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『夢の小箱』
空気は一変した。
案内された支配人室の空気は魔術の気配に満ちていて、それは彼、デリク・オーロフにとっては多少なりとも息苦しさを感じさせる酸素の濃い場所のようにわずかな息苦しさと心地よさを感じさせた。
それでも胸の高鳴りを抑えられないのはそこにある魔術的価値の高い品を目の前にしたからだろう。
「流石ね、デリク・オーロフ。一目でこの小箱の魔術的価値を見出すなんて」
執務卓の上で肘をつき、組んだ細い指の上に形の良い顎を乗せた彼女は黒髪に縁取られた美貌に高慢そうな微笑を浮かべた。
細められた黒の双眸は、それでもまだ尚デリクを値踏みするような光りを湛えている。
リタ・アンヘル。今回のデリクの依頼者だ。
「それで魔術教団を通して今回あなたは私に依頼をくれた訳ですが、その依頼とは、よもやその小箱に関係があるのデスカ?」
デリクは優雅な余裕のある微笑を浮かべてそう訊ねた。
リタの黒瞳を細めて浮かべたその美しい表情が答えを雄弁に述べていた。
――――――――――――――――――――――『夢の小箱』
薄暗い店内には残滓があるだけだった。
先ほどまでいた人の気配の、
その人たちの感情の、
飲み交わした酒の、
奏でられたジャズの―――
リタは店の片隅にあるピアノの前に座り、でたらめに鍵盤の上で指を躍らせる。
過去に恋をした男はジャズピアニストだった。その恋は終わりを迎えたが、それでもリタにその恋が与えた影響は大きかった。
各勢力の中立地帯であるこの店に力を注ぐのもだからかもしれない。
リタの父親はマフィアのボスであり、その父親から表の仕事としていくつかの店を彼女は任されている。このジャズを生で聴かせる店もその中の一つ。
客は外国人が主な客層の店で、立地はビルの下。経営状態はまあまあだ。
リタはくすりと微笑み、別れた恋人と最初に連弾した曲をひとりで奏でる。
いつになくそんな感傷的な自分がおかしくってもう一度彼女はくすりと笑った。
右手の人差し指で初めてピアノに触れた幼い子どものように鍵盤を叩いていると、その彼女の背に躊躇いがちに声がかけられる。
「あの、すみません」
リタは振り返る。
そこにはひとりの少女が立っていた。
「閉店してるのよ?」
「その、あたしのサックスを聴いてもらいたくって」
彼女はサックスが入ったケースをリタに見せた。
「あなた、歳は?」
「来月で19です」
リタは肩を竦める。
「いいわ。じゃあ、演奏してみて」
彼女はサックスを奏で始める。
リタはそれをカウンターに座ってカクテルを飲みながら聴いていた。
最後の一口を飲み、彼女はパチパチと手を叩いた。
彼女は緊張した面持ちでリタを見る。
「明日から来れて? クリスマスイブだけど」
笑うリタに彼女はサックスが恋人だわ、と告げて、またリタを笑わせた。
それから彼女はしばらくこの店で寝泊りしていいかリタに訊き、リタはそれを許し、残りの掃除は彼女に任せて支配人室に戻った。
執務卓の上にあるアンティークの小箱をリタは手に取った。
そしてそれをまるで見ていたかのように彼女の携帯電話が着信を告げる。
「もしもし。例の件、どうなったかしら?」
そう携帯電話の向こうにどこか苛立ちをも感じさせる声で訊き、次に彼女が浮かべたのは、カードゲームで必勝のカードを引いたような笑みだった。
+++
12月24日 クリスマスイブ PM9時53分
そのジャズホールは賑わっていた。
若々しさとそれゆえの恐れ知らずを孕んだサックスの音色に出迎えられたデリクはそれにだから好感を持った。出世欲と野心に満ち溢れており、魔術教団内での発言力を強めようと水面下で画策中の彼だから。
デリクは人ごみを上手に避けてカウンターへと向かう。
バーテンダーに酒のオーダーを言いつけ、彼はそれを飲みながらサックスを奏でる奏者を見た。強気なその美貌にデリクは目を細める。
しかし今夜は客として来た訳ではない。
仕事で、だ。
わずかながらに残念な想いを感じつつ、デリクは黒服を着込んだ黒人に自分の名前と、この店のオーナー、リタ・アンヘルとの約束がある事を告げる。
黒服は無線でそれを告げて、デリクを案内する。
デリクは従業員専用の出入り口をくぐるその前に、店内を振り返る。薄暗い照明の下で聖夜を、お洒落なサックスの音色を聴きながら酒を飲み交わす様々な人種の客たちを見据え、デリクは目を細めた。美味い酒と見事な音楽の前ではやはり人は人種の壁を越えられるらしい。それは何と聖夜に相応しい光景だろうか?
