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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


猫の依頼人


 玄関のブザーに応じて事務所のドアを開けた零はきょとんとした。
 確かにブザーが鳴ったのに、外には誰もいないではないか。
 ――待ってくれ。
 首をかしげてドアを閉めようとすると初老の男性の声が聞こえた。零は閉めかけたドアを慌てて開け放つが、やはりそこには誰もいない。
 代わりに、足元で「にゃあ」という声がした。
 「あら」
 零は目を輝かせて声の主を抱き上げる。ドアの前にちょこんと座っていたのはずんぐりとしたサバ猫だった。ご年配らしく、被毛の色はだいぶあせている。目も眠そうにしょぼしょぼしていた。
 「お兄さん、見て、見てください。可愛いでしょう」
 霊は猫を抱いてぱたぱたと中に戻る。薄汚い猫の姿を見て草間は露骨に顔をしかめた。猫は零の腕の中で「ふぎゃあ」と鳴いた。翻訳すれば「こんな汚い部屋に住んでる奴にとやかく言われる覚えはない」といったところだろうか。
 「そいつがブザーを鳴らしたのか?」
 草間は冗談交じりに言った。
 「まさか。猫の身長じゃブザーの高さまで届きませんもの。それよりお兄さん、この子にミルクをあげていいですか? お腹が空いてるみたい」
 「勝手にしろ。俺は少し寝るよ」
 猫が不満そうに鳴いたが、草間は構わずにデスクの上に突っ伏した。



 ひらり、ひらり。真っ青な空の下で淡い色のかけらが舞う。
 ひらり、ひらり。風にあおられた桜の花びらが。
 ふわり、ふわり。柔らかなおさげ髪とスカートが花びらの隙間に見え隠れする。
 はらり、はらり。セーラー服を着て、少女は桜と風の中で舞う。
 ぽたり、ぽたり。赤いしずくが滴り、花びらが真っ赤に染まる。
 じわり、じわり。白いセーラーにしずくがしみ込み、瞬く間に朱にまみれる。
 ざあっと風が吹き、花びらが霧散した。
 中から現れたのは少女だった。
 血まみれになって踊り続ける少女だった。
  


 草間ははっとして目を見開いた。
 目の辺りに何か生あたたかいものと毛の感触を覚えて声を上げる。驚いた拍子にバランスを崩し、草間は椅子から転げ落ちてしまった。
 「お兄さん、大丈夫ですか?」
 零が慌てて駆け寄る。舞い上がる埃に咳込みながら草間は「ああ」と言って眼鏡を拾った。いつもの興信所のいつもの風景。さっきの光景が夢であったとようやく悟る。時計を見ると、三十分ほど眠ってしまったらしいことが分かった。
 「ふにゃあ」
 頭上で鳴き声がする。目を上げると、デスクの上には老いぼれたサバ猫が丸くなって鎮座していた。先程顔に触れたのはこれだったらしい。
 「その子、お兄さんのことが気に入ったらしくて」
 と零は困ったように言った。「ずっとそこにいて離れないんですよ」
 ――人を探してほしい。十三歳の少女を。いや、“七十年前に”十三歳だった少女だ。
 草間と零は思わず顔を見合わせた。初老の男性の声が確かに聞こえたのだ。しかしこの部屋にいるのは草間と零、それにしょぼしょぼした猫だけである。
 「・・・・・・まさか、おまえがさっきの夢を見せたのか?」
 猫は答えずに、しっぽをぱたりと動かしただけだった。



