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□聖夜小恋裏模様□
在庫棚から商品を取り出し、箱に詰めたところで佑は一瞬動きを止めた。
「……?」
しかしすぐに箱詰めを再開し、蓋を閉め、すぐ側に座る店主へと差し出した。店主の揚羽は白く細い指でそれを受け取ると、客である老人の世間話に相槌をうちながら包み始める。ここまではいつもと全く変わらない、香屋『帰蝶』でのありふれた光景だ。
だが揚羽が一瞬だけ、商売人としてではなく楽しそうに唇の端を上げたのを佑は見逃さなかった。再び在庫探しを開始しながら、佑は思う。きっとこの人も気が付いている、と。
棚の奥にあった在庫を引っ張り出すと、何気ない風を装いながら佑は店の出入り口を見た。
「………………」
そこには何もないように見えたが、しかし目をそらせば再び気配が舞い戻ってきているのに佑は気付いていた。こうして作業をしている間にも、前の客が閉めそこねたようにも見える入り口の隙間から、視線が入り込んでくるのが分かる。
一体何が目的なのだろうか。そんな事をつらつら考えていた佑だったが、紙袋を手に立ち去ろうとしている老人の姿を見止めると騒がしくない程度の速さで老人の前に立ち、ゆっくりと戸を開く。
「おやまあ。いつもありがとうな、坊主」
「いえ。……滑りやすくなっているので、足元にお気をつけ下さい」
ふらつきかけた老人の身体を支えながら、佑も共に表へ出る。頬に触れる冷たさの正体は空を見上げなくとも十分に分かっていた。視界を柔らかく遮る幾つもの白い玉は、ここ数日の間にすっかり見慣れてしまったものだ。冬というのはあっという間に来てしまうものだ、佑はそう感じずにはいられなかった。
「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております」
「坊主も風邪なんぞひかんようになぁ」
「はい、お客様もお気をつけて」
礼をする佑へ軽く笑うと、老人は一歩一歩踏みしめるように雪の中へと消えていく。この雪のせいか人の往来も少なく、寒さを抜かせば最後まで見送りをするのも苦ではない。曲がった背がゆっくりと角の向こうへと消えていくまで、佑はじっとその場に佇んでいた。
しかし、誰もいなくなった通りの向こうへともう一度礼をし、店内へと戻ろうとした時だった。
「…………………………」
佑は改めてその場に立ち尽くした。既に見送るべき人もなく、また薄着なのだから早く中へ戻りたいという気持ちも当然あったが、佑は戸に手をかけず、代わりのように溜め息をつく。
ここしばらく穏やかな日々が続いており、あと少しで年末なのだからそれまで何事もないだろうと思っていた自分が甘かったのだろうか。そんな事を思いながら、佑は雪の降り積もる店先へと目を向けた。
そこにはなにやら白く丸いかたまりが蠢いていた。ちょうど幼稚園の子どもほどの高さをしているそれは、一般に雪だるまと呼ばれるものだった。首にマフラーなども巻いており、それだけならば普通の雪だるまだと佑も思っただろう。
だがうごうごと蠢いている時点で既に普通とは縁遠いものだ。ともう一度溜め息をつくと、佑は中を覗き込もうとしているらしい雪だるまの頭にぽん、と手のひらを乗せた。
「…………おい、何をやっている」
『!!』
途端、雪だるまはボールのように飛び上がり、佑の脇をすり抜け逃げようとした。だがこうまで怪しい様を見せつけられて、ただで帰すわけにもいかない。佑の手は反射的に雪だるまのマフラーを引っつかんでいた。
『!』
すると何故か雪だるまは動作を止め、今度はいやいやをするように首を左右に振り出した。しかし佑にはその理由が分からない。
逃げたいのならマフラーなど外していくのは容易いことだろうに、けれどこの雪だるまはまるでマフラーを引っ張られることこそが嫌だとでもいうように、炭の眉を下げて困ったような顔をし続けている。
ならば簡単だ、と佑は伸びない程度にマフラーを引いて言った。
「何だかわからんが、取りあえず用があるのなら入ってこい。……揚羽さんもお前のことに感づいているみたいだしな」
『………………!』
そうして、佑はマフラーをまるでリードのようにして雪だるまを店内に引き入れたのだった。
「あら、『お客様』?」
突如店内に転がり込むように入ってきた動く雪だるまにも眉ひとつ動かさず、揚羽は帳面から顔を上げた。
「……そうみたいです」
「もうそろそろ店じまいの時間だから、ちょうど良かったわね。佑ちゃん、閉店の札を出して。もう常連さんがたもひととおりいらしたし」
