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【Night Walker 黒猫のしっぽ】
ぱたぱた、ゆらゆら。
振り子のように尻尾が揺れる。
それは、好奇心の赴くままに。
夜闇を抜けて、今夜もまた。
「さあ、いきましょ」
ひょいと腕の中にペットのウサギを抱いて、黒髪の、黒いドレスを着た少女の姿を取った千影がにこっと笑う。
出かける直前に鏡を見て、髪が撥ねていないか、リボンは曲がっていないか確かめるのはやはり女の子だからか。そうして不思議な輝きを見せる緑色の瞳でじぃっと鏡をチェックすると、お気に入りの可愛らしい靴を履いて表へ飛び出した。
東京の夜はとても不思議――と、千影は外へ出る度に思う。
あれだけ街じゅういたるところで眩しい輝きを見せているのに、一歩路地に入ればそこは灯りも差さない真っ暗闇で。……こっそりと聞こえる息遣いは同類のもの。匂いだって、そこここに染み込んで、小さなけものでさえ近づかない界隈もある。
それなのに、人間はその事に気付かない。
千影があまり好きではない匂いをぷんぷんとさせている千鳥足の中年男や、まだ年若い少年たち――元々の髪を赤や緑や金に染め、道化めいた衣装とわざと崩した言葉遣いをしながら歩き回る彼らは、自分たち以外の何かが息づいているその場所でさえ気付かずに入り込み、騒ぎ、――そして、気分を害させるのだ。
「ちょっとちゅういすれば、すぐにわかるのにね?」
腕の中のウサギにそう語りかけ、今夜もふらふらと一人の酔っ払いが路地裏の奥、闇一色に塗りつぶされたそこへ入り込んでいくのを、上空から首を傾げて見送っていた。
と言っても、声をかけたり、引き戻す真似はしない。
「だってあのひと、くさいんだもん。ねー?」
香水と整髪料と酒が入り混じった匂いは、鼻梁にしわを寄せてしまうくらい大嫌いな匂い。そんな匂いの人なんていらないもん、と千影は見送るのにも飽きてくるりと後ろを向いた。
そして、闇に溶けて見えなくなる自らの翼で、もっと賑やかなところへ、と飛び立っていく。
――遠く、背中の方から聞こえて来る微かな悲鳴には、もう耳を傾ける事無く。
*****
「あれぇ?」
何かに気付いてすとんと降り立ったのは、繁華街から少しだけ外れた住宅街の一角。
灯りの消えた家から、千影と同じくらい黒い人影が出て来たのに気付いたためだ。
「さむがりさんみたい。へんなかっこう」
そう言えば寒くなぁい?と腕の中のふわふわした生き物に話し掛けると、ウサギはその言葉に反応するように顔を上げて千影を見、そしてまた自分の身体の中に顔を埋めた。その様子をくすっと笑って、ウサギの頭を柔らかく撫でると、猫のように……実際に猫の姿を取る事も多いのだが、今晩は少女の姿のまま、足音も無くその人影へと忍び寄る。
服の上下。手袋、帽子、靴、それら全てが真っ黒という、闇の中から生まれた者のような格好をした男が足音を殺しつつ別の場所へ向かおうとするのを、千影が付いて行く。
「…………」
何かに気付いたのだろうか。
男はぴたりと足を止め、そして振り返って――文字通り飛び上がった。
「こんばんは」
にっこりと。
愛想を良くして笑顔を浮かべた、真夜中に出歩くとはとても思えない美少女と、その腕に抱かれた一匹のウサギ。
そんな、現実味に乏しい千影に声をかけられた男は、一瞬ぽかんとし、そして……千影がそこにいる不自然さに少ししてからようやく気付いたのだろう。
「ひ……っ」
喉の奥から息を搾り出し、せっかく千影が笑顔で挨拶をしたと言うのに何も返事をしないまま、背を向けてばたばたと走り出して行ってしまった。
「――む」
きゅっ、と腕の中のウサギを抱く手に力が篭る。
「ね、ね、いまのひととってもしつれいだとおもわない? おもうよね? チカじゃなくたって、おこるよね?」
先に失礼な事をしたのはあっち――だったら、ちょっとくらい困らせたって千影が悪いわけじゃない。
「……うふふ♪」
先程浮かべた愛想笑いよりも数段嬉しそうな笑みを浮かべると、千影はふわりと宙に浮いた。
*****
「あー、たのしかった♪」
ただいまぁ、と元気良く声をかけて家に戻って来た千影が、ウサギをウサギの家に戻してにっこりと笑う。
どれだけの間追いかけっこをやっていたのか覚えていないが、千影の手や鼻の頭がちょっぴり冷たくなっていたのを考えると、数分では済まなかった筈だ。
そして、その男が行く先々で先回りをした彼女を見るたび大人の男とも思えない声を上げて、自分が逃げ込んだ先がどこであるかもわからずに右往左往する様を見るのはとても楽しかった、と満足そうな表情を浮かべた千影が、自分の寝床へ戻っていくウサギを目を細めて見ながら男の事を思い返す。
結局、千影に挨拶をひとつもしてくれず、闇の中でもぼうと浮かぶ彼女の目を見ては悲鳴を上げていたけれど、ずっと付き合って遊んでくれたんだから結構良い人だと思うわ、とウサギへ語りかける。
「あっ。あのひとがどこにすんでるのかおしえてもらうのわすれちゃった」
知っていたらまた遊んで貰えるのに、と一瞬残念そうな顔をしたものの、まあいっか、とあっさり思い直して、ふあぁ、と大きな欠伸を浮かべる。
「うにゃぁ……おやすみなさぁい」
たっぷり遊んで疲れも出たのだろう。こしこしと目を擦ると、自分の寝床へと移動する千影。
そんな彼女が丸くなって眠りに落ちる頃には、千影が脅かして回っていた男の事などは彼女の頭から綺麗さっぱり抜け落ちていた。
だから、翌日ニュースで今まで何十件と窃盗を繰り返してきた男が自首して来たと聞いても意にも介さなかったし、それが千影が追い掛け回して恐怖のどん底にまで追い込んだからなどとは思いつきもしなかったのだった。
「おさかな♪ おっさかな♪」
それに、彼女の感心事はそんな場所には無く、千影の全神経は、じゅうじゅうと良い音を立てて焼けているアジの干物に注がれていたのだから。
-END-
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