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<エスメラルダ♯3>
Lirvaが歌うクリスマスソングが、銀座の街の中にあった。どこからともなく流れてくる、柔らかい、清純な声は、『きよしこの夜』を歌い上げている。
知らず脳裏にしのびよるその歌は、クリスマス・イヴの夜を演出してくれる。人々の意識に過剰に残ろうとはしない。それは鈴の音であり、囁き声だ。今夜がイヴであるということを人々に知らせているだけなのだ。イヴにふさわしい、イヴを象徴する歌である『きよしこの夜』には、それ以上の力は必要ないし、それ以下の力であってはならない。
Lirvaという歌い手は、それをよく心得ているのだ。
この歌で、金を稼ごうなどとは考えていない。
銀座でこの歌をみつけた葛城伊織には、それがわかっていた。彼の傍らの光月羽澄は、Lirvaの歌を聞こうともしていない。彼女にもわかっているからだ。と、いうよりも――彼女がわかっていなければ、道理がつかない。
光月羽澄は、Lirvaだった。
ふたりのクリスマスには、アクシデントがつきものだった。どうしても、『ごく普通』のクリスマス・イヴにはならないのだ。羽澄が歌い手であり、調達屋をやっているせいもある。伊織も伊織で、ただの鍼灸師ではなかった。イヴに危うい仕事を入れざるを得なかったこともあるし、スケジュールが合わなかったこともある。ふたりはお互いに心の底からわかり合っていたのに、まともなクリスマス・イヴを過ごしたためしがなかった。
今年こそ!
ふたりは銀座の中で、仲良く同じことを考えている。
今年こそ!
今年こそ、素敵で普通なクリスマス・イヴを!
だから今年のふたりからは、うきうきとした楽しいオーラではなく、むしろものものしい執念の気迫がにじみ出ているのだった。ふたりは1ヶ月前から入念にスケジュールを合わせ、仕事は正確にすませていき、イヴの予定を空けていた。12月24日に結界を張ろうという勢いだった。
そしてふたりはいま、銀座にいる。待ち合わせ場所には、ふたりとも約束の時間きっかりに辿り着いた。メリークリスマス、の挨拶も予定通りに終わらせて、腕を組み、銀座方向にカキリと足を向けたのだ。
伊織が予約を取った創作フレンチのレストランで、豪勢なクリスマスディナーと洒落こむ予定だった。
「で、おまえさんはどうしてそんなニヤニヤしてるんだ」
「ニコニコしてるって言ってよ」
「あのな、何年の付き合いだと思ってんだ。いまのおまえのその笑みは、爆笑を押し殺してる笑みだ。俺のことをバカにしてるときの笑顔だ。……なにがおかしいのか言ってみろ!」
「あははは、バレた?」
「あははじゃねエだろうぅ!」
「だって、創作フレンチだよ。銀座の。伊織の守備範囲じゃないでしょ? なんでそんなお店知ってるのかなぁ、一生懸命リサーチしたんだろうなぁ、って思っちゃって」
「ばっ、おま……」
「あ、図星だ。そうでしょ。私のために捜してくれたの?」
「……」
羽澄の笑顔は、一層まぶしいものになった。彼女は、伊織の腕にしがみつく力を強くする。言葉に詰まった伊織に、ぎゅう、と羽澄の温もりが近づいた。
「創作フレンチ、私、好き」
羽澄の言ったとおりだった。伊織はそもそも『創作フレンチ』というのがどういった料理なのかよく知らない。言葉の響きから、上品で、ナイフトフォークがたくさん並べられていて、白い皿にちょんと得体の知れないものが乗っている――そんな料理を想像していた。だから彼は、創作フレンチの店など知らない。伊織は、鍼灸院の常連客から店の話を聞いたのだ。銀座にもめったに行かないものだから、住所はしっかり頭の中に叩き込んできていた。
伊織も羽澄も、その店に行くのは初めてだったということだ。
だから、のちに悲劇は起きた。
店は、夜の空にひっそりと隠されているかのような、落ち着いたたずまいをふたりに見せていた。古い建物の間にひっそりと立ち尽くす様相は、最近よく使われる『隠れ家的』という表現がふさわしいかもしれない。
辺りは冬の夜特有の、息が凍るような沈黙に包まれていた。
「ここ?」
「たぶん」
「なにそれ……」
「仕方ねエだろ、初めて来るとこなんだから」
若干の興ざめもあったが、羽澄はすぐに笑顔になった。伊織の腕を引いて、欧風のドアを開ける。
中は琥珀色の照明に彩られていた。音楽はなかったが、どこかやわらかく、香ばしい匂いが立ちこめている。小柄なボーイが、ふたりに向かってゆっくりと頭を下げた。
はじめは、羽澄も伊織も上機嫌だったのだ。ワインを出されたあたりから、ふたりの顔から笑みが消えていた。
店が静かすぎたのだ。静かなのはいいことだが、限度があるし――静けさにもいろいろある。ただの、色としての『白』にも、さまざまな白があるように。多くの人間は、ただの静寂だと受け止めるだろう。けれど、この静寂は、ふたりにとって、心地良いものではなかった。
――変よ。
――変だな。
