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虚構世界
盆に載せた食器がかちゃかちゃと無機質な音を立てる。はあ、と君江は溜息をついた。こうやって娘の部屋に食事を運ぶようになってどれくらい経つだろう。
いや、正確には「部屋の前」だ。部屋の中にすら入れてもらえないのだから。
娘であるあかりは部屋に閉じこもり、昼夜を逆転させてインターネットに興じているらしい。ここ半年ほどは彼女の顔すら見ていない。君江が娘の部屋に行くのはこうして食事を運ぶ時と、食器を下げる時だけだ。ドアの前に置いてやった食事は残さず平らげられているし、部屋の中には確かに人の気配がする。君江が確認できるあかりの痕跡はその程度でしかない。
「ごはん、置いとくね」
返事がないであろうことを知りつつ、律儀に声をかけてドアの前に盆を置く。春江はふと顔を上げた。ドアの向こうは妙に静かだ。
部屋から出ているのだろうか。一瞬そう考えたが、君江はすぐに自分でその可能性を打ち消す。あかりが部屋から出てくれば分かるはずだ。いつ外の世界に出てくるか、四六時中耳をそばだてているのだから。
嫌な予感がした。
ドアに耳を押し当てる。こちらとあちらを隔てる板の向こうからは何も聞こえてこない。次に君江はノブをつかんだ。常に施錠され、あまつさえ開かないように内側から家具で押さえられているドアはどういうわけか簡単に開いた。
あかりはいなかった。
代わりに、家具とパソコンと、耳の痛むような静寂だけが残されていた。
「――で」
草間は組んだ脚をゆっくりとほどいた。「娘さんは見つからず、警察にも相手にされず、ここに来たってわけですか」
「はい」
依頼人である武山君江はハンカチで目を押さえた。年齢は四十くらいであろうか。涙で剥がれ落ちた化粧の下の肌の荒れ具合が憔悴を雄弁に物語る。草間は居心地悪そうに首の辺りを手でさすった。
依頼の内容は人探し。興信所としてはポピュラーな案件だ。しかしここは草間興信所。普通の人探しの依頼など来るはずもない。
「昼食の時は確かに部屋にいたんです。でも夕食を持って行った時にはいなくなっていて･･････。窓から外に出たような跡もなくて。神隠しにでもあったんじゃないかって」
君江はそこでいったん言葉を切り、小さく鼻をすすり上げた。「なのに･･････あかりは消えたのに、あの子のホームページだけは毎日何度も更新がされているんです」
まるで娘がネットの世界にでも住んでいるようだと言って依頼人は青ざめる。やれやれ、と草間は内心で息をついた。また怪奇事件か。とするなら、あいつらの手を借りる必要がありそうだ。
「二十日間、もらえますか」
やがて草間は口を開いた。「仲間に協力を仰がなきゃいけませんので･･････二十日あれば何とかなると思います」
土曜日のホームルームが終わった教室は適度な喧騒と開放感に満たされている。部活に向かう者、連れ立って遊びに出かける者、様々だ。金平糖のような女子生徒の笑い声に背を向けて武山春樹は教室を後にする。
遊びに行く暇などない。あの暗い家に帰って、母親の代わりに家事をせねばいけないのだから。
「春樹、春樹、はーるーきー！」
名前を連呼されて春樹は背後を振り返る。同じクラスの梧・北斗（あおぎり・ほくと）ではないか。特にアレンジを加えない黒髪に、一般的な日本人の肌色、クールに整った容貌。特異な要素はない。唯一他の人間と違うのは銀色の瞳だった。日本人にはない虹彩の色が彼を神秘的に見せている。
しかし――確かに同じクラスだが、それだけだ。交流はない。いきなり名を呼び捨てにされる覚えなどないのだが。
「ちょっと待てよ。歩くの早いんだから」
ようやく追いついて来た北斗はにこにことしながら春樹の肩を叩く。春樹は少々迷惑そうにしたが、そんなことなどお構いなしだ。
「なあ、今からおまえんち行っていい？」
「はぁ？」
北斗の唐突な問いに春樹は間の抜けた声を返した。
「いやさ。妹さんのこととか、色々悩んでるだろうと思ってさ。知ってるぜ。あかりちゃんって言うんだろ？」
春樹の表情がぴしっと音を立ててこわばった。しかし北斗は気にせずに言葉を継ぐ。
「こないだの帰りに仕事頼まれたんだよね、草間興信所ってところから。知ってるだろ？」
