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『心を捕らえる夜気 銀に降り積もった雪の結晶 ― 忘れられぬ過去という名の陽だまり ―』
12月24日。
夜が支配する空の下、彼、夜の住人であるアドニス・キャロルは世界に響くノイズを遠くに聞きながら街の裏路をひとり歩いていた。
表通りはお洒落な店が立ち並び、そのウインドウの向こうは温かな光りに満ちて、数々のプレゼント用の品や、それを選ぶ人たちの幸せそうな笑顔があった。それは家族連れの幸福な風景。
街路樹も美しいイルミネーションで着飾り、その下を歩く友達連れは楽しげに騒ぎ声をあげている。
今日ばかりは夜の凍えるような風も人の目も気にせずに恋人たちは身を寄せ合って、街中に設けられた小さな広場にある大きなクリスマスツリーの下で聖歌隊によって歌われるゴスペルに耳を傾ける。
それがこの日本に来て彼が毎年クリスマスで見る風景。
だけどアドニスが歩く場所はそことは無縁の場所。ただただ表通りの雑踏の音がノイズとして響くだけの、夜の闇が真冬の冷気と共に立ちこめる裏路。
そこを歩くアドニスの表情にしかし翳りが無いのは別に彼が独りで、表通りの空気から逃げたからではなく、ただただ彼は人目が不慣れなだけで、その理由に尽きたからだ。
それでも普段は表通りの雑踏が奏でる死期の近いラジオが発するノイズのような人々の声も、彼らが吐き出す二酸化炭素もそうはこの裏路の空気にたゆたう事はあっても、飽和する事は無いのだが、今日がそうなのはそれはこの今日という日がクリスマスイブである事が関係しているからであろう。
アドニスはそれらが濃密にたゆたうこの裏路のドブ臭い埃の臭いが満ちた夜気を呼吸しながらわずかに肩を竦める。
それは感傷だ。
このクリスマスの空気がアドニスを感傷的にさせる。
その騒がしい落ち着きの無い浮かれた空気が、やけに賑やかな友人を彼に思い出させるから。
吸血鬼狩人時代、獲物となる吸血鬼の情報を自分に流していたその吸血鬼は随分と賑やかな男だった。
友情。その時はまだアドニスは人間であったのだ。その彼とその吸血鬼との間には確かに友情は成立していた。そして友情で結ばれた自分たち二人の後ろにいつもついてきていた彼女。
――――自分が殺してしまった友人の妻。
今でもありありとその映像は思い浮かぶ。
例えば血の赤を見、血の臭いを嗅いだ時とか、
例えば雪が降っていたその日と同じく雪が降っている時とか、
例えば女がくすりと力無く、最後まで彼女の亭主でありアドニスの友人である男を想いながら浮かべた表情とそっくりの表情を浮かべて死んだ女を見た時とか、
例えば――――――
もしもその光景を見ていた他人が居れば、アドニスにあれはアクシデントだった。だからおまえは気にするな、などとこちらの想いも知らずに奇麗事を言うのかもしれない。
しかしあそこに居た者たちはアドニスが全員殺したし、生き残った人間ももうとっくに死んでいる。
―――だから彼が彼の友人の妻をアクシデントとはいえ殺してしまった本当の真実を知る者は居ない。彼もそれを誰かに言うつもりは無い。
それは口にした瞬間に真実ではなく言い訳になってしまうから。
アドニスが求めるのは、救いではないから。
しかしそうかといって苦しむ事こそが自分の贖罪、懺悔、とはアドニスは考えてはいない。
そうであれば彼はきっとあの時、獣が咆哮を上げるように啼き、悲しみと怒りに狂った友人に殺される事を選んだ。
そして見限りはしなかった。
そう、アドニスはアクシデントとはいえ自分が手にかけた女の亭主であり、自分の友人であった彼を見限った。その瞬間にアドニスには彼女への贖罪を願う事も懺悔する事すらも許されなくなった。
だからただそう、この薄汚い路裏の夜気にすら溶け込む聖夜の気配に彼の事を思い出し、感傷に浸ったのは、贖罪を願う訳でも、懺悔する訳でもなく、または願えば叶うのではないかと思える聖夜に時が戻る事を願う訳でもなく、ただ感傷でしかない。たまたま聖夜の賑やかな気配がアドニスに彼の事を思い出させただけ。ただそれだけだ。取るに足らない気まぐれの感傷。
あるいは今アドニスが胸に感じている茫洋な喪失感、空虚感、それが宙ぶらりんの様になっているのが彼への罰なのかもしれない………
それでもアドニスはその事を見ないフリして、泡が浮かび上がるように思い起こした過去を綺麗に思考から追い払い、夜空にあるオリオン座を見る。
東京という街でも闇があるこういう場所でなら、それは見えた。
そしてそれから視線を前方に広がる闇へと向けて再び歩き出し、彼の視線の先にある闇からはやがて廃教会が現れる。
その廃教会こそがアドニスの家であった。
とは言え、その地図からすら消された廃教会にひとつの人影があった。
いつも居る人物であろうか、その影は?
