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<東京怪談ノベル(シングル)>


冬に思い出す黒い猫と白い雪


 ある日の夕方のことだ。西高東低の気圧配置が太平洋側の東京にもわずかながらの雪をもたらした。いや、裏日本のお裾分けというべきか。白い粒たちは寒風に乗ってゆっくりとさまよい、そしてやがては地面へとたどり着く。突然の来訪に道路も屋根瓦も、そして人間もみな一様に驚いた。雪は瞬く間に街の風景を変える。人は首元に迫る寒さを手でガードしたり、カバンの奥底に眠っている折り畳み傘を出そうともがく。誰もが家路を急ぐ中、少年がひとり公園のベンチに座って空をじっと見つめていた。いくら舞い落ちる雪を見ても色が変わるわけでもない。ただ自分の顔に冷たい感触が降り注ぐだけである。それでも彼は身動きひとつしない。たとえこの雪が両のまぶたを冷やしたとしても。


 少年は幼い頃、北陸に住んでいた。ご近所を圧倒する面積を誇り、大き目の日本庭園まである屋敷が彼の家である。しかしそこは本当の意味での家ではなかった。彼は捨て子なのだ。ここは施祇家の邸宅で、少年は心温かい家人に拾われて息子同然に育てられた。彼の名は刹利。生まれながらにして退魔付与の能力をその身に宿していたが、それを制御する力を持ち得ていなかった。そのため強力な反動が幼い身体を蝕む結果となり、刹利は幼い頃から目も見えず身体もほとんど動かせずにいた。目が見えないのだから歩くこともままならない。さらに手も自由に使うことができないため、毎日を家の中で過ごしていた。たまに家人が刹利に歩く練習を施していたので、自室から草の匂いを感じることのできる庭園を望む廊下までは行けるようになっていた。ところがそこまでたどり着くと身体中の力を使い果たしてしまうらしく、後はずっとそこに座って呼吸を整えながら鼻を巧みに動かし、塀を乗り越えてやってくる自然の風やご自慢の庭園に咲く花の匂いを感じながら、ただただぼーっと過ごすのが日課だった。
 その頃からだろうか。刹利の記憶はさだかではないが、いつも傍に猫という動物の匂いがした。家の者から「犬や猫などの動物は家族として扱うものだ」と聞いていた少年は、いつしか相手が「同じ部屋の住人なんだ」と思うようになった。ところが相手はそうは思っていないらしく、刹利に接する時の態度はとても厳しかった。わざわざ量を少なめにして出される食事を残すと、容赦なく前足の肉球で頭を叩かれる。「食べ物を粗末にするな」と言いたいのか、それとも大人になった時のことを考えているのか……まだそんなことにまで考えが及ばない刹利は文句も言わずにただ黙々とお残しした食事を頬張る。ここで箸が止まるとまた猫に叩かれてしまう。誰にでもどんなものにでも「嫌われる」というのは嫌なものだ。なんとか少年が食事を平らげると、猫は一声「ニャ〜ン」と鳴いてたんすか何かの上へ行ってしまう。鳴き声から感情を察するに本人はご満悦のようだが、刹利はお腹が張って動けない。そのまま布団にもぐりこんでしばし食休みをするのがお約束になっていた。
 この猫は刹利の行くところに出てきては「小さな段差があるから気をつけろ」と脚に何度も頭突きをして知らせたり、家人が植えた新しい花をこっそり失敬して少年の手に持たせて嗅がせてやったりと熱心に世話を焼く。大きな息子ができたとでも思い込んでいるのだろうか。猫の気持ちはわからないが、どうやら過保護に育てているつもりらしい。そんな相手から少なからず愛情というものを感じ取っていた刹利は、なんとか猫を膝に乗せて毛並みを撫でてやろうとがんばったが、親がそんな風に子に甘えることなどあり得ない。大事な時以外はぷいといなくなってしまう。懐かない猫だが、確実にふたりの間には奇妙な友情があった。そんな二人五脚は十数年の長きに渡って行われた。

 刹利は成長するにつれ、それなりの体力が身体に備わった。それは結果として自分の力を制御することに繋がり、虚弱体質も徐々に改善されていった。猫の教育が間違っていなかったのだろうか。ところが目だけは見えないままだった。医者は「一番にやられたところが目だからではないか」と分析し、「目が開いて見えるようになれば完治したも同然」と刹利に話した。もう17歳の冬。成長期真っ盛りのこの時期に見えるようにならないと、身体は元気になっても目だけは一生治らないかもしれない。そんな周囲の心配をよそに、刹利は安穏としていた。彼にとって世界が見えないのが当たり前のことだからである。みんなに多少の迷惑はかけるだろうが、見えなくてもそれほど困らないだろう……そう思っていた。
 実は刹利にはそんな現実よりも、もっともっと気になることがあった。同じ部屋にいるあの猫は黒猫で、さらにちゃんとした呼び名があることを家人から聞き出したのだ。今はひとりでもそれなりに動けるようになったので、その黒猫とは庭で座っている時に会うか会わないか程度の付き合いになっていた。でも刹利は知っている。あの猫はいまだに自分の部屋を音もなく忍び足で出入りし、いつもの場所で生活していることを。明日の朝、なるべく早起きして名前を呼びたい。そしてこれからはそれを朝の日課にするんだと刹利は張り切っていた。そしてその日は普段よりも早く床につく。何度も心の中で名前を呼ぶ刹利の顔はほころんでいた。そんな彼の様子を、黒猫はじっとたんすの上から細い目で伺っていた。
 刹利が心躍らせる翌日の朝、閉じられたまぶたを湿ったものが何度か触れた。黒猫が急いで彼を起こそうとしたのだろうか。突然として今までにしたことのない行動をした。不意を突かれた刹利ははっとなって飛び起きる。しかし部屋のどこにも猫の姿はない。すでに気配もなかった。不意に名前を呼ぼうとしたその時、彼はある変化に気づく……そう、刹利は黒猫の行方を目で追っていたのだ。

 「目が……見える?」

 慌てて障子を開いて凍りつくような寒さが染み込んだ廊下を彼なりに急いで歩き、朝焼けに包まれようとしていた空に照らされたあの庭を見た。緑を覆い隠す純白の雪がとてもまぶしい。刹利の心の中では見えないものが見えるという喜びが少しずつ形になりつつあった。しかし黒猫の行方がどうにも気になってしょうがない。いくら変わり者でもこの寒さの中を歩いてどこかに行くはずもないはずだ。結局、どこにいるのかはわからなかった。刹利は「名前を呼ぶのは明日のお預けかな」と諦めてその場に腰を下ろし、暗闇の中で匂いだけを感じていた風景を感慨深げに見入っていた。


 その日を境に、黒猫は二度と姿を現さなかった。いや、今も姿を現さないと言った方が正確かもしれない。たまに施祇家に連絡を入れても、あの黒猫が姿を現したという話は出てこない。だが刹利は落胆していなかった。きっとこの目は黒猫からの贈り物だと信じているから。

 「雪を見ると思い出すな……あの猫さんのこと。ボクの目も猫目だし、きっとこれは贈り物だったんだね。でもさ、あの時も思った。最後にお礼くらい言いたかったんだ、『ありがとう』って。」

 刹利が都会の空に語りかける。それに答えるかのように、公園の茂みから猫の一声が響いた。思わず彼は声の方に目を向けた。しかしそこから出てきたのは……ただの黒毛の仔猫だった。突然のサービスに柔らかな微笑みで答える刹利であった。雪は今日もあの日と同じで温かくまぶしい。