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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


猫の依頼人


 玄関のブザーに応じて事務所のドアを開けた零はきょとんとした。
 確かにブザーが鳴ったのに、外には誰もいないではないか。
 ――待ってくれ。
 首をかしげてドアを閉めようとすると初老の男性の声が聞こえた。零は閉めかけたドアを慌てて開け放つが、やはりそこには誰もいない。
 代わりに、足元で「にゃあ」という声がした。
 「あら」
 零は目を輝かせて声の主を抱き上げる。ドアの前にちょこんと座っていたのはずんぐりとしたサバ猫だった。ご年配らしく、被毛の色はだいぶあせている。目も眠そうにしょぼしょぼしていた。
 「お兄さん、見て、見てください。可愛いでしょう」
 霊は猫を抱いてぱたぱたと中に戻る。薄汚い猫の姿を見て草間は露骨に顔をしかめた。猫は零の腕の中で「ふぎゃあ」と鳴いた。翻訳すれば「こんな汚い部屋に住んでる奴にとやかく言われる覚えはない」といったところだろうか。
 「そいつがブザーを鳴らしたのか?」
 草間は冗談交じりに言った。
 「まさか。猫の身長じゃブザーの高さまで届きませんもの。それよりお兄さん、この子にミルクをあげていいですか? お腹が空いてるみたい」
 「勝手にしろ。俺は少し寝るよ」
 猫が不満そうに鳴いたが、草間は構わずにデスクの上に突っ伏した。



 ひらり、ひらり。真っ青な空の下で淡い色のかけらが舞う。
 ひらり、ひらり。風にあおられた桜の花びらが。
 ふわり、ふわり。柔らかなおさげ髪とスカートが花びらの隙間に見え隠れする。
 はらり、はらり。セーラー服を着て、少女は桜と風の中で舞う。
 ぽたり、ぽたり。赤いしずくが滴り、花びらが真っ赤に染まる。
 じわり、じわり。白いセーラーにしずくがしみ込み、瞬く間に朱にまみれる。
 ざあっと風が吹き、花びらが霧散した。
 中から現れたのは少女だった。
 血まみれになって踊り続ける少女だった。
  


 草間ははっとして目を見開いた。
 目の辺りに何か生あたたかいものと毛の感触を覚えて声を上げる。驚いた拍子にバランスを崩し、草間は椅子から転げ落ちてしまった。
 「お兄さん、大丈夫ですか?」
 零が慌てて駆け寄る。舞い上がる埃に咳込みながら草間は「ああ」と言って眼鏡を拾った。いつもの興信所のいつもの風景。さっきの光景が夢であったとようやく悟る。時計を見ると、三十分ほど眠ってしまったらしいことが分かった。
 「ふにゃあ」
 頭上で鳴き声がする。目を上げると、デスクの上には老いぼれたサバ猫が丸くなって鎮座していた。先程顔に触れたのはこれだったらしい。
 「その子、お兄さんのことが気に入ったらしくて」
 と零は困ったように言った。「ずっとそこにいて離れないんですよ」
 ――人を探してほしい。十三歳の少女を。いや、“七十年前に”十三歳だった少女だ。
 草間と零は思わず顔を見合わせた。初老の男性の声が確かに聞こえたのだ。しかしこの部屋にいるのは草間と零、それにしょぼしょぼした猫だけである。
 「・・・・・・まさか、おまえがさっきの夢を見せたのか?」
 猫は答えずに、しっぽをぱたりと動かしただけだった。



