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□辿り行く銀の道を□
早々にビルの向こう側へと消えた太陽の代わりのように、由代の前に白い息が輝いた。
電球を巻かれた街灯は常よりも明るく街並みを照らしている。冷え切った空気の中で、それらの光はいつもより美しさを増しているようだった。
足早に、そして笑顔で通り過ぎる多くの人々の中をひとり歩きながら、マフラーに口元を埋めて由代は目元だけで微笑む。
今年も例年通りに、騒がしい街には縁のない筈だった。静寂に包まれた自宅の中で気に入りの珈琲などをすすりながら書物へと視線を落とす、これが由代にとっての冬の過ごし方であり、今年もそれを変えるつもりはなかった。
しかし、たったひとつの出会いが『いつも』を変えた。
歩みの先にあるものはいつもの古書店ではなく、これからのひとときを共に過ごすひとのいる場所だった。いつもと違う過ごし方、いつもと違うクリスマス。否応なしに耳に飛び込んでくるクリスマスソングすらも、もう耳障りではなくなっている。
明るさのわき立つ道を、いつしか由代は足早に歩いていた。
和菓子屋の自動ドアを潜り抜けた先には、老婦人の背中が幾つかあった。皆、和服に身を包み、あれやこれやと好みの菓子を選んでいる。
ひとりの老婦人がケースから顔を上げ、店員に何かを聞いた。
訊ねられたのは、由代がこれからの時を過ごす予定の月子だった。和服を着込んだ月子は切れ長の目も相まって勝気そうな印象を見る者に与えるが、その顔に浮かぶのはさっぱりとした笑顔だ。老婦人たちもそんな彼女の語る軽快な説明に頷いたり、時には一緒に微笑んだりしている。
由代は邪魔をしないようにと別の店員を呼び、老婦人たちの脇にあるケースの中から二・三ほど菓子を選ぶと、奥へと歩みを進めた。するとすぐに小ぢんまりとしたスペースが由代の前へと現れる。
コートを脱ぎ、渋系色のスーツ姿となって座りなれた窓際の席へと腰を降ろせば、見計らったように黒の盆がテーブルへと置かれた。漆塗りの皿の上には先程選んだ菓子がころころと、身を寄せ合う子どものように並んでいる。
「ありがとう。……おや」
由代は顔を上げると、僅かに目を見開いた。
まだ接客中だろうとばかり思っていた月子が、盆を抱えて立っている。販売ブースの方はいつしか人気がなくなっていた。
「いらっしゃいませ、城ヶ崎さん」
「こんばんは。君が運んできてくれるとは、嬉しいね」
「相変わらずお上手なんですから、もう」
そう言って月子はくすくすと笑うと「もう少しだけ待っていて下さいね」と残し、新たにドアを潜ってきた客の相手をするべく歩いていった。
由代は軽く手を挙げて見送ると、和菓子を切り分け口へと運ぶ。洋菓子のそれとは違う、餡独特のさらさらとした甘さが舌の上へと広がり、しばらくそれを堪能した後は茶で舌を新しくする。そしてまた、口に運ぶ。
しばらく菓子を味わう事に専念していた由代は、茶に口をつけると溜め息をついた。寒さでかじかんでいた身体がゆっくりとほぐれていくのを感じながら、改めて店内を見渡す。
落ち着いた色彩で統一された店内は、賑々しい時期の行事とは無縁のようにあくまでもいつも通りだった。けれど閑散としているわけではなく、客はぽつりぽつりとではあったが絶えず訪れている。そのせいか店内の空気はいい具合に動いているようだった。
もう一度茶を含む。居心地がいいというのはきっとこういう場所の事なのだろうな、と考えながら窓の外をぼんやりと眺めていれば、ふと新たな気配が横に立った。
「何を見てらっしゃるんですか?」
声は月子のものだったので、由代は窓から視線を外さずに問いへと答えを返す。
「いや、雪でも降らないかなって思っていたんだよ。きっと白いツリーにも映えるだろうし」
「そうですね、きっと綺麗だわ。――――さて、それじゃあ行きましょうか。あたしもう立ちっぱなしでお腹ぺこぺこです」
「そうだね――――……」
頷きながら月子がいるであろう方へと向き直った由代は、続く言葉を一瞬忘れた。
