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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


『blindfold  ― 目隠し ―』


 1431年。ルーアン。
 教会の尖塔の天辺にある牢獄。


「ごめんね、縁樹。私が聞きたい、見たい神の奇跡は、あなたではない」
 赤い瞳は大きく見開かれ、そしてぼろぼろと大粒の涙を零し始めた。
「もう何を言っても無駄なんだね。あんたにはボクらの声は届かない?」
 ノイもまた、悲しげな声で訊く。
 やはり彼女は、彼にも頷いた。
「さあ、私はここにいる。だからあなたたちはもう逃げて。ありがとう、縁樹。ノイ」
 縁樹は聞かない。
 彼女は悲しげな顔をする。
 ノイは彼女を見て、そして彼女は頷いた。
 彼女はノイを哀れんでくれていた。そしてノイのために微笑んでくれた。覚悟を、彼女はノイに見せてくれた。だからノイは縁樹のうなじに手刀を、叩き込んだ。
 ノイの姿は人と同じになっている。
「さようなら」
 ノイは気絶した彼女を両腕で抱え上げる。
 彼女も頷き、それから、
「ノイ。私の十字架は取り上げられてしまった。だから縁樹の十字架をください」
「うん。縁樹も喜ぶよ」
 ノイは一生懸命笑おうとしたけど、でもそれが笑みになってはいない事は、優しく綺麗に微笑む彼女の瞳に映る自分の顔を見れば、わかった。


 人の表情は、心を形表すモノなのだから。
 感情にならぬモノは、表情にもならない。


 そして次の日、彼女は処刑された。19歳の若さだった。


 果たして彼女を裏切ったのは、神なのか、人なのか………



 ――――ノイはその事を今も覚えている。
 縁樹は彼女の騎士の胸で泣きじゃくりながら彼女を見送った。
 そして、その硝子細工の心は救えなかった命に壊れ、


 あいつが現れた。


 闇から伸びた両手。
 縁樹の目を目隠しする。


 心を壊すモノから目を隠す。


 見ないようにする。



 ―――――――――「忘れておしまい、縁樹。私の大切な娘よ。おまえの心を壊すモノは綺麗さっぱりと忘れるのだよ。心を白紙にして、もう一度生まれ直すんだ、おまえは。綺麗な綺麗な、純粋な真っ白な心を持って。心壊すような悲しみなど何も知らずに」



 ノイはそれを見ていた。
 縁樹の大切な思い出。
 誰からも相手にはされない裸の王様に神の声を聞いて会いに行く彼女と出会い、それから彼女を助けて、共に王のために、民衆のために戦い、彼女の騎士と共にお酒を飲み交わした事も、何もかも忘れて………。



 縁樹。ボクが覚えておいてあげるよ。
 あの綺麗な星月夜の下で、皆で心地良い風に吹かれながらお酒を飲み交わし、彼女や、彼女の騎士たちの顔を、ボクの顔を見回して、とても楽しそうに、嬉しそうに、縁樹が笑っていた事を。



 忘れた記憶。



 1789年 7月14日
 バスチーユ牢獄襲撃。


「縁樹。縁樹。どうしましょう? どうしてこんな事になってしまって…。私はどうすれば?」
 小さな顔を両手で覆って泣きじゃくる彼女を縁樹はぎゅっと両腕で抱きしめた。
 彼女たちは何も知らなかった。
 民衆の苦しみを。生活を。
 それは彼女たちの業だ。罪だ。
 そう、業。罪。もっとも尊き血が、先に流れる。上に立つ者は、下々の事を知らねばならない。
 しかし彼女たちはそれを知ろうとはせずに、挙句の果てにパンが無ければお菓子を食べればいい、とまで言ってしまった。
 縁樹とノイも最初は民衆のために彼女に謁見した。
 しかし縁樹もノイも、そこにいるのは国を治める者として立つ者ではなく、ただ物を知らぬ子どもである事を悟り、そして決定的に彼女がそうである事は彼女の環境ゆえである事を知り、絶望を悟る。
 そして彼女を救いたいと望んだ。
 人は変われる。
 彼女がこうなのは、彼女の環境がそうである事を許す環境であるからだ。
 だから縁樹はノイに反対されつつも、彼を説得し、彼女に教えようとした。
 上に立つ者の責任を。
 それは民衆のために。
 そしてもう、上に立つ者に間違いを犯させないように。



