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<東京怪談ノベル(シングル)>


過去の日々、その記憶

 …十にも満たぬ幼き日。
 師と共に過ごした、修行の日々。

 決して消えない過去の日常。



 前に進む度、荒く吐かれる息。骨からがくがくする身体。傷の程度など知らない。わからない。既に痛みなどと言う生易しいものではなく、鏝を当てられたような熱さと身体の芯から生まれる異様な寒さ、そして麻痺と言う無感覚だけが身体のあちこちを襲っている。ただ血と泥、埃に塗れている自分。森の中、大地を踏み締め、道を歩いている――足を動かせている事それ自体が自分で信じられない程。まるで自分の身体が自分の身体で無いように思える程――疲れ果てていた。否、傷付いていたのか、それとも両方か。
 師に命じられた『課題』をこなす為――今はその後、何とかこなす事が出来た為――夜崎刀真はここに居た。…近隣の村々を荒らし回っている狒々退治。森に棲むその狒々を退治に出向いた、その帰り道。それが今。
 …容易く刃物を弾き返す皮膚と、牡牛を軽々と捻り潰す怪力を持った狒々の化物。それは武林に身を置く英雄好漢であるならばそれなりに何とかしようがある相手かもしれない。だがどう考えても十にも満たない幼い刀真の手には余る相手。体格も力も速さも知恵も経験すらもすべてが上回る怪物に、彼はただ『命を懸ける』事で対抗した。それは死を覚悟するのではなく――命を賭して戦いながら絶対に死に抗う事を止めない決意と執念で立ち向かったのだと言える。
 師に拾われ物心付いた頃には狂気染みた鍛錬を強いられていたこの身。毎日のように師と死合い、死の淵を何度覗いたか知れない。致命傷。本来そう言われるだろう程度の傷を毎日のように負わされた。即死にはならぬ程度、だがその傷は放っておけば確実に死に至る。そんな状態で捨て置かれる日々。
 傷を癒す手段は用意されていたものの、誰が手伝ってくれる訳でもない。その用意のある場所まで這ってでも辿り着き自分で処置しなければ待つのは死。…だからこそ刀真が己自身に課していた鍛錬も生温いもので済ませられる訳もなかった。心身を鑢でこそぎ落とすような基礎鍛練も、そんな明確な『死』の恐怖に比べればさしたる苦痛でもなく、ただ師に殺されぬようになる為だけに必死で絶望に抗い鍛錬を繰り返していた。絶対的強者と対峙し、抗し切る絶望に挑まなければならない日常。それが幼い刀真が歩いてきた道。
 …そんな修行を繰り返していたからこそ、刀真は今狒々の化物に勝ち、生き延びる事が叶っている。玩具のように弄ばれながらも耐え凌ぎ続ける事が叶っている。相手の慢心により生じた、万に一つの勝機を掴む事が叶っている。
 だがその代償は――安価くはなかった。
 最早まともに身体が動かない。本人に殆ど自覚はなかったが――自覚している余裕すらなかったが、疲労だけではなく満身創痍。その足で歩いている――歩けているだけで既に奇蹟のような状態。
 限界。
 そう、思っていた。
 その筈だった。
 刀真の微かな自覚のみならず、誰が見たとしてもそう判じただろう。
 その筈だった。

 森の、少し開けた場所――その広場で起きていた地獄を、見るまでは。

 辺りを埋め尽くす無数の狒々の屍。
 その只中に揺らぐ事無く立つ師の姿。
 現れた刀真の存在に気付いていない訳も無かろうに、振り返りさえもしない。
 存在自体を無視されている。
 そのまま師は、狒々の屍を踏み越え先へと進む。森を抜けて行こうと、何事も無かったかのように、淡々と。
 無言。
 刀真に対し、声の一つも掛からない。
 己が背中が刀真に見えた事もわかっているのだろうに。
 否、刀真に見せる為にこそ、その場に残っていたのだろうに。

 俺が取りこぼしてしまっていた他の狒々。
 俺が退治すべき怪異。
 俺がこなすべき『課題』。
 俺が。

 なのに、師は――!
 俺では済まぬと。
 手を出した。
 …そしてそれはまったくその通りで。
 これだけの数狒々の化物が居たのなら――『課題』は何も終わってはいなかった。
 なのに俺はここで限界だと?
 腹立たしくも歴然とした差が思い知らされる。
 今の自分ではこなせない。
 そう、日々あれだけの地獄を潜り抜けて来ながら――まだ、全然。
 ――まだ、師の足許にも及ばない。
 勝てない。

 …けれど。
 負けて――堪るか。

 あの背に、追い着かねばならない。
 いや、追い着くじゃない――いつか、越えてやる。
 あの師を。
 いつか越えて――その手を借りる事など無くて良いように。任せたと思わせて、任せられないと莫迦にした。何も言わない。見もしない。俺はここに居る。存在自体を無視するか。
 いつか、思い知らせてやる。
 殺されてなんぞやるものか――!
 その思いが、刀真の身体を突き動かす。
 限界の筈の動けない筈の――幼い、その身体を。
 叱咤する。
 その意識も無かったか――負けて堪るか、その意志だけが勝ったのかもしれない。
 既に身体機能の限界、その先にあるのに――まだ、足が動く。

 先を行く師の姿を追い掛ける。
 限界の筈のその状態から――刀真は再び、歩き出す。



 …いずれ道を違える定めだとしても。
 共に歩いた道程は、変わる事無く在り続ける。

 この身の裡に、ただ残る。

【了】