いや、そうではないようだ。そうならアドニスはそんなにも冷たい目をしないし、その目を鋭く細めもしない。八重歯と呼ぶには鋭すぎるその牙も剥き出しにはしやしないだろう。
そんなにも手負いの獣のような敵意も殺意も露にしやしない。
夜がざわめき、そしてすぐさま息を潜めた。アドニスに恐怖し。
聖夜の空気は一変して、重苦しい、息苦しい緊迫した物へと変化する。
空気が肌を刺すようなその場にあって、しかしその人影は笑った。アドニスを見て、懐かしそうに。
「アドニス。見つけたよ」
そう、彼はアドニスの名前を知っている。アドニスという狩人名も、本名も。
それは当然の事だった。なぜならその人影はアドニスが殺した女性の亭主であり、そしてアドニスの親友であるのだから。
アドニスも口にする。言葉に出来ない感情のこもった押し殺した低い声で、その人影の名前を。
「ルイス・パーセル」
+++
その男はアドニス・キャロル。
彼、ルイス・パーセルの妻を殺した男。
そして彼を裏切った男。
それでも彼、ルイスはアドニスが自分と妻を狩りに来た事を甘受している。
変り種。
「ルイス・パーセル」
彼は自分の名前を口にした。
その事にルイスは双眸を細めて笑う。
妻を殺し、自分を裏切った彼からはそんな物はもう既に消去されているものだと思っていた。しかし彼は自分の名前を口にしてくれた。
その事に対してルイスは色んな感情を抱く。そしてその中の一つを笑顔でさらりと口にする。トリカブトの毒が体を蝕むように声でアドニスの心を蝕むように。
「我輩を裏切ったキミが、ルイス・パーセルという名前を未だに覚えておいてくれて、しかもそれを口にしてくれるその事が嬉しいね、素直に。そしてだからこそ今キミがどのようなつもりで我輩の名前を口にしたのか訊きたくなる。教えてくれるか、親友よ」
親友、そう呼ばれたアドニスの顔には言葉には出来ないような表情が浮かんだようにも見えたし、または一欠けらもその敵意と嫌悪、侮辱を混ぜ合わせたような表情が変わったようには見えなくもあった。
そしてアドニスは訊いた事とはまったく関係無い事を口にした。
「何故キミがここに居る?」
素っ気無く切り捨てるように言う。そこにはやはり一欠けらも昔の二人の関係を感じさせる響きは無かった。
しかしルイスの方は本当に昔と変わらずに、彼がアドニスに妻を殺された事も裏切られた事すらも無かったようにあの頃のままにそれを言う。
「探偵に調べさせたのだよ。この国の探偵は優秀だね。かつて我輩ら吸血鬼を狩っていたキミのように。きっとキミに我輩という情報をリークする者が居たように、その探偵にも優秀な情報を流す者が居るのか。ああ、その探偵は実にカリスマ的な探偵だったよ。きっとその情報屋たちは情報を金にしたいだけではなく、その探偵のそういう所に惹かれているのだろう。かつての我輩がキミを親友と想い、同属の情報をリークしていたように。もっともキミはそんな我輩の妻をも殺し、我輩を裏切った訳だが。ああ、勘違いしてくれるなよ? 我輩は今もキミを親友と思っている、その事に嘘偽りは無いのだからね」
少しずつ心を抉る様な真似はしない。
アドニスの心にルイスはどろどろに溶かした吸血鬼を殺す銀を注ぎ込むように言葉を紡ぐ。
それでもルイスはアドニスを親友と呼ぶ。
親友と呼ぶのは嘘偽りではない。本当に。
ルイスはアドニスの事をそう思っている。
そしてルイスは本当の事を知らない。
では本当の事を知れば、どう思うのか?