そこにいるのは間違いなく月子だったが、しかし由代が知っている『いつもの月子』ではなかった。常にその身を包んでいたのは着物であり、今日もまた例外ではないとばかり思っていた由代は、目の前の光景にある種の衝撃にも似たものを感じながら彼女を見て、目を細める。
襟にファーをあしらった白のコートはシンプルなデザインだったが、けれどそれはよく月子に似合っていた。その下に着ているシックなワンピースも、女性らしい体つきをしている彼女の全体的なラインを美しく見せており、腰の辺りにそえられたリボンと銀のブローチが全体を引き締めるアクセントとなっている。
「どうかしましたか?」
由代はコートを手に立ち上がりながら答えた。
「いや、すまない。君が洋服だというのが珍しくてね」
「あらひどい。あたしだって着物だけ持っているわけじゃないんですよ? でも、もしかして……似合っていません?」
「そんなことはないさ、君は何でも似合うなと驚嘆していたところだよ」
「もう、お上手なんですから。……でも、嬉しい。ありがとうございます」
そう言ってはにかむと、月子は照れ隠しのように続ける。
「ええと、それじゃあ行きましょうか!」
「うん。しかし早く行きたいのはやまやまなんだけれど、まだ君のところの新作を買っていないんだ。だからもうちょっとだけ待っていてもらえるかな?」
「あ……そうそう、うちの自慢のお菓子もきちんと見て行ってもらわなくちゃ。嫌ですね、あたしったら先走って」
月子は苦笑しながら手にしたバッグを持ち替え、先に立って由代を菓子のケースへと案内した。
先程、老婦人たちが集っていた場所は新作のケース前だったらしい。由代が入ってきた時は見れなかったガラスケースの前に立つと、白を基調とした上和菓子が整然と並べられていた。雪をモチーフにしたもの、ささやかに開かれる花をイメージしたものなどの目にも楽しい菓子が、黒の箱の中で今か今かと買われる時を待っている。
傍らで説明をする月子の言葉に頷きながら、それらを一通り選んで箱に詰めてもらい、二人は店を後にした。
「季節ごとにあんなに新作を考えるなんて、和菓子職人というのも大変なんだねぇ」
感嘆したような様子の由代に、月子は頷いてみせる。
「あれはほんの一部らしいですよ。使われなかったのも考えれば、その二倍や三倍の案が存在しているとか」
「なるほど。……ああ、そこの角を曲がろう」
「あら、こっちは意外と明かりが少ないんですね。あまり通ったことがないから知りませんでした」
角を曲がる、それだけで道は不思議なほどに静かになった。ネオンは全て大通りの方に向かっており、人は通ってはいるが今まで歩いてきた道と比べるとまばら、としか言いようがないくらいだった。
そんな道を和菓子の事など語りながら歩いていくうちに、由代がとある看板の前で足を止める。つられるようにして月子もまた立ち止まった。
「ここは……」
目にも鮮やかな赤の看板の後ろには、温かみのある明かりが幾つも点っている。寒さに包まれているこの場所で、その店は暖炉のような輝きを静かに放っていた。
「ここにはたまに来るんだよ、なかなか美味しいフランス料理を出す店でね。さあ、どうぞ」
「あ、はい」
促されて前へと進めば、青年がちょうどドアを開いて待っていた。由代が名を告げると、心得たように奥の席へと二人を案内していく。
店内はブラウンとクリームの二色で構成されており、調度品も相まって落ち着いた印象を訪れる者に持たせる。少な目に置かれたテーブルは既にほぼ満席で、皆それぞれが料理と会話に舌鼓を打っていた。時折、笑い声などもささやかにあがっている。
「こちらです」
ウェイターが去り、席についた月子が軽く息を吐いたのを見て由代は微笑む。
「疲れてしまったかな?」
「そんなんじゃありません。ありませんけど、実はあたしこういう場所って慣れていなくて。……何かへましても笑わないで下さいね」
「そんなに緊張しなくても大丈夫さ。テーブルマナーはもちろん大事だけど、何よりここには料理を味わいに来ているのだから、料理を楽しめればそれでいいと思うよ。ああ、でもまずは君がこの店を気に入ってくれるといいのだけれど」