「いいんですか?」
マフラーを握ったままたずねる佑へ揚羽は「ええ」とにんまり笑った。あの笑顔が出たら何かしら事が起こるのを知ってはいたが、しかし佑に拒否権があるはずもなく、マフラーを手放すと札を出しに棚へと向かう。
解放された雪だるまはマフラーをいとおしそうに己の首へと巻き直すと、困ったように揚羽を見上げた。
「怖がらなくてもいいわよ、解かして飲みやしないから。さ、いらっしゃい。寒かったでしょう、あったかいお茶はいかが?」
「揚羽さん、そんなもの飲ませたら一発ですよ……」
札をかけ終え戻ってきた佑が、手近な場所へと腰かけながら呆れたように肩をすくめる。それに対して揚羽は「冗談よ」とあっさり流すと、お茶発言で震え上がっている雪だるまへと向き直った。
「貴方、うちの子猫ちゃんが作った子ね。今日は何のご用かしら?」
子猫。その単語を聞いて佑は内心首を傾げた。
ここ『帰蝶』で働くようになってから随分と聞き慣れた愛称だったが、しかし何故今それが出てくるのだろうか。
そんな佑の疑問を見通したかのように、揚羽はくすりと笑う。
「あの子、この前まで夜になるとこたつに入って、目が飛んでいないか一生懸命に数えたりしながらマフラーを毎日毎日編んでいたのよ。ああ、そう。完成したのに巻いている姿を見かけないなと思っていたら、この子の為だったのね。納得したわ」
「ああ……」
覚えがある。そういえばあの小さな手で毎日何かをやっていたようだった。
先程のマフラーをかばうかのような雪だるまの行動を思い出し、佑は何気なく呟く。
「そういやさっき、伸びないように必死になってたっけ。……お前、そのマフラー大事にしてるんだな」
『!!!』
しかしそれだけの言葉に雪だるまは大いに反応した。一体どんな力が働いているのか、白い顔を赤く染めた上に、丸い身体をもじもじと忙しなく左右に動かし始める。
「……何かツボをつくようなこと言ったかな……」
「佑ちゃん」
唐突に始まった雪だるまの恥じらい劇場に戸惑っている佑を尻目に、揚羽は片手を頬に当てながら穏やかに言う。
「ちょっとあの子の中、読んでみてくれないかしら」
「命令ですか」
「それ以外に何かある?」
「………………いいえ」
聞いた俺が馬鹿だった。とばかりに立ち上がると、佑は手のひらを近づける。恥じらい続けているせいか雪だるまは接近にも気づいていない様子だった。
ひた、と雪肌に手のひらを触れ合わせる。間にごく薄い気を挟んでいる為か冷気が這い上がってくることはなく、代わりのように伝わるのはこの不可思議な白いかたまりの内面。
見えざる神経を己から引き出し、相手の中へと伸ばしていく。だが決して根付かせることはなく、あくまで中に点在する思いに少しばかり触れるだけにとどめるのが佑の流儀だ。相手がどんなものであれ、内面を深く知ってしまうのを彼はあまり好いてはいなかった。
やがて手を放した佑を見て、揚羽は首を傾げた。
どうも肩が落ちている。
「どうしたの、疲れた顔をして」
「……酔いました」
「何に?」
「いや、何と言うか……甘ったるい? 違うな、甘酸っぱい感情が匂いみたいに充満していて、潜っているうちにどうも気分が……あてられたっていうのかな、こういうの」
「甘酸っぱい、ね。例えるならどんな香り?」
「それが、いざ形容するとなると難しいんですよ。ああ、でも近所の果物屋さんの前を通った時にかぐような匂いと似ていたような気が」
「あそこは最近苺をよく置いていたわね。そんな系統の匂いかしら」
「苺……いや、それともちょっと違う気がしました。あれよりもう少し酸味がきついというか」
「なら蜜柑とかの柑橘系は?」
佑はしばらく黙って、たった今まで探っていた感情と記憶の中の柑橘系の匂いを照らし合わせていたようだったが、やがて首を横に振った。
「いや、それとも微妙に違います。かいだ事のあるようで、記憶の中のどれとも微妙に一致しないんですよ」
頭を掻きながら佑は雪だるまの方を向いた。はっきりしているようではっきりしない、こんな感情を読み取るのは初めてのことだった。
いまだに恥じらっていた雪だるまは、ここにきてようやく自分が話の題材になっているという事実に気付いたのか、赤みを引っ込めおろおろと佑を見上げてくる。
しかし揚羽はそんな雪だるまの様子などどこ吹く風とばかりに、口の両端を持ち上げた。
「一致しないのも当然かもしれないわね。だって、それはきっとどんなものに形容しようとしてもできるものではないのだし」
「は?」
「あら、まだ分からない? 形容しがたく甘酸っぱい、胸を隙間なく満たすほどの強い感情。それはもう絶対に――――」
恋ね!
