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<東京怪談ノベル(シングル)>


あの角が恐ろしい


 あるときひとりの学生が、墳墓から出土した球状の石を壊してしまった。
 まさしく真球と呼ぶべき、オーパーツであった。石にはまったく継ぎ目のようなものも見当たらず、一枚岩を丸く磨き上げたものと思われた。死者への供物だろうか、この珠は土に埋められるまで、表面に光さえ湛えていたのではないだろうか。それを、発掘作業にあたっていた考古学者の卵が、壊してしまったのである。
 発掘作業は慎重に行われていた。金属のスコップなどは使わず、はけや木べらで、途方もない時間をかけて掘りすすめられていった――学生もはけで、珠のまわりの土を丁寧によけていたはずなのだ。
 しかし、珠は壊れた。
 ひびが生まれ、そのひびは――音もなく、大きく、長くなっていき……。


「……だめだ」
 うつろな瞳にうつるのは、物部真言の疲れた顔だ。絶望した顔でもあり、泣きだしそうな顔でもあり……やり場のない怒りを抱いた顔でもある。
 ベッドで半身を起こしている状態のまま、まばたきすらもしない、若い人間。ある墳墓の発掘調査を行っていた、某大学の考古学研究室の学生だ。新聞でも取り上げられ、月刊アトラスというオカルト雑誌ではかなり大々的に記事を書かれた、ひとつの不可解な事件の被害者だった。
 東京郊外で見つかった、古い墳墓で――9名の男女が倒れているのを、巡回中の巡査が発見したのだ。倒れていたのは墳墓の発掘調査にあたっていた大学生と、助教授だった。全員が意識を失っており、胸や首筋に一箇所だけ、ちいさな刺し傷があった。しかしどの傷も出血は少なく、致命傷には至っていなかった。
 だが、しかし。
 数日後に『目を覚ました』9名は、全員が言葉も記憶も感情も、純粋な「反応」さえも失っていたのだ。うつろな目を開け、なにも見ていない表情をまったく動かさない。
 まるで、
「魂が抜けてる」
 真言は呟いた。
 医者は、「まるで魂が抜けているようだ」と言うかもしれないが、真言は断言する。彼らはみな、「魂が抜けている」。
 被害者の知人だという友人に頼まれて、真言は魂のほころびをつくろいにきたのだが、2時間の奮戦ののちにさじを投げた。真言が受け継いだ物部の言霊と神宝の力は、すべての『魂』というものに作用する。壊れかけた魂をつくろい、天に昇ろうとしている魂を引きとめ、引き戻すことができるのだ。
 しかし、墳墓で倒れた彼らの魂を、真言がつくろうことはできなかった。
 魂が、もはや、どこにもない。
 ――まただ。俺はまた、なんにもできない。どうしてだよ。俺って、どうしたらこんな役立たずじゃなくなるんだ? クソッ!
「……いいって。気にするなよ、物部。おまえはカミサマじゃないんだしさ……無理言って、悪かったよ」
「……。でも、いったいなにが起きたんだ? その古墳でさ」
「さあ。警察は、なんかガスかなんかが噴き出したんじゃないかって言ってる」
「ガス?」
「ああ。有毒ガス」
 どんなガスが魂まで腐食させるのだと、真言は後先かまわず反論しようとして――やめた。真言の胸中を知ってか知らずか、彼の友人は話をつづける。
「だから、現場はいま立入禁止なんだってよ」