「あら、それは全然心配していませんよ。この前連れていって下さったお店もいいお店でしたし、城ヶ崎さんが通っているところなら美味しいお店なんだなって思います」
「人の好みもいろいろあるが、僕と君の好みが合えば嬉しいね。……さあ、それではまずは乾杯しようか」
その言葉を受けて、月子が切れ長の瞳を細めてグラスを手にする。
「何に乾杯しましょうか?」
「そうだね……」
一瞬の後、由代は静かな笑みを浮かべてグラスを浮かせた。
「幸せなクリスマスに――――なんて、どうかな?」
月子もまたグラスを掲げて微かに揺らし、そして笑う。
「ええ。――――幸せなクリスマスに!」
食事を終え、見送りを受けて再び外に出ると、冷え込みは更に増しているようだった。
「すごい。久しぶりですね、こんなに寒い日って」
「僕もこんな空気は久しぶりだ。……空をごらん、いつもより星がはっきり見えている。空気が澄んでいるのかな」
「綺麗……。そうだ、城ヶ崎さん」
「何だい?」
子どものような瞳をして、月子は由代へと向き直る。
「この前話していた中央のツリーを見に行きませんか? 今日が最終日なのもあってあの辺りは色々飾りつけられていて、とても綺麗らしいんです」
ついでに下から見上げて、あの大量の飾りをぶら下げている幹がどのくらい立派なのかも、確かめてみましょうよ。
今日の約束を取り付けた日の会話を思い出し、由代はその言葉に微笑んで同意する。
二人は中央への道を歩く事にした。タクシーを呼ぼうとした由代を月子が止めたのだった。その耳が赤くなっているのを知り、寒くはないのかと問いかけたが、月子はあくまでいつもの勝気そうな笑顔を見せて大丈夫、と胸を張った。
「ではこうしようか。君がくしゃみをしたり風邪を引きそうだなと思ったりしたら、その時点で僕は携帯を叩いてタクシーを召喚する。どうだい?」
「受けてたちます。あたし、こういう事には強いんですよ」
再び大通りへと戻ると、人波は相変わらず途絶える気配も見せてはいなかった。
波に乗るようにして人の狭間を二人は歩く。月子は勤めている和菓子屋に来た客の事や和菓子の作り方を、流れるように話した。由代はそれに相槌をうち、細工の仕方などについて時折意見や疑問を挟む。それにまた月子が答えるといった風に、会話は止め処なく続いていた。
割と開けた場所に出たのは、そんな会話を何度か繰り返した時だった。いつしか足元がレンガ調に統一されており、店が軒を連ねている。全体的に白と青で飾られている街並みを見て、二人はツリーの場所がもう間もなくであるのを知り、互いに微笑みあった。
そして華やかなショーウィンドウの前を通り過ぎるうちに、いつしか話題はそれらの品々へと移り変わっていく。
今、二人は足を止めて花の匂いの中に立っていた。店の奥から今にも押し寄せてきそうな花の群れが、銀の円筒に入れられてガラス越しに道行く人々の目を楽しませている。幾種類もの花の中、店主らしき女性は赤い手をしながらも注文された花に手早くラッピングをし、一組の男女へと手渡していた。
由代はそんな様を何とはなしに見ていたが、屈んで花々を見ていた月子が小さく声をあげたのに気付いて視線を戻す。
「城ヶ崎さん、面白いかたちの花がありますよ」
ほら、と指差す通りに見てみれば、銀の円筒の中から伸びている茎の先に、釣鐘のような橙色の花がひっそりと息づいているのが分かる。触れればまるで鐘の音でも鳴らしそうな形のそれに、月子はじっと不思議そうな目を向けていた。
「変わった形ですね、ホタルブクロみたい」
「でもあれよりは小さいなあ。――――すみません、これは何という花です?」
仕事がひと段落したらしい青年店員に呼びかけると、彼は「ああ、これはサンダーソニアっていうんですよ」と水の入った円筒を置きながら答えた。
「こんな形をしていますが百合の仲間でしてね。小さくて可愛らしいでしょう? その形と色合いから、ご婦人方に人気があるんですよ。そうだ、今日はクリスマスですしそういった意味でもぴったりの花だと思います」
「というと?」
「サンダーソニアは別名、クリスマスベルともいうんですよ。――――はい、いらっしゃいませ! ではどうぞごゆっくり」