北斗の笑顔に春樹はぽかんと口を開けた。
性別男、十七歳。高校二年生、兼、退魔師、そして草間興信所調査員。以上が梧北斗のプロフィールである。
「世間は狭いねえ。まさか“忽然と消えた少女”の兄貴がおまえだったなんて」
一緒に武山家への道を辿りながら北斗は頭の後ろで両手を組む。
「まさかあんたが興信所の人だとはね」
春樹はちらりと北斗を見た。「部活はいいのかい。弓道部だろ」
「事情話してお休み。そっちこそいいのか？ 国体も有望視されてたソフトテニス部のエースが」
「やめたよ」
春樹はぼそりと呟いた。意外な答えに北斗は目をぱちくりさせる。
「部活はやめた。早く帰ってお母さんの代わりに飯作らなきゃいけないから」
「･･････へえ」
とだけ北斗は言った。思ったより状況は深刻らしい。
「一応確認するけどさあ、あかりちゃんがいなくなった時は物音とかしなかったんだよな？」
「ああ、多分。何か音がすればお母さんが気付くはずだから」
「ふーん･･････何か変わったこととかは？」
「別に。っていうか、それを調べるのが興信所の仕事だろ？」
「だからさ、家族に聞き込みするのがいちばん手っ取り早いじゃん。事前調査ってやつ？」
北斗はにこにことする。春樹は小さく息をついてから口を開いた。
「普通の家族だったと思うけどな。夫婦に、子供が二人。あかりとお母さんは仲がよかったし、俺とあかりだって仲良くやってた。俺の影響であかりも小さい頃からテニスに興味を示してね。休みの日にはコートを予約して一緒に練習に行くくらい仲が良かった。ただ、負けず嫌いだけはすごかったな。喧嘩しても絶対に謝らないし、俺に負けるとびーびー泣いてさ」
春樹はぽつりぽつりと話し始めた。
あかりは明るく元気な普通の女子中学生だったという。「いつかお兄ちゃんに勝つんだ」と意気込んで軟式テニス部に所属し、毎日の放課後の練習はもちろんのこと、休日の部活も欠かさずに出席。ボールコントロールもスピードも優れていて、選手として有望だと顧問の教師もほめていた。もちろん勉強だってきちんとしている。成績は目立って良いわけではないが、まあ無難なところだった。
今年の春先のある休日、あかりはコートに出かけ、兄・春樹と軟式テニスの試合をしてボロ負けして帰って来た。それ以来あかりの口数は極端に減った。ちょうど、年明けに友人に聞いたというコミュニティに登録してホームページの運営にも慣れた頃でもあった。
そのあたりからあかりは変わり始めたのだ。
一日の大半をネットに注ぎ込み、夜更かしのせいで寝坊することもしばしば。次第にネットをするために部活を欠席して早く帰ってくるようになり、休日も一日中部屋にこもってネットに興じる。情緒不安定になって君江や春樹を声高に罵り、家族の目の前で手首を切ったことも幾度かあったほどだ。次第に部屋から出てこなくなり、食事ができたからと呼びに行けば「部屋に入るな」と怒鳴る。迂闊に部屋のドアを開ければ物を投げつけることもあった。そして半年前の梅雨入りの頃、家具でドアをふさぎ、完全に部屋にこもってしまったのである。
「あがんなよ。汚いところだけど」
武山宅に着くと、春樹は北斗を促して靴を脱いだ。「ただいま」と居間に顔を出して声をかける。北斗も軽く会釈したが、春樹とあかりの母親である君江はぼんやりと二人を見ただけだった。
「あんなんなんだよ、あかりが引きこもってから。そのくせあかりの部屋の物音だけには神経質でさ。あかり、何回かリストカットしてるから。死んじゃうんじゃないかって気が気じゃないみたいで」
「へぇ。ちょっと見せてもらえねえかな、あかりちゃんの部屋」
「シッ」
春樹が北斗の腕をつかんで鋭く制する。何か悪いことを言ってしまったのかと察して北斗も反射的に口を手でふさぐ。
「お母さんに聞こえないようにして。俺の部屋に行くふりをしてあかりの部屋に入ってくれ」
北斗は手で口を覆ったまま肯いた。
家の作りは平凡だった。外観は和風寄りの住宅。二階建てで、一階に八畳がひとつと六畳の部屋がふたつ、二階には六畳の広さのフローリングが二部屋。二階の二部屋は兄と妹がひとつずつ使っているという。
「そういや、お父さんはどうしてんの？」
