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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


真夜中の遭遇


 半端な月が空に浮かんでいたためだろうか。
 どこにでもある町の空気が、どぉんと鈍い音を立てて震えたのは。
 ひとりの男がサーベルを引っ下げ、震える夜の町を歩くのも、
 ひとりの男が丹前を羽織り、寝つけぬ夜を歩き通そうとするのも。
 すべては月が、空と土の境界を歪めていたせいだろうか。きっとそうだ。歪んだ月の光を浴びて、地面のひびと塀の影が作りだす暗黒から、歪んだものがあらわれる。目も鼻も耳もない、人のかたちや獣のかたちもなさぬ歪なものは、無言で、ひと気のない往来を歩みはじめた。そう、かれには、足はあったのだ。というよりもかれは、じゅるりとのたうつ、ゲル状の触手のかたまりでしかなかった。
 まるで意思さえも持たないものに見えるその『生物』は、じゅるり、ぬるりと歩きつづける。ときおりその触手で構成されたゲル状の身体をぐうともたげて、まるで目を持つ生物のように、あたりをうかがうような仕草を見せることもあった。

 時が深夜であったのが救いだっただろうか。
 異形は、閑静な、犬の遠吠えさえ聞こえない、住宅地の片隅を徘徊しているにすぎない。この骨格も意志も見受けられない怪物を目の当たりにすれば、並みの人間は恐怖のあまり昏倒するか、錯乱してしまいかねない。それほど、その生物の姿は醜悪だった。
 ああ。
 この存在は、月が沈み、朝になっても、この世界に居座るつもりか。
 ぢゅるりづるりと、不愉快な音を立てて異形は歩く。この歩みをとめる者など、いないものと思われた――が。
 かつんこつんと、軍靴が路地を行く。
 整然とした、硬質な音だ。
 その音に、しゅら、とつめたい音が重なった。軍靴を履く者が、軍刀を鞘から抜き放ったのだ。
 顔も声もない異形が、ゆっくりと『振り向く』。
 目がないはずのかれが『見た』のは、黒い軍装の男だった。ものも言わず、黒い軍人は軍刀を振り上げ、振り下ろしていた。


「ん」
 夜道をそぞろ歩いていた和装の男が、ふと、立ち止まって耳をすませた。彼の整った顔立ちの中で、その双眸の色だけが、著しくバランスを崩そうとしている。左目が、晩秋のほおずきのように赤いのだ。
 不揃いな色の双眸を細め、男は息さえ殺す。風の音にさえ眉をひそめ、彼は気配をうかがっていた。
 それから、再び歩き出した。
 いまはもう、彼はあてもない散歩をしているのではない。彼は、気配の動きを追っているのだった。獲物をみつけた蛇のように、音を立てず――口の端をわずかに吊り上げて。

 おおおおおおぶぉおおお!
 おおおおおおぶぉおおお!

 この世のものとは思えない、空気を伝わらぬ叫び声が上がる。脳をつんざくその声は、夜の辻を駆け巡る。黒とも藍ともつかぬゲル状の生物が、そのぬらぬらと月光に照らされる触手を振り回しながら、べちゃべちゃと走った。走る人間ほどの速さで、異形は白刃から逃れていく。
 異形に追いすがるのは、黒い外套をはためかせる長躯の軍人だ。
 その外套の裾は、和装の男が持つほおずきの目に捕らえられていた。


 異形が行き着いた先は、塀に囲まれた袋小路だった。この辺りの住居は、どれも広い庭を持っていて、一様に塀で敷地を囲んでいるようだ。塀の向こうからせり出しているのは、深い緑の葉を生やした枝ばかりで、死闘に驚く猫の視線すらない。
 べちゃりと塀にぶつかって倒れた怪物に、黒の軍人は、容赦なくサーベルの一撃を見舞った。
 おおおおるぶおおお、
 と怪物が抗議しようが、
 おおるるるぶぶるるおおお、
 と怪物が命乞いをしようが、
 ずばり、ずばりと軍人は無言で、古めかしい軍刀を振るいつづけた。コンニャクめいた異形に、その斬撃はさほどの痛手を与えていないものと思われたが――
 何度目か、軍人がサーベルを振り下ろしたとき、確かに怪物の中で、プツリ、とかすかな音がした。
 音とともに、怪物の異様な姿がはじけた。なんともあらわしがたい色の体液を大量に撒き散らし、異形は動かなくなった。びるびると、ゲル状の液体が塀や地べたで震えている。
 粘つく体液は、悪臭を放ちながら蒸発をはじめた。軍人はその悪臭の中にあっても、サーベルを振るいつづけていたとき同様に、眉ひとつ動かさず、冷徹に『死』を検めていた。
 軍刀を打ち振って、刃に絡みつく粘液を振り払う。刃を鞘に収め、彼は、踵を返す。



