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不変を永久に
冬将軍が北から南へと歩を進めているのを日に日に感じる。
特にこんな晴れた朝は水溜りの表面には大きな薄氷が張り、子供達が歓声を上げながら登校する姿が見受けられていた。
さすがに昼近くになると氷りは解けてしまったようだが、気温はそんなに上がってはいないらしく作務衣だけでは寒さを感じて江戸崎満(えどさき・みつる)は上に羽織を羽織って表に出た。
しばらく待っているといつも通りの時間にいつもの郵便配達員がバイクの音をさせながら徐々に近づいてきた。
軽く会釈した江戸崎に、天気はいいけど冷えますねぇなどといいながら気のいい壮年の男性は何通かの手紙を渡す。
手にした手紙を1通1通確認して、満は首を長くして待っていた自分宛の手紙を懐に入れ、その他は玄関の上がり框にある棚の上に置き自室に戻った。
大きく息を吸ってゆっくり吐くという動作を何度か繰り返してから、慎重にその封書に手をつける。
いつものように季節の話、療養所であった事などが丁寧な字でしたためられていた。
一通り目を通した満は、大きく息を吐く。
それは先ほどまでの自分を落ち着かせるためのそれとは大きく意味が異なっていた。
安堵と、そして一抹の不安を含んでいる。
数ヶ月前、蛍の舞うせせらぎのほとりで手紙の送り主――弓槻冬子(ゆづき・ふゆこ)に告げた言葉が自然と思い浮かぶ。
彼女を守りたいという思いは、彼女と知り合い逢瀬を重ねるにつれて募っていった気持ちが自然に告げた言葉だった。
しかし、そのプロポーズめいた告白に冬子はしばらく考えさせて欲しいと、その時そう答えてくれた。
少なくともすぐに断らない程度には……という期待がないと言えば嘘になってしまう。だが、満は急かすつもりもなかったので、微妙な空気を含みつつも手紙のやり取りはいつものように続いている。
答えてもらえない不安はあったが、答えを聞き、その答え如何では関係が崩れ去ってしまう怖さが先ほどの吐息には含まれていたのだ。
満は、引き出しから取り出したいつもの味気ない封筒とは少し異なる封筒を取り出した。
その中にはチケットが1枚入れてあった。
チケットは満が旧知の知人に是非にと言われて開くことになった個展の招待状だ。
満はその中に返事をしたためた便箋を入れてしっかり封をした。
■■■■■
数日後。
ある小さなアトリエの前で弓槻冬子は大きく息を吐いた。
冬子は鞄の中から封筒を取り出し中に入っていたチケットと地図を見る。
確かに場所に間違いがないことを確認する。
『個展 陶芸家・江戸崎満』と、確かにアトリエの入り口に小さな看板が立てかけられている。
それを確認しても、冬子はすぐに足を踏み入れることが出来なかった。
誘われるままに来てしまった。
だが、あの夏の告白の返事をしていない自分がここに足を踏み入れる資格があるのだろうかと、ためらっているのもまた事実であった。
何度かアトリエの入り口と手元のチケットの間で視線を往復させていた冬子だったが、その時不意にアトリエから何人かの人が出てきた。
何人かの客の最後尾にいた人物が、冬子の姿を見止めて少し驚いた顔をして、そして次の瞬間照れたようなはにかんだ様な表情を浮かべる。
ついつられて冬子も表情を和らげた。
「冬子さん。連絡をくれれば迎えに行ったのに」
身体に障るといけないからと、満は急いで冬子を中へと招く。
パンフレットをくれた受付の女性に促されて記帳をする。
その後は満が自ら冬子にいろいろな作品の解説をしながら一通り作品を観終わった後、満はアトリエの奥にある控え室に冬子を誘った。
控え室といっても普段はアトリエのオーナーが接客のための応接室として使っている豪奢な部屋だった。
「どうもこういう部屋に慣れなくて」
ピシッと和服姿とこの部屋は確かにどこか違和感があるらしい。
薦められるまま応接室のソファに座った冬子は、
「でも、個展の方は随分盛況なようで……おめでとうございます」
