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■+ 君の魔相 +■
何となく。
これは虫の知らせ、……かもしれなかった。
「え? マジで?」
思わずそう返してしまったのは、日頃は大層な元気印で知られる彼、守崎北斗(もりさき ほくと)と言う。
晴天の様な瞳は、電話の主であるアトラス編集部編集長、碇麗香の言葉を聞いて、暫しの曇りを見せた。
『あら、知らなかったの?』
ぶん、と、見えないのに首を振ってしまってから、慌てて『ああ、いや』と、何とも歯切れの悪い答えを返した。
麗香の『ふうん』と言う言葉は何とでも取れるが、どう思われようと構わなかった。
何かイヤな感じがしたのだ。
彼の兄、守崎啓斗(もりさき けいと)が、三下のお守り……ではなく、アトラスからの依頼を受けたなんて、全く知らなかった。そんなこと、今朝出かけて行った兄は、一言も言っていなかったのだから。
北斗がアトラス編集部へ電話をかけたのは、ただ『何となく』だった。
そう、何となく、かけてみようと言う気になっただけ。
そこで初めて、啓斗が今朝出かけたのは、依頼であると知ったのだ。
「なあ、どんな依頼?」
そう問いかけるのは、自然の流れだ。
『虫退治よ。端的に言うと』
「虫?」
『そう。変な虫が出たらしいわ。何でも背中の部分に、首なし死体が後ろ手に縛られたみたいな模様があるんですって。その虫の調査と駆除よ』
「んなの、保健所にでも言えばイイじゃんよ」
そうは言っても、麗香のオカルトアンテナに引っかかったのなら、保健所で対処出来る筈もないだろうことは充分推測可能だ。
『保健所でもダメだったらしいわ』
案の定だ。
「……そか」
メンツを聞くと、馴染みのある顔ぶれだ。
そうそう変なことにはならないだろう……とは、思う。
だが。
『んなこたぁ、決まっちゃいねぇもんな』
麗香との電話を切った後、北斗は大きく溜息を吐いた。
「バカ兄貴……」
古い日本家屋は、ぽつねんと一人でいると何処か怖い。
例えそれが、生まれ育った家だとしても──。
二人では気にならない、ぴしぴしと話す家鳴りや、曇りガラスからぼんやりと入ってくる日の光。漂う空気だって、何処か重く籠もっている様な気がする。
冷たい床と壁は、そこに凭れ掛かる様にして座っている北斗の尻を冷やすが、そんなことすら、彼にはどうでも良いことだった。
抱え込んでいる足をぐっと身に引き寄せ、膝からひっそりと出した目元は、一点を見つめている。
日の光が移ろう場所。
内から外へと繋がる場所。
今朝、啓斗がそこを潜って出ていった場所。
閉じたままの口元は、既に言葉を忘れ去ってしまったかの様に、硬い線を描いていた。もしかすると、これは絵に描いたのではないかと思える程に、微動だにしなかったのだ。
当初、北斗は落ち着きなく家の中を歩き回っていた。
自室に戻って火薬を調合しようとすれば、散らかったそれらを片づける啓斗の手を見て、危うく間違いそうになり止めた。
部屋を出て台所へ向かう途中、廊下を歩く兄の後ろ姿を見かけた気がし、仕掛けに引っかかりそうになって肝を冷やす。
その台所へと行けば、そこに立って料理をしている啓斗が振り返り、『もう少し待ってろ』と言った気がした。
外の空気に当たろうかと、庭に出てみれば、やはりそこでも、眩しそうに太陽を見つつ洗濯物を干している兄を見る。
何処にいてもそうなら、もう帰って来たのがすぐに解る場所にいる方が良いだろうと、溜息混じり、玄関へと陣取った。
何処へ行っても、視線の先にあるのは自分の兄だ。
こんなにも二人でいる日常が多いのだとは、一人になってみて、間々気付くことだった。
その都度、北斗の心は痛くなる。
締め付けられる様に、引きつれる。
もしもこんな日常が、泡と消えてしまったのならどうしよう。
心の何処かで、ずっとずっと感じていた深憂は、何れの時を経て、確実に現実へと降り立つだろう、そう感じていた。望む望まぬに関わらず、きっと選択を迫られる時が来るのだろう、そう知っていた。
そしてそれが今であったのなら──?
