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<東京怪談・PCゲームノベル>


殺虫衝動『コドク』


■さいごのこどく■


 冗談のように大きい蜘蛛がいた。
 天井からすべてを見下ろしていた、88の眼を持った蜘蛛を見た。
 ササキビ・クミノがそれを目視したのは、20時45分。
「御国さん……!」
 ササキビ・クミノが思い出すのは、冗談のように大きい蜘蛛と、御国の手だ。
 彼の目だ。
 彼らしくもないが、彼がやりそうな振る舞いだ。

 ――貴方を死なせない。
 ――誰も死なせない。
 ――どうして私を助けたの? 私なんて……ただ、居るだけで生物を殺す……毒虫に過ぎないかもしれないのに。
 ――だから貴方は、ストレスを溜めてしまうのよ。
 ――だから私は、貴方を救うの。

 クミノの憔悴も痛みも躊躇も、わずか数十秒。
 20時46分、ササキビ・クミノは倉庫裏の事務所に再突入していた。
 曇ったガラスの窓に、エンジン音を放つ工具を投げこむ。中にいるものが――あの蜘蛛が気を取られたことを期待して、ナイフを構えた。ドア口を覆っていた蜘蛛の糸を、ナイフで切り裂いていく。
 白い糸を引き千切り、切り裂いて、クミノは白い糸に覆われた事務所の中に転がりこんだ。クミノが投げこんだ工具が耳障りな音を上げていたが、すぐに止んだ。天井からすとりと降り立った巨大な蜘蛛が、工具をその牙で構成されたような顎で、噛み砕いたのだ。
 クミノはナイフを構えて、蜘蛛から一瞬だけ目をそらした。
 御国将は、倒れている。生死はさだかではない。だが、血痕の類が見当たらないのは確認できた。
 蜘蛛の向こう側に、相変わらず糸でがんじがらめにされた刑事。
「……平」
 クミノは目にするどい光を浮かべた。
「あなたが平ね」
『そうだったような気がする』
 答えがあった。
 この蜘蛛は己の心に負けた人間の慣れの果てだ。倉庫の中で喰い合いをしていた蟲たちと同じ穴の狢である。
 しかし驚くべきことだろうか――
 88の眼には知性があって、苛立ちを支配しているようだった。
『タイラー・ダーデンを知っているか』
 かさこそと蜘蛛が動いて、囁いた。いや、蜘蛛が言葉を話したわけではないようだ。
 クミノは目を蜘蛛の足元に向けた。声は、間違いなく蜘蛛のその影から発せられていたからだ。
 影が、静かで陰鬱な声で語り始める――。
『すべてを棄てて初めて人間は自由になれると、名言を遺した。だが、タイラー・ダーデンはどこにも存在してはいないのだ。はじめからどこにもいなかったし、最期を迎えてもどこにも行かなかった』
 ことばを話す蜘蛛の影が――
 すう、と盛り上がり――
 真っ黒な人間のかたちを取ると、電源が入ったままのノートパソコンの前に音もなく移動した。
『かつてネットの中でのみ、私は平だった。タイラー・ダーデンを抱えた名無しの主人公だったのさ。「世界」に囚われるまでは』
「ワールド・ワイド・ウェブ……いい冗談ね。貴方が張った網に、どれくらいの獲物がかかったの?」
『勘違いをするな。私が仕組んだことではない』
 蜘蛛の影は苦笑いをした。目鼻立ちも表情もわからない黒一色の影だが、彼がクミノに目を向けたことが、手に取るようにわかる。
『私は仲介役を買って出ただけだ。世界が望んだのだ……この世を呪う蠱毒を作り上げることを。今の我々は、世界を呪うためだけにある』
 影は慣れた手つきでマウスとキーボードを駆り、ゴーストネットOFFに代表されるオカルトサイトをまわっていく。
 すべてのサイトから、すでにムシの噂は消え失せていた。ログはきっと、半永久的に残る。おそらく、人間の記憶の中にも残るだろう。
 だが、すべては過去のものになっていた。
『罠を仕掛けていた、というのは少し違う。私は餌を撒いたのだ。蟲は単純な生命体だ。餌で誘い出すのは簡単なことだった。集まった蟲が何を為すかは、蟲に任せておいた。倉庫の中がどんなことになっているかは見たのだろう? あれが生命そのものの出した答えだ。――呪いだよ』
 影はムシの噂が消えたことに満足したようだった。パソコンから離れ、すうと縮み、蜘蛛の足元に戻っていった。
『最後の1匹は、すべての蟲の想いと呪いを背負う。脳はただひとつの衝動で満たされるはずだ。ひどい苛立ちの矛先を、苛立ちの大きさに見合った規模のものに向けずにはいられなくなるだろう』
「……それは――」
『「蠱毒」だ』