「長期出張って言ってしばらく家に帰って来てないよ」
春樹はそっけなく言った。「あかりがああなってから出張ばっかり。本当に出張かどうかは怪しいけどね」
二人が一列になって狭い階段を昇ると正面に一部屋、窮屈に右側に折れる廊下の突き当たりにもうひとつの部屋があった。廊下の奥があかりの部屋だ。春樹は北斗をその場にとどめ、わざと音を立てて自分の部屋のドアを開け閉めする。君江に対する擬装だろう。それから音を立てないようにゆっくりとあかりの部屋のドアを開いた。
シンプルな部屋だった。黒やグレーといった暗い色を基調に揃えられた家具のせいか、統一感がある。南向きの窓際に寄せたベッドに、床に敷いたグレーのじゅうたん。ベッドの足元には学習机が置かれている。机とセットになっているはずの椅子がないことを不審に思いって目を走らせる。少し離れたところに机の椅子と折りたたみ式のテーブル、子供の背丈ほどの本棚がコミックを散乱させて無言で転がっていた。かつてこの部屋への侵入を拒んでいた物であろう。それ以外は特に変わった物も、変わった様子もない。そしてノート型のパソコンが床の上にぽつりと放置されていた。
「あかりちゃんがいなくなった時、大きな家具が倒れてたりしたか？」
「いや、そのまんまだった。そこの椅子と本棚は倒れてたけど･･････それはドアをふさいでたやつだから」
「ふーん。そういえば、なんでおまえやお袋さんが妹のサイトのアドレス知ってたんだ？」
「あかりが教えてくれたんだよ、ホームページ作ったから見てねって。居間に家族共用のパソコンがあるからそっちにもブックマークしてくれてさ。最初のうちは家族みんなで見てたんだ」
北斗は早速パソコンの電源を入れた。起動するとすぐにインターネットに接続。春樹の指示に従ってブックマークの中からあかりのホームページを探し、表示させる。あかりのサイト「TAKERU's track」のスキンは黒地に涼しげな青の線が流れる無地のものだった。レイアウトにも絵文字やカラフルなアイコンはなく、いわゆる「女の子的な可愛らしさ」を感じさせない。今日のアクセス数はすでに千に届こうとしていた。
「へえ、繁盛してんなぁ」
「それでもランキング５位止まりさ」
春樹はやや皮肉っぽく笑った。「トップランカーは毎日何度も記事を更新して、記事への感想コメント――何十件も寄せられるんだぞ――にひとつひとつレスをつけて、チャットやメッセの相手もせっせとしてるんだ。じゃなきゃランキングトップにいられないからね」
「そりゃそうだろうが、そんなことしてたら一日が終わってしまうじゃねえか」
「ああ。だから、トップランカーはこのコミュニティの中に住んでるんじゃないかって噂する人もいるよ。じゃなきゃこんなにネットばっかできないだろ」
「コミュニティに住んでる、か」
北斗は少々薄気味悪さを覚えながら呟いた。
コミュニティサイトにはつきものの「アバター」なる着せ替えCG人形も用意されている。あかりのアバターは、肩に届くあたりまで伸ばした茶髪、茶系統でまとめたハイネックにジャケット、スラックスといういでたちだった。ハンドルネームは「タケル」となっている。
「あかりは男の子として登録してたんだよ。ホームページの記事の一人称も“ぼく”で通してて。チャットでも男の子のふりをして遊んでるんだって話してた」
「ふーん。別に珍しくねえだろ、そんなの。ネットで違う性別のキャラクターになりきるなんて普通だぜ」
「TAKERU's track」には日記・雑記・掲示板のコンテンツが用意されている。主体は日記のようだ。
“Diary”という部分をクリックすると“日常。”という日記が表示された。ほぼ毎日更新されているようだし、まずはこれから閲覧するのが無難であろう。今日も律儀に更新されていた。テキストのほかに、テニス用具やコートの風景等の写真も掲載されている。中にはこの部屋を写したものもあった。
2005.5.19 先輩に･･･
一年生が入部してきた。
ぼくにとって初めての後輩。
うまく教えられるかな(-“-;)
今日は雨だったから筋トレだけで終わり。
早く外で思いっきりボール打ちたいなぁ☆
2005.9.22 試験終了！
定期試験終わった━━━(ﾟ∀ﾟ)━━━!!!!