本当の事を知れば……………
+++
アドニスには本当の事など告げるつもりは無い。
そもそもが本当の事など、この世界に本当に存在するのだろうか? それは誇大妄想ではないのか?
この世に本当の事など何一つ存在はしやしないのではないのか?
そんな手で掬い取ろうとすれば指の隙間から零れ落ちそうな………いや、探しようも無い不確かな物への感慨を胸にアドニスはルイスの語りを聞き流す。
それでもルイスの声が二人居る空間を埋めれば、まるで時間が戻ったのではないのか、そんな風に錯覚さえ覚えるのもまた事実だ。
アドニスの胸には冷め切った、ただ苦いだけのブラックコーヒーのようなそんな感覚が去来する。
アドニスは廃教会の扉の前に立つルイスの横を素通りし、扉を開けて、そのできた隙間に身体を滑り込ませて、後ろ手で扉を閉めようとした。
がつん、と扉が何かを挟んだ音は聞かずとも何かはわかった。
聞いてやる義理も、招待してやる義理も無い。それでも無碍にその足を踏みにじり、強引に扉を閉めなかったのは、ここに来るまでに抱いた感傷のせいと、それをまるで見越していたかのようにやって来て、あまつさえ時間が戻ったようにすら感じさせるルイスに免じて。
でもそれは断じて足を踏みにじり、強引に扉を閉めないその理由としてだ。他に他意はない。
そして何も自分に望むな。
もう冷め切ったコーヒーに熱いコーヒーを注ぎ足して、カップの中の液体を温かくする事はできない。
本当の事など何一つこの世には存在しやしない。
それは変わり様の無い真実だ。
そしてアドニスの心もまた、それは例外ではない。
例外ではないから、心は変わった。
だからアドニスは続いて入ってきたルイスにも、彼が紡ぐ言葉にも、気を向けない。
彼が居ないように振舞う。廃教会の奥にある元は司祭の部屋であったのだろう今は彼の部屋に行き、マッキントッシュの白のロングコートを脱ぎ、それを無造作に古い椅子の上に置いた。
普段着のベロアタートル、その胸ではロザリオが常夜灯の明かりを反射させて鈍く輝いている。
ルイスも着ていたファーハーフコートを脱ぎ、それを彼はアドニスがコートを置いた椅子の背もたれにかけた。
アドニスが腰を下ろしたベッドがぎしぃっと軋んだ音を奏でた。
そして彼はサイドボードの上にあるジョニウォーカーとグラスを手に取り、グラスにそれを注いだ。
グラスの中で琥珀色の液体を数度揺らし、そしてそれを口にする。完全にルイスを無視して。
しかしルイスはどこか喧嘩して意固地になっている弟に兄が優しく笑うように微笑むと、勝手にサイドボートの上にひらりと足を組んで腰を下ろし、ジョニーウォーカーの瓶の口を顔を近づけた。悪戯っぽい目でアドニスを見るが、彼はそれすらも知らん顔でグラスの中の琥珀色の液体を口にしている。
軽く肩を竦めてルイスは瓶の中の酒を口にした。
二人して酒の匂いがする部屋でこうして一緒の酒を飲むのは何時以来ぶりだろうか? と、アドニスは揺れる琥珀色の液体の水面を見ながら考える。
酒で口を湿らせたルイスはまた先ほど以上に滑らかに動く口で昔と変わらぬ雰囲気で、昔話を口にしている。
アドニスが目を落とした揺れる琥珀の水面に見たのは何であったろうか?