 民衆のための真の王、それは彼女の夢でもあった。イギリスの兵に家族を殺されてしまった彼女はそれを切に願い、そしてそのために戦っていたんだから。



 あれ、彼女?



「縁樹、どうした?」
「ううん。何でもないよ、ノイ。でも、あれ? 変だな。何か、ボタンの掛け間違い…そんな気がして………。あれ?」



 しかし時間はそれを許さなかった。
 民衆はとうとう暴動を起こしたのだ。
 自分たちの生活のために。
 愛する者の未来のために。
「えんじゅぅ」
 幼い子どものように怯えて泣きじゃくる彼女を縁樹は必死に宥め、そして彼女のために働いた。
 何としても彼女の命だけは救えるように、と。
 だがしかし、1789年10月5日 ヴェルサイユ宮殿は民衆に襲われて、彼女は捕まってしまった。
 それから縁樹は1791年 6月21日 彼女を救い出そうとするが、それは失敗してしまう。


 それが縁樹の真っ白に消されてしまったはずの心を、だけど魂は確かに覚えていて、それが、記憶の奥底から、迸り出た。



「イヤァァァァ―――――」
 縁樹は民衆に捕まり、入れられた牢獄の中で頭を抱え込んで、悲鳴をあげた。
 悲鳴をあげ続けた。
 彼女の口から迸り出るのはもはや声にすらなってはいなかった。
 彼女はただただ深い悲しみと絶望を音にして、吐き出した。
 ぼろぼろと涙を零し続けた。
 細い身体を震わせ続けた。



 ―――――――――「ああ、これが人か。人の心はかくも不思議なものだね、娘よ。確かにおまえの心は消したはずなのに、しかし魂がそれを覚えている。まるで時折人の魂が輪廻転生の果てにまたこの世に生れ落ちても、まだ尚前世の記憶を想いとして、その心に抱き続けるように」
 牢獄にある闇から伸びた両手。
 それが泣きじゃくり、感情の音を迸らせる縁樹の両目を覆う。




 おまえは私の大切な娘。お前に与えた心はだけど、もう壊れてしまった。
 だから生まれ直す時間だよ。親が大切な娘にキャベツ畑のコウノトリを信じさせるように、私はおまえの心を真っ白に直す。


 腕に続いて、水面から浮き上がるように男の顔が現れる。
 鬱々とした、どろりと心に絡みつくような声で感情を失った縁樹の耳に囁き、
 優しい、子どもを見守る親のような笑みを浮かべながら、縁樹の両目を隠す。



 1793年 10月16日
 王妃は処刑され、それを遠い異国の地で聞いた縁樹は、しかし人並みの感情しか見せなかった。
「そうか。悲しい事だね。でもこれでその国の人たちも少しは暮らしやすくなるんだから、平和になるように、皆には頑張って欲しいよね」
 縁樹は祈るように笑った。




 心壊すような悲しみなんか、失ってしまえばいい。
 ボクは縁樹の悲しむ顔は見たくない。
 それがボクの大切な縁樹の心を壊すのなら、それならボクはあいつの、ボクらの創造主たる影のやる事を許す。
 縁樹には笑っていて欲しいから。
 悲しんでもらいたくないから。
 忘れて、幸せになってくれればいいから。
 縁樹が体験した悲しい事は全部ボクが、覚えているから。
 業は、全てボクが背負うから。
 縁樹。
 縁樹。
 ねえ、縁樹。許してね。
 ボクはただ縁樹の幸せだけを願っているんだ。
 忘れられるなら、悲しい思い出なんか忘れてしまった方がいいから、だからボクは縁樹にこの事に関してだけは嘘を吐く。
 心を知るために縁樹を作った影と、ボクはこの事に関してだけは、共犯になる。
 そのためになら全てを忘れて真っ白な心で笑う縁樹に、ボクは作り笑いを浮かべられる。


 ねえ、縁樹。許してね………


 許して………くれないかな?