 “鈍重”という形容がよく似合う。ずんぐりした胴体、皮の垂れた腹、ぱさついた貧相な尾。しょぼしょぼとした眠そうな目は時折けだるく開かれるものの、キャッツアイという宝石の名前にも使われるほど美しいはずの眼球は白く濁り、本来の役目を果たしていないようにすら思える。
 猫はちらりと目を開けるが、すぐに閉じてしまう。また少しすると開け、そしてまた閉じる。その繰り返しだ。居心地が悪そうに鼻を鳴らす。どうやら間近で自分を見つめる男の視線が気になるらしい。
 草間は半分呆れてその男を見ていた。男の風貌は黒髪に黒い瞳、標準的な日本人の肌に標準的な体型。これといって特異な要素のない風体を見ただけでは彼が義賊の技と心を受け継いでいることは分からないであろう。ただ、どこかしら冷めた双眸が印象的である。しかしその目の奥には音もなくたぎる熱いものがあった。
 「おい加藤、そんなにじろじろ見たら猫だって嫌だろう」
 草間は男に言った。「早く調査に入ってくれよ」
 「ああ、これは失礼」
 というのんびりとした台詞は草間に対してか、それとも猫に向けられたものか。加藤忍はジャケットの襟を直して立ち上がった。何気ないその手つきには一片の無駄も隙もない。
 「さて、猫さん」
 忍は草間興信所の応接ソファの上で香箱を作っているサバ猫に律儀に“さん”をつけて呼びかける。その後で自分の発した言葉に違和感を覚えたのか、顎に手を当てて首をかしげた。
 「いや、“猫さん”っていうのも言いにくいですねえ。お名前を教えてもらえませんか。喋れるんでしょう?」
 ぱたり、と老いぼれた猫はしっぽを動かした。
 「教えたくないんですか?」
 猫はまたぱたりとしっぽを振った。忍は困り果てた表情で腰に手を当てる。
 「それは困りましたねえ。どうしましょう」
 ――銀二(ぎんじ)だ。
 猫は片目を開けて溜息混じりに言った。いや、“言った”という表現は正しくないかも知れない。猫の口は動いておらず、忍の耳の中で声が響くような感覚で聞こえただけなのだから。
 「そうですか。それじゃあ銀二さん、いくつかお聞きしたいことがあるのですが」
 猫の前にしゃがみこみ、視線の高さを合わせてゆっくりと尋ねる。
 「七十年前・・・・・・といったら、今の銀二さんは生まれていませんよね。とするなら、探している女性は前世で関わったお方でしょうか?」
 ――前世なんてものは知らん。私は七十年前に彼女と出会ったのだ。
 「はあ」
 忍は拍子抜けしたように言った。「じゃあ彼女は、今の銀二さん本人と七十年前に何らかの関わりがあったと?」
 ぱたり、と銀二はしっぽを振る。
 「それなら銀二さんは御歳七十を超えていらっしゃるということで?」
 忍の眉が中央に寄った。猫が七十年以上生きるなどとは聞いたことがない。もしや化け猫の類か、人の霊でも取り憑いているのだろうか。
 ――私は普通の猫だよ。見ての通り、七十過ぎの老いぼれだがな。
 忍の疑問を察したのか、銀二は皮肉っぽく口の端を持ち上げてそう言った。はあ、とだけ忍は言った。
 「それなら八十三歳のご婦人を探せばいいわけですね。うーん・・・・・・とにかく、何か手がかりを下さい。彼女の名前とか・・・・・・」
 ――“みはる”。
 「みはるさんですか。珍しい名前ではありませんねえ。彼女が通っていた学校の名前・・・・・・分かりませんよねえ」
 銀二はぱたりとしぽを動かした。どうやらこれは肯定のしぐさであるらしい。
 「彼女とはどんな関わりなんです?」
 ――待ち人だ。
 「待ち人?」
 銀二は答えない。代わりに、しょぼしょぼした瞼の上下がくっつきそうになる。
 「銀二さん、あなたの記憶だけが頼りなんですよ。答えてくれないのなら・・・・・・」
 忍は意識を集中させてじっと銀二の目をのぞきこむ。読心術が猫相手に使えるかどうかは未知数だが、とりあえずやってみる価値はある。
 銀二は重ねた前肢に乗せた顎を持ち上げて忍を見上げた。濁った双眸に鈍い光が灯る。忍の焦点はいつしかその光に固定され、銀二の目とシンクロしていた。銀二の記憶が脳の知覚野に流れ込んでくる。



