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<東京怪談ノベル(シングル)>


愛されてナウマン

 死よりも深い混濁の淵に心地よく酩酊していた僕は、だからだろうか、最果てより微かに響く、稚拙で荒削りな、けれども実に魅力的な呼び声に心を惹かれた。のびきった体の端のごく一部を更にのばし、暖かく澱んだ淵を潜り抜けて、ざらざらした光の粒子に身を晒す。痛いというより……気持ちが悪い。もっとスムースに通過したいと思うのは、贅沢だろうか。
 本体から一時的に切り離され、世界の産道から滑り落ちる刹那――或いは、永遠――何か、異質なものを取り込んでしまった気がする。僕の場所から考えたらやたら明るく、だがどうしようもなく狭苦しい異郷の神殿内に自らを再構築した僕の思考形態は、今まさにそうしているように、まったくもって僕らしくなかった。



 宇奈月・慎一郎(うなずき・しんいちろう)は基本的にはかなりの好青年だが、もちろん只者ではなかった。
 従って夜の夜中に黒猫を抱いた黒衣の美女――高峰・沙耶――がいつのまにやらベッドの脇に立っていても、ずり下がったナイトキャップを直し、眼鏡をかけ、片方の眉を軽く上げただけで、異状を受け入れた。
「お願いがあるの……もちろん、お礼はするわ」
 意味ありげに微笑み胸の谷間に指を滑らせる沙耶の魅力は、しかし、慎一郎に何ら感銘を与えることはない。たかだか皮膚一枚の見栄えと脂肪の造形に、どれほどの価値やあらん。彼は柔和な外見の割に、相当な硬派であった。
 とりあえず、手渡された物を月明りにかざして確かめるまでは。
「はい、喜んで!」
 マニア垂涎のレアアイテム『紳士の社交場・御殿倶楽部』のまだ薄温かい推薦状をパジャマのポケットに仕舞い、慎一郎は勇躍、床を後にし、椅子の背に掛けてあったガウンをはおった。
「で、お願いとは?」
「……をね」
「はい?」
「……を、あのひとを、助けてほしいの」
 慎一郎は眉根を寄せた。沙耶の口調ははっきりしているのに、どういうわけか名前とおぼしき単語だけが聞き取れない。まるで、人間の聴覚では拾えない音で構成されているかのようだ。彼の困惑をよそに、沙耶は言葉を継ぐ。
「あのひとはずっと閉じ込められていた……この世と同じくらい古い石の牢獄に。畏れらてはいたけれど、愛されてはいなかった。私とあのひとは愛の力によって真実に目覚め、ともに愚劣な掟から自由になったの。ピレネーの地の底を振り出しに、私たちは世界を巡った。日の光なんてへっちゃら。姿だって変えられる。私たちの軌跡はいたるところにあるわ。きっとあなたもどこかで目にしているでしょう」
「……微妙に話が見えないのですが」
 洋楽懐メロの対訳みたいな表現ですね、58点、とかなり厳しい評価を下しつつ、慎一郎は控えめに遮ってみた。
「あなた、もしかして高峰さんじゃ――なかったりします?」
 言葉こそ問いかけではあるが、確信はあった。
 対する高峰・沙耶は紅い口の端をうっすらと上げ、答に代えた。たったそれだけで、空調の効いた快適な寝室が極寒の氷原と化す。
「何か問題があって?」
「いえ、別に」
 慎一郎は肩をすくめ、ガウンの上からパジャマのポケットを押さえた。既に報酬を受け取ったのだ。見合った仕事をするのが大人というものだろう。
「それで、具体的にはどうすればよいのでしょう」
「私たち、追われているの。あのひとの兄弟たちが、しつこくて」
「逃亡の手助けをお望みですか」
「ええ。あのひと、お腹が減って躱しきれなかったの。だからお願い」
 沙耶は艶やかな笑みを浮かべた。閉ざされた瞼がわずかに動き、一瞬、長く濃い睫の陰からぎらりと光るものが覗く。
「邪魔者を追い払って頂戴!」
 いきなり沙耶が叫んだ。否、それは声などではなく、およそ人の発するものとも思われぬ響きをもつ“音”であった。応えるように、天井の少し下あたりの闇に亀裂が入る。そこから、濛々たる土埃を捲きながら大きな塊が二つ、まろび落ちた。
「……象?」
 慎一郎の印象もむべなるかな、大きな耳、長い鼻、きらめく牙――“それ”は確かに象に似ていた。とはいえエレファントでもなければ、三日月形の笑った目をした聖獣でもない。むしろ聖とは対極の産物とおぼしきにおいがする。
 だが、獣くさい荒い息づかいとともに牙で突きあい、頭突き、体当たりを繰返して争う様は、耳から奇妙な触手が生えていようと前足が人間の腕そっくりだろうと、何に見えると尋ねられれば「象の本気の喧嘩」としか答えようがない。おかげで絨毯から調度から――自分が誂えたわけではないが、正直、ちょっとした物ばかりだ――寝室内は悲惨なことになっている。宇奈月邸の広さと、象といいつつ牛ほどの大きさなのがせめてもの救いだ。
 まさか巨大化はしませんよね、と部屋の隅で呟く慎一郎に、叱声が飛んだ。
「さっさと仕事をなさい、魔術師さん!」
「あの、すみません、どちらが追っ手なのでしょう」
「牙が折れていない方よ!」
「承知しました」
 慌てず騒がず、慎一郎は愛機に指を走らせる。恙無く構成された魔法陣は熱なき熱に沸き返り、光の矢となって時空を突き抜けた。その軌跡を心の目で追い、たちどころに顕われるであろう存在に思いを致す。いつもながら心の踊る瞬間だ。
 だが。
「あれ?」
 彼方より飛来するはずのものは一向に訪れる気配がなく、代りに足の裏、スリッパごしに絨毯がざわざわと蠢くような、嫌な感触が伝わってきた。おかしい、こんな前触れは想定外だ――
 と、幾度めかの頭突きから力比べとなり、呼吸を計って微動だにしない象もどきたちの足元が、ぶるりと震えた。踏み散らされ均された絨毯から、青みを帯びた半透明の何かがゆるゆると上ってくる。
 ひっ、と傍らの沙耶が息を飲んだ。黒猫が毛を逆立てて唸る。
 固まりかけのゼリーに似た何かに包み込まれ、その下に透けている象の皮膚が見る間にただれ、溶けてはじめている――食われている? 戦いに熱中していた獣達が気づいたときには、既に手後れであった。牙折れ象は前足を一本、追っ手の象はまるまる半身を覆われていた。恐怖と苦痛が、怒りの咆哮に取って変わる。二頭は逃れようと身悶え人に似た手で掻きむしったが、容易く剥がれるものではない。
「やめなさい! やめさせて! ああ、なんてことを!」
「だ、大丈夫です、あれは命じたことしかやりません……たぶん」
 その言葉が通じたのか、どうか。
 牙折れからいま一頭へ、ゼリーは一斉に移動した。いまや全身を仄青く染めた象もどきが、やけに人がましく絶叫する。乾いた声が途中でうがいのような水っぽい音に変調した理由は、考えたくない。慎一郎は、沙耶を顧た。
「今です、さあ早く! お行きなさいっ」
 沙耶は人の姿をかなぐり捨てた。華奢でほっそりとした、しかし充分に不気味な象もどきの喉から音程の狂った金管楽器のような叫びが迸る。牙折れも負傷した足をかばいながら鼻を振り立て、雄叫びを上げた。待ちかねたふうに閉じていた裂け目ががばりと開くと、雌雄二体の怪獣を一口に飲み込んだ。
 唐突に静寂が訪れた。
 ひとまず安堵した慎一郎の耳に、喩えるなら水底から浮き上がった空気の泡が、とろりとした沼の面で弾けたような――あるいはただ礼儀を弁えぬ何かのげっぷのような、こもった音が届いた。悲鳴は、もう聞こえない。視界の外で重いものが崩れ落ちる気配に、慎一郎の肌は粟立った。
「僕は……」
 一体、何を喚んでしまったのだろう。
 慎一郎はのろのろと頭を巡らせ、そして――

