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夕闇の奥に在るもの
新しい花火を作るため、火薬と炎色剤との配合を手掛けていた。
赤を出すためのストロンチウム、緑を出すためのバリウム。
どんな絵を夜空に描き出そうか。そんな事を考えながら没頭していると、時間なんていうものはいつの間にか過ぎ去っていくものだ。
北斗は、ふと喉の渇きを思い出して、火薬を弄る手を止めた。
――――障子窓ごしにさしこんでくる陽光が、いつの間にかその強度を色薄いものへと変えていた。
「……あっれ。もしかしてもういい時間か」
独りごちて時計に目を向ける。
時計の針は、夕方の四時過ぎをさしていた。
「うっそ、俺、昼飯食ってねえし」
呟き、ようやく空腹を思い出した腹に片手を添える。
空腹を憐れみながら自室を後にして、木目の廊下を踏みしめる。よく磨かれた廊下の板は品の良い艶を湛えてはいるが、歩くごとに小さな軋みをあげる。
――守崎の家は、言葉をよくするならば古きよき日本家屋といった風情のある家屋だ。むろん、言葉を返せば、古めかしいボロ屋に見えなくもない。
長い廊下は歩けば小さな軋みをあげるし、障子窓は定期的に張り替えをしなくてはならない。材木は磨かねばどんどん光を失くしていくし、――手のかかる事この上ない家屋なのだ。
もっとも、この歩き方のぞんざいさは、兄・啓斗に見つかるたびにくどくどとした説教を受けるハメになる。
――――忍としての自覚が足りないんじゃないのか
そんなくどくどとした説教は、しかし、北斗の耳に残った試しは、ただの一度たりともなかったが。
薄ぼんやりとした夕闇を眺めつつ廊下を進み、程なくして縁側を前にした。
夕闇すらも既に色を失いつつあるその中に啓斗の姿があるのを見かけ、北斗は歩みをふと止めた。
啓斗は、相変わらず廊下を軋ませながら歩いて来た北斗に向けて一瞥すると、そのまま再び夕闇へと目を投げやった。
北斗は面倒くさげに頭をばりぼりと掻きながら、兄の隣へと足を向ける。
「十代の健康な男児がさあ、そんな、普段着に和服を着てるってんのも、どうよ」
近付き、兄の傍らで腰を屈める。啓斗は、北斗の軽口に対し一瞥すると、ため息代わりに軽く肩を上下させた。
軽口に対し食いつきが返されないのを知ると、北斗はゆったりと首を傾げ、啓斗の足元に目を向ける。
啓斗はその手に小さな鞠を包み持っていた。
朱の糸で飾りを施し、中に鈴がおさめられている、子供用の玩具だ。
薄汚れたその鞠に目を向けて、北斗は啓斗の隣に腰を据える。
「どうしたん、それ」
声を掛けると、啓斗は北斗に視線を向け、ようやく口を開けた。
「物置の掃除をしていたら出て来たんだ」
「物置の掃除……? ああ、そうか」
大掃除でもしてたんか。そう続け、首を鳴らす。啓斗は視線を再び鞠へと落とし、ゆっくりと、懐かしげな声音で言葉を継げる。
「これで遊んだのは、いつぐらいだったかな」
「んー、すんげえガキの頃だよな」
「……そうだな。……もう、随分と昔の事になるんだよな」
まるで独り言を呟くような口振りで、啓斗はぽつりとそう返した。
暮れていく冬の空は、夕方の五時を過ぎれば最早漆黒色で覆われる。
啓斗の目は鞠からゆっくりと持ちあがり、まるで昼の名残をいつまでも噛み締めているかのような西の空へと向けられた。
小さくなっていく焚き木のような。――懸命になって灯かりを宿し続けている行灯のような。
凝縮された朱を浮かべた空の果ては、それを見つめる啓斗の眼をもほんのりと染めていく。
「……なに。なんかちょっとおかしくねえ?」
啓斗の視線を追いつつ、北斗がじわりと口を開けた。
その言葉に引き戻されたのか、啓斗はゆっくりと西日から視線を外し、手にしている鞠へと目を向ける。
