を感じたがすぐにそれは治まり、背筋を伸ばして歩みを再開する。パンプスは不必要にコンクリートを叩く事もなく、鞄は振られずきちんと手の中に納まっていた。
 呉羽は遠くなっていく背中を白い光の中で見送っていた。口元には静かな笑み。満面のそれではなく、どこか幸薄ささえ感じさせるような儚げな微笑みが、美しい顔の上に浮かべられていた。
 蛍光灯の下で、蝶が舞う。三匹の色濃い蝶はそれぞれ呉羽の持つ白の傘へ、肩へ。そして差し出された指先へと降りた。
 
 
「……ごちそうさま。ありがとう…………」


 小さな。
 ごく小さな声と共に、白い指先の上で紫色の羽が霧散する。それは昼が夜に代わるかのごとく当たり前のように行われ、やがてかけらも残さずに蝶は何処かへと消えていった。
 しかし呉羽だけは蝶の行き先を知っていた。いや、蝶だったものと言うべきだろうか。とにかくそれは今、呉羽の中にあった。
 『御飯』である人の精気を少しだけその羽で絡め取ったせいか、彼女の腹は八分目とまでは行かずとも、六分目程度にまでは満たされていた。よかった、そう呉羽は呟く。実際のところあの女が通りがからなければ、呉羽はあと少しでお腹が鳴りそうだったのだ。

 ふと前を見れば女の姿が角の向こうに消えていくのが分かり、呉羽は最後に小さく会釈をした。
 そうして再び呉羽は都会の夜を歩み始める。あてもなく、どこまでも。
 
 
 
 ゆるりゆらゆら。
 ゆるりゆらゆら。
 




 END.