 それでもボクは縁樹、君が、大好きだよ。


 縁樹…・・・・・・




 ――――――――――『blindfold  ― 目隠し ―』



 それは常々思っていた。
 人の心とは何なのか、と。
 それを知るために彼女は繰り人形を作った。
 それは彼女の娘。名前は如月縁樹と言う。
 実験だ。
 それに心を持たせて、色んな事を体験させる。
 喜怒哀楽。どのような時に、どのような感情を抱くのか。それを知るために。
 心の成長。心の形。心の色。心の匂い。
 どのような環境に放り込めば、どのような心になるのか?
 それは縁樹でその実験を繰り返した。
 ノイ、という人形はどんな縁樹にもよく仕えていた。
 その人形が居る環境が彼女にもたらす影響は大きいようで、何回その心をリセットしようが、縁樹は似たような心を得る。
 それはひょっとしたら魂の方向性かもしれない。
 魂は繋がっている。
 研究をした。他にも。
 そうすれば人とは面白いように心は忘れてしまっているが、魂が覚えている前世の記憶に踊らされる事がある。
 そして世界は一つではない。
 多くの世界、パラレルワールドが存在し、そこに存在する同じだけど、同じじゃない人たち、しかしその在りようは同じ。
 心とは魂と同じなのだろうか?
 それはますますその心への興味を増させた。
 研究をし続ける。
 何度も縁樹を使って。


 如月縁樹。
 その肉体も、
 魂も、
 記憶も、
 心も、
 それが作ったモノ。
 偽骸。
 ただのプログラム。限りなく心に近い、だけど確かに紛い物の心。プログラム。
 それを驚かせたのは、縁樹が持つ心はただの実験のためにそれが作ったプログラムに過ぎなかったのに、確かにそれは、人の心となった事。
 まるで人間が語り継ぐ童話のように。
 それはそれを面白いと思った。
 縁樹が持つ想いが偽の心を本物の心にしたのだろうか?
 ならばその心に、縁樹に真実を告げたのなら、その心はどうなるのだろうか?
 それを考えた時、心が打ち震えた。
 しかしそれはもう少し先。
 今は他の実験をしよう。
 だが今回のその実験は、少々惨たらしい実験で、それをすれば縁樹は壊れてしまう。だから他の心でその実験をしよう。
 そうしよう。
 それは闇から人の世に姿を現した。
 全身黒尽くめのセールスマン、影。
 ――――それがこの世界でのそれの仮初の姿。



 +++


「温かい」
 縁樹は焼き栗の入った紙袋を頬に押し当てて、にこりと微笑んだ。
「本当だね、縁樹。すごく温かいよ」
 縁樹の肩に乗っているノイも紙袋に頬を当てる。
「それでこの温かい焼き栗を持ってこれからどこへ行くの、縁樹?」
「うーん、そうだね。草間さんの所とか、どう?」
「ボクは縁樹が行きたい場所ならどこへだってお供するよ」
「うふふふ。ありがとう、ノイ」
 そして縁樹とノイは草間興信所へと出向き、彼女と出逢った。
 それは縁樹に涙を、そしてノイにより深い罪悪感を抱かせる事になった。