鬱々と考える北斗の顔からは、やがて表情と言う物が消えていた。
そして数時間。
まるで一瞬を駆け抜けたかの様な気もするが、永遠に絡め取られていた様な気もする。
多彩を見せる表情は、今では誰もが目を疑う程に彩りを失っていた。彫像の様な、そして虚無の様な、そんな貌を浮かべ、北斗はただひたすらに、啓斗の帰りを待っていた。
麗香へ連絡を取ったのが昼前だった。そして今は、日も暮れた時間だ。
何も飲まず、何も喰わず。ただ座って半日が過ぎようとしている。
まるで影の様に、ひっそりと。北斗はただただ、そこにいた。
「──!」
ゆらりと、影が揺れた。
硬くなっていただろうことなど微塵も気付かせない動きで、北斗は靴も履かず、土間へと駆け下りた。
がらりと開けたそこには、驚いた様な顔の兄がいる。
「北斗、お前……」
「お帰り、兄貴! なあ、晩飯何?」
先程まで見せていた、驚く程の無表情さは欠片もなかった。
にっこりと明るい笑みを刷き、啓斗を迎えていたのだ。
ただ、その心の内は、裏腹であることは、きっと誰にも解らなかっただろう。
「あれ? 何か、イイ匂いすんな……」
くんくんと、匂いを嗅ぐ様な素振りを見せると、啓斗が後ろ手に持っていたそれを、北斗の眼前へと差し出した。
「え? これ土産?」
「ああ。貰った」
「貰った? 誰に?」
「三下……の給料から天引きだって、報酬の一部」
『聞いたんだろ?』と、啓斗の瞳は言っていた。麗香から、北斗が彼女に連絡を取ったこと聞いたのだろう。
今更隠す必要もなく、そしてその方が話は早い。
「んー、まあな。何か、ヘンな虫の退治だったんだって? どうだった?」
言葉ではなく、返されたのは困った様な表情だ。いや、何だか拍子抜けと言った顔だ。怒られるだろうと思っていた、そんな風な顔。
「どうかした?」
急かすつもりはなかったが、気持ちは急いているのだ。
「……そうだな。何て言うか。やりきれない、そんな感じか……」
じっと啓斗の顔を見つめてやると、微かに整った面を崩す。
がらがらと扉を引いて閉めると、そのままぽつりぽつりと話し出した。
「虫ってのは、魂が転じたものだったんだ」
「?」
「最初話を聞いた時、俺は蟲毒か地縛霊かと思ってた」
何となく、雲行きが怪しくなって来た気のする北斗だ。
そんなもの相手に、一体啓斗はどう対処するつもりだったのだと、そう聞きたい。
もしやあのとんでもない手段──己の内に取り込む御魂喰らいの……それを使うつもりであったのだろうか。
北斗の眉間に、微かな皺が寄る。
「まあ、確かにそれは、当たらずとも遠からずだった訳だが」
「だが? だが何?」
「ん……。そうなった経緯が、な」
「切なかった訳?」
こっくりと、啓斗がそう頷いた。
どんな経緯だよと、言葉に出さず、瞳で聞くと、啓斗は重い口をこじ開ける様に話した。
閉鎖的な村。閉鎖的な人々。その中に迷い込んだ罪なき人。それを愛した人。
想いが重なり、そしてすれ違い、醜悪な結末を迎えてしまった。
村人は村と己達を守る為に、二人を狩り、そして殺めてしまったのだ。
ただ静かに己を生きたいと願っただけの二人を。
二人は、どれ程の無念を産み落としたのだろう。
どれ程の怨詛を作り出したのだろう。
千載の恨事は、虫となり食らいつくし、蝶となって次なる時を待っていた。
数百と言う時を越えてもなお残るそれ。二人の思いを十分すぎる程に物語っているだろう。
「兄貴……」
「ん?」
啓斗に聞いてみたかった。
『もしもその二人が、自分達だったのなら──?』と。
果たして自分ならば、宙へと還ることが出来ただろうか。
自分だけでなく、己が身を分かつ様な半身を奪い去られ、仕方なかったのだと言われたまま、安らかな気持ちになれただろうか。
既に時は流れ、当時を知る者達は誰一人いない。妄執だけが形骸として取り残され、虚しく徒花だけを咲かせていたのだ。
『大人しく消えてやれる訳、ねぇじゃんよ』
奥歯をぐっと噛みしめる。
口元は、きっとへの字になっているだろう。そんな彼を見て、啓斗はどうしたと小首を傾げている。
『てか、自分だけとか兄貴だけとかじゃなく、二人で生き延びるって思ってんだからなっ』
そうは思うが、不意に不安が鎌首を擡げてくる。
『でも兄貴は……』
そう思うと、北斗はもう一度黙り込む。
聞けなかった──。
何でもないとばかりふるふると頭を振ると、啓斗は怪訝な顔をしつつ、台所に行こうとばかり、ぽんと肩を叩いて歩き始める。
前を歩く背中は、何時しか自分よりも小さくなっていた。
昔は変わらなかったのに。
何時からだろう。
自分が兄の背を追い越してしまったのは。
何時からだろう。
そのことに気がついたのは。
時の流れを改めて思い知ると、北斗は唇を噛んだまま、知らず、啓斗の袖を引いていた。
「……飯か?」
瞳に映す色は、とても深い緑。
『ああ、兄貴。きっと疲れてる』
そう感じた。
「なあ、あの、さ……」
穏やかに微笑むのは、もう彼のクセなのかもしれない。
自分よりも小さな背中に全てを背負い、溢々とした想いを胸に秘め、それでも兄はそうやって問いかける様に微かに笑むのだ。
なあ、兄貴。何でそんな我慢すんだよ。
なあ、兄貴。何で何にも言わねぇんだよ。
なあ、なあ……なあっ、何か言ってくれよっ──!!