やっと部活解禁。（注：試験期間中は部活禁止）
体がなまってないか心配だったけど、サーブもよく入った。
先生にも誉められた。新人戦に一番手で出してくれるってvv
2005.11.8 邪魔（笑）
引退した先輩が遊びに来た。
高校の推薦入試を控えてて大変なんだって。
それなら家でおとなしく勉強してろよって感じ。
誰も呼んでないんだから(≧∀≦)
平凡な日記である。次に北斗はハードディスクに記録されたフォルダを開いた。画像フォルダには日記で使われた写真がおさめられている。次にメールの履歴を確認。「タケル」の名でやり取りしているメールがぎっしり詰まっていた。
うーん、と北斗は腕を組んだ。このサイトはあかりが運営していると見てほぼ間違いなかろう。特に不自然なところもない。それはつまり、手がかりになりそうなこともないということだった。
「･･････ここ、見てみてよ」
春樹が北斗の手からマウスを取り、サイトの上端に表示されたドアのマークをクリックした。“秘め事。”という別の日記が表示される。隠しコンテンツの気配を読み取って北斗は逡巡の色を見せた。初めてここを訪れる第三者が読んでいいものかどうか。
そのとき、背筋にぞくっと寒気が走った。思わず己の腕を抱く。寒い。冷房など入っていないのに。
全身の微細な毛が毛穴ごと逆立つ嫌な感覚がある。春樹は不思議そうに北斗を見ていた。春樹はこの寒気を感じていないのだと北斗は悟った。
とするならば、このパソコンの中に何かいる。何か――悪いものが。北斗は無意識に左の腕輪をさすっていた。何かは触れてみないと分からないが、触れてもいいものなのかどうかは分からない。しかしこの“秘め事。”は読まなければいけないのだ。
「･･････虎穴に入らずんば虎児を得ず、ってな」
北斗は小さく唇をなめてポインタを合わせた。
2005.3.15 隠し事。
みんなに言わなきゃいけないことがある。
･･･ぼくはみんなに嘘をついてる。
言っていいのかな。
言ったら嫌われるんじゃないのかな。
2005.3.20 本当の姿
言ってしまおうと思う。
ぼくを嫌いになる人もいると思う。
「キモイ」と言う人もいると思う。
だから･･･知りたい人だけ読んでほしい。
･･･
ぼくは女だ。
タケルなんて名前は嘘っぱち。
リアルのぼくは、女。
ぼくのこと嫌いになった？
2005.4.1 ありがとう
みんな、ぼくの本当の姿を知ってもここに来てくれるんだね。
ありがとう。
受け入れてもらえないと思ってた。
リアルでこんなこと言ったら絶対受け入れてもらえないよね。
ここはやっぱり居心地がいい。
2005.5.9 理由
ぼくが男として登録したのは、男に生まれたかったから。
「女の子は世界一になれないの」。
いつか、漫画でそんな台詞を読んだ。
本当にその通りだった。
ぼくは･･･お兄ちゃんにテニスで勝ったことがない。
歳の差や経験のせいかと思ったけど、お兄ちゃんは「女が勝てるわけないだろ」って笑った。
男子テニス部の子とも対戦したけど、勝てなかった。
相手は二年の四番手。
･･･ぼくは一番手なのに。
勝てなかった。
相手のボールはすごく速くて、重かった。
小学生の頃は、腕相撲をしたってドッジボールをしたって男子に勝てたのに。
男と女の違いって、こういうことなんだな。
女は男に勝てないんだね。
2005.6.15
今日、ぼくは部屋に立てこもった。
ここから一歩も出る気はない。
外の世界では女でいなきゃいけないから。
この世界の中でなら男でいられる。
そして、日記に対しては友人たちのコメントが寄せられていた。
“男でいいんだよヾ(＠^▽^＠)ノ”
“関係ないじゃん。ネットでは男なんだから。あたしたちはネットのタケルさんを好きになったんだもん”
“ずっとこの世界にいればいいと思います(＾0＾)Y”
“女が嫌ならこっちで男として暮らしなよ(o'-^)b”
ひゅう、と窓の外で風が鳴った。
「･･････そっか」
北斗は少々顔を歪ませてマウスから手を離した。
予想に反してそれほど強い力は感じなかった。先程の悪寒の原因はあかりではないのかも知れない。しかし、あかりではないにしろパソコンの中に何かいることだけは確かだ。パソコンの中に引き込まれたのかな、などと冗談半分で考えていたことが少々現実味を帯びてくるのを感じた。
「どうしようもねえもんな、性別は」
北斗は胡坐を組みなおして溜息をついた。春樹も小さく肯く。
「どうにかこっちに戻って来られねえもんか･･････」
頭脳労働はあまり得意ではない。頭の必要なことは今回組むことになっているシュライン・エマに任せておけばいいのだ。