グラスの中にもう半分も無いそれをアドニスは全て飲み干してしまう。
その空になったグラスに幻の細い華奢な両腕が伸びて、その手に持っている酒が入った瓶を傾けて、その中の液体をアドニスのグラスに注いだのを見たのは、珍しくたったグラスいっぱいの酒で酩酊したからだろうか。それとも久方ぶりに二人揃ってこうして同じ場所で酒を飲んでいる事に彼女が喜んだからだろうか?
アドニスがルイスの家を訪ねれば、昔はこうして二人で酒を飲んでいた。
そしてルイスの妻はただ優しく微笑みながら酒を飲む自分たちを編み物をしながら時折羨ましそうに見つめ、他愛も無い話に耳を傾けては一緒に笑い、酒も注いでくれた。
三人で居る空間がアドニスは好きだった。
ルイスは親友であった。確かに。
ルイスはアドニスが吸血鬼狩人であったから、だから自分を、自分の妻を裏切ったと思っているようだが、それは違う。
違うのだ。
彼の妻を殺したのはアクシデントだった。
しょうがない事だった。
ルイスは自分の妻が隠していた事を知っていたが、しかしそれを伝えようとはしなかった。それが彼の優しさであり、罪であった。
彼は知っていたけど、知らなかった。
彼女の想いを。
そしてアドニスは知っていたから彼女にとどめをさした。
自分の手で彼女を殺してやった。それが彼女の救いとなったから。
アドニスは知っていた。
心臓を貫かれるその最後の一瞬まで彼女がアドニスへの感謝と、そして罪悪感と哀れみを感じていたのを。
それを思い出し、アドニスはああ、と思う。再確認する。自分がルイスを見限った理由を。
その感情は毒蛇が哀れな子ネズミでも見つけて鎌首を持ち上げるように、感情の奥底に過去と共に追いやられていた場所から頭を出し、毒蛇の鋭い牙が獲物を捕らえ、毒を注入するように、アドニスの心を汚染していく。
空気が感染していく。
アドニスのその心に。
心が安らぐ時など無かった――――
――――――――――――――――三人居たあの場所が砕け散り、その細かく散った破片がアドニスの心を傷つけた時から。
血に濡れているのだから、心は。
――――「アドニス。ルイスの友達でいてあげて」
それが彼女の最後の願い。
誓うと言った舌の根も乾かぬうちにアドニスが破った。
いつしか雪が降っていた。
先ほどはあれほどに綺麗に星が瞬いていたのに。
ホワイトクリスマス。あの日と一緒。
―――――アドニスは吹雪く雪の中で馬を走らせていた。
片目は大きく腫れ、切れた瞼からはまだ血が流れていた。
そんな悪条件にも関わらずに彼が馬を走らせる事が出来たのは向かう先が何度も通った事のある親友の家であり、そしてその親友の妻が狙われているからだ。
時刻は数刻前。
街の裏通り。そこにある小さな薬屋。
しかしそれは名ばかりで、外見は入る事すらも臆するような薄汚れたあばら家。
だがアドニスはその薬屋に入る。
夜だから、という訳だけではなくその店は暗かった。
そしてアドニスは自分の持つ石の欠片を見せる。
その欠片を見て、カウンターの向こうの店の主(顔はアドニスには見えない)は後ろの戸棚から小さな紙袋を取り出し、アドニスに渡した。
それはこの国にいくつかある吸血鬼狩人の仕事の斡旋場の一つだった。