傍から見ていてとても清々しい笑顔で、揚羽は力強くそう断定した。
そんなにあっさり言い切ってしまっていいのだろうかと佑は思ったが、楽しげに煌めいている赤の瞳の前ではきっと他のどんな意見も無意味になるだろう事は分かっていた。
「ということは、この雪だるまが『子猫ちゃん』に……ってことですか」
「そうね。ええ、きっとそうだわ」
途端に生き生きとし始めた揚羽を見て、半ば諦め気味に佑は溜め息をつく。
こうなってしまえば、この後彼女がどんな行動に出るのかという事を、経験から彼は知っていた。
「……それじゃあ、何をどうしますか」
我が意を得たりとばかりに笑みを深くし、揚羽は一人と一体へと手招きをする。
紅を刷いた唇は実に楽しげに弧を描いていた。
「――――命短しなんとやら……ってね。折しも明日はクリスマスイヴ。恋を語り合うには絶好の機会だと思わない? 佑ちゃん」
「俺キリスト教徒じゃないんで」
勝手口から入ってきた佑は淡々と言って買い物袋を廊下へと置いた。重々しい音をたてて置かれたそれらを見て、揚羽は忙しなく手を動かしながらくすくすと笑う。
「随分買い込んできたのね」
「もうすぐ年末ですから色々と安いんですよ。……下ごしらえするんで、台所借ります」
「お願いするわ」
「そっちはどうです? 指刺したりしてませんか」
「嫌ね、この程度なら軽いものよ。もうすぐ完成するわ」
揚羽は針を置くと、手にしていたものを佑のいる廊下へと掲げて見せた。三角に切り取られた赤い布地の縁には暖かそうな白いファーが縫い付けられている。
いわゆるサンタクロースのかぶる帽子のデザインだった。
「後はポンポンだけですかね。その調子だと本当にすぐ終わりそうですし、片付いたらこっちの手伝いもお願いします」
「佑ちゃん、女子厨房に入らずって言葉知ってる?」
「逆じゃないんですか、普通は」
呆れたような顔をする佑へ笑ってみせると、揚羽は「でもね」と言って作業を再開する。
「残念ながらそちらのお手伝いはできそうにもないわね、だってまだ雪だるまに持たせるプレゼントの用意が済んでいないもの」
「プレゼント? まさかそれも作るつもりですか」
「せっかくサンタの格好させてあの子を迎えに行かせても、プレゼントがないんじゃ喜びも半減するというものよ。やっぱりクリスマスといえばプレゼントがないと気分が盛り上がらないでしょう」
「あの雪だるまはさしずめサンタだるまってところですか」
「まあそんなところね。――――というわけで私はこっちの準備で忙しいから、下ごしらえの方は頑張って」
「……分かりました」
お願いね、というおっとりとした声を背中に受けつつ、佑はビニール袋から食材を取り出し冷蔵庫へと入れる作業へと取りかかった。明日を思う。熱い料理と冷たい料理の両方を作るのは、きっと手間がかかることだろう。
「……ま、腕の見せどころとでも思っておくか」
背中の向こうから響いてくる楽しげな鼻歌を聴きつつ、佑はさて、と腕まくりをして気合を入れた。
全ては明日のために。もとい、子猫のために。
――――――――そして迎えたクリスマスイヴ。
表通りはきっとクリスマス色に彩られ盛り上がっているのだろうが、ここ『帰蝶』のある通りは古びた佇まいの店がほとんどであり、住人も似たようなものだった。木製の建物が立ち並ぶ前を歩く姿もほとんどなく、歩く者のない道にはただひたすらに雪だけが降り積もっている。
風もない、穏やかな夜だった。
「もう一杯どう? 佑ちゃん」
「いただきます」
明かりを落とした『帰蝶』の中、何本かの蝋燭だけを慎ましやかに立て、佑と揚羽は窓越しに外を見ていた。
時折佑が立ち上がって熱燗を作りに行く以外は音という音もほとんどなく、静けさだけが鼓膜を打つ。
杯を傾け、揚羽はほう、と息をついた。
「あの子の様子はどう?」
「ぐっすり眠っていましたよ。はしゃいで疲れたんでしょう」
杯の中で揺れる酒を見つめながら、佑は呟くように言う。
先程つまみを取りに行った際にのぞいた子猫の部屋には、小さな寝息だけが響いていた。
「作戦は成功したようね。ふふふ、久々に縫い物した甲斐があったわ」
「……まあ、あの子も楽しそうで良かったですよ」
ぬるくなった酒をあおり、手酌で徳利から酒を注ぐ。揚羽が打ち上げ用に、と奥から出してきたこの酒は間違いようもなく上物で、爽やかな飲み口と水のように自然なあと口が心地よく喉を刺激した。
「いい酒ですね。開けてよかったんですか」
「こういういいお酒は、飲むに値するぐらい気分のいい日に開けないと駄目よ。もったいないからって機会を逃すと、どうでもいいような日に開ける羽目になってしまうもの。――――今日はとてもいい日よ。さ、だから遠慮しないで飲みなさい」
杯を掲げて悪戯っぽく微笑み、揚羽は再び空を見る。
佑はそんな姿を見るともなしに見ていたが、やがて廊下の向こうへと視線をやると、ぽつりと何事かを呟いた。
「どうかした?」
「いえ、別に。……もう一杯どうですか」
「そうね、もらおうかしら」
最後の一滴まで落とされた杯で唇を潤し、揚羽は隣を見る。
「ところでね、佑ちゃん」
「はい」
「楽しかったんなら楽しかったって、もっと大きな声で言った方がいいわよ」
「……聞こえていたんですか、今の」
「さあねえ」
静かに笑う揚羽の声が、静けさを柔らかく裂いていく。
しんしん、しんしん、雪が降る。
誰かが誰かを思うように、ただひたすらに、しんしんと。
END.
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