北斗は時計を見た。時刻は二時になろうとしているところ。シュラインとは六時にここで合流することになっている。どうしようかと考えた時、ぐう、と腹の虫が豪快な音を立てた。土曜日で部活もないから昼食の用意をして来なかったのだ。
「だいぶ時間あるし、ちょっくら飯でも食ってくるわ」
北斗は明るく言って立ち上がった。「六時ごろにまた来るからさ。その時はかっこいいお姉さんも一緒だと思うから、よろしくな」
翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員であるシュライン・エマは北斗の憧れの人でもあるのだ。
2005.5.2 不要なもの
また手首を切った。
死ねなかった。
こんな体、いらないのに。
女の体なんか･･･
女としてなんか、生きたくない。
こんな体、傷つけてやる。
限界まで傷つけてやる。
ぼくはこんな体なんかいらないんだ。
2005.5.23 恨み、憎しみ
ぼくはどうして女なんだろう。
どうしてお母さんはぼくを男に生んでくれなかったんだろう。
どうしてお兄ちゃんは男で、ぼくは女じゃないんだろう。
お母さんなんか大嫌いだ。
お母さんが憎い。
お兄ちゃんも大嫌い。
ぼくは一生お母さんとお兄ちゃんを憎み続けるだろう。
そんな内容が延々と続いている。北斗はふーっと息を吐いて深い背もたれに背を預けた。
武山宅から少し離れたところにあるネットカフェ。ファーストフードで昼食を済ませた後、時間つぶしと調査もかねてここに来てあかりのサイトを詳しく見ていたのだ。
“秘め事。”は恨みと嘆き、憎しみ、悲しみで構成されていた。どうして自分は女なのか。女は男に勝てない。それなら女なんて嫌だ。あかりの叫びは結局そこに尽きる。
勝つとか負けるとか、北斗にとってはあまり重要なことではない。しかしあかりは極度の負けず嫌いだったという。そんな彼女にとっては、努力しても勝てないという事実を突きつけられたことが何より酷であったのだろうか。
「なあ、あかりちゃんよ。そっちにいるのか？」
北斗はテーブルの上に手を重ね、その上に顎を乗せてじっとモニターに見入った。ちょうど“タケル”のアバターが鼻先のあたりに来る。
「すぐには無理かもしんねーけどさ、戻って来てみないか？ 辛いこともあるけど、楽しいことだって沢山あるんだ。ゆっくりでいいから･･････前に進んでみようぜ」
な、と画面に語りかけるように言う。すると鼻と液晶の間でぱちんと青い火花が散った。ぴりぴりとした痛みがある。北斗は舌打ちして頭を起こし、マウスを取った。しかしマウスの動きはパソコンに反映されない。キーも不自然に重い。それは明らかな“拒絶”の意思だった。
「大丈夫かなぁ」
北斗は退魔師だが、シュラインは心霊スキルを持たない。もし危ない状況になった時にシュラインを守りきれるかどうか。もっとも、そんなことをシュラインに言えば“あんたごときに守ってもらう必要なんかないけど”と返されるのかも知れないが。
「璃狗、頼むぜ。ちゃんと出てきてくれよな」
式神が封じられている腕輪を撫でながらガラス越しの通りに目を投げる。時刻は午後五時半になろうとしているところだ。日の短いこの季節、外はすっかり真っ暗である。エマさんとの約束は六時だったよな、と呟いて北斗は携帯を取り出した。シュラインからもらった連絡のメールがあったはずだ。
「げ」
北斗は一瞬にして青ざめた。――メールをよく見たら、シュラインが指定したのは６時ではない。１６時、すなわち午後四時だ。一行あたりの文字数の関係で“１”と“６”が文末と文頭に別れて表示されていたために１を見落としてしまったらしい。
「やべっ」
北斗は素早く体の向きを変え、ひらりと椅子の背を越えて店を飛び出した。シュラインが危ないかも知れない。
息せき切って武山家に駆け込んだ北斗を迎えたのは女の悲鳴だった。シュラインか。いや、これは若い女性の悲鳴ではない。君江だろう。二階からだ。あかりの部屋だと北斗は察した。
階段を駆け上がって目にしたのは異様な光景だった。パソコンの画面から現れた異形の黒い影。この類のものに慣れた北斗は瞬時に事情を察した。やはりパソコンの中に住む何かがあかりを引き込んだのだ。カルス（未分化細胞芽）のようにどろどろとした不安定な体、天井に届きそうなほどの頭に赤い目玉。胴体からはいくつもの瘤のようなものが枝分かれしている。よく見るとそれらひとつひとつも目を持った影だった。本体があかりで、それに寄生しているのがコミュニティの住人なのだろう。