 平はかつて、平という名前ではなかったし、蜘蛛でもなかったし、影でもなかった。
 ある人物の影が蜘蛛であり、平だったのだ。
 それがある日、くるりと反転してしまった。
 それが始まりだったのだろうか?
 そこから始まったのか?
 ――きっと、違う。
 おそらく、人間が世界の色を拒絶したそのときから始まっていたのだ。
 もし将がこの『会合』を蹴ったとしても、いつかはきっと、彼は影になってしまっていたのではないか。ウラガがこの世に現れて、将という存在は名無しの語り部になってしまうのだ――そしてそのとき、忌まわしい呪いが成就する。


『ああ、うぅう』
 蜘蛛が不意に身体を屈め、狼のように唸りだした。
『私が恐れているのは、「蟲」なのだ。血を流す蟲を見たか。あれは、苛立ちと嫌悪感に食い潰された人間の慣れの果てだ。あの浅ましさと獰猛さを見たか』
 陰鬱な声は苦痛と苛立ちに満ちていた。
『私はあの蟲たちを見たとき、ぞっとすることを考えたよ。……人間も虫と同じで、衝動だけで生きているのではないかと』
 蜘蛛の刃のような足が、汚れた床をかさこそと踏みしめた。
 88の眼の光が不愉快に瞬き、蜘蛛は胸部と繋がった頭を、ぶんぶんと苛立たしげに打ち振った。
『……私も、私は、ひどい頭痛に苛立っているのだ。この頭痛が消えるのならば、私は、誰かに喰われてしまっても、たった独りになってもいい。この痛みは……私の、衝動だ!』 


 ぐあっ、と蜘蛛が跳躍する。しかしクミノは、動かなかった。蜘蛛の牙が、刃のような足が、自分に迫り来るのを見つめていた。脚と牙はクミノの身体をとらえた。――しかし、かのじ夜の身体にはかすり傷ひとつ突かない。蜘蛛がクミノに鋭利な攻撃を加えるたび、彼女の足元にはからんがらんと刃物が落ちていく。虚空から唐突に現れる刃物の数を、クミノは冷静に数えていた。
 転がる金属音が、平の攻撃そのものだ。彼の苛立ちであり、衝動だ。クミノはそれを受け止めることができない。あたかも自分ではない赤の他人が襲われているかのように、客観的に平の行動を分析することしかできない。
 クミノには、物理的な攻撃が一切通用しないのだから。
 クミノは足元の刃物は手に取らず、床に転がっている工具を掴み、蜘蛛のあぎとの中に突っ込んだ。その牙から、汚水のように濁った液体が飛び散っていた。毒に違いなかろうが、牙がクミノの皮膚を破れない以上、毒を恐れる必要もなかった。
「……誰も」
 蜘蛛のあぎとの中にぐいぐいと工具を押し込んで、クミノは呻いた。彼女には、13歳の少女が持ちうる腕力しかないのだ。彼女は、ただの学生なのだから。
「誰も殺させはしない。殺しはしない。殺されもしないわ。あと23時間、誰も……誰も命を奪われはしないの。誰も、よ!」

「起きて! 御国さん!」

 クミノが叫び、蜘蛛を押し戻した。工具が蜘蛛のあぎとの中でねじ曲がる。けれども、クミノの珍しい叫び声に、将がはっきり答えることはなかった。
『ああ……頭が痛い』
「頭が……痛いんだ」
「待って。よく考えて。人は蟲ではないの。蟲ではないもので、蠱毒が作れるはずはないでしょう。あなたたちになにが呪えるの? 呪ってなんになるというのよ。この世界には、呪わなくてもいいものや……呪ってはいけないものもあるのに」