 “鈍重”という形容がよく似合う。ずんぐりした胴体、皮の垂れた腹、ぱさついた貧相な尾。しょぼしょぼとした眠そうな目は時折けだるく開かれるものの、キャッツアイという宝石の名前にも使われるほど美しいはずの眼球は白く濁り、本来の役目を果たしていないようにすら思える。
 お世辞にも見目麗しいとは言えない猫であったが、草摩・色(そうま・しき)はテーブルの上に重ねた手に顎を乗せ、上等とは言えないソファの上で香箱を作る猫を飽かずに眺めていた。健康的な小麦色の肌に茶色い髪。バンソウコウを貼った頬の筋肉がいつの間にか緩んでいる。猫かあ、いいなあ、俺も飼いたいなあ、という呟きが絶えず口から漏れていた。
 「可愛いなあ、おまえ」
 「ふぎゃあ!」
 色の熱い抱擁に猫が悲鳴を上げる。猫は色の腕の中で懸命に体をよじらせて逃れようとするが、色はお構いなしに薄汚い猫に頬擦りする。
 「そいつがそんなに可愛いか?」
 タバコをくわえた草間が半ば呆れて言う。「それなら連れて帰ってもいいぞ」
 「マジっすか? やったぁー! おい聞いたか、一緒に暮らせるってよ!」
 「うんにゃああ!」
 猫が激しく抗議する。だが色はそれを喜びの表れと勘違いしたらしかった。
 「そんじゃあ草間さん、早速こいつと散歩に行ってきまーす。エマさんと加藤さんが戻って来たら教えてくださいね」
 「ああ。あんまり遠くまで行くなよ」
 「ふにゃあぁ・・・・・・」
 不満そうな猫の鳴き声が玄関の向こうに消えた。あんな汚い猫が可愛いだなんて変わった奴だ、と息をつきながら草間は紫煙を吐き出した。



 「さて、と」
 カンカンと音を立てながら愛想のない金属製の非常階段をのぼり、色は踊り場に猫を下ろした。猫の瞳には幾分か警戒の色が浮かんでいる。
 「早速話聞かせてもらえるか? 名前はなんてーの?」
 猫は答えない。ぷいとそっぽを向き、しっぽを左右に振る。
 「ふん。別に教えてくれなくてもいいもんね、見ちゃうから」
 色はにやにやとしてコンタクトを外す。猫のひげがぴくっと動いた。
 黒のカラーコンタクトの下から現れた瞳は銀色だった。
 「ちょっと待っててな」
 色は小さなナイフを取り出し、自分の親指の付け根あたりに刃を食い込ませた。猫は怯えたように耳を後ろに倒し、前肢をつっぱって二、散歩後ずさった。
 ――何をする?
 と猫が言った。いや、“言った”という表現は不適切かも知れない。色の頭の中で響くように銀二の声が聞こえただけなのだから。
 「準備さ」
 色は真っ赤な切れ目に口を当てて自らの血をすすった。鈍い鉄の味が口の中いっぱいに広がる。何度飲んでもうまいものではない。しかしこれで準備完了だ。銀色の光に静かに光が灯る。
 「わりーけど、ちょっと見せてもらうぜ」
 色は猫のわきの下に手を入れて抱き上げ、濁った瞳を見つめる。やがて銀二の記憶が目の前の光景として展開され始めた。