巨大な影が君江に迫る。春樹が君江に覆いかぶさった。シュラインが床を蹴って飛び出す。氷月で攻撃。その選択肢が咄嗟に頭に浮かぶ。しかしそれより先に体が動いていた。左腕をまっすぐに影に向け、璃狗の名前を叫んでいた。
ごうっと一陣の風が起こった。同時にすさまじい咆哮とともに腕輪から飛び出した銀狼が影に襲い掛かる。式神・璃狗の突進を受けた敵は大きくのけぞった。
「よかった、出てきてくれたぁ」
北斗はへなへなとその場にへたり込んだ。しかし容赦ないシュラインの叱責が飛ぶ。
「何やってるのよ、遅いわよ！」
「ひえっ」
北斗は思わず声を上げて身を縮める。感謝より先に怒られるとは思わなかった。しかし仕方ないであろう。約束の時間にこれだけ遅刻したのだから。
「遅れてわりー。事情は後で話すから」
北斗は肩をすくめてぺろりと舌を出した。「今日の昼、春樹に頼んであの子のサイトも隅々まで見せてもらった。男の子のふりをしてたんだろ。サイトの内容とこの状態と･･････ま、事情は大体呑みこめたよ」
君江の姿を横目に見ながら北斗は言い、危ないから下がっているようにと続ける。しかしシュラインは黒い影を顎で示した。北斗は目を丸くした。本体に寄生する瘤はあらかた片付けたようだが、肝心の本体に璃狗の攻撃が全く通用しない。影は璃狗の声にびくともしないばかりか爪も牙も素通りしてしまう。この影はあかりなのだから消すわけにはいかないが、せめて押さえ込む程度のことはしなければこちらが危うい。北斗が次の命令を逡巡するより早く、璃狗はシュンと音を立てて左の腕輪の中に吸い込まれていた。
「おい璃狗！ 出て来い！ 戻って来いって！ こら、璃狗ーっ！」
懸命に呼びかけるが、腕輪はうんともすんとも言わない。
「ピンチじゃないってことじゃない？ “自分でなんとかできるだろ”って言いたいのよ、璃狗は」
シュラインは自嘲気味の笑いを漏らす。北斗が璃狗を呼び出せるのは「絶体絶命のピンチ」の時だけだ。畜生、出て来いと繰り返しながらがんがんと腕輪を叩く。しかしこれでは自分の手首が痛いだけだ。
「ピンチじゃない･･････璃狗の攻撃が効かない、ってことは」
その脇でシュラインは考え込んでいた。青い目に光が灯る。顎に当てた長い指がかすかに震え、感情のたかぶりを物語っている。
「多分･･････あの子、まだ人間なのよ」
「何？」
「退魔師のあんたが祓えるのは人間以外の“魔”なんでしょう？ あの子は完全に魔になったわけじゃない。カルスみたいなものよ。人間から魔になる途中の段階。だからあんなに不完全な形で･･････だとしたら、まだ少し人間の部分が残ってるんじゃ」
だから璃狗の攻撃も効かないのだというシュラインの言葉に北斗はあっと声を上げる。しかし、今のあかりは完全に人間というわけでもない。人間でも、魔でもない。人間と魔の分岐点。まだ救いようがあるが、危険でもある。未分化細胞芽なら、ちょっとした刺激で人間にも魔にもなってしまう。
――･･････う･･････し･･････
二人はどちらからともなく顔を見合わせた。低い声が聞こえた。地の底から響いてくるような声だった。北斗でもシュラインでも、もちろん君江や春樹でもない。壁際に追い詰められた君江、君江をかばう春樹。その二人の前でゆらゆらとたゆとう影の声だと分かった。その姿は不気味であるはずなのに、北斗の目にはひどく脆弱に映った。
――どうして･･････ぼくを女に生んだの？
――どうして男に生んでくれなかったの？
――どうしてお兄ちゃんだけ男なの？
――男に生んでほしかったのに！
「おい、おまえ！」
北斗は激昂して怒鳴った。「いい加減にしろよ！ それが親に対する態度か！ 家族にどんだけ心配かけてると思ってんだ！」
しかし影は北斗には目もくれず、じりじりと君江に迫る。影の認識能力はそれほど高くないらしい。君江や春樹の声にだけ反応しているのだろうか。
――ぼくは男に生まれたかったんだ！
――お母さんがぼくを男に生んでくれさえすれば･･････
――ぼくがこうなったのも、ひきこもりになったのも、全部お母さんのせいだ！
――全部お母さんが悪いんだ！
「あぁぁああああぁぁぁぁ！」
君江は甲高い声を上げて両手で頭を抱えた。「ごめんなさい、ごめんなさいあかり！ごめんなさい！」
あなたを苦しめたのはあたしのせい、ごめんね、どうしてあげることもできない。髪を振り乱し、涙と鼻水を撒き散らしながら君江はその言葉だけを繰り返す。影の胴体からまた別の芽が発生し、揺らめきながら徐々に数と大きさを増していく。
シュラインがぎりっと歯を鳴らした。