「御国さん! 起きて! あなたを殺させはしないわ!」

 しかし、起き上がったのは、御国将ではなかった。御国将の、影だった。数え切れない数の脚をばらばらと動かす、ウラガと名づけられた百足の影だ。ずあっ、と動いたウラガは、傷ついていた。クミノが外に押し出され、再突入するまでの一分間で、蜘蛛に手ひどく痛めつけられたらしい。
 百足は、クミノに組みつく蜘蛛に襲いかかった。蜘蛛がすぐに標的をクミノから百足に移して、刃のような脚を動かす。クミノは将を見た。誰にも死なれたくはなかったから、百足と蜘蛛の戦いをやめさせたかったのだ――しかし、倒れている御国将は、顔をこちらに向けてもいない。ウラガは暴走しているのだ。将の指図に従うつもりはないらしい。
 クミノは一瞬だけ、迷った。次の瞬間、彼女は床に散らばっているナイフを掴むと、縛られたまま呻き続けている嘉島刑事の救出にあたった。白い蜘蛛の糸を手早く断ち切る。あまりに手早くやりすぎて、嘉島のくたびれたコートやスーツも切り裂いてしまった。
「逃げて」
「そうしたいのは山々なんだが」
「なにか問題?」
「おれの影だよ」
「……」
 嘉島永智の影が、蠢いている。まだ、蟲のかたちを成していない。しかし――間違いなく、持ち主の動きとは裏腹に、不愉快なすばやさで脚を動かしているのだ。
「蟲が最後の一匹になったら……まずいんだろう。おれも、始末をつけにゃならん。まいったな。おれは……おれも、世の中を呪いたいほどイライラしてるわけじゃないっていうのに……」
 嘉島の苦笑いが、轟音に消えた。


 事務所の壁が崩壊したのだ。
 倉庫の中の共喰いに、決着がついたらしい。
 クミノは唇を噛んだ。苛立つ蟲たちは、あと23時間も待ってくれない。
 蜘蛛が、百足が、嘉島の影が、ざあっ、と新たに現れた蟲を睨みつけた。かれらの頭の中にあるのは、衝動だけだろう。やり場のない苛立ちを、どこかにぶつけなければ気がすまないのだ。
 顔を出してきたのは、身体に膿でできた瘤を無数に持つ御器噛だった。見るもおぞましい蟲が、涎を滴らせながらあぎとを開き、百足と蜘蛛を触覚で薙ぎ払って、嘉島永智の影に咬みついた。
 あッ、と嘉島が苦鳴を上げる。べりべりと異様な音を立てて、嘉島の影が床から引き剥がされた。嘉島の影はもがいていた。もがきながら御器噛に咀嚼され、呑みこまれていた。影を喰われた嘉島は、呻きながらその場に倒れた。
 御器噛の身体が、ひとまわり大きくなる。
 しかしそのときすでに、蜘蛛が御器噛の脳天に牙を打ちこんでいた。見上げるほど大きな瘤だらけの御器噛がのたうち、事務所の壁と天井が崩れていく。
「御国さん、ウラガを止めて!」
「……ササキビ……」
 顔中に脂汗を浮かべた将が、ようやくクミノを見た。
「……最後の一匹を……殺してくれ」
「……」
「あいつが最後の一匹になる……殺して……とめてくれ。聞いてただろ……? あいつも別に、呪いたいほど世の中を恨んじゃいないんだ。……俺もそうだ。なにも呪いたくない。おまえがいま言ったな……呪っちゃいけないものもあるんだ」
「殺さなければとめられないものなんて、……ないわ」
「ササキ……ビ!」
 がふ、と将が血を吐いた。
 クミノの服が、将の身体と口から噴き出す血で汚れる。
 御器噛の姿は消え、その代わり、醜悪な姿をもった巨大な蜘蛛がそこにいて、これまた醜悪な見てくれの百足をばりばりと咀嚼しているところだった。蜘蛛は獲物の体液を吸うものではなかったのか。
 ともかく――
 ウラガと名づけられた百足は消え――
 そこには、最後の一匹があらわれた。


 23時間。
 御国将も嘉島永智も、平も生きている。
 だが、なにもかも、23時間後まで待ってはくれない。最後の一匹は、クミノを捨て置き、この世を呪いに出ていくのだろう。
蜘蛛の身体に生じた瘤は、絶えず蠢き、脈動しているようでもあった。ひとつひとつの瘤が、いちいち触覚や脚や頭のかたちをとっているようにも見える。これほどおぞましい姿をした虫はこの世にないはずだ。平の人間や影としての意思は、もはやどこにも見い出せない。
 蜘蛛はぶくぶくと泡立つ己の身体を、苛立たしげに掻き毟った。鋭い脚先は甲殻すら引き裂き、破れた瘤からだらだらと膿じみたものが流れ出した。
 いや、これは――膿ではない。虫を潰したときに腹から飛び出す、はらわただ。
 さしものクミノも唖然とした。あまりにも汚らわしい存在だった。

 あたまがいたい……。

 誰かが、そう呻いている。

 頭が痛いんだ、どうか……とめてくれ。

「貴方たちは、蟲になんかなりきれていないわ。……お願い。私に殺させないで」
 腹が立つんだ。ああ、いらつくんだ。ああ、ああ……おれたちでどうにかしてやれたら……おれたちの力で変えられたら……もうあたまもいたくなくなるのに。おれたちに力があればいいのに、おれたちに……とめられたらいいのにな……。