冬子は先ほど自分が記帳した台帳を思い出しそう告げる。
「おかげさまで」
と満は答えた。
「でも今日はそんなことよりももっと嬉しいことがあったから」
少し俯きながら満は照れくさそうにしていたが、意を決したように顔を上げて冬子を見つめた。
「初日に来てもらってるとは思わなかったから……来てくれてありがとう」
その真摯な瞳と言葉に、今度は冬子が少し頬を染めた。
先程まで入り口で躊躇っていた事が嘘のように、冬子の中にあった何かが解けていく。
そうして、しばらく満の入れてくれたお茶を飲みながら2人は雑談をしていた。
手紙のやり取りはあったが、この個展の準備もありしばらく会って話すことはなかったためか話題が尽きることはなかった。
告白の返事をしなければいけないと冬子は思うのだが、それでもこんな風に話をしていると答えを出すのが少し怖くもあった。
まだ、冬子ははっきりとした答えを導き出せずにいた。
自ら導き出す答えであるのだが、それによってこんな風な穏やかな時間が変わってしまうのではないかと、そう思うと返事をしなければいけないのに満が待っていてくれる限りはこうしてずるずると答えを出さずにいられたらと、そう願ってしまうことを止められない。
変化を望みつつも、その変化が怖くもある。
満だけでなく冬子も同じような思いを抱いていることを2人は互いに気付いてはいなかった。
■■■■■
しばらくの間2人で話していた部屋に、控えめなノックの音が響いた。
「はい」
音に気付いた満がそう答え席を立つと、先程の受付の女性が顔を覗かせる。
「江戸崎さん、すみません。少しいいですか?」
そう言われて、満はいつの間にか随分と時間がたっていたことに気付いた。
「あぁ、もうこんな時間か。冬子さん、すぐに戻ってくるので、そうしたらそこまで送っていきますから―――」
そう言って振り向いた満は、すぐに異変に気付いた。
冬子が胸の辺りを強く握りしめ、青い顔色でひどく苦しそうな呼吸をしている。
「苦しいんですか? 冬子さん!?―――冬子さん!!」
満の問いかけにすら答えることが出来ないのか、冬子からの返答はない。
驚いて入り口で立ち尽くしているた彼女が満に言われて慌てて救急車を手配するために部屋を飛び出した。
「冬子さん、大丈夫ですか!?」
満は冬子をソファに横たわらせて彼女のブラウスのボタンを一つ外す。
「江戸崎さん、救急車を呼んだんですが、この時間帯だと渋滞で少し時間が掛かるって。ちょっと私、表に出てみますから」
くそっ、と、満は彼女の言葉にテーブルに手を強く叩きつけた。
その間にも冬子の呼吸はどんどん苦しく弱くなっていくようだ。
満は自分の上掛けで冬子の身体を包むと冬子を抱き上げる。
そして、満が眉間にしわを寄せながら何かつぶやいた瞬間、2人の姿は部屋の中から消えていた。
極々微かに何かが落ちる感触が腕に伝わる。
幸か不幸か、慣れ親しんでしまった点滴の感覚に冬子はゆっくりと瞼を開いた。
まず最初に目に映ったのは見慣れない天井。
だが、その白く独特の雰囲気からそこがどこかの病院の一室だとすぐに気が付いた。
―――個展を観に行って、江戸崎さんと話していて、それから……
少し呼吸が苦しくなってきたところまでは覚えている。
それから、夢うつつの中で満が必死に自分の名前を呼んでいた事も。
ふと目だけで視線を横に移すと点滴をしていない方の腕を満が握っていた。
冬子が目を覚ましたことに気が付いた満が、握り締めていた手を更に力をこめて握り締める。
まだ意識ははっきりとはしなかったが、それでも冬子は手を握る満に答えるように自分の手を握り返した。
「冬子さん……無事で、良かった」
握り返されたことで、ようやく満は本当に安堵したような顔を向ける。
冬子は握り返した指にもう少し力を込めて、そして満を安心させるように小さく微笑んだ。
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