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<東京怪談ノベル(シングル)>


清廉たる夜を染めるは、天の座からの贈り物


 流れ入って来た風が空気を揺らしたのに気付き、月人はふと手の動きを止めて扉の方に目を遣った。
 教会の扉を開け入って来ていたのはコートに身を包んだ男。男は月人の存在に気がつくと、口にしていた煙草を離して頭を下げる。
「ここに教会があるとは知らなかったな。……ここの牧師ですか?」
 男がそう問いたので、月人は長椅子の拭き掃除を一旦止めて立ちあがる。
「ええ、まあ、一応」
 ゆったりとした笑みを浮かべてそう返し、男の傍まで足を進める。
「教会を含む、この敷地内は禁煙ですよ」
「え、ああ、すまない」
 男は慌ててポケットから携帯灰皿を取り出すと、急ぎ煙草を押しつけて消した。
「お近くにお住まいですか?」
 男が灰皿をポケットにしまいこむのを確かめながら、月人は男にそう訊ねる。男は「ああ」と頷いて、それから眼鏡を指の腹で押し上げつつ答えた。
「近所ではないんだが、探偵事務所をやっている。草間という者だ」
「草間探偵……。ああ、お名前は伺った事があったような気がします。ええと、誰から聞いたんだったかな……」
 頷きを返し、間近の長椅子を勧める。
 草間は月人の勧めを受けて軽い礼を述べ、椅子の上に腰を下ろした。
「いや、たまたま通りかかったんだが、この教会の雰囲気に惹かれたんだ。……そういえば今日はイブだったんだな」
 そう述べながら教会内を見渡す草間を眺め、月人もまた同じように教会内に視線を走らせる。
「たいした装飾もしていないのですが、お目に留めてくださったのは嬉しい限りです。……草間さん、今日これからのご予定は?」
「いや、特には。あいにくと、閑古鳥が鳴いてばかりの事務所なもんでな」
 笑みを含めてそう返した草間の言葉に、月人は肩を竦めて微笑んだ。
「これから隣の保育園の園児達による賛美歌合唱があるのですが、お時間さえよければご覧になっていきませんか?」
「ん? ……ああ、そうだな。……うん、しかし、俺は別に信仰しているわけでもないし」
 ごにょごにょと眉根をひそめる草間に、月人はくすりと小さな笑みを浮かべ、返す。
「牧師という手前、こんな事を口にするのも何ですが。……こんな仕事をしてはいますが、私自身、天主に対し信心を持ち合わせているわけではないのですよ」
「え? じゃあ、なんで牧師をやってんだ?」
 訊ねられて、月人はゆっくりと振り向き、教会奥の大きな十字架に目を向けた。
「ここには、祈りの心が在ります。……触れれば暖かいものを感じられるその心が、私にはとても居心地の良いものに感じられるのですよ」
 微笑みを浮かべてそう口にする月人に、草間もまた十字架に視線を寄せる。
「よく分かんねえが……んなもんかね」

 園服をきちんと着こなし、いつもよりもすまし顔を浮かべた園児達が整然と並び、オルガンの音が教会内に清廉たる響きで充たしていく。
 オルガンを奏しているのは保育園の先生。不慣れながらも穏やかな笑みを浮かべて指揮を揮っているのは月人だ。
 賛美歌115番。神の御子の生誕を祝うその歌は、この日のためにと練習を重ねてきた園児達の伸びやかな声で高々と天へ昇っていく。
 教会内に集っているのはそのほとんどが園児達の家族であるようだが、カメラ撮影やらといった行為で場の静粛な空気を壊している者はいない。
 粛々と進む儀式は、やがて燭火礼拝へと移り変わっていく。
 
 草間は一連の流れを、一番後ろの椅子に座って眺めていた。特に信心があるわけでもない草間にとり、月人が口にしている聖書の言葉もメッセージも、単なる行事の一環でしかない。だが、それでも今この場を充たし広がっていく清らかな空気を、決して不快ではない緊張感をもって感じ得る事が出来ていた。
 