 +++


 草間興信所。
 そこに持ち込まれた依頼は彼、草間武彦が待ち続けたような依頼だった。
 彼に依頼を持ち込んだ彼女は記憶喪失だった。
 その夜にあった事を思い出したい、真実を知りたい、それが、彼女の依頼だった。
 半月前に彼女は殺人事件に巻き込まれた。
 殺されたのは母親だった。
 密室殺人だ。
 完全な密室の状態の部屋で彼女の母親は腹部を刺され、亡くなっていた。
 犯人は未だに捕まらず、それは迷宮入りが囁かれていた。
 それはしょうがない。その日の夜の事は誰も目撃者が居ないのだ。
 そして彼女はその日の夜の記憶を失っていた。
 いや、彼女が犯人だとは誰も思ってはいない。記憶を無くした彼女が別荘で発見された時刻に、遠く離れた現場で彼女の母親は殺されたのだから。
 だがその彼女の失った記憶に事件の犯人への手がかりがある事は確かだ。
 そんな異常なことが、無関係な訳が無い。
 そしてそれに縁樹とノイもまるでそれが運命であり、当然の如く巻き込まれ、草間武彦の仕事に協力する事になる。
 しかし………
「どうした、ノイ? おまえらしくなかったな。縁樹のやろうとする事に反対するなんて」
 ノイは縁樹が彼女の記憶を取り戻す事に協力する事を嫌がった。
 珍しくやる気満々の縁樹に渋り、記憶を無くした依頼者を心配する彼女を怒らせ、自分ひとりでも協力すると駄々をこねた縁樹に最終的にはノイが折れたのだ。
 それでも二人の間に入った亀裂は大きく、ノイはまだ犯人に狙われているかもしれない彼女の護衛役となり、縁樹は草間とコンビで彼女の母親の事件を調べる事になったのだった。
 そしてその縁樹の準備時間の間に草間は不貞腐れているノイに声をかけた。
 サングラスの奥で草間は、そういえばいつになく頑なで、我を押し通そうとした縁樹にも訝しみを覚え、目を細めた。
「記憶、に関係があるのか?」
 ノイはどきりとした。
 さすがに鋭い。
「しかし縁樹が記憶喪失だとか、そういう話は聞いた事が無いが? それとも過去におまえらが関わった人間の話か? いや、前者か。前者だな。後者なら、おまえらの意見が分かれるはずは無い。おまえは縁樹の意見を支持するはずだ。そうだな」
 もしもノイが人間なら汗を流しただろう。しかし彼は人形だ。
 そしてノイは頑なだった。
「うるさいな。関係ないだろう、あんたには! ばーか。ばーか。ばーか。グラサン」
 あっかんべーをする。
 草間はしかし呆れた表情も怒った表情もしなかった。彼は大人なのだ。
「ノイ」
 真摯な声で諭され、ノイはショックを受けたような顔をする。
「ごめん。でも悟ってよ。人には言えない事があるだろう」
 顔を逸らし、ノイが言う。
 草間は、
「そうだな」
 と、頷いた。
 そして煙草を口にくわえ、火をつける。
「だったら俺はもうおまえが俺に話そうと気を変えるまでは聞かない。ただ、力が必要になった時は遠慮なく俺を頼れ。そしたらこれまで協力してくれた分を差し引いた金額で、おまえからの依頼を俺が引き受けてやる」
 それは力強い言葉だった。
 ノイは自分の身のうちに、人形なのに温かいモノが広がっていくのを感じる。
 ありがとう、ただそう一言伝えたかった。だけど、
「うわぁ! 何、この人? タダじゃないのかよ??? すんげー、ケチだね。さすがは草間さん」
「ほかっとけ。こっちはプロで慈善事業じゃないんだからな」
 二人はくすくすと笑いあった。
 それがノイなのだ。