そして彼は中から口笛が聞こえてきていた支配人室に案内され、彼女と出会い、彼女の微笑を見て、自分がその小箱を見て感じた感覚が正しかった事を認識する。
「夢の小箱。これはそういうの」
アンティーク調のその小箱には術式がかけられており、リタの話ではその術式の歯車が狂いだして、大小様々な悪影響が出ているとの事だった。
「悪影響ね」
肩を竦めるデリクに、リタは服のボタンを外して、胸の上を彼に見せた。その彼女の艶やかな女の肌はしかし、石化している。大小様々な悪影響のうちのひとつなのだろう。
デリクは肩を竦めた。
「術式の歯車が狂い、逆回りしだしてからこの石化は開始した」
「その術式を無効化する魔術を使ってしまエバ?」
「それはダメ。この箱をあたしはいたく気に入っていてね。だからこの逆回転しだした術式を正す事ができる人を探していたの」
そのできる人がデリクだ。リタは魔術団を通じてデリクに依頼してきた。
彼と彼女が属している某教団と某結社は争ってはいないが、仲が良いわけでもない。しかしこのような融通性はあった。
「でも残念な事にうちの方にはこの術式を正す事ができる人が居ないの。この小箱は先ほども言った通りにあたしは気に入っているし、それにこれはうちの結社にとってもとても歴史的にも魔術的にも重要な品でね。そういう訳でいつも以上に結社の方も動きが早くって助かったわ」
両目を細めて笑う彼女にデリクは肩を竦め、一見はただの綺麗なアンティーク調の小箱でしかない夢の小箱を手に取った。
「なるほどね。なかなかに興味深い小箱だ」
某結社にとって歴史的にも魔術的にも価値のある小箱なら、狂いだした魔術を正す事に格好つけてこれを調べる事は彼にとって与える物は予想以上に大きい。それは中々に魅力的だ。
私の野望の糧にもなろう―――
デリクは頷き、そして細めた目でしげしげとその小箱を見据えた。
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デリク・オーロフ。
某教団に所属するその男の噂は様々ある。
しかしその有能性は確かだ。
そしてその男こそ、リタが探していた男でもある。
見たその男はどこか孤高の獣を想像させ、そして自分の小箱についての説明を聞き、それを見る彼の顔は噂通りの男である事をリタに教えていた。
猟犬、その二つ名を有するデリクはリタに頷くと、その小箱に対して両の掌を向けた。
リタの視線はしかし彼のその掌に向けられる。そこには魔方陣の痣が穿たれている。定着しているその魔方陣こそがデリクの力の源なのだ。
彼の魔力がその魔方陣に集中していくのがリタにも感じられた。
そして彼の掌の魔方陣に魔力が集中する事で、小箱のある次元が歪曲される。
凄まじき次元の歪曲による異空間作成のエネルギーの余波はリタの視覚を刺激し、彼女の目がそれに耐えられずに機能上の涙を流し、次に視覚が回復したその瞬間―――――
+++
そこは夢の小箱と呼ばれる箱にかけられた術式を具現化した異空間であった。
その術式は狂い、歯車は逆回りしだしたという。
そしてそれはリタに影響を及ぼしだした。
デリクは自らの能力で作り出した異空間に立ち、周りを見回した。
その異空間は彼の思惑もあって、夢の小箱にかけられた術式を具現化した物だ。故にそれに関係する世界となっている。
デリクの視界に映るその光景は巨大な音符が乱立する世界だ。
そしてその中の音符が一つ、砕け散っている。
それらを見て、デリクは一つため息をついた。
「これは、そういう事ですか」
きっとこの音符が乱立する世界は元は楽譜であったのだろう。
しかしどうした事か、この世界を構成する音符の一つが壊れ、楽譜はバラバラになってしまった。
それが術式が狂い、歯車が逆回りしている事を意味しているのだ。
やってやれぬ事は無い。
デリクはまずは砕け散った音符を魔力で組み合わせる。それはパズルと同じだ。簡単である。
世界を構成する楽譜の音符は完全に復活した。
では次は?
世界に乱立する音符を眺めるが、しかしデリクの知識を持ってしても、そのバラバラになってしまった音符を楽譜通りに並べる事は不可能だ。
「参りましたネ」
デリクは苦笑が浮かぶ顔を片手で覆う。
吐いたため息はわずかな音となって、魔法が満ちたこの世界に奏でられた。
音符が動いて、その音の楽譜を描く。
デリクの瞳がわずかに見開かれ、それから彼は笑う。
「正解の音を奏でれば、この術式は正常になるというわけでスカ」
だがこの夢の小箱が持つ音楽がわかろうはずはない。デリクには。
では、リタには?
彼女がこの夢の小箱が持つ音楽を知らなかったとしても、その影響を魔術師である彼女が受けてはいない訳が無い。
またはこの術式が、彼女の影響を受けている可能性もあろう。
だったら、
「答えはそこにあル」
瞼を閉じ、記憶を探る。
リタにまつわる音楽――――
♪♪♪♪♪♪ 口笛の音色が、聴こえた。
デリクは微笑み、そして音楽を奏でる。
【ラスト】
リタの視力は回復し、そしてその音楽に彼女は気づいた。
「この音楽は?」
「夢の小箱が奏でる音楽でスよ」
デリクは微笑む。
その彼の微笑を見て彼女はもう既に自分の依頼が彼によって完遂された事に気がついた。
リタはそれを手に取り、そして黒髪に縁取られた美貌に嬉しそうな笑みを浮かべた。
耳を澄まし、それがいつしか持っていた音楽に耳を向ける。
笑みが本当にとても幸せそうな、懐かしそうな物へと変わった。
その音楽に込められた意味は、きっとそういう事。
デリクは肩を竦め、それから以来完遂を祝い、リタとシャンパンが注がれたグラスをぶつけ合い、それを飲み干した。
遠くから聴こえてくる客たちの声というノイズ混じりのサックスの音色はやはり素晴らしく、そしてデリクとリタは視線を交わしあい、互いにまたグラスをぶつけた。
【END】
++ライターより++
こんにちは、デリク・オーロフさま。
こんにちは、リタ・アンヘルさま。
はじめまして。
ご依頼ありがとうございました。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
術式の狂い、今回はこのように目で見える形という事で音楽にさせていただきました。^^
お気に召していただけていますと幸いです。^^
キャラ設定、デリクさまもリタさまもすごく素敵で、任せていただけた事がすごく嬉しかったです。
クールなデリクさま、プライド高いリタさま、PLさまのご希望通りに書けていたらいいなとすごく思います。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼ありがとうございました。
失礼します。
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