西日の朱と同じ、朱の糸で織られた細工。花を象ったその模様を、幼かった時分、兄弟で口を揃えて嫌ってはいなかっただろうか。――――こんな花柄、女の子が使うものじゃないか、と。しかしその反面で、兄弟は、確かにこの鞠を愛用していたはずだった。地につけば気持ち良く弾むこの鞠を、この庭で。
ふと思い立ったのか、啓斗の手が鞠をつき始めた。自然、北斗の視線もその鞠へと吸い寄せられる。
鞠は、思ったよりも弾んだ。
テン、テンと弾むたび、中の鈴が小さな音を響かせる。
西の空の朱は先ほどよりも色薄いものとなっていて、視界に広がる風景は次第に夜の帳の中へと溶けいっていく。
鞠が弾むその様を、兄弟はしばし言葉もなく見つめた。
ひとつ弾むごとに、夜の闇はひとつ足を進め来る。
ひとつ響くごとに、空の灯りはゆっくりと色を失っていく。
漂う沈黙に耐え兼ねたのか、先に口を開けたのは北斗の方だった。
「……なぁ。そういえばさ、ちっと思い出したんだけど、訊いていいか」
「……なんだ?」
啓斗の視線がゆっくりと北斗に向けられる。
北斗は啓斗の視線と自分の視線とを合わせ、浮かんだ記憶を手繰り寄せるように目を細ませた。
「確かさあ、兄貴、昔、俺に」
そう問いながら啓斗の顔を見る。途端、告げかけた言葉はその続きを成す事なく、北斗の喉の奥へと飲み下された。
――――啓斗の顔に浮かぶ表情が、ひどく虚ろげで悲しいものとなっていたから。
「……いいや、やっぱりなんでもねぇ。つうか、何言おうとしてたんだか忘れちったよ」
北斗が肩を竦めてそう笑ってみせると、啓斗は弟を見遣っていたその視線を外し、弾み終えて転がっている鞠へと顔を向けた。
「……そうか」
陽が沈み、辺りは静まりかえった薄闇で覆われた。
流れる夜風が鞠を転がし、鈴の音が小さな音を響かせた。
北斗は再び訪れた静寂を前に、ばりぼりと頭を掻きむしり、首を鳴らした。
(北斗はさ、おにいちゃんとおねえちゃん、どっちが欲しかった?)
イヤにはっきりと思い浮かぶ懐かしい光景に、北斗は飲み下した言葉を頭の中で巡らせる。
この庭で、あの鞠で遊んでいた時に、まだ幼かった兄は、確かにそう自分に訊いてきたはずだった。
あの時、自分は兄に何と応えたのだっただろうか。
――――それを訊こうとしただけなのに。北斗は啓斗の横顔を確かめて、腹の底で小さなため息を吐いた。
夜風が吹き流れる。
頬をかすめたその冷たさに、北斗は思わず首をすくめた。
「そういえばさ、兄貴。俺、昼食ってねえんだよ。腹減っちまったからさ、早めに飯にしようぜ」
「……分かった」
返事は返されたが、啓斗の視線は鞠を――――夜の薄闇を眺めたままだった。
再び沈黙が色濃いものへとなりそうな気がして、北斗は勢いよく立ち上がり、上着の裾を払う。
「ほんじゃ、今日の夕飯当番は兄貴な! 俺、ちょっと部屋片付けてくっからさ。出来たら呼んでよ」
そう言い残し、啓斗に背を向ける。
冷えて硬くなった身体を解きながら再び廊下を軋ませる。
『その歩き方はなんだ、北斗』
ぴしゃりとそう投げつけてくるであろう啓斗の声は、なぜかいつまで経っても発せられないまま。
北斗は肩越しに振り向いて啓斗の姿を確かめた。
啓斗は、ただぼんやりとこちらを眺めているだけだった。
夜風が流れ、鞠を転がす。鈴の音色が闇を揺らし、啓斗は不意に目を細ませる。
「……北斗は、…………」
自室へと戻っていく北斗の後姿を見送りながら、啓斗はふつりとそう呟いた。
だがその声は弟を呼び止める事もなく、深まりつつある夜の帳に吸いこまれていくばかり。
―― 了 ――
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