 彼は野良猫としてこの世に生まれ落ちた。親などいなかった。捨てられたのか、それとも親が死んだのかは分からなかった。
 しかし彼にとってはどうでもよかった。何より自分が生きることが大事だった。彼の心身を支配したのは生き物のいちばん根底にある部分、最も原始的な生存本能のみだった。ゴミ箱を漁り、鮮魚店の店頭から魚を盗み、時には他の猫の縄張りさえ荒らしてその日の命をつなぐことだけに心を砕いた。そんな彼だったから、人間には敵視され、仲間もできず、たった一人で過ごす日々が続いていた。すえたような汚物のにおいと食べ物の腐臭が混じり合う薄暗い路地裏が彼のねぐら。ゴミや汚物が散らばるその場所で彼は爛々と目を光らせ、光に包まれた大通りを見据えていたのだ。
 そんな彼に初めて優しくしてくれたのが彼女だった。
 あれは春風が吹く柔らかな陽気の日だった。彼はある女学校まで足を伸ばした。この女学校には優しい生徒が多く、お弁当の残りを野良猫や野良犬にくれるのだと風の噂で聞いたからだった。
 学校は都心部から離れた緑地地帯にあった。人家が並ぶ界隈からも少し離れた低い山の中に開かれた女学校である。なだらかな斜面を上るとまず出迎えるのは豪壮な校門と敷地をぐるりと囲む塀。門をくぐると整備された白い道が数百メートルも続き、その先に赤レンガ造りの瀟洒な校舎がたたずむ。敷地内には季節の草花や木々が植えられ、休み時間になれば生徒たちが芝生の上でおしゃべりをしたり昼食をとったりする。彼が住む場所とは真逆の世界であった。拒まれているようにすら感じ、珍しく銀二は気後れのようなものを覚えて校門をくぐれずにいた。
 塀の周りをあてもなくうろうろするうちに、敷地から細い道一本隔てた場所にこんもりと盛り上がる白っぽい塊を認めた。淡い色のかけらが青い空の下でちらちらと舞っている。風に乗って細い声が聞こえた。少女の声だった。柔らかな声に吸い込まれるように銀二は足を速める。
 小高い丘に桜の大木が立ち、柔らかな色の花を咲かせていた。はらはらと舞う桜の花びらの中で、おさげ髪の少女が透き通った声で歌いながらくるくると舞っていた。
 それはまさに別世界だった。青い空、穏やかな日差し、淡い花びらという幻想的な光景。その中で舞う愛くるしい少女。声の透明さは生来のものか。美しい声が晴れ渡った空に吸い込まれていくさまがはっきりと見えるようだった。
 少女は歌の途中で動きを止めた。息が苦しくなったのだろうか、細い体を折り曲げて痛々しいほどに激しく咳込む。そして視線に気付いたのか、少女はふっと彼に目を向けた。小首をかしげたしぐさに抜けるような白い肌、くりくりとした黒い瞳が愛らしい。両側で三つに編んだ髪が肩のところでかすかに揺れていた。
 「猫ちゃん、おいでー」
 少女は鈴を転がしたような声で言い、桜の木の根元に置いた鞄から何かを取り出した。小判型をしたブリキの弁当箱だった。桜の絵が描かれた蓋の下から漂うにおいにつられて彼は迷わずに彼女に駆け寄った。それは生き抜くために過剰なまでの用心深さを身につけた彼にとっては珍しいことだった。もちろん、仮に捕まったとしてもこんな少女からならいくらでも逃れられるという公算もあった。
 「ふふ」
 弁当の蓋に置いて差し出した玉子焼きや煮しめにかぶりつく彼を見ながら彼女は目を細める。笑った拍子に少しむせたらしく、幾度か咳込んだ。彼がおかずを食べ終わると少女は白い手を差し出し、彼を抱き上げた。ゴミと汚物のにおいと泥、埃、その他ありとあらゆる汚れにまみれた彼を。白いセーラーに容赦なく汚れがつくが、彼女はそれすらいとわないようだった。
 彼は初めて人間に――他者に抱かれた。虐げられることこそ多かれ、慈しまれたことなどなかった。親にすら抱かれたことのない彼は予期せぬ状況と慣れない感触に戸惑うが、不快ではなかった。
 それ以来、みはるという名の少女との交流が始まった。
 昼休みになると彼女は丘に出て来て弁当を食べる。その時間を狙って彼も姿を現すようになった。みはるに会いたいのか弁当のおこぼれにありつきたいのか、彼自身にもよく分からなかった。ただひとつ分かっているのは、みはるとの時間が彼が初めて知る「安らぎ」であるということだけだった。もっとも当時の彼はそんな単語など知らなかったわけだが。
 みはるもみはるで毎日のようにこの場所にいるらしかった。友達が少ないのだと悲しそうに笑っていたこともある。愛くるしい瞳の向こうに孤独の色が隠されていることに気付くまでにはそう時間はかからなかった。
 みはるは彼に“銀二”という名前をつけてくれた。当時の彼の毛並は銀に近い灰色に黒いシマが入った上等なもので、みはるはそれをきれいだと言った。そして彼女は銀二の名前を呼び、得意な曲と即興の踊りを披露するのだった。
 「ねえ銀二、上手?」
 そう問われたところで銀二は答える術を持たない。「にゃあ」と鳴いてしっぽをぱたりと振るのが精一杯だった。
 みはるは銀二を抱いて桜の木を見るのが好きだった。春が大好きで、桜の花が大好きだからこの場所がお気に入りなのだと彼女は言った。
 「桜の花って、根っこに死体が埋まってるからきれいに咲くんだって」
 みはるはくすくす笑いながら言った。その拍子に気管に埃でも入ったのか、激しく咳込む。
 「怖いよね。だからこの桜もこんなにきれいなのかな」
 まんざら冗談ではないかも知れないと銀二は思った。一面の淡い花びらが青い空を覆う。あたたかい風と甘いにおいが漂い、なぜか心がざわめくのだ。
 「ねえ、銀二」
 みはるの声に銀二は顔を上げた。ふわりとした彼女の微笑の中に悲しみの色が浮かんでいることを銀二は敏感に嗅ぎ取った。
 「もし・・・・・・離れ離れになったら」
 銀二を抱く腕に力がこもる。「また桜の木の下で会おう。あたし、絶対に桜の木の下に来るから」
 約束ね、とみはるは強く言った。銀二はぱたりとしっぽを動かして答えることしかできなかった。