 とめてくれ、ササキビ。おまえがやることは『殺し』じゃない。
 おまえがとめなければ、この蠱毒は大勢を殺す。間違いなく殺す。衝動のままに世界を呪う。苛立ちと怒りを吸収してさらに大きくなる。
 でも、誰も本当はそんなことを望んじゃいないんだ。だからササキビ、とめてくれ。
 ササキビ……、助けてくれ。


 巨大な蜘蛛が、またクミノに牙を剥いた。その衝撃は事務所のデスクや、デスクの上のノートパソコンを破壊し、クミノを弾き飛ばした。蟲はもはや、物理を超えた力を持っている。この世界が仕向けた牙なのだ。
 クミノは手にロケットランチャーを持っていた。蜘蛛の攻撃が、彼女に刃を与えたのだ。
 クミノはそのときに、見ていた。
 蜘蛛が持つ88の瞳の中で――
 大勢の、想いが渦巻いていて――
 目を背けたくなるような感情色の絵画が、描かれているのだ。
 それは壮年の男や成人したばかりの青年たちの顔であり、まれに意思の強そうな女性も混じっていた。いまの世界を支えている者たちのポートレートだったのだ。どれもが苛立ちと怒りと悪意に歪み、口汚く罵っていた。その陰に、追い立てられているかのようになりをひそめた、涙や悲しみと、懇願があった。
 とめてくれ、と言っている。
 殺してやりたいほど呪っているが、呪いたくないものまで呪ってしまいそうだから、と。
「……とめるわ」
 クミノは呟き、ロケットランチャーを構えた。
「私は、とめるだけ。貴方たちは、ちゃんと……戻るべきところに戻るのよ」
 引金が引かれた。

 ずぼン!

 蜘蛛のねじ曲がった頭部が砕ける。どす黒い、死骸を含んだドブの水にも似た血液が、辺りに飛び散った。凄まじい悪臭を放つ血は、あとからあとから、蜘蛛の身体より溢れ出て、飛び散っていく。
『ああ……』
 どこかで、平と名乗っていた男がささやいた。
『頭痛が……治ったな……』
 蜘蛛の身体がずるりずるりと崩れていき、ぼたぼたと床に落ちていった。どす黒い影が傷口から飛び出し、白い欠片をまといながら、音もなく天へと昇っていく。倉庫の血塗れの天井をすり抜け、きらきらと白い欠片をばら撒きながら――
がらん、とおおよそ生物が立てるようなものではない音がした。蜘蛛の、刃のような脚が落ちたのだ。床に落ちた脚の欠片は、しばらくぐずつくように泡立っていたが、やがてそれも染み入るようにして消えていった。

「……これで、とまった?」
 サイレンが近づいてきている。将はクミノに、頷いてみせた。
「……貴方は、ちゃんと、戻れる?」
 また彼は、頷いた。
「……私、貴方を助けられた?」
「………………だ。……………………と………………」
 血の混じった声がして、クミノはそっと立ち上がる。救急車は、彼女が呼んだ。平がノートパソコンに接続していた携帯電話が生きていたのだ。
 この場に、平はいない。身も心も蟲になり、一心不乱に喰い合いをしていた人々も。クミノは顔を上げた。吹き飛んでしまった天井の向こうに、星空がある。21時57分の空が。その空を、白い光が泳いでいる――ように、見えた。

 ――私、……助けたの?
 ――もちろんだ。ありがとう……。


 彼女は、からからと回るプラスチック製の風車を思い出す。
 桜餅を。
 安い緑茶を飲んでいる、御国将の姿を。

 あれを、また味わうことが、できるのだ。
 彼女は笑おうとした。



 月刊アトラスの『ネットにはびこるムシの噂』特集の連載は、その月で終わった。
だが御国将の書く原稿は、今月も間違いなく、アトラス誌面の一部をひっそりと埋めている。




〈了〉

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】

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               ライター通信
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 モロクっちです。『殺虫衝動・コドク』をお届けします。
 ……に、2年越しの完結になりました……。最後までのご参加、本当にありがとうございます。というか2年前の文章と全然変わってませんね。進歩がないってことでしょうか。2年前の臨場感のまま、物語の終わりを楽しんでいただけたなら幸いです。
 今回はササキビ様の「殺さない」精神が、だいぶ物語に影響をもたらした結果になりました。この、ササキビ様の『殺虫衝動』が、思い出のひとつになりますように。

 それでは。