 一通りの流れが済み、園児達は両親と手を繋ぎ、帰路に着く。
 月人は園児のひとりひとりの言葉に応じ、頷いたり、手を振ったり、あるいは抱き上げて微笑みかけたりしている。
 草間は未だ椅子に腰掛けたままだったが、開け放たれた扉から流れ入ってくる夕方の風の冷たさに、しばし身を震わせた。
「……ああ、そうか。……まだ夕方なのか」
 独りごちた草間の言葉に、全ての園児を見送り終えた月人がゆったりと目を細ませる。
「ええ。子供達が出席するクリスマス会ですしね。通常ならばクリスマス礼拝は夜七時ぐらいから行われるのでしょうけれど、この教会での礼拝は日中行われるのです」
 やわらかな声音でそう答え微笑む月人の後ろ――開けられたままの扉から、夕暮れていく空の色が草間の視線を埋めていく。
 
 夕暮れていく空の色は、夜の黒に染まりきらぬ紺色を滲ませていた。
 薄っすらと広がる薄闇の中、教会の入り口の植えこみに飾られた電飾がぼうやりとした光を放っている。

 月人は草間の視線の先にあるものを知ると、自分も振り向き、紺色の天空を仰ぎ眺めた。
「古来、神の座はあの空の上に在るものだと信じられてきました。天主たる神は、その絶対不可侵たる自らの座につき、そして人間の――地上を跋扈する我々の行動を確かめているのだと」
 穏やかな微笑みを浮かべ、金色に光る双眸をゆったりと細める。
 草間は天を見上げていた視線を下ろして月人の顔を見やり、ただ黙したままで前髪を撫でつけた。
 月人は、草間が何らリアクションを返してこないのを知ると、ゆっくりと振り向いて草間の視線を見つめ、首を傾げた。
「草間さんは、神たる存在の有無をどう思われますか」
 問われ、草間はしばし眉根を寄せて小さな唸り声をあげた。
「空の上に神の国があるなんざ、人間が築き上げた妄想だろう。――人間を裁くのは人間であって、それ以外のものではないはずだ」
「……怪奇探偵として名を馳せている草間さんらしからぬ返答ですね」
 月人はそう述べてくすりと笑う。それに対し、草間は憮然たる表情でかぶりを振った。
「望んだ名前じゃねえしな」
「ふふ」
 眉間にしわを寄せている草間に、月人は艶然として微笑を浮かべた。
「ええ、しかし、私も同じ考えですよ。我々を監視し、裁く権限を持っているものがあるとすれば、それは同族である我々以外に他ならない、と」
「牧師がそんな事を説いてるんじゃ、何かとマズいんじゃないのか」
「そうかもしれませんね。……でも、今ここにいるのは、私と草間さんだけですし」
 小さな笑みを滲ませる月人に、草間は頬を緩めて笑った。

 風が、冷たさを一層色濃いものへと変えていく。見れば、天はすっかり夜の一色で塗りつぶされていた。
 草間はゆっくりと席を立ち、軽く首を鳴らした後に教会の扉へと足を向ける。
「それじゃあ、俺は事務所に戻るとするか。閑古鳥が鳴いてる事務所だが、もしかしたらひょっこり依頼のひとつも入るかもしれねえしな」
「今度、事務所の方にご挨拶に伺いますね」
 帰路につこうとしている草間を見送りながら、月人が静かにそう告げた。
 その時。
「――――ああ、ホワイトクリスマスってやつだな」
 月人の言葉に頷く代わり、草間は首を竦ませた。
 その言葉に、月人は再び視線を持ち上げて空を仰ぎ見る。
「……本当ですね」

 冬の結晶が、街を飾る色とりどりのイルミネーションの上にちらほらと舞い踊る。

「良いクリスマスを」
 教会を去って行く草間を追うように、月人の声が響く。
 草間は肩越しに月人を見、ちらりと一瞥向けた後、後ろ手にひらひらと片手を振った。
 
 白い息が立ち昇り、消えていく。
 どこからか、楽しげに響くクリスマスソングが流れ、聞こえた。


―― 了 ――