|
恋は ばらいろ
クロゼットから出したジャケットは、けしてサラリーマンが好む種類のものではない輸入ブランドもの、指にはさらりとシルバーリング、コロンはカフスの下に、つけすぎに注意して隣に座ってはじめてほのかに香るくらいの量を。
すこしうたた寝したつもりが寝過ごしてしまい、慌てて――もちろん、それでも手は抜かずにしっかりと身支度を整えて、相生・葵(そうじょう・あおい)は家を飛び出した。
早足に道を行けば、帰宅途中の小学生とすれ違う。一日が終わりを告げようとしているこの時間帯が、葵の活動開始時間だ。
職業、ホスト。その足が向かう先は、不夜城と呼ばれる町。彼の勤めるホストクラブ「音葉」がそこにある。
出勤時間までは、あとどのくらいだろうか。腕時計を確認して、そこで、葵は足を止めた。
「あれ? ……なんだ、余裕じゃないか」
甘い、とよく評される口元から、気の抜けたような呟きが漏れる。準備を始めるのが遅かったぶんを取り戻そうと急いだら、却っていつもより早く家を出ていたらしい。
折しも、目の前には見慣れた川辺が開けていた。土手には秋草がやわらかそうな葉を揺らしていて、ここに座ると気持ちいいよ、と誘ってでもいるようだ。
光合成にはいささか遅い時間だが、そのお誘いに乗ることにして、葵は土手を降りていった。
出勤途中に立ち寄ることのできるここは、日向ぼっこには最適で、行きつけと言ってしまっていいほどの馴染みの場所なのだ。座り心地の一番良いところを選んで、葵は腰を下ろした。
土手の下には川沿いに散歩道が作られていて、その向こうで川面がきらきらと夕暮れの陽光を跳ね返している。太陽は今まさに沈もうとしているところだった。
金色から橙色へと、刻々と変わってゆく西の空を眺めながら、葵は目を細めた。
「綺麗だな」
笑みを含んだ唇からこぼれるのは、素朴な感動の言葉だ。
ホストといえば、不実を絵に描いたような職業だと思われがちである。店に来た女性に心にもない甘い言葉を囁いて、騙して、いい気分にさせてお金を出させる、という。
しかし、殊、この葵にはそんな一般論は当てはまらなかった。
葵にとっては、女性は全て素晴らしく、素敵な存在である。
ましてや、彼女たちの美点を言葉にして褒め称えることについては、全く制限がないと思っていた。葵にとって女性を口説くのは、それこそ、先ほど夕日の美しさを「綺麗」だと言ったのと同じこと。
いかにもお水系のお姉さまを「とっても美人」だと褒めるのも、ちょっぴり垢抜けない眼鏡のOLさんを「知的で素敵」だと称えるのも、制服に似合わない派手な化粧の女子高生を「背伸びが可愛い」と評するのも、全て本気。心からの言葉なのだ。
その嘘偽りの無さは、ある意味ホストに向いていた。
浮き沈みの激しい業界で、葵が安定した人気を誇っている理由は――整った容姿ももちろん一役買っているのだが――そこにあると言ってもよい。ホストクラブにやって来る女性の大概は、耳をくつろがせてくれる言葉を欲している。
そして、常連のお客が幸せそうな笑顔になってくれることは、葵にとっても嬉しいことだった。
お前にホストは天職だよ、と同僚から笑い混じりに言われることさえあるくらいだ。
けれど、と葵は思う。
「特別になるって、どういう瞬間だろうな」
たくさんの女性との出会いを重ねるごとに、その疑問は大きくなって、葵の胸にわだかまりを作っている。
ふう、と葵は息を吐いた。夕暮れの川辺は、感傷的な気分を呼び起こされるようだ。
夕日は、ビルの向こうに隠れた。空は燃えるように真っ赤。
空の照り返しで赤く染まった頬を、葵は撫でる。
この頬が受けた、女性の手によるビンタの回数は、ゆうに250を越える。
189発を越えたあたりから空しくなっていたが、記憶力が災いしてカウントは今も続いていた。恐らく、これから先も増えるだろう。
ビンタの原因、それは全て、葵を人気ホストたらしめている「自然体の口説き」である。
口説くことが、彼にはあまりにも自然なことなのだ。例えば、告白してOKをもらって、つきあっている彼女がいるのに別の子とお茶を飲んでしまったりとか! 映画に誘ってしまったりとか! ……気が付いたら、してしまっているのである。
ホストクラブの店内で囁くぶんには喜んでもらえる言葉も、一対一のお付き合いとなると、トラブルの元にしかならない。
そんなこと、承知している。
女性は全て素晴らしい。
それはつまり、葵にとって今まで「特別な人」が現れていないということだと、気が付いたのはいつのことだったか。
何番目かに付き合った女の子に、私のことだけ見てくれなきゃ恋じゃないわよ、と別れ際に泣かれた時だっただろうか。
私ばっかり相生くんのこと好きなんて、もう嫌なの。
泣きながら言ったあの子に、僕もちゃんと好きだよと言っても、頭を振られるばかりで。
彼女のことを思い出す時、葵は申し訳ない気持ちと、羨ましく思うような気持ちとを、同時に覚える。
まるで熱い鉄の塊でも抱えているように胸を押さえていた彼女と同じ気持ちを、葵は恐らくまだ味わったことがない。
「僕はまだ本当の恋愛をした事が無いんだな」
苦笑して、葵は呟いた。
川辺の風景を見ると、夕焼け空の赤が深まって、まるで世界全部が真っ赤に染め上げられたようだった。
「……薔薇色だ」
恋をすると世界が薔薇色に染まる、なんて、どこかの詩人が言っていた気がする。
他の女性どころか、他の何もかもがどうでもよくなって、自分の全てを捧げたくなるような相手に、いつか出会うかもしれない。
「その時は、僕にも世界がこんな風に見えるのかもしれないな」
微笑交じりに呟いて、葵は立ち上がり、赤い川辺に背を向けた。
出勤時間が近付いていた。
END
<ライターより>
初めまして。ご発注ありがとうございました! そして期日ギリギリの納品にて失礼します。
歯が浮くようなセリフがポロリとでて、それがきまってしまうキャラクターさんだな……と思い、それってホストとしては最高の資質なのでは、などと思ってしまい。季節は、夕日が綺麗なほうがいいと思い、今は冬ですが秋にさせていただいてしまったりと、色々考えて楽しみながら書かせて頂いてしまいました。ありがとうございました。
年の瀬、寒くなりましたのでお体にお気をつけて。
またの機会がありましたら幸いです。
|
|
|