 それから間もなく、みはるはいなくなった。
 銀二は彼女を待ち続けた。約束通り、あの丘の桜の木の下で。
 だがみはるは現れなかった。
 やがて戦争が始まり、戦地でも国内でも民が次々に死に、国土は焼かれ、あの桜の木も空襲で焼失した。
 それでも銀二はひたすら待ち続けた。
 しかし、みはるは現れなかった。



 銀二の瞳から静かに光が消え、忍は我に返った。
 「大事な存在だったんですね。銀二さんにとってのみはるさんも、みはるさんにとっての銀二さんも。桜の木の下でまた会おうと約束したんですね」
 銀二はしっぽを一度だけ振った。
 「でも、今ので結構分かりましたねえ」
 得たばかりの情報を慎重に反芻する。まず、学校が建っているのは郊外。あれほど立派な学校もブリキ製の弁当箱も当時としては珍しいだろう。とするなら、みはるは比較的富裕な家の娘で、お金持ちの令嬢が通うような学校に在籍していたのかも知れない。
 それに制服のデザインもはっきりと見えた。白いセーラーに黄色いスカーフ、水色のスカートという配色。スカーフとスカートにはそれぞれ外側のフチに沿って白いラインが一本入っている。当時としてはかなりお洒落な部類に入るだろう。セーラーの左胸に縫いこまれた六角形の水色の模様は恐らく校章。以上のことを元に学校が特定できるかも知れない。
 しかし――草間が見た夢では、みはるであろう少女は血まみれになって踊っていたという。これは何か悪い暗示ではないか。少なくとも、平穏無事に生きていることを示す夢だと解釈するのは相当に無理がある。
 視線を感じてふと目を上げる。濁った瞳がじっとこちらを見詰めていた。
 忍はふっと微笑んで銀二の喉をさすった。
 「草間さん、ちょっと出かけて来ます」
 そして草間に声をかけて外套を羽織る。
 「シュラインがもうすぐ来るはずだぜ。待ってなくていいのか?」
 「エマさんがいらっしゃる前に調べられることは調べておいたほうが効率的でしょう。私は、私の仕事をさせてもらいます」
 忍はそう言って玄関のノブを回した。刺すような冷気が首の隙間に吹きつけて思わず身を縮める。