 彼は野良猫としてこの世に生まれ落ちた。親などいなかった。捨てられたのか、それとも親が死んだのかは分からなかった。
 しかし彼にとってはどうでもよかった。何より自分が生きることが大事だった。彼の心身を支配したのは生き物のいちばん根底にある部分、最も原始的な生存本能のみだった。ゴミ箱を漁り、鮮魚店の店頭から魚を盗み、時には他の猫の縄張りさえ荒らしてその日の命をつなぐことだけに心を砕いた。そんな彼だったから、人間には敵視され、仲間もできず、たった一人で過ごす日々が続いていた。すえたような汚物のにおいと食べ物の腐臭が混じり合う薄暗い路地裏が彼のねぐら。ゴミや汚物が散らばるその場所で彼は爛々と目を光らせ、光に包まれた大通りを見据えていたのだ。
 そんな彼に初めて優しくしてくれたのが彼女だった。
 あれは春風が吹く柔らかな陽気の日だった。彼はある女学校まで足を伸ばした。この女学校には優しい生徒が多く、お弁当の残りを野良猫や野良犬にくれるのだと風の噂で聞いたからだった。
 学校は都心部から離れた緑地地帯にあった。人家が並ぶ界隈からも少し離れた低い山の中に開かれた女学校である。なだらかな斜面を上るとまず出迎えるのは豪壮な校門と敷地をぐるりと囲む塀。門をくぐると整備された白い道が数百メートルも続き、その先に赤レンガ造りの瀟洒な校舎がたたずむ。敷地内には季節の草花や木々が植えられ、休み時間になれば生徒たちが芝生の上でおしゃべりをしたり昼食をとったりする。彼が住む場所とは真逆の世界であった。拒まれているようにすら感じ、珍しく彼は気後れのようなものを覚えて校門をくぐれずにいた。
 塀の周りをあてもなくうろうろするうちに、敷地から細い道一本隔てた場所にこんもりと盛り上がる白っぽい塊を認めた。淡い色のかけらが青い空の下でちらちらと舞っている。風に乗って細い声が聞こえた。少女の声だった。柔らかな声に吸い込まれるように彼は足を速める。
 小高い丘に桜の大木が立ち、柔らかな色の花を咲かせていた。はらはらと舞う桜の花びらの中で、おさげ髪の少女が透き通った声で歌いながらくるくると舞っていた。
 それはまさに別世界だった。青い空、穏やかな日差し、淡い花びらという幻想的な光景。その中で舞う愛くるしい少女。声の透明さは生来のものか。美しい声が晴れ渡った空に吸い込まれていくさまがはっきりと見えるようだった。
 少女は歌の途中で動きを止めた。息が苦しくなったのだろうか、細い体を折り曲げて痛々しいまでに激しく咳込む。そして視線に気付いたのか、少女はふっと彼に目を向けた。小首をかしげたしぐさに抜けるような白い肌、くりくりとした黒い瞳が愛らしい。両側で三つに編んだ髪が肩のところでかすかに揺れていた。
 「猫ちゃん、おいでー」
 少女は鈴を転がしたような声で言い、桜の木の根元に置いた鞄から何かを取り出した。小判型をしたブリキの弁当箱だった。桜の絵が描かれた蓋の下から漂うにおいにつられて彼は迷わずに彼女に駆け寄った。それは生き抜くために過剰なまでの用心深さを身につけた彼にとっては珍しいことだった。もちろん、仮に捕まったとしてもこんな少女からならいくらでも逃れられるという公算もあった。
 「ふふ」
 弁当の蓋に置いて差し出した玉子焼きや煮しめにかぶりつく彼を見ながら彼女は目を細める。笑った拍子に少しむせたらしく、幾度か咳込んだ。彼がおかずを食べ終わると少女は白い手を差し出し、彼を抱き上げた。ゴミと汚物のにおいと泥、埃、その他ありとあらゆる汚れにまみれた彼を。白いセーラーに容赦なく汚れがつくが、彼女はそれすらいとわないようだった。
 彼は初めて人間に――他者に抱かれた。虐げられることこそ多かれ、慈しまれたことなどなかった。親にすら抱かれたことのない彼は予期せぬ状況と慣れない感触に戸惑うが、不快ではなかった。
 それ以来、みはるという名の少女との交流が始まった。
 昼休みになると彼女は丘に出て来て弁当を食べる。その時間を狙って彼も姿を現すようになった。みはるに会いたいのか弁当のおこぼれにありつきたいのか、彼自身にもよく分からなかった。ただひとつ分かっているのは、みはるとの時間が彼が初めて知る「安らぎ」であるということだけだった。もっとも当時の彼はそんな単語など知らなかったわけだが。
 みはるもみはるで毎日のようにこの場所にいるらしかった。友達が少ないのだと悲しそうに笑っていたこともある。愛くるしい瞳の向こうに孤独の色が隠されていることに気付くまでにはそう時間はかからなかった。
 みはるは彼に“銀二”(ぎんじ)という名前をつけてくれた。当時の彼の毛並は銀に近い灰色に黒いシマが入った上等なもので、みはるはそれをきれいだと言った。そして彼女は銀二の名前を呼び、得意な曲と即興の踊りを披露するのだった。
 「ねえ銀二、上手?」
 そう問われたところで銀二は答える術を持たない。「にゃあ」と鳴いてしっぽをぱたりと振るのが精一杯だった。
 みはるは銀二を抱いて桜の木を見るのが好きだった。春が大好きで、桜の花が大好きだからこの場所がお気に入りなのだと彼女は言った。
 「桜の花って、根っこに死体が埋まってるからきれいに咲くんだって」
 みはるはくすくす笑いながら言った。その拍子に気管に埃でも入ったのか、激しく咳込む。
 「怖いよね。だからこの桜もこんなにきれいなのかな」
 まんざら冗談ではないかも知れないと銀二は思った。一面の淡い花びらが青い空を覆う。あたたかい風と甘いにおいが漂い、なぜか心がざわめくのだ。
 「ねえ、銀二」
 みはるの声に銀二は顔を上げた。ふわりとした彼女の微笑の中に悲しみの色が浮かんでいることを銀二は敏感に嗅ぎ取った。
 「もし・・・・・・離れ離れになったら」
 銀二を抱く腕に力がこもる。「また桜の木の下で会おう。あたし、絶対に桜の木の下に来るから」
 約束ね、とみはるは強く言った。銀二はぱたりとしっぽを動かして答えることしかできなかった。