 +++


「ごめんなさい、草間さん。ノイが我がまま言っちゃって」
 どこか親に怒られてしゅんとして、不貞腐れた子どものように縁樹は言った。
 草間は苦笑しながら肩を竦めて、それから縁樹の頭をくしゃっと撫でた。
 男の大きなごつごつとした、煙草の匂いが染み付いた手で頭を撫でられた縁樹は長い睫を瞬かせ、そしてくすりと嬉しそうに笑う。
 ひょっとしたらお父さんって、こんな感じなのかなー。
 温かくって、大きくって、優しくって、力強くって。
 お父さん………
 僕にもお父さんが、居たらな。
「どうした、縁樹?」
「え。いえ、何でもないです。えっと、帰る時に何かケーキとか買っていきませんか?」
 ノイと依頼者の彼女のために。
 そう言うと草間はけたけたと笑った。
「そうだな。子どもとの仲直りは物を奉納するのが一番だ」
「はい。ノイは僕の弟ですから」
 縁樹はそしてあなたは僕のお父さんです、とはにかみながら心の中で付け足した。



 +++


 それは繰り人形である彼女の主。
 創造主。
 本当の、父親。
 影。
 彼はとても暗鬱な目で草間武彦と、そして彼の繰り人形であり、娘でもある如月縁樹を見据える。
 彼女の胸に輝く十字架。過去の如月縁樹であったその記憶は確かに消してやった。しかしそれが彼女の魂が未だに過去の如月縁樹を覚えている証拠だ。
 ではそれを思い出したら、心はどうなるのであろうか?
 縁樹の父、影の今回の実験は、まさにそれだった。
 心が数多く持つ機能の内のひとつ。忘れる、という事。心を壊さないように、壊すような事柄は忘れる。
 ではその忘れた事柄を思い出すような事があれば、その時、その心は…・・・・・・
 影はふふんと笑う。
 その実験材料とするには、娘は惜しすぎる。
 今の娘、如月縁樹はこれまでのどの如月縁樹よりも、人間らしい心を、人間の心を有していた。
 その心はまだまだ実験材料となるのだから。
 ならば、他の心で。
 そしてたまたま偶然影は、草間興信所に持ち込まれた依頼を知ってしまった。
 密室殺人の謎。
 忘れられた彼女の記憶。
 面白い。
 そして影は、動いた。
 くすくすと笑いながら。



 +++


「ごめんなさい」
 彼女はしょんぼりと言った。
 ノイは彼女の顔を見て、ふるふると、顔を左右に振る。
 それから、しばらく躊躇って、口を開いた。
「あの、記憶を無くすのって、辛い?」
「うん。怖いよ。記憶が無いの。怖い。怖すぎるよ。不安だよ。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。不安で、怖くって、悲しくって、心が壊れてしまいそう。ごめんなさい」
「じゃあ、思い出したい? その、例えば・・・・・・・・・思い出して、それが悲惨な現実に繋がったとしても・・・・・・・・・」
 ノイは目を泳がせながら訊いた。
 彼女はうん、と頷いた。
 部屋の片隅にあるグランドファザークロックの時を刻む音だけが、他に動く物も、音を奏でる物も無い空間の中で、音を奏でている。
 重苦しい沈黙が二人の間にある空間を埋める中で、それを壊そうとするかのように、虚しい努力をしている。
 ノイは縁樹の事を思い出していた。
 最初の縁樹。
 処刑された彼女の事を悲しむ縁樹。
 助けられなかった彼女の事に心を壊した縁樹。
 たくさんの縁樹の悲しみを、思い出していた。それを彼女が思い出したら?
 そしてノイは思う。
 縁樹を影から救い出したとする。
 そしたらその時は、彼女はどうなるのだろうか?
 糸繰り人形が動けるのは、糸で、繋がれているからだ…・・・・・
 ―――――じゃあ、その糸が切れたら人形は・・・・・・・・・
 縁樹はどうなろうが、結局はその進む先には、彼女にとって破滅があるだけで・・・・・・・・・



 ノイは一度、大泣きした事がある。
 フランスの街中で、人形師が人形劇をしていた。
 それは箱庭で暮らす魔女の娘の話。
 魔女の娘は四季の花々が咲き乱れる箱庭で幸せに暮らしていました。
 しかし彼女は少年に出会い、少年は箱庭に閉じ込められた娘を哀れに想い、連れ出しました。
 しかし連れ出した瞬間、魔女の娘は世界に存在する事が出来ずに、消えてしまいました。
 魔女の娘もまた、魔女の魔法だったのです。
 魔女の娘は、箱庭で、魔女の手の平の上で、生きているしかなく、それが彼女にとっての幸せだったのです。