 区のものではなく、最初から都立図書館に足を運んだのが正解だった。戦前や戦中の学校の資料をまとめた分厚い書籍が見つかったのである。忍は本にざっと目を通し、条件に該当しそうなものをピックアップしてコピーをとった。さらに本も借り出す。念には念を、だ。一人で見るより二人で見たほうが確実である。
 「学校から特定するしかないみたいね」
 興信所の玄関を開けようとすると、中からシュラインの声が聞こえてきた。「当時の学校や制服の一覧があればいいんだけど」
 「それならお持ちしましたよ」
 という言葉とともに忍は玄関を開けた。あら、とシュラインは意外そうな顔をする。
 「エマさんより一足先に銀二くんから話を聞きましてねえ。幸い、図書館でその手の資料を見つけることができましたので」
 という言葉とともに忍は手にした厚い本とクリアファイルを示した。本は学校や制服の資料、ファイルの中身は忍がピックアップした学校の資料ページのコピーである。
 シュラインが草間に描いてもらったという少女の制服の詳細図――草間が見た夢を元に描いたらしい――を片手に丁寧に本をめくって条件に該当しそうな学校を丹念に探していった。それらしいものをいくつか拾い出してさらに詳細に照合する。
 「恐らく、これでは?」
 忍が指したのは“隆真女学院”という学校だった。今でいう幼稚園から大学までを扱っていた大きな学院のようだ。現在はなくなっているが、当時郊外という立地条件も、赤レンガ造りの校舎も、制服のデザインも一致している。そして校章は六角形だ。シュラインは大きく肯いた。
 「これでだいぶ前進したわね。この学校に通っていた人たちを見つけられないかしら?」
 「それでは隆真女学院に通っていた人を探すという方向で?」
 「ええ。彼女は高齢だし、介護福祉系施設なんかにも聞き込みに行ってみましょ。ご近所の年配の方への聞き込みも。同じ学校に通っていた人を見つけられれば有力な手がかりになる」
 シュラインの口からは次々と今後の調査方針が打ち出される。「役所にも行きたいけれど・・・・・・下の名前しか分からないんじゃ難しいかも知れないわね」
 「そうですねえ。戦後のどさくさもあるでしょうし・・・・・・。しかしやれることはやらなくては」
 忍の口調は穏やかだったが、その声の裏には固い意志が感じられた。「二手に分かれたほうがよさそうですね。私は気になることがあるので学校の跡地に行ってみたいのですが、構いませんか?」
 「ええ、そうしてくれるかしら。ただ――」
 シュラインはふっと視線を落とす。刺すような銀二の視線に気付いて慌てて続きを呑みこんだように見えた。彼女が何を言わんとしたか察して忍も唇を真一文字に結ぶ。シュラインも“血まみれ”の暗示がひっかかっているのだろう。
 「とにかく、やれることはやりましょう」
 シュラインは忍の言葉を繰り返して軽く頭を振った。まるで自分に言い聞かせるかのように。忍も小さく肯いた。
 


 聞き込みはシュラインに任せ、忍は今はなき隆真女学校の跡地へ向かった。
 電車を一本、バスを一本乗り継げばすぐに目的地だ。バスを降りた場所はなだらかな山の中であったが、まだまだ“都会”の色を強く帯びている。当時はここが郊外だったのかと思うと時代の流れを感じずにはいられない。
 当時は大手の学園だった隆真女学院は残っておらず、現在その敷地には小さな公立中学校が建っている。体育の授業時間なのだろうか。体操着を着て走り回る生徒たちの姿が見える。
 忍は当時の地図を見ながら例の丘を探した。銀二の話ではそこに桜があったという。ぐるりと中学校の周囲を見渡すが、丘らしきものはない。開発や造成で削り取られてしまったのだろう。地図とにらめっこし、立ち止まって現在位置を確認しながら忍は少しずつ進んだ。
 が、地図を確認するまでもなかった。建物群の中に見える淡い色の塊を発見したのだ。それは桜の色によく似ていた。吸い寄せられるように忍は駆けた。
 「どうして・・・・・・」
 忍は思わず声を出していた。申し訳程度に設けられたスペースに生えているこの木。これは桜ではないのか。しかも、真冬のこの時期に、なぜこんなにも鮮やかに咲き誇っているのだ?
 桜は無言のままはらはらと花びらを散らしている。狂い咲きという季節でもない。忍は樹皮に手を当てた。それなりに年輪を重ねたものと見受けられる。忍は手元の地図と現在位置を丹念に照合した。やはりここが銀二と美春が出会った丘があった場所のようだ。銀二は“あの桜は戦争で焼失した”と言っていたはずなのだが・・・・・・。
 「すみません」
 犬を連れて通りかかった初老の女性に忍は声をかけた。「この桜、毎年この時期に咲くのですか?」
 「一年中咲いてますよ」
 女性は微笑みながら言った。「不思議でしょう。縁起ものじゃないかって、この辺の人たちは言ってるんですよ」
 「・・・・・・そうですか」
 忍は顎に手を当てた。試みにある仮説を当てはめてみる。すると――頭の中にうっすらとかかっていた靄がすっと晴れた。
 「あの、この近所にお住まいなんでしょうか?」
 「そうですけど」
 女性は訝しげに忍を見た。
 「お願いがあるんです。スコップを貸していただけませんか。できるだけ大きな物を」
 忍の言葉に女性はますます怪訝そうな表情になった。