「勝手なこと言ってるんじゃないわよ！」
と君江が鋭く叫んだ。
君江らしからぬ言葉に北斗はぎょっとする。君江ではなかった。君江の声を真似たシュラインだ。ヴォイスコントロールに秀でたシュラインの力である。それはもはや声帯模写の域に達しており、「真似た」などというレベルではなかった。
影がぐるりと首を向けた。やはり家族の声に反応しているのだ。目がよくないのは好都合である。シュラインは激昂したふりを装ってまくし立てた。
「女だから、女だからって聞いてて腹が立つ。頑張ってる女性に対して失礼じゃない？ “女だからしょうがない”って自分に言い訳してるだけでしょ。あんたなんかその程度の人間。こっちの世界に戻って来てもやっていけるわけがない！ 一生そこにいていじけてればいいわ！」
影の目が大きく揺れる。同時に激しい高音が室内を貫いた。「うあっ」と北斗が声を上げて膝を折る。それほど凄絶な音だった。影の胴体からぼこぼこと瘤のようなものが発生し、ゆっくりと異形の姿となる。
――そうだ。タケルはこっちの世界の人間だ。
――連れ戻したりなんかさせない。
――タケルは一生こっちにいるんだ、俺たちと一緒にな！
瘤のひとつひとつがぐわんぐわんという低周波音とともに叫び、どろどろとした手を伸ばして本体の影を取り込もうとする。これがこのコミュニティに巣食う者の正体か。
「くそっ、こいつらは本体と違って完全に魔物だな」
だからさっきは璃狗が出て来たんだ、と北斗は耳をふさぎながら激しい舌打ちをする。あかりの影が瘤たちの触手に呑みこまれる。鳴り響く高音が激しさを増し、一瞬にして窓ガラスが真っ白になって砕け散った。天井の蛍光灯が破裂してガラスの粒子が降り注ぐ。鼓膜がびりびりと震える不快な感覚に顔を歪める。しかし、北斗にはこの高音があかりの悲鳴に聞こえていた。
「そうよ。そのまま取り込まれてしまいなさい。一生そっちにいればいい」
シュラインはきっと顔を上げ、瘤たちの中に埋まりつつあるあかりを睨みつける。
「でもね、あんたみたいなどうしようもない娘でも待ってる人がいる。お母さんはあんたのせいでこんなふうになったの、それでもあんたに帰って来てほしいって願ってるのよ。だからわざわざうちの興信所まで来たの。お兄ちゃんだって、国体に出られるくらい優秀な選手だったのに部活を辞めてまでお母さんの代わりに家事をしてる！」
それもこれも全部あんたのせいよ、と糾弾の手を緩めぬシュラインに影の動きが止まる。
「そうだ。そうだよ」
北斗も懸命に呼びかける。自分の声は影に届かないと知っていても言わずにはいられなかった。
「すぐには無理かもしんねーけど、戻って来て、外に出てみろよ！ そりゃ辛い事もある、でも楽しいことも沢山あるんだ！ 少しずつでいいから前に進まなきゃ！ おまえにはこんなにいい家族がついててくれるんだぜ、何もこわかねえよ！」
さっきは拒絶された台詞をもう一度繰り返す。影の目がかすかに震えたように見えたのは気のせいだろうか。揺らぎを見越したのだろう、シュラインは一気に畳み掛けた。
「本当は助けてほしいんでしょ？ 戻って来たいんでしょ？ ネットの世界にずっといたいなら、どうしてドアの鍵を開けて行ったの？ お母さんやお兄さんに気付いて欲しかったからでしょ？ 助けて欲しかったからでしょ？」
高音が限界域まで達した。耐え切れなくなったシュラインが両手で耳をふさいで膝を折る。影の本体と瘤の壮絶な戦いが始まった。先程まで押しつぶされる一方であった本体が徐々に勢いを盛り返し、瘤を斥けている。しかし瘤も瘤だ。ぼこぼこと分裂し、そのひとつひとつがざわざわと成長し、触手のようなものを伸ばしながら本体に襲い掛かる。本体が悲鳴を上げた。すさまじい高周波音だった。北斗は床に転がって悲鳴を上げる。
「おばさん、いいのかよ！」
頭を締め上げる高音の中で北斗は君江に怒鳴った。そうでもしなければ声も届かぬほど影の悲鳴は激しかった。
「このままじゃあかりちゃんが呑みこまれちまうぞ！ そしたらもう絶対戻ってこねえ！ 二度と会えねえんだ、それてもいいのか！」
君江の目が大きく揺れ、充血した瞳を濡れた膜が覆う。そして彼女は声を上げてその場に泣き崩れた。北斗が叱咤して彼女を助け起こす。北斗に支えられ、君江はふらふらと影の前に進み出た。
「あかり」
君江はぼろぼろと涙をこぼし、影の前に両膝をついた。影の動きが止まる。視線が君江に注がれた。
「ごめんなさい･･････私にはどうしようもないし、あなたが私と仲良くする気がないのもわかってる」
飛び出そうとした北斗をシュラインが制した。見守るようにと彼女の目は言っていた。