別の客に呼ばれて去っていく青年の後ろ姿を見送ると、由代は再びガラス越しに橙色の花へと視線を落とした。
「クリスマスベルか、なるほど。色といい形といい、可愛らしい鐘だ」
「本当。これ、もしも鳴ったらとても素敵でしょうね。一斉に鳴るとちょっと騒がしいかもしれないけれど、うるささにサンタもびっくりして空から落っこちてくるかも」
少女のように目を輝かせて花を見続ける月子の姿を見て由代はふむ、と顎を撫でると、そっとレジへと歩いていく。そうして店員と何度か会話を繰り返すと、月子のもとへと戻ってきた。
由代がいないのに気付いて姿勢を戻していた月子は、どこへ行っていたのかと訊ねたが、由代はぽんと肩を叩いて店を出るように促した。
わけの分からないまま外に出た二人だったが、由代は夜空を見上げるだけで一向に歩こうとはしない。
「どうしたんですか?」
そんな問いにも返ってくるのは笑みひとつだけで、月子は首を傾げながらも由代の隣に立ち続ける。
寒空の下に声が響いたのは、五分の後。花屋の奥から現れた店員は丁寧にラッピングされた花束を由代へと手渡すと「ありがとうございました!」の声と共に再び店内へと消えていく。
由代は何が起こっているのか分からない、といった様子の月子へと、静かに花束を差し出した。
ピンクのフィルム、その向こうからのぞくのは幾つもの橙色の釣鐘。グリーンとかすみ草でシンプルに彩られたその花束は、月子の白いコートの上で静かに、けれど鮮やかに咲き誇っていた。
「メリー・クリスマス、高柳さん」
月子はしばらく両腕に花束を抱えたまま、呆然とした風に由代を見上げていた。
だがやがて何かに気付いたようにはっと息を呑むと、片手を開けてバッグの中を探り、ラッピングされた細長い包みを取り出した。今度は由代の目が点になる番だった。
上気した頬を微笑みのかたちにしながら、月子は言う。
「メリー・クリスマス、城ヶ崎さん」
由代は差し出された包みを受け取ると、軽く目を見開いて前を見た。月子は花束を大事そうに抱きかかえながら「これでびっくりもおあいこです」と言い、彼女らしい笑顔でころころと笑った。
つられるように由代もまた、笑う。
「これは……もしかしてネクタイかい?」
「はい、あとタイピンも一緒に」
「ありがとう。驚かすつもりが逆に驚かされてしまったね」
「ふふっ、もう本当にびっくりしましたよ」
白い息を吐きながら花束を持ち直した月子は一瞬だけ目を閉じて耳を澄ませたが、すぐに花束の中の橙色を見て肩を竦めた。
「やっぱり鳴りませんね。当たり前といえば当たり前ですけど、少し残念」
「まったくだ、鳴ったらとても楽しかっただろうにね。――――さあて、そろそろ目的地へと行くとしようか。それにしてもすっかり冷えてしまっただろう? 大丈夫かい」
「あたしならぜんぜん――――っくしゅ」
沈黙が二人の間に漂った。
月子は口元を押さえたまま固まり、由代は瞬きを繰り返している。
「………………」
そんな空気から復活するのは由代の方が早かった。彼は少しだけ笑うと己のマフラーを取り、寒さとそれ以外の理由で首を竦めている月子の肩へと優しく巻きつけていく。
「あの、あたしなら大丈夫です! それに、これじゃ城ヶ崎さんが……」
「僕の事なら気にしなくていいよ、これでも結構丈夫な方でね。――――本当ならさっき言った通りにすぐさまタクシーを呼ぶべきなんだけれど、ツリーはもうすぐそこだし」
由代の指し示した方角には、確かにツリーらしきものが建物の狭間からのぞいている。
視線を戻した月子は楽しげに目を細める由代の瞳と出会い、知らず花束を握る手に力を込める。
「どうだろう、タクシーの代わりに僕のマフラーで暖を取りながらツリーを目指すというのは?」
月子はそっとマフラーに触れてその暖かさを確かめるように指を滑らせると、耳を赤く染めながら頷いたのだった。
星降る聖夜、雪の如く白銀の輝きを散らすクリスマスツリーへと二人が辿り着くのは、もう少しだけ後の話。
END.
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