アドニスはその斡旋場から出て、街の薄暗い外灯の下でフランスのコミューンのいくつかを飼育場として影から支配する吸血鬼の大貴族が同属である他の都市の貴族の吸血鬼の謀略によって滅んだ事を知った。
そして他にはその余波を受けてこのイギリスでも近々大規模な吸血鬼同士の戦争が起こる危険性の示唆と、それを利用した作戦の内情などが他にも書かれてはいるが、しかしアドニスを戦慄させたのはそんな事ではなかった。
フランスにおいて滅ぼされた吸血鬼の大貴族の傀儡であったコミューンの権力者の家の紋章はルイスの妻が彼に隠し持っている短剣の紋章であったのだ。アドニスは以前に不覚にも毒蛇に噛まれた時に、彼を救うために彼女が肌身離さず隠し持っていたその短剣で毒蛇の皮を剥いだ光景を見ていたから、それを知っている。
その短剣は武器として使用したりする物ではなく、貴族が嗜みとして所有する飾り物で、刀身には短い文章も刻まれていた。そしてその文章に出てきていた名前と滅ぼされた貴族の頭首の名前が同じなのだ。
吸血鬼狩人の斡旋場に居た男はこうも言っていた。滅ぼされた貴族の刃となり、汚い事をやっていた吸血鬼たちが反旗と翻したのだと。そして吸血鬼たちはひとりの女の吸血鬼を探しているらしいと。
疑うべくも無くその女とはルイスの妻だった。
ルイスはアドニスにほとんど独り言に近い感じで話しかけながら昔を思い出していた。
前はこうしてアドニスと一緒に酒を飲んだものだ。
そしてその自分たちを妻はいつもどこか羨ましげに見ていた。
彼女はそんな仲の良い自分たちが好きだったのだ。
きっと先に出逢ったのがアドニスだったら、アドニスの妻となっていただろう。
妻は自分が出逢った時は吸血鬼であったが、しかし前は人間であった。彼女は転向者だ。だがルイスは妻を愛していた。
その妻を殺した男が今自分の前に居る。
ルイスは酒を喉に流し込み、言葉の奔流を一緒に飲み込んだ。それは言いたくなかった。どろどろに溶かした銀を注ぎ込むように嫌味を言いながらもまだそれは決定的な物ではない。しかしその言葉は決定的なのだ。
そしてその言葉を飲み込んだ瞬間、懐にあるそれの冷たさが寄り一層肌に感じられた………
アドニスは雪がちらつき出した中を走った。
馬を手配し、それからルイスの家へと行き、先に彼女と話し合い、そしてルイスと彼女を守る………そういう算段をしていた。
自分の身近な者へと及んだ危険、それがアドニスの心を切迫させていた。だから彼は失念していた。闇の世界で生きる者ならば、いや、生きる者として本当は常に抱かねばならぬ事を。
他人を疑う事。周りへの注意。
吸血鬼であるルイスが吸血鬼狩人であるアドニスに情報を流しているように常に他人は―――――
それを思い出したのは夜気を切り裂き飛来する何かの奏でる音を聞いたからだ。
間一髪彼は身を後ろに逸らし、ナイフをかわした。しかしその刃はアドニスの左の瞼を傷つけていた。間違いなく人体で一番柔らかく、急所である眼球を潰すつもりだったのだ。
夜の闇から現れたのは吸血鬼であった。
そいつらが発する言語はアドニスが使う物でも、この国の吸血鬼が使う物でもない。フランスの吸血鬼が使う物だ。
闇から飛来したそいつらはアドニスを殺すつもりは無いらしい。ルイスの妻の居場所を吐かせる気なのだ。
アドニスがそれを知っている事を流したのはあの斡旋場の男か?