……そうぶちまけたかった。
黙り込んだままの北斗の頭をぽんと優しく撫でると、啓斗は再度台所へと向かう。
廊下に立ち尽くした北斗は、息することすら忘れていた子供の様に、大きく深呼吸をし、兄を追って歩き始めた。
テーブルの上は、日頃お目に掛からない様な料理ばかりだった。
それぞれの料理名を聞いたが、啓斗もあまりそれには興味がなかったらしく、曖昧な答えしか返って来ない。
ただドイツ料理だと言うだけだ。
暖め直されたそれは、なかなかに良い香りを放っており、ずっと何も食べていなかった北斗の胃を刺激する。
高いと言うことと肉が嫌いであるからと言う理由から、日頃啓斗はそれらを食卓に並べることはあまりなかった。けれど今、テーブルにあるのは、それらがメインだ。北斗のことを考えて、選んでくれたのだろう。
なのに、北斗はそれに手を伸ばさなかった。
「どうした? 腹減ってるんじゃなかったのか?」
不思議そうに聞くが、それには答えない。
北斗には、どうしても気に掛かることがあったからだ。
「なあ……?」
何時も何時も、過ぎる程に気にかけてくれる兄は、あの依頼を遂行してどう感じたのだろう。
あまりに穏やかな笑みで、聞き逃してしまったそれ。
『なあ……。兄貴は、あの二人みたく、成仏出来んのか?』
心に澱の様に漂うそれは、沈み込んだまま、北斗の口の端には昇らなかった。
否。
口にすることが出来なかったのだ。
その答えを聞くのが怖い。
啓斗の為なら、きっと何も恐れない。
けれど、その啓斗の、兄の心に踏み込むことは、何にも増して怖いのだ。
知りたい、けれど知りたくない。
アンビバレンツは、何れ北斗の心に暗澹とした華を咲かせることになるのかもしれない。その芽を摘んでしまいたいのだが、何故かそれを見てみたい気もするのだ。
心の闇に咲く華は、一体どれ程美しいのだろう。
きっと、聞けなかった全ての答えを教えてくれる気がする。
全てを知りたい。
全てを、この手に抱きしめたい。
この身に喰らいたい──。
そこまで考え、北斗は自身にぞっとした。
ひやりと背なを伝うのは、冷獄の甘さだ。
軽く身震いした彼を、そっと暖かな声が救う。
「折角暖めたんだ。冷めない内に、食べよう」
「……うん」
その声にほっとするも、寄り添って生きていた二人は、一体何に縋って来たのだろうかと考えてしまう。
絡め合って来た心は、絆ではなく、もしかすると不安だったのかもしれない。
だからこそ、こんなにも怖いのかも……。
そんな想いを断ち切る様に、一口、料理に手を付けた。
「美味い、な」
「そうか」
呆然として言う北斗に、啓斗は良かったと頷いた。
「うん。美味い」
そう笑いつつ、北斗はかき込む様に食を進める。
「おい。もっと行儀良く食え」
「うん。ゴメン。……だって美味いからさ」
美味しければ美味しい程、そう、啓斗が北斗を思って選んでくれたそれが心身に染み渡って行く程。
北斗は涙が出そうになった。
笑いながらも、あまりに切なくて、そして悔しくて腹立たしい。己の煮え切らなさに、北斗は言いようもなく苛立った。
らしくない、そう思いながらも、それを止めることが出来ないでいる。
それは一人家で待っていたからかもしれず、空寂と消えた二人を我が身に移し替えてしまったからかもしれない。
ただ一つ言えることは、根底にあるのが兄のことだからと、それだけははっきりとしているのだ。
明日になったら何時もの自分に戻るから、だから明日まで待って欲しいと、そう自分に約束する。
まるで闇色の扉を潜るかの様な、そんな見えない不安。
もしかすると。
これは予兆、……なのかもしれない──。
Ende
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