 真言は、夜、不可解な事件が起きた現場に向かった。立入禁止という話を聞いていたから、警官のひとりやふたりが目を光らせているのかもしれない、と思っていた。しかし実際には、『立入禁止』の黄色のテープが1本、墳墓の周囲をぐるりと囲っているだけだった。
 そして、もしかするとガスが原因だったという話は真実なのかもしれない、と思った。墳墓は悪臭につつまれている。形容しがたい悪臭だ――ものが腐っている臭いに似ているが、流れがとまったドブの臭いにも、排泄物や吐瀉物の臭いにも、硫黄の臭いにも似ている気がする。思わず顔をしかめて、真言は辺りを見回した。警官どころか、人の気配すらしない。
 いや。
 真言の第六感を、ちいさな耳鳴りの音にも似た、「聞こえないのに聞こえる」「見えないのに見える」気配が刺激した。不愉快な気配だった。間違っても、妖精や天使といった、人類に友好的なものの『気』とはいえない。ヒトのものではないなにかの気配。それが、黄色のテープの向こう側から漂ってきている。
 この一線を、越えてはならない。
 警察は、墳墓にあらわれたものがなんであるか知らないだろう。9人の男女は、有毒ガスを吸ったとでも思っていればいいのだ。近隣の住民も、脳を破壊されるガスが噴出している墓だと聞けば、わざわざ足を踏み入れることはないだろうから。
 知る必要などないのだ。
 知ってはならないことなのだ。
 けれども、真言は眉根を寄せ、唇を噛みしめて、黄色のテープをくぐっていた。

 くぐったと同時に、不愉快な気配が爆発した。
 やつはきっと、息を殺して、この次元の生命が放つ気配の中に潜んでいたのだ。藪の中に身を潜めていた狼が、警戒しつつも通りがかった兎に飛びかかるときも、きっと同じだ。抑えていた己の本能と気配を解放し、一気に標的にぶつけるだろう。
 いま、このときのように。
 割られた石が積み上げられたその山から、緑青色の煙が噴き出した。
 ――ガスか!
 しかし、そんなはずはない、とも思った。
 真言が身構えるその前で、煙は次第に、なにかのかたちをとり始めていた。そして、唸り声を――発し始めている。まばたきをするごとに姿を変える悪臭と煙は、いまやあきらかに、獣の姿をとっていた。

 獣だ。
 狼か。
 猟犬かもしれない。

 青い粘液を身体中から滴らせて、その獣が、ずわッ、と動いた。するどい牙が植わったあぎとは大きく開かれ、先端が注射針のように尖った舌が伸びる。どこまでも伸びる。鞭のように伸びていく。
 間一髪で、真言は獣の舌をよけた。悪臭を放つよだれが、真言のコートを汚す。よだれにはやたらと粘り気があり、不愉快な青色をしていた。
 唸りながら、真言から距離をとり、猟犬が牙を剥く。例の舌は、だらだらと伸びたままだ。その眼窩には、瞳孔も虹彩もない黒い眼球があった。じっと睨みつけていると、身体や魂が、その目の中に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える目だ。目の中に角度がある。宇宙があり、時間がある。
 真言の脳裏に、出し抜けにこんな表現が飛び出した――
『不浄』。
 この猟犬は忌まわしき存在が具現化したもの、そのものだ。
 ――俺じゃ、どうにもできない。
 猟犬が腰を落とす。
 ――俺なんかじゃどうしようもない。
 どこかの宇宙から聞こえてくる、遠い遠い咆哮が上がった。
 ――こいつはここに封じられていたんだ。封印が解けちまった。誰がまたこいつを封印できるっていうんだ。こいつには『魂』なんかない。こいつが『魂』を喰ったのは間違いないけど、それでも。……俺にはなんにも、できやしないんだ。

 猟犬が嗤った。
 物部真言が、取るに足らない存在だと気づいた――やつは、それで、嗤ったつもりだったのだろう。
「嗤うな」
 真言は呻いた。
「俺だって気にしてるんだからよ」

 猟犬が、真言の身体を軽々と跳び越えた。抵抗する人間を喰うのは、面倒だったのだろう。びっ、と黄色のテープをその臭い身体で容易く千切り、猟犬は東京の街へと駆けだしていった。その身体は、走るうちに再び煙と化した。煙となった猟犬は、音もなく、ビルの窓のサッシが生成する90度の角に飛びこんでいった。
黄色のテープが封じられるものは、人間だけだ。たかが人間だけにしか、効き目がない。その人間にすらかなわぬことがあるテープの封印は、獣の力ならば切ることさえも造作のない、脆弱なものだった。
「……くそッ!」
 悪臭は有毒ガスだ。間違いない。
 人を殺すガスは、東京に解き放たれてしまった。
 東京にひびが入ったのだ。
 物部真言は、頭に爪を立てて、悪態をついたあと――

 咆哮するしかなかった。




〈了〉