だが彼が後れを取ったのはその時だけだ。アドニスは優秀な吸血鬼狩人で、そしていかに吸血鬼であろうが向こうにはアドニスを殺す気は無く、しかしアドニスには遠慮してやる義理は無く、その差は決定的に大きかった。アドニスは容易に彼らを殺せた。
そして彼は吹雪く中、馬を走らせているのだ。
ルイスは今夜は狩りに行くと言っていた。
あの家には彼女が居るだけだ。
焦燥がアドニスを苛んだ。
果たして彼が見た物は、同属の吸血鬼を殺した彼女がしかし、ただの人間の、それもこれまで人など絶対に殺した事など無いその人間に、急所である水月を刺される彼女の姿だった。
アドニスは怒り狂った。その激しい殺意に人間は恐れ戦き、彼女の血で濡れた刃を落とし、逃げ去った。まだ生き残っていた吸血鬼たちはアドニスを殺すために襲い掛かってきたが、怒り狂ったアドニスにはたとえそいつらが吸血鬼でも殺す事は容易かった。
そしてアドニスは彼女に駆け寄った。
一目でもう彼女が駄目だとわかった。
温度の無い手がアドニスの頬に触れた。
あの人間は彼女の家系の者だったのだ。
だから彼女は抵抗しなかった。
「キミはだったら、あいつには殺されてやる訳にはいかないだろう?」
彼女の瞳が見開かれた。
ルイスは知らないが、アドニスは知っている。元は人間であった彼女が転向したのは、家族を守るために吸血鬼に嫁入りするためだった。
しかし彼女が乗っていた船が沈没し、そして彼女は浜に打ち上げられて、ルイスに拾われた。
ルイスという男は吸血鬼の貴族でありながらしかし、その同属を裏切っている。それはアドニスを親友として見ているだけではなく、そこにメリットもあるからだ。
そういう割り切った所からアドニスとルイス、二人の関係は始まり、友情が生まれたのだ。間にあった壁を一つずつ壊して。
そしてそういう男だからこそルイスは人間という物に興味を持っており、その頃の彼は家族に愛されて育った幸せな良き娘、という物に興味を持っており、ルイスが彼女をかまった最初の理由はそこにもあった。
家族のために身を犠牲にした、人身御供とされた彼女はもうルイスを愛していたから、だから彼の愛を繋ぎとめるためにそれを演じた。
だからアドニスは彼女を自分が殺してやろうと思った。最後まで彼女はルイスへの愛を貫き通したい、そう思っているから。
それがわかるほどにアドニスにはルイスと彼女と共に過ごした時間は長かったのだ。
アドニスなら彼女を殺しても良い。彼は吸血鬼狩人であるのだから。
真っ白な雪が、彼女の鮮血で染まった。アドニスの銀の剣が、彼女の心臓を突き刺したのだ。
そしてそのまさに銀の短剣を突き刺した瞬間をルイスは目の当たりにした。
「アドニス?」
ルイスの暗い声がしんしんと雪が降る世界に響いた。
――――――――――――遠い昔の話だ……………
しかしルイスはその頃と何一つ変わらない。
自分は、変わってしまった。
アドニスはその事にだけど安堵を覚えていた。
それは彼女が愛したルイスだから。自分が死んだ事で、亭主が変わってしまっていたら、彼女が悲しむ。
彼女は死にたくは無かったのだから。
そう、ルイスが変わっていないのなら、それでいい。
自分は変わってしまったけど、ルイスが変わっていないのならもうそれで充分だ。
アドニスはサイドボードに空のグラスを置いて言った。
「もう帰れ、ルイス」
ルイス、久方ぶりにそう名前を呼ばれたルイスは驚いたように双眸を見開き、そして苦笑しながらその部屋を出て行った。
アドニスはそれを見送りはしなかった。
が、教会の扉、ルイスが出て行ったその扉をアドニスはしばらく経ってから見つめている。
わざわざそこまで部屋から出てきたのは彼女に名前を呼ばれたような気がしたから。
――――――ルイスの友達でいてあげて………
聴こえた声にアドニスは答えを漏らす。
「親友さ。本当は今でも」
気づいている。手に取るように見える。
その扉の向こうで懐に隠し持っていた銀の短刀(妻の形見)を道に迷った子どものような顔で見据えているルイスが。
本当はルイスは自分を殺しにきたのだ。
「ああ、わかっているさ、――――。ルイスが今でもちゃんとキミを愛しているのは。その愛はルイスがキミに抱いたその瞬間から永久に変わらぬ物だと。だからこそ俺は、ルイスのその想い故にあいつがキミについていた嘘が許せず、それが永遠に超えられぬ俺たちの壁だと思い、ルイスを見限った」
そう、見限った。
アドニスはルイスを。
雪が降る中で、その声は無機質に響いた。
「アドニス? キミが殺したのか、我輩の妻を?」
「そうだ」
「どうしてだ、アドニス?」
路に迷った子どものような顔をするルイスにアドニスは酷薄に笑った。
「吸血鬼狩人が吸血鬼を狩る事にどこに謎が発生する? 至極簡単な事。ただそれだけだ。俺は吸血鬼狩人でキミらは吸血鬼。狩る者と狩られる者、ただそれだけだろう? ルイス」
ルイスはアドニスの足元に横たわる妻を抱きしめ、血の気の無い彼女の頬を触れた。
「思えば彼女は哀れな女だった。家族に吸血鬼に差し出され、家族を守るためにその悲痛な運命を受け入れた。そして我輩はだから彼女を助けた。そうして愛してしまった。その想いは決して同情ではなかった。気の迷いでも。真実の愛だった。キミは我輩の心変わりを恐れているようだったが、そんな心配は無かったのだよ。我は誓おう。このキミへの愛は永遠だ」
ルイスは妻の血に濡れた唇に自分の唇を当て、
そしてアドニスは衝撃を受けた。
ルイスは全てを知っていた。
ならどうしてその全てを知っている事を告げなかった?