 それから間もなく、みはるはいなくなった。
 銀二は彼女を待ち続けた。約束通り、あの丘の桜の木の下で。
 だがみはるは現れなかった。
 やがて戦争が始まり、戦地でも国内でも民が次々に死に、国土は焼かれ、あの桜の木も空襲で焼失した。
 それでも銀二はひたすら待ち続けた。
 しかし、みはるは現れなかった。



 色の瞳からふうっと光が消えた。
 「・・・・・・そっか」
 色はそっと銀二を下ろした。銀二は濁った瞳をしょぼしょぼさせながら「にゃあ」と一声鳴いた。
 「お互いにお互いが大好きだったんだな」
 ぱたり、と銀二はしっぽを振った。
 「彼女のこと、もっと分からねえか? 苗字とか、学校の名前とか」
 銀二はぎゅっと目をつぶり、それからゆっくり開いた。どうやら否定のサインらしい。はあ、と息をついて色はその場に尻をついた。あれ以降の彼女に関する銀二の記憶がないのでは銀の瞳で追うこともできない。
 手がかりになりそうなのは学校だろうか。かなり立派な造りのようだったし、白に水色というセーラー服も当時としては相当洒落た部類に入るだろう。もしかしたらそこそこ有名、あるいは大きな学校だったのかも知れない。しかし七十年前など色の影も形もない頃だ。当時の学校のことなど分かるわけもない。すでに調査に出かけているシュライン・エマと加藤・忍(かとう・しのぶ)が何か情報を持ち帰って来れば突破口が開けるのかも知れないが・・・・・・。
 「色ーっ」
 足の下から聞き慣れた声が上がって来る。色は踊り場の手すりから身を乗り出して階下を覗き込んだ。草間興信所の窓から草間が首を出してこちらを見上げている。
 「電話だ。シュラインから。調べてほしいことがあるってさ」
 「よっしゃ、待ってました」
 色はぱちんと指を鳴らして階段を駆け下りた。



 少女の名が“赤城美春”であること、彼女の通っていた学校が隆真女学院という大きな学校であることなどを話し、役所とある場所へ行って見てくれないかとシュラインは頼んだ。早速色は、シュラインが女学院の卒業名簿から割り出した美春の住所がある役所へと飛んだ。
 「なんの目的でしょうか?」
 役所の窓口の男性の口調には猜疑と警戒の色が満ちていた。無理もない。個人情報保護が叫ばれている昨今、いきなり「赤城美春さんの消息を教えてくれ」などと頼んでも受け入れてもらえるわけがなかった。
 「・・・・・・俺の、たった一人の身内なんです」
 色は視線を床に落として呟いた。目に入れたカラーコンタクトをそっと指でつっつく。ハードレンズが角膜を刺激し、ひどい痛みが涙腺から涙を押し出した。
 「赤城美春さんはひいおばあちゃんなんです。俺、お父さんもお母さんもいないんです。お母さんが死ぬ時に、ひいおばあちゃんがまだ生きてるかも知れないからって名前と住所を聞いて・・・・・・でもなかなか見つからなくて・・・・・・だから役所に来れば分かるかなって・・・・・・」
 ぐすん、と色は鼻をすすり上げる。隣の窓口係と、そこで手続きをしていた住民が気の毒そうな目で色を見る。窓口の男性は慌てて「少々お待ちください」と席を立った。
 「ひいおばあさんのお名前は赤城美春さんで間違いないのですね?」
 やがて男性は分厚い台帳を手に戻って来た。
 「近頃規制が厳しくなっておりますので、この場で閲覧していただけますか。終わったら声をかけてください」
 「はい。ありがとうございます」
 色はうつむいて涙を拭い、ぺろりと舌を出した。
 早速台帳のページをめくる。赤城美春、赤城美春。名前と住所を何度も口の中で反復しながらページを手繰る。無表情に並ぶ文字群の中に美春の名を見つけてその行を指で追う。色は目を丸くした。
 「分かりましたか、ひいおばあさんの居場所」
 台帳から顔を上げた色に気付いて役所の男性が問う。色は肯くのももどかしく役所を飛び出し、シュラインが指定したある場所へと向かった。
 そこは何もない野っ原だった。かつてここには国立の療養所があったそうだが、今はひび割れた白い大地が広がるだけだ。乾いた大地から伸びる一本の細い道の先には一本の桜の木がぽつりと立っていた。
 真冬なのに、満開の花をつけた桜の木が。
 色は手に貼ったバンソウコウをはがし、先程の傷口を強くはさんで血を押し出した。血を舐めてきっと顔を上げる。コンタクトを外した銀色の瞳に強い光が灯り、かつてこの場所で起こった光景が鮮やかに目の前に蘇った。