「それでも、私」
君江は影の前で涙を流して泣きじゃくった。「あなたに会いたい･･････」
「俺も」
春樹が初めて涙を見せた。「戻って来てくれ･･････お願いだ」
――一瞬、薄氷のような静寂が室内を満たした。
しかし次の瞬間にはその薄氷は粉々に砕かれていた。かつてない大音声が土台から家を揺さぶる。影の本体にとりついた瘤が悲鳴を上げ、ぼろぼろと崩れ落ち、消える。本体は狂ったような高周波音を発しながら激しく体をよじらせる。
そして、人間離れした高音は徐々に少女の悲鳴へと変わった。
はっとして顔を上げた北斗の目を白い光が貫く。咄嗟に顔の前で両腕を交差させる。君江と春樹が何か叫ぶのが聞こえた。激しい閃光に包まれて、北斗もシュラインも何も分からなくなった。
誰かに肩を揺すられて北斗は目を開いた。体の下が固く、冷たい。フローリングの床のようだ。見覚えのあるベッドに、机に、倒れた本棚から散乱したコミック。武山家に来ていたのだとういうことをようやく思い出す。
「あ･･････れ？」
北斗は目をしぱしぱさせながら部屋の中を見回した。「夢･･････？」
「そうでもないみたいよ」
シュラインは自分の左側を顎で示した。サッシだけが残された窓ガラスと、飛び散った蛍光灯のかけらと――抱き合うようにして倒れている君江に春樹、そして二人に抱かれた格好になって目を閉じている一人の少女の姿があった。
それはまさしく、依頼を受けた時に写真で見たあかりであった。あかりの頬には赤みが差し、一筋の涙が光っていた。
「まったく、死ぬかと思った」
武山家を後にし、愛車の大型自動二輪の前でシュラインは息をついた。
「たまたま助かったからいいものの･･････。遅刻にもほどがあるわ。仕事を何だと思ってるの？」
「あー･･････それに関しては言い訳できないっす、ハイ」
北斗は珍しく敬語を使って縮こまってしまう。シュラインは腕を組んで北斗を見下ろした。
「さっき、“遅れた事情は後で話す”って言ってたわね。話してもらえる？」
「えぇと」
北斗は両の人差し指の先をちょんちょんと合わせながら上目遣いにシュラインを見る。「時刻をね、勘違いしてたんです」
「は？」
シュラインはやや素っ頓狂な声を出した。
「いや、あのですね、“１６時に依頼者宅”合流ってメールくれたっしょ？ それをですね、“６時”と読み間違えちまったんすよ。朝の６時のわけがないから、これは多分夜の６時のことだろうなぁと･･････」
はあ、とシュラインはひときわ大きな溜息をついた。
「ほんとに、この子はもう･･････」
「“子”ってこたぁねえだろ。もう十七歳なんだ、ガキ扱いするな」
と北斗は口を尖らせる。シュラインはもう一度大きく息をついた。それが精神的・肉体的、その他もろもろの疲労が一気に噴出したサインであることに北斗は気付いただろうか。 （了）
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【整理番号／ ＰＣ名 ／ 性別 ／年齢 ／職業】
5698 梧・北斗（あおぎり・ほくと） 男性 17歳 退魔師兼高校生
0086 シュライン･エマ 女性 26歳 翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員
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■ ライター通信 ■
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梧・北斗さま
お初にお目にかかります、宮本ぽちと申す者です。
このたびは「虚構世界」にご注文をいただき、まことにありがとうございます。
はじめはお二人が最初から最後まで一緒に行動するパターンを書いていたのですが、少し単調に感じたことと、梧さまのパートも少し独立させて書いてみたいと思ったこともあってこのような形をとらせていただきました。
また、依頼人の息子（消えた少女の兄）と同級生だという強引な設定となりましたが、「関係者が同級生だったこともあって草間さんからヘルプが来た」ということで･･･どうか納得してくださいませ；
だいぶ長文となりましたが、もし対価分楽しんでいただけたなら、それに勝る喜びはありません。
またお会いできる日を心よりお待ち申し上げて、ご挨拶とさせていただきます。
宮本ぽち 拝
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