ふたりから笑顔が消える頃には、会話さえもなくなっていた。
この静けさは、ふたりの他に客がいないから訪れているものではなさそうだ。……そう、このイヴに、この調度品や色調は一流の店に、入っている客は光月羽澄と葛城伊織だけ。
いつの間にかボーイの姿も消えていることに気づいて、ふたりはそっと席を立った。
そのままこっそり帰ってしまえばよかったのかもしれない。
「ヒヒマの実をたっぷりと」
「ブラァオイルを忘れるな」
「ニンニクを控えろ」
「塩も控えろ」
「ビルルスパイスをこっちによこせ」
厨房の中は、異様だった。
鍋の中で煮えている肉や、フライパンの上で焼かれている舌平目の様子は、見ているだけで胃袋が歓声を上げそうだ。ぼうっ、と真っ赤な炎が踊る。濃厚な、ワインを使ったソースの香りが満ちている。
しかし、鍋をかき回し、フライパンを振っているのは、人間のコックたちではなかった。小柄で、背は丸く、肌は緑がかった灰色だ。飛び出した目はぎょろぎょろと動き、不揃いな牙が並ぶ口が、ぺちゃぺちゃと絶え間なく言葉を紡いでいる。
「おい、ヒヒマの実が足りない!」
ひとりがそう怒鳴って、鍋から厨房の中央に目をやった。――そこで、硬直した。
「ヒヒマの実って、どんな味?」
異様な料理人たちを前にしても、羽澄は相変わらずの笑顔だった。
「ビルルスパイスって、辛いか? 甘いのか?」
袖口から笑顔で鍼を出し、伊織が小首を傾げる。
「こォの、人喰いめーッ!」
「今日が何の日だと思ってるのよーッ!」
音と鍼が厨房を舞った。冷蔵庫や戸棚から、得体の知れない素材やスパイスが転げ落ち、緑のような灰色のような小男たちは、泣き叫びながら逃げ惑う。
ヒヒマの実とは、一粒口にしただけで5キロの脂肪がつくという木の実。
ブラァオイルは、筋肉を溶解させてしまう。
ビルルスパイスは、わずか0.2グラムでシロナガスクジラを殺せるという。
どれも人間の世にはない調味料だった。
この店は、人の世のものではなかった。
「注文の多い料理店……」
「……」
「私たち、もう少しで……」
「……」
「……なんでこんなことになるのよ……」
「予約時間……過ぎちまったな……」
寒々とした銀座の裏通りに戻り、よろよろとしばらく歩いたところで、ようやくふたりは本来の目的地を見い出していた。けれども、予約の時間は一時間前だ。入ったところで迷惑がられるだろう。暖かな外観を外から眺め、ふたりはゾンビのように力なく言葉を交わしていた。
「……というか……本当、悪かった。下見ってのがあるんだよな、世の中には」
「まあね。でも、忙しかったんでしょ?」
「下見の時間くらいなら、いくらだって作れたさ。地元なんだし」
「……いいよ。私たちのイヴってこうなる運命なのかも」
羽澄はまた、伊織の腕にぎゅっと力をこめてしがみついた。
「お店行こ。『胡弓堂』」
「『シャンパンとケーキと残りものくらいならあると思うから』」
伊織がそう言えば、羽澄は苦笑いをした。毎年毎年、結局、こうしてクリスマス・イヴは『胡弓堂』。それも決して悪くはないのに、今年は特に、ふたりの気分は落ちていた。
「でも……、でも、いいわ。伊織と過ごせるなら、どこでだって」
「だな。メシ食ったあとはどうせおまえんちで二次会するんだろうし」
「二次会って、ちょっと」
「わはは、オヤジくさいのはわかってる!」
そうしてふたりは、イヴの銀座を離れていった。
「伊織、これ。メリークリスマス」
『胡弓堂』へ向かう道すがら、羽澄は伊織にプレゼントを手渡した。
「お……」
口元を綻ばせて、伊織は足を止める。
「開けていいか?」
「こんなところで?」
「……じゃ、おまえんちに着くまで我慢――」
「いいから開けて」
「なんなんだ、よくわからん奴だなー!」
互いの顔に苦笑いが浮かぶ。伊織はかじかんだ手で不器用に包みを開けた。今夜の、洋装の彼にはよく似合う、ブレスレットが姿を現す。
「おっ!」
「たまにはこういうのもいいでしょ?」
ブレスレットにあしらわれているのは、エメラルドだ。大粒でも小粒でもない、緑の石。伊織は確かに嬉しかったが、小首を傾げもした。自分の誕生石はエメラルドではない、と。
「なあ、この石――」
「ね、いいでしょ。たまには、こういうのも」
また、彼女は同じことを言った。その緑の目を細め、さっと前に目を向ける。そして、そそくさと歩き出すのだ。伊織が見逃しかけた、紅い頬を隠すようにして。
伊織はこっそり笑い、不器用な手つきで、ブレスレットを手首に巻きつけようとした――。しかし、彼は、「たまに」ブレスレットをつけることもない、生粋の男だ。
「お、おーい、羽澄」
凍えそうな闇の中を、晴れ晴れとした足取りで行く羽澄に、伊織は少し情けない声をかけた。
「おーい、これ、つけてくれよ。……まさか怒ってンのか、おまえ! おーい!」
ふたりは思う。
来年こそは、と。
〈了〉
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