 興信所に戻るとシュラインと忍もすでに帰って来ていた。二人が得た情報を聞き、色が持ち帰った赤城美春の所在とあの場所で見た光景を耳打ちする。二人はどちらからともなく小さく嘆息した。
 翌日、三人は銀二を連れてある場所へ向かった。
 そこはかつて国立の療養所があった場所で、今はひび割れた更地になっていた。
 そして更地から伸びる細い道には一本の桜の木が生え、真冬の空の下で満開の花をつけていた。低く垂れ込めた雲の下ではらはらと散る淡い色の花びらは雪と錯覚してしまいそうだった。
 銀二は色の腕の中で目をしょぼしょぼさせている。しかし、その目は桜の木と二人を交互に見詰めていた。ここはどこだ、とでも言いたげな表情であった。
 「昔、ここには結核の療養所があったんだ」
 色が静かに口を開いた。「みはるさん――赤城美春さんは、ここに入院していた」
 銀二の耳がぴくっと震えた。頭を上げてじっと色を見詰める。代わってシュラインが口を開いた。
 「生まれつき体が弱かったせいもあって、元々学校にはあまり来ていなかったみたい。一ヶ月のうちで数えるくらいしか登校していなかったと聞いたわ。そして最後には結核にかかって・・・・・・」
 ――嘘だ。私は毎日のように彼女と会っていたのだぞ。
 「そう――」
 びゅう、と風が吹いた。砂埃が舞い上がってシュラインは顔を背ける。しかし銀二は目を逸らさずに、瞬きさえせぬままシュラインを見据えていた。
 「彼女は毎日制服を着て毎日あの時間にあの場所に通ったのよ。あなたに会うために、わざわざお弁当まで作って」
 今度はシュラインが銀二を見詰める番だった。
 「銀二さんが最初に彼女に会った日・・・・・・」
 ゆっくりと語り出したのは忍だった。「彼女はたまたま学校に来ていたんでしょうねえ。そしてあなたと知り合った。学校を休みがちだった彼女にはお友達がいなかったのでしょう。あなたが最初のお友達だったんです。だから入院後も毎日療養所を抜け出してこっそりあの丘に通っていた」
 銀二はぎゅっと目を閉じ、ややあってからゆっくりと開いた。濁った瞳の上を濡れた膜が覆っていた。忍は淡々と続けた。
 「そのせいで結核も悪化したのではないでしょうか。猫の毛が肺の病気にいいはずがない。療養所側にも無断外出がばれて、厳しい監視下に置かれたとしてもおかしくありません。・・・・・・だからあなたに会いに来られなくなったんですよ」
 銀二は何も言わなかった。ただ、体に沿って丸められていたしっぽが力なく垂れ下がっただけだった。
 「彼女、戦争中に亡くなったそうよ。学校の特別の計らいで女学校は卒業できたことにしてもらったらしいけれど」
 シュラインがぽつりと言った。
 銀二のヒゲがかすかに動いたが、それだけだった。今までの話からこの結末をある程度予想していたらしかった。
 「それでも、入院してから八年も生きたんですって。病気の進行具合からしたらそんなに生きられるはずがなかったのに。銀二に会うんだって言って頑張っていたそうよ。約束したからって。桜が満開になる頃に会うんだって」
 「あなたと美春さんが会ったのが七十年前、すなわち1935年。あなたと会った後に美春さんが入院したのなら、亡くなったのは1943年以降・・・・・・戦争の真っ只中です」
 忍が沈痛な表情で口を開く。「戦況が傾き始めた頃でしょうかねえ。日本本土にも敵機が飛来し始めていたかも知れません」
 「この療養所にも敵機が迫った。衰弱してた美春さんは逃げることもできねえで・・・・・・」
 色は顔を歪め、昨日銀色の瞳の力で見たこの場所の過去の光景を語った。
 迫る敵機に怯える美春。医者も看護師も己の身を守ることに手一杯で、重症患者である彼女を顧みる者はなかった。彼女は何とか起き上がり、ふらつく足で外に出る。死ぬわけにはいかない。銀二に会うのだと約束しているのだから。
 懸命に逃げる。逃げる、と呼べるほど俊敏な動きではなかった。地面を這うくらいのことしかできなかったのだから。あまつさえ美春は途中で激しく咳込む。肺に溜まった血反吐が逆流して彼女の衣服は瞬く間に血に染まる。地面に這いつくばって苦しむ彼女に、敵の攻撃から逃れる術などなかった。
 「――この場所には元々桜なんか生えちゃいなかった」
 色は押し殺したような低い声で言い、ある一点を指差した。「美春さんが倒れて、機銃掃射にやられたのはあの辺りだった」
 色の指先が指し示すのは細い道の先に生える満開の桜の木だった。
 桜の花って、根っこに死体が埋まってるからきれいに咲くんだって。あの日、美春はそう言った。桜の木の下で会おうね、とも。
 美春は約束を果たしたのだ。銀二を待っていたのだ。自身が桜の木となって、一年中花を咲かせて。
 「行ってあげて」
 シュラインの声に応じて色がそっと銀二を地面に下ろす。銀二はぴんとしっぽを伸ばし、一直線に桜の木を目指して駆ける。
 「あいつ、美春さんが亡くなっていることを予想していたんでしょうね」
 そうでなければ武彦さんにあんな夢を見せたりしないでしょう、とシュラインは小さな後姿を見送りながら言った。
 「でも、美春さんがどこにいるかまでは分からなかった。だからうちに来たんでしょう。これでやっと会えるのね」
 「ええ。ようやく一緒になれるでしょう」
 という忍の言葉の意味を図りかねてシュラインと色は訝しげな目を向けた。
 「銀二さんもすでに亡くなっているんですよ。何十年も前に」
 忍は銀二の背中を見詰めたまま言った。「学校の跡地の、銀二さんが言っていた丘のあたりに立派な桜の木が生えていたんです。一年中満開の桜が」
 色は小さく息を呑んだ。あの桜は戦火で焼失したと銀二は言っていたはずだ。
 「近くの家の人にスコップを借りて、根元を掘ってみました。地面が固くてそんなに深くは掘れなかったのですが・・・・・・桜の根の隙間に骨のような物が見えまして」
 三人の視界の中でサバ柄の背中はどんどん小さくなる。
 「――変だと思ってたんだよな」
 色はぽつりと呟いた。「あいつ、見た感じ普通の猫だった。少なくとも化け猫とか、人の霊が憑いてるってわけじゃなかった。普通の猫が七十年以上も生きられるわけねえもん」
 「同感です。私も同じことを考えていました。銀二さんはあの場所で美春さんを待ち続けて桜になった・・・・・・」
 忍の言葉は白い水蒸気とともに低い雲に吸い込まれて行った。
 銀二もまた、約束を守ったのだ。
 桜の木になって一年中花を咲かせて美春を待ち続け、あまつさえ自分が桜になったことにすら気付かずに興信所にまで依頼に来たのだ。
 ごうっと風が吹いて二人は思わず顔の前に手をかざす。
 やがて風がおさまり、二人は目を開いた。そして――息を呑んだ。
 桜の木の下に、セーラー服を着た一人の少女が立っていたのだ。
 冷たい風に吹かれて桜ははらはらと花びらを散らす。まるで雪のように。銀二の背中はやがて淡い色の中に溶け込み、見えなくなった。