 
 いったん事務所に戻って各々が得た情報を交換する。シュラインに言われて役所とある場所に行って来たという草摩・色(そうま・しき)も姿を見せた。忍は彼女の名が赤城美春であること、病弱な体質でほとんど学校に来ていなかったこと、そして最後にはある病気になってしまったこと等を聞いた。そして、色が耳打ちした報告は加藤とシュラインを嘆息させるのに充分な内容だった。
 翌日、三人は銀二とともにある場所へ向かった。
 そこはかつて国立の療養所があった場所で、今はひび割れた更地になっていた。
 そして更地から伸びる細い道には一本の桜の木が生え、真冬の空の下で満開の花をつけていた。低く垂れ込めた雲の下ではらはらと散る淡い色の花びらは雪と錯覚してしまいそうだった。
 銀二は色の腕の中で目をしょぼしょぼさせている。しかし、その目は桜の木と二人を交互に見詰めていた。ここはどこだ、とでも言いたげな表情であった。
 「昔、ここには結核の療養所があったんだ」
 色が静かに口を開いた。「みはるさん――赤城美春さんは、ここに入院していた」
 銀二の耳がぴくっと震えた。頭を上げてじっと色を見詰める。代わってシュラインが口を開いた。
 「生まれつき体が弱かったせいもあって、元々学校にはあまり来ていなかったみたい。一ヶ月のうちで数えるくらいしか登校していなかったと聞いたわ。そして最後には結核にかかって・・・・・・」
 ――嘘だ。私は毎日のように彼女と会っていたのだぞ。
 「そう――」
 びゅう、と風が吹いた。砂埃が舞い上がってシュラインは顔を背ける。しかし銀二は目を逸らさずに、瞬きさえせぬままシュラインを見据えていた。
 「彼女は毎日制服を着て毎日あの時間にあの場所に通ったのよ。あなたに会うために、わざわざお弁当まで作って」
 今度はシュラインが銀二を見詰める番だった。
 「銀二さんが最初に彼女に会った日・・・・・・」
 ゆっくりと語り出したのは忍だった。「彼女はたまたま学校に来ていたんでしょうねえ。そしてあなたと知り合った。学校を休みがちだった彼女にはお友達がいなかったのでしょう。あなたが最初のお友達だったんです。だから入院後も毎日療養所を抜け出してこっそりあの丘に通っていた」
 銀二はぎゅっと目を閉じ、ややあってからゆっくりと開いた。濁った瞳の上を濡れた膜が覆っていた。忍は淡々と続けた。
 「そのせいで結核も悪化したのではないでしょうか。猫の毛が肺の病気にいいはずがない。療養所側にも無断外出がばれて、厳しい監視下に置かれたとしてもおかしくありません。・・・・・・だからあなたに会いに来られなくなったんですよ」
 銀二は何も言わなかった。ただ、体に沿って丸められていたしっぽが力なく垂れ下がっただけだった。
 「彼女、戦争中に亡くなったそうよ。学校の特別の計らいで女学校は卒業できたことにしてもらったらしいけれど」
 シュラインがぽつりと言った。
 銀二のヒゲがかすかに動いたが、それだけだった。今までの話からこの結末をある程度予想していたらしかった。
 「それでも、入院してから八年も生きたんですって。病気の進行具合からしたらそんなに生きられるはずがなかったのに。銀二に会うんだって言って頑張っていたそうよ。約束したからって。桜が満開になる頃に会うんだって」
 「あなたと美春さんが会ったのが七十年前、すなわち1935年。あなたと会った後に美春さんが入院したのなら、亡くなったのは1943年以降・・・・・・戦争の真っ只中です」
 忍が沈痛な表情で口を開く。「戦況が傾き始めた頃でしょうかねえ。日本本土にも敵機が飛来し始めていたかも知れません」
 「この療養所にも敵機が迫った。衰弱してた美春さんは逃げることもできねえで・・・・・・」
 色は顔を歪め、昨日銀色の瞳の力で見たこの場所の過去の光景を語った。色はその場所の過去の光景を見ることのできる能力を持っている。
 迫る敵機に怯える美春。医者も看護師も己の身を守ることに手一杯で、重症患者である彼女を顧みる者はなかった。彼女は何とか起き上がり、ふらつく足で外に出る。死ぬわけにはいかない。銀二に会うのだと約束しているのだから。
 懸命に逃げる。逃げる、と呼べるほど俊敏な動きではなかった。地面を這うくらいのことしかできなかったのだから。あまつさえ美春は途中で激しく咳込む。肺に溜まった血反吐が逆流して彼女の衣服は瞬く間に血に染まる。地面に這いつくばって苦しむ彼女に、敵の攻撃から逃れる術などなかった。
 「――この場所には元々桜なんか生えちゃいなかった」
 色は押し殺したような低い声で言い、ある一点を指差した。「美春さんが倒れて、機銃掃射にやられたのはあの辺りだった」
 色の指先が指し示すのは細い道の先に生える満開の桜の木だった。
 桜の花って、根っこに死体が埋まってるからきれいに咲くんだって。あの日、美春はそう言った。桜の木の下で会おうね、とも。
 美春は約束を果たしたのだ。銀二を待っていたのだ。自身が桜の木となって、一年中花を咲かせて。
 「行ってあげて」
 シュラインの声に応じて色がそっと銀二を地面に下ろす。銀二はぴんとしっぽを伸ばし、一直線に桜の木を目指して駆ける。
 「あいつ、美春さんが亡くなっていることを予想していたんでしょうね」
 そうでなければ武彦さんにあんな夢を見せたりしないでしょう、とシュラインは小さな後姿を見送りながら言った。
 「でも、美春さんがどこにいるかまでは分からなかった。だからうちに来たんでしょう。これでやっと会えるのね」
 「ええ。ようやく一緒になれるでしょう」
 という忍の言葉の意味を図りかねてシュラインと色は訝しげな目を向けた。
 「銀二さんもすでに亡くなっているんですよ。何十年も前に」
 忍は銀二の背中を見詰めたまま言った。「学校の跡地の、銀二さんが言っていた丘のあたりに立派な桜の木が生えていたんです。一年中満開の桜が」
 二人が小さく息を呑むのが分かった。
 「近くの家の人にスコップを借りて、根元を掘ってみました。地面が固くてそんなに深くは掘れなかったのですが・・・・・・桜の根の隙間に骨のような物が見えまして」
 三人の視界の中でサバ柄の背中はどんどん小さくなる。
 「――変だと思ってたんだよな」
 色がぽつりと呟いた。「あいつ、見た感じ普通の猫だった。少なくとも化け猫とか、人の霊が憑いてるってわけじゃなかった。普通の猫が七十年以上も生きられるわけねえもん」
 「同感です。私も同じことを考えていました。銀二さんはあの場所で美春さんを待ち続けて桜になった・・・・・・」
 忍の言葉は白い水蒸気とともに低い雲に吸い込まれて行った。
 銀二もまた、約束を守ったのだ。
 桜の木になって一年中花を咲かせて美春を待ち続け、あまつさえ自分が桜になったことにすら気付かずに興信所にまで依頼に来たのだ。
 ごうっと風が吹いて二人は思わず顔の前に手をかざす。
 やがて風がおさまり、二人は目を開いた。そして――息を呑んだ。
 桜の木の下に、セーラー服を着た一人の少女が立っていたのだ。
 冷たい風に吹かれて桜ははらはらと花びらを散らす。まるで雪のように。銀二の背中はやがて淡い色の中に溶け込み、見えなくなった。