 そこには、悪びれもしない笑みとたたずまいで立っている、和装の男がいたのだった。
 軍人と目が合ったとき、和装の男は、にい、とゆっくりその笑みを大きくしていった。ちいさな弟の悪戯を偶然目の当たりにした、兄の笑みのようであった。
 男の左目が、非常灯めいた赤をしている。
 軍人は、鞘に収めたばかりの刃を、再び抜き放った。
「見たな」
 低く、寂びた声だ。
「ええ。しかと」
 こちらも、低く、寂びた声であった。
 この、針を落とした音さえ聞こえそうな静けさには、いま、このふたりの男しかいない。片方は軍刀を抜き、もう片方に突きつけている。軍人はなにも言わなかった。だが、その軍刀の白刃が言っている。
“見られたからには――”。
これからなにが起きるかは、まったく明白であった。けれども面妖なことに、男は、笑っているのだ。軍刀を突きつけられているほうの男が笑っていて、軍刀を振り上げようとしている軍人が、かたい無表情なのである――。
 しかし、軍人がサーベルを振りかぶったとき、和装の男の表情が動いた。笑みがふっと消え、張りつめた緊張感が走ったのだ。
「後ろを!」
 サーベルを突きつけられていた側であるというのに、男は大胆にも、前に一歩を踏み出した。軍人がその動きにつられて自らの背後に視線を送る。
 そこには、仕留められたと思われた、おぞましい無形の異形の触手があった。どろどろと波打つ体液をどうしてかき集めたのかは定かではない。ともかく怪物は死んではいなかった。いっそうぬめりと醜悪さを増した姿で、軍人の背に迫っていたのだ。すでにすばやく繰り出されていた触手が、軍人の左腕を掴んだ。
 蛸のものとも烏賊のものともちがうその触手を、和装の男が物怖じもせずに素手で掴み取る。
「ほう!」
 和装の男は、無邪気にも見える笑みを浮かべた。
「これは、面白い『力』だ!」
 男は、ぐっ、とその腕に力をこめた。
 軍人の黒い目は、見逃さなかった。男の両腕に、ほんの刹那、びしりと蛇の鱗のような紋様が走るのを。
 男の腕が、触手を引き千切る。ずばあ、と再び路地に粘液が飛び散った。和装の男の怪力が生み出した、怪物の身体の裂傷に、軍人がすかさず軍刀を突き刺す。
 おお・お!
 短い断末魔を遺し、異形は爆発した。黒い霞が、ふたりの男を包みこんだ。
 月の光が、その邪悪な霞を払いのけていく――。


「お忙しいところ、失礼しました」
 和装の男は、その丹前についた粘液(すでにかさかさに乾ききっていた)を払い落としながら、軍装の男に詫びた。
「邪魔をするつもりはなかったのですが、興味深い見物だったもので」
「……」
 微笑む男に対して、軍人は仏頂面だ。
「好奇心は猫を殺す。すぐにここを去って、今夜見たものはすべて忘れることだ」
「いまのは何です?」
 軍人の忠告にはまったく聞く耳を持たず、和装の男は袖に両手を入れて、微笑で尋ねる。
 軍人は軍刀を鞘に収め、外套をひるがえした。
「知る必要はない」
 変わらずの仏頂面で言い放ち、歩きだす――。

 しかし、和装の男も、軍人と同じ方向に歩きだしていた。

「僕は瀬崎耀司といいます。この成りですが、ナイルや南米の古代文明を研究しておりましてね」
「……」
「できれば、あのような異形と戦っておられる理由をお聞きしたいのですが」
「……」
「わかるのですよ。あなたのあの冷徹さ。無駄のない動き。目撃者にもためらうことなく刃を向けた。あなたは戦いに慣れていらっしゃる」
「……」
「しかし、戦いに魅入られているわけではない。戦いがあなたを駆り立てているわけではない。あなたはまるで、戦いを義務だと――任務だと思われているようだ。いったい、何故です」
「……」
「――ふむ。しかし……見たこともないデザインの軍服ですねえ……。鴉の濡れ羽のような……完璧な黒ではありませんか。かのナチス親衛隊の黒制服でさえ、白や銀の部分があったというのに」
 和装の男――瀬崎耀司は、軍人の黙秘にもめげず、黒い背中に質問を投げつづけた。しかしその問いには、答えが返ってこなくともよいというような、飄々とした節がある。まるで、答えがすでにわかっているかのようでもあった。
 かつん、と唐突に、軍人は足を止めた。
 無表情に――いや、すでにその顔には、うんざりした色が浮かび上がっている――彼は、耀司の顔を見つめた。
 悪びれる様子もなく、耀司はまたしても、軍人に質問を投げかける。
「せめてお名前だけでも聞かせていただけませんか」
「影山軍司郎という」
 ようやくの答えには、ため息が混じっていた。姓名をまとめて答えたのは、姓だけ伝えてもつぎの瞬間に「下のお名前は」と聞かれるにきまっている、と踏んだからだった。
「あれは、われわれ人類にとって、『禁忌』である世界から到来したものだ。われわれの世界は常に外部からの脅威にさらされている。人類は脆弱だ。下手に知恵だけをつけてしまった。己が理解しうる範疇を超えた存在に対するには、精神も肉体も、未熟に過ぎる」
「ではあなたは、さしずめ〈禁忌の番人〉といったところでしょうな」
 軍司郎が語る絶望的な真理にすら、耀司は恐怖や畏敬を払うことがない。よくできた小噺を耳にしたときのように、高揚とした笑みを浮かべて、大きく頷きながら顎を撫でていた。
「……貴君も、どうやら一介の識者ではなさそうだ」
「ふふ。初めて『僕』に興味を示してもらえましたね。光栄です」
「貴君に『忘れろ』と命じても、土台無理な話か」
「ええ。残念ながら」
「ならば警告するまでだ。『禁忌』を識ろうと思うな。『禁忌』の中に在るものは、絶望と狂気のみだ」
 凪いでいた風が不意にやってきて、軍司郎の外套をひるがえす。耀司は足を止めていたが、軍司郎は歩きはじめた。深夜の静かな闇の中に、その黒い背中が紛れこんでいくのを、耀司はだまって見つめていた。
「……律儀なかただ。ふふ。その甘さが命取りにならなければいいのだが――」
 軍司郎が行く方向とは真逆の、半端な月が照らす方角へ足を向けて、耀司は独りごつ。
 犬の遠吠えさえもないこの界隈には、車が通る音もない。

 この和装の男と黒い軍人の出会いは、平成の夜の話であった。




〈了〉