 チャイムが鳴った。
 彼女は玄関へと行く。
 ノイはどのような事が起きても大丈夫なように、コタンコロカムイの羽根を手にし、スタンバイする。
 しかしその声を聞いて彼は、その場に座り込んでしまった。



 +++


 玄関が開けられる。
 その顔色の悪い娘は、少し訝しげに自分を見る。
 影はにこりと営業スマイルを浮かべる。
「私はこういう物です」
 名詞を渡し、それから彼は懐から小さな小瓶を取り出した。
「この小瓶の液体は、あなた様の失われた記憶、それを取り戻せる薬でございます。それをお飲みください。そうすればあなたは、失った記憶を思い出します」
 差し出したそれを、彼女は受け取った。



 +++


 ばたん、と閉じられた玄関の扉。しかしノイは動けなかった。
 それがこの家から出て行っても、まだ尚、それの気配がノイを縛っていた。
 そしてノイは直感した。
 これはあいつの実験だ。あいつは心に執着している。
 だから、忘れている記憶を取り戻したら、その心はどうなるのか、と、実験をするつもりなのだ。
 あいつが考えそうな事だ。
 そして、それを邪魔したら、そしたら影は絶対に縁樹に…・・・・・・



 縁樹と彼女、大切なのはどっち?
 守りたい、縁樹を―――
 縁樹を守るなら、それならそのためには、他の何者も犠牲にして、そしたら・・・・・・・・・
 ―――――自分は彼女を、見捨てて…・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 天秤は、呆気なく…・・・・・・



 ノイは耳を両手で押さえ、
 そして瓶が床に落ちて、割れた音を奏でたその後に、彼女は悲鳴をあげた。



 +++


 影は闇の中から、彼女を見ている。
 それが実験だ。



 +++


 縁樹は何が起こっているのか、理解ができなかった。
 玄関の割れた小瓶。
 血の跡。
「く、草間さん、これ・・・・・・・・・」
「ああ。割れた瓶を彼女は踏んで、それで、どこかへ行った」
 草間は顎に手をやり、推理する。
 直感は信じない。直感に現実のピースを当てはめて、それを答えにする。
「彼女が見つかった場所。そこか」
 縁樹が目を見開く。
「でもどうして?」
「記憶を取り戻したのだろう。自分が母親を殺した」
「え? でも、密室・・・」
「その説明は車の中でだ」
 草間は縁樹の手を引っ張り、彼女を車の中に入れ、発車させた。
「彼女の失われた記憶。それは母親を殺してしまったからだ」
「でも母親は」
「愛情だ。誰も自分の娘を親殺しにはしたくはないだろう? 母親は本当の現場で娘に刺され、おそらくはその時は軽度であったのだろう。病院にいかなかったのも先の理由から。そして彼女は家へと帰り、自分で部屋の鍵を閉めて、密室を作り、軽く刺さっていたナイフを、自分で突き刺した」
 縁樹は下唇を噛んだ。
「でもどうして、彼女、急に記憶を」
「さあな」
 草間は感情の無い声で言った。
 玄関に残っていた闇の残り香。
 実はそれが草間に教えていた。真実を。
 彼女は影、あの闇のセールスマンによって記憶を取り戻したのだと。
 あの割れた小瓶、あれが、何よりもの証拠だ。
 ぎりっと歯軋りした。
 その草間の視界の端に、影が映った。
 半ばブレーキを踏み潰す勢いで、ブレーキを踏み込んで、草間は車を止めた。
 そして縁樹は彼女があの日に居たという、本当の現場である彼女の家への別荘に辿り着く。
 そこは炎に包まれ、そしてノイが立っていた。