妻を安心させてやらなかった?
いや、わかっている。
あえて妻の演技に合わせて、何も知らないフリをする事で、妻を安心させてやりたかったのだと。黙っててやる事が、それこそが妻の幸せなのだと想っていたのだと。
それも愛なのだと想う。
アドニスにもわかる。
だがどうしてもっと言葉で示してやらなかったのだと、アドニスは歯噛みした。
言葉で想いを示してやる事が、彼女の一番の幸せに繋がったのに………
それにアドニスは決定的に超えられぬ壁を感じ、ルイスに絶望し、そして彼は親友を見限った。
そしてそれこそルイス夫妻へのアドニスの贖罪でもあったのだ。
命を絶った彼女への、
最愛の妻を奪ってしまったルイスへの。
アドニスも失った。
アドニスは美しいステンドグラスを背に教会の扉を見つめている。
そしてルイスもまた先ほど彼が後ろ手で閉めた、立ち去れぬ扉の向こうにアドニスの呼吸を感じている。
降った雪が銀の短刀の刀身に降り積もり、雪の結晶を形作るそれを見据えながら妻の名を呼んだ。
アドニスを我輩は殺せなかった、と、呟いた。
アドニスを想う想いと、妻を愛する想いとに挟まれながら。
妻を今も愛している。
そして今もその妻を殺し、自分を裏切った親友を想っている。
想いはただ目の前の雪が降り積もる光景のようにルイスの心に溶ける事無く、降り積もっていく。それをどうする事も出来ずに――――。
あの日と同じ雪が降る聖夜の冷気はアドニスとルイス、二人の心を捕らえて離さない。ただそれでも二人の心が凍えつかないのは三人で過ごした過去が春の陽だまりのように心の奥底では灯っているから。
扉一枚を隔ててアドニスとルイスはもうしばらく同じ時を一緒に過ごしたのだった。
【END】
++ライターより++
こんにちは、アドニス・キャロルさま。
こんにちは、ルイス・パーセルさま。
はじめまして。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回はご依頼ありがとうございました。
いかがでしたでしょうか?^^
過去話はお任せにしていただけたので、私の好きな感じで書かせていただいたのですが?
お気に召していただけましたでしょうか?^^
二人は互いに想いあっているけれども、しかし過去ゆえに、その想いがすれ違ってしまう。それでも心の奥底では繋がっている感じ、そんな物をPLさまのイメージしていた通りに感じていただけていましたら幸いです。^^
アドニスさん。
優しいからこそ、彼女を想うからこそ背負ってしまったたくさんの重い物。プレイングからどこか不器用な感じのイメージを抱きました。だから優しすぎて不器用な人、そうテーマを決めて書かせていただきました。
お気に召していただけていますと幸いです。
ルイスさん。
今もちゃんと奥さんを愛している、その感情はやはり一番大事で、そしてなのに奥さんをアクシデントとはいえ殺したアドニスさんに見限られたその理由、それを考えて、今回の過去話を作りました。
書いていてルイスさんの奥さんへの想いの確かさはすごく感じられました。
そしてだからこそアドニスさんへの友情の確かさも。
ラストの銀の短剣のシーンは本当に切ないと想います。
いつか別れた道がまた重なると良いですよね。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、ありがとうございました。
失礼します。
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