 銀二は息せき切って桜の下にたどり着いた。
 頭上には満開の桜がある。七十年前に美春とともに見た、あの桜が。
 ラン、ランララララランラン。
 ラララララ、ランランララン。
 ララルラ、ルルララランラン。
 透き通った声が流れるような旋律を刻む。まるで風の中で踊る花びらが歌っているかのように。
 「銀二」
 鈴を転がすような声がした。銀二は耳をぴんと立てて首を持ち上げる。くすくす、と忍び笑いをする声が聞こえた。
 幹の影からいたずらっ子のようにぴょこんと顔をのぞかせたのはセーラー服におさげ髪の美春だった。
 銀二は迷わずに美春に駆け寄り、美春もまた銀二を抱き締めて頬擦りした。
 「ごめんね、銀二。待ちくたびれたよね」
 銀二はぎゅっと目を閉じ、そして開く。美春には分かる。これは銀二の否定のサイン。
 「でも、会えてよかった。ちゃんと約束守ってくれたんだね」
 銀二はぱたりとしっぽを振った。
 「行こう、銀二。これからはずっと一緒にいられるよ」
 美春は銀二を抱いて立ち上がる。銀二は彼女の腕の中で目一杯喉を鳴らして目を閉じた。
 白いものがざあっと舞った。それは吹雪だった。桜吹雪だった。
 ひらり、ひらり。
 ちらり、ちらり。
 くるり、くるり。
 幾千もの淡い花びらが壁を作って風と空の間を舞う。
 いつしか風はやみ、桜吹雪は白い雪に、満開の花は裸の木に変わっていた。
 ちらちらと舞う雪の中に銀二と美春の姿を認めることはできなかった。