 銀二は息せき切って桜の下にたどり着いた。
 頭上には満開の桜がある。七十年前に美春とともに見た、あの桜が。
 ラン、ランララララランラン。
 ラララララ、ランランララン。
 ララルラ、ルルララランラン。
 透き通った声が流れるような旋律を刻む。まるで風の中で踊る花びらが歌っているかのように。
 「銀二」
 鈴を転がすような声がした。銀二は耳をぴんと立てて首を持ち上げる。くすくす、と忍び笑いをする声が聞こえた。
 幹の影からいたずらっ子のようにぴょこんと顔をのぞかせたのはセーラー服におさげ髪の美春だった。
 銀二は迷わずに美春に駆け寄り、美春もまた銀二を抱き締めて頬擦りした。
 「ごめんね、銀二。待ちくたびれたよね」
 銀二はぎゅっと目を閉じ、そして開く。美春には分かる。これは銀二の否定のサイン。
 「でも、会えてよかった。ちゃんと約束守ってくれたんだね」
 銀二はぱたりとしっぽを振った。
 「行こう、銀二。これからはずっと一緒にいられるよ」
 美春は銀二を抱いて立ち上がる。銀二は彼女の腕の中で目一杯喉を鳴らして目を閉じた。
 白いものがざあっと舞った。それは吹雪だった。桜吹雪だった。
 ひらり、ひらり。
 ちらり、ちらり。
 くるり、くるり。
 幾千もの淡い花びらが壁を作って風と空の間を舞う。
 いつしか風はやみ、桜吹雪は白い雪に、満開の花は裸の木に変わっていた。
 ちらちらと舞う雪の中に銀二と美春の姿を認めることはできなかった。