 ――目が、覚めた。

 しばし天井を眺めた後、はあ、と溜息をつき、慎一郎は上体を起こした。
 ずり下がったナイトキャップを脱ぎ、眼鏡をかけ、朝日の差し込む室内を見回す。
 どこにも異状はない。
 調度品も壊れていないし、絨毯もふかふかで塵ひとつ落ちていない。ガウンは椅子の背に掛かったままだ。あやしい女も変てこな象もどきもいない。肉食スライムなんか、もってのほかだ。
 それでもなお恐る恐るさぐったポケットには、幸か不幸か何も入ってはいなかった。
「夢、でしたか……」
 なんでまたあんな、と苦笑いのさなかに、はたと膝を打つ。そういえば昨日、骨董市で“ブレイクダンスに興じる歓喜天”という掛軸を前に、画家の意図に首をひねったような……その帰るさ、おでんを求めに寄ったコンビニ前にたむろしていた男子高生達が“黒猫を抱いた謎の美女”について熱く語るの小耳に挟み、微笑ましく思ったような……そんなこんなで旧支配者の駆落ち(ありえない!)の巻、になったらしい。
「変だと思ったんですよね、使役はおろか召還さえも失敗するだなんて」
 目を覚ましていても比較的失敗しがちなあたりは、棚に上げるどころか屋根裏に放り投げる慎一郎である。
「それにしても」
 慎一郎はもう一度ため息をつき、それから、なぜかうっとりとした表情で あらぬ方を眺めた。
「『紳士の社交場・御殿倶楽部』って、何だったんでしょうねえ……推薦状が要るくらいですから、あんな種とかこんな出汁とか、レアでコアでディープな素敵空間に違いありませんよ、きっと……」
 かくして彼は己がイマジネーションのドリームランドに朝っぱらから入り浸る。
 宇奈月・慎一郎、やはり只者ではなかった。



 いつまでも呆けていないで、さっさと横になってくれないだろうか。喚び出しておいて閉じ込めるとはどういう了見だ。この男にとっては単に潜在意識の発露にすぎなくても、僕はこいつの無意識世界を通過しなければ還れないのだ。それも僕の心身を歪めたのと同質の世界でなければ、本来の僕に戻れるかどうかも覚束ない。ところで……あれ、本来の僕、って何だったっけ……てかいっくら腹減ってたからってあんな変なもん食っちゃったりとかしてヤバくね?……いかん、この世界とこの男の……影響、ああ僕が……僕……お、おで……


<了>
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はじめまして、三芭ロウです。
ある意味無敵な慎一郎さんになってしまいました。
なお、版権に抵触しそうな部分は変更しております。ご了承ください。