 +++
 

「ノイ」
 縁樹の声。
 ノイは身体を、硬くする。
「ノイ。良かった、無事で」
 縁樹に抱きしめられる。
 それはだけどノイにとったら、拷問だった。
 縁樹はそんな彼の姿に気をとめる様子も無く、ノイを下において、炎の中に飛び込んだ。
 ノイは絶句する。
 そして草間も縁樹に続こうとして、ノイに目を移し、彼を追い越し様に手に取った。
「逃げるな、ノイ。自分の運命から。縁樹が背負った物から」
 ノイは震える。
「探偵の洞察力を見くびるな」
 草間はニヒルに微笑み、炎の中に飛び込んだ。



 +++


 縁樹は飛び込む。
 そして炎の中で泣きじゃくる彼女を見つけて、優しく微笑んで手を伸ばす。
「逃げちゃダメ。あなたのやった事は悲劇だけど、でもここであなたが死んだら、それまでで、ただあなたのお母さんの想いを踏みにじるだけで、でも、だけど、あなたが生きて、それからがんばればきっと、お母さんの想いも無駄にしないでできる。だからがんばって。負けないで、昨日に。今日を一生懸命に生きれば、夢見た明日が、今日になっているから。ね」
 縁樹は泣いていた。何が悲しいのか、わからない。でも負けないで、過去に。過去に負けたくない。それがどれだけ悲しき、心壊すような過去でも。



 ごめんね、ノイ。



 ごめんね?


 どうして?



 その瞬間に縁樹は何かを思い出しそうになり、
 そして泣いている縁樹の手に、手を伸ばそうとしていた彼女は動きとめる。
 揺らめく炎はいつしか闇に変わっていた。
 その闇から現れたのはあのセールスマンで、そして縁樹の目を、目隠しした。



「お忘れ、娘よ。父の言葉のままに、お忘れ、縁樹。今思い出した、おまえの事を。縁樹」



 そのどろりと心に絡みつくような粘性を持った声は、闇に流れる。



 草間さんが、お父さんだったら、良かったのに・・・・・・・・・。
 ―――――ごめんね、ノイ。



 ノイ、ごめんね・・・・・・・・・。




【ラスト】


 ノイは草間に連れられて、そこに辿り着いた。
 影によって目隠しされている縁樹。
 影の指の隙間から零れ落ちる、涙・・・。
「えんじゅぅー」
 ノイは叫んだ。
「大丈夫。少し縁樹が思い出したから、その思い出した事だけを、消去しただけ。この娘は私の大切な娘だけど、私は特にこの今の縁樹を気に入っている。大切な私の娘なのだからね。さあ、後は頼んだよ、ノイ」
 そして影は草間武彦と目を合わせて、綺麗に微笑んだ。
 ・・・・・・・・・・・・。




 縁樹は目を醒ます。
 そこは彼女の部屋。
 朝の優しい光の中で、彼女は身体を伸ばす。
 良い夢を見た。あのごつごつとした、大きな、煙草の匂いが染み付いた温かな手は誰だったのだろう? 縁樹は夢の中で自分の頭を撫でてくれたその手の記憶を一生懸命心に残そうとしたけど、でも、しかしそれは砂糖菓子が水に溶けるように忘れてしまう。
 そしてとても気持ち良い朝に、良い夢を見たはずなのに、縁樹は自分の瞳から溢れ零れる涙に気づいて、
「あ、あれ…・・・どうしたんだろう、僕? どうして僕、泣いているんだろう?」
 縁樹はただただ自分が泣いている事が不思議でたまらず、自分がどうして泣いているのかわからなくって、それでもノイ、それも何故だかわからぬが泣いている自分にノイへの罪悪感を抱き続けた。



 ごめんね、ノイ…・・・・・・


 ノイ、ごめんね・・・・・・・・・



 縁樹はベッドの上、温かな優しい朝の陽光に包まれながら、泣き続けた。


【END】