 「おう、お疲れさん。寒い寒いと思ったらやっぱり雪になったな」
 興信所に戻った二人を出迎えたのはヒーターの前に椅子を持って来て一服している草間であった。
 「それで、銀二くんはどうなりました?」
 零が心配そうに問う。色は穏やかに微笑んで「ちゃんと美春さんに会えたよ」とだけ言った。
 「ところで草間さん」
 一緒にヒーターに当たりながら忍が思い出したように草間に顔を向けた。
 「今回の調査料はどこから出るんで?」
 草間は目をぱちくりさせる。が、ややあって「あ」と口を開けた。その背後でシュラインの整った顔が引きつった。察した色が腹を抱えて笑い転げる。
 依頼人は猫。無論調査料など頂いていないし、督促のしようもない。
 「・・・・・・武彦さん」
 シュラインの声に草間は恐る恐る振り返る。案の定、シュラインは険しい表情で腕を組んで草間を見下ろしている。草間がごくりと唾を呑む音が忍にまで聞こえた。
 「ま、いいか」
 しかし意外にも、シュラインは腕をほどいて苦笑いを浮かべた。「いつものことですもの」
 草間は心底から胸を撫で下ろした。よほど安心したのだろう、口元の筋肉が弛緩して掃除したばかりの床に煙草がぽとりと落下する。一時間近くかけて床をぴかぴかに磨き上げた零が悲鳴を上げた。
 「お兄さん、なんてことを! 誰が掃除すると思っているんです! お兄さんが責任持ってきれいにしてくださいね!」
 「なんだよ、いいじゃないかこれくらい・・・・・・」
 屋内の騒がしさなどどこ吹く風と、雪は音もなく降り続ける。
 色は窓辺に歩み寄り、コンタクトを外して静かに舞い降りる雪を見詰めた。ひらり、ひらり。ちらり、ちらり。風にたゆとう白い雪は銀色の瞳の中で桜の花びらに変わり、その向こうに銀二と一緒に舞い踊る美春の姿が確かに見えた。   (了)
 





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
2675 草摩・色(そうま・しき) 男性 15歳 中学生
0086 シュライン・エマ     女性 26歳 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
5745 加藤・忍(かとう・しのぶ)男性 25歳 泥棒



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■         ライター通信          ■
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草摩・色さま


お初にお目にかかります、宮本ぽちと申す者です。
「猫の依頼人」にご参加くださり、まことにありがとうございました。
草摩さま、エマさま、加藤さまのお力添えで銀二は幸せになることができました。
銀二に成り代わりまして篤く御礼申し上げます。

草摩さまのような能力を持つかたに来ていただいたおかげで、大変スムーズに美春を見つけることができたと思います。
展開に悩まずに済んだという点でも大助かりでした(笑)

また、今回は依頼人が猫でしたので、お三方は事実上タダ働きということになってしまいました。
その代わりと申し上げてはなんですが、銀二からささやかな贈り物がありますのでよろしければお納めくださいませ。
詳細については加藤さまに納品した本作のラストに記してあります。

それでは、いずれまたお会いできる日を心からお待ち申し上げて、ご挨拶に代えさせていただきます。


宮本ぽち 拝