 「おう、お疲れさん。寒い寒いと思ったらやっぱり雪になったな」
 興信所に戻った二人を出迎えたのはヒーターの前に椅子を持って来て一服している草間であった。
 「それで、銀二くんはどうなりました?」
 零が心配そうに問う。色が穏やかに微笑んで「ちゃんと美春さんに会えたよ」とだけ言った。
 「ところで草間さん」
 一緒にヒーターに当たりながら忍が思い出したように草間に顔を向けた。
 「今回の調査料はどこから出るんで?」
 草間は目をぱちくりさせる。が、ややあって「あ」と口を開けた。その背後でシュラインの整った顔が引きつった。察した色が腹を抱えて笑い転げる。
 依頼人は猫。無論調査料など頂いていないし、督促のしようもない。
 「・・・・・・武彦さん」
 シュラインの声に草間は恐る恐る振り返る。案の定、シュラインは険しい表情で腕を組んで草間を見下ろしている。草間がごくりと唾を呑む音が忍にまで聞こえた。
 「ま、いいか」
 しかし意外にも、シュラインは腕をほどいて苦笑いを浮かべた。「いつものことですもの」
 草間は心底から胸を撫で下ろした。よほど安心したのだろう、口元の筋肉が弛緩して掃除したばかりの床に煙草がぽとりと落下する。一時間近くかけて床をぴかぴかに磨き上げた零が悲鳴を上げた。
 「お兄さん、なんてことを! 誰が掃除すると思っているんです! お兄さんが責任持ってきれいにしてくださいね!」
 「なんだよ、いいじゃないかこれくらい・・・・・・」
 屋内の騒がしさなどどこ吹く風と、雪は音もなく降り続ける。
 忍は何気なくポケットに手を入れる。指先が何かふわふわした物に触れた。それはボヘアのように繊細で、柔らかな毛玉であった。銀二のものだろうか。
 忍はちょっと首をかしげた。こんな物を失敬した覚えはないし、失敬しようなどと考えたこともない。それとも何かの拍子に銀二の毛が抜けてポケットに入り込んだのだろうか。しばし忍は手の中の毛玉を見詰める。やがて、毛玉をハンカチにくるんで大事そうにポケットにしまいこんだ。
 これはきっと銀二の贈り物。報酬代わりにもらっておいたところで罪にはなるまい。それに、持っていれば何かささやかな奇跡が舞い降りるかも知れない。銀二が七十年の時を経て、互いに死んだことも知らずにいた少女と再会できたように。そんなことさえ考えて忍はかすかに笑いを漏らした。 (了)
 





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 /    PC名    /性別/年齢/職業 】
  5745  加藤・忍(かとう・しのぶ)男性 25歳 泥棒
0086  シュライン・エマ     女性 26歳 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
2675 草摩・色(そうま・しき) 男性 15歳 中学生



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■         ライター通信          ■
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加藤・忍さま


お初にお目にかかります、宮本ぽちと申す者です。
このたびは「猫の依頼人」にご参加くださり、まことにありがとうございます。

加藤さまとエマさま、草摩さまのおかげで銀二はしあわせになれました。
銀二に成り代わりまして篤く御礼申し上げます。

淡々とした、静かな「ちょっといいお話」を目指しましたが、いかがだったでしょうか。
物語の性質上、加藤さまの技能を生かすことができずに申し訳ございません。
また、今回は依頼人が猫であったため、お三方は事実上タダ働きということになってしまいました。
銀二が置いていった毛玉は調査料代わりですので、よろしければお納めくださいませ。

もし「対価分は楽しめた」と思っていただけたなら、それに勝る喜びはございません。
またどこかでお会いできる日を心よりお待ち申し上げております。


宮本ぽち 拝