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<東京怪談ノベル(シングル)>


Night And Day

 初めて訪れた店の中に踏み入る時は、大概軽い緊張を覚える。無論、コンビニやスーパー等と云った店の場合はその例に含まれずだが。
 私は今、初めて訪れる一軒のバーへと続く階段を前に、ひたりと足を留めている。
 階段の脇には小さな立て看板がひとつ。ひっそりとあるそれは決して己の存在を主張しすぎてはおらず、だがそれにも関わらず、通りすがる人々の視線をしと寄せていくような声なき声を放ってもいる。
 地階へと続く階段を前にして足を留めていた私の横を、幾分妙齢といった風体の男が過ぎて行く。男は慣れた足取りで地階へと赴くと、手馴れた調子で店の中へと消えていった。
 私はしばし思案した後、懐から懐中時計を取り出し、時間の確認をした。
 深夜と云ってもいい時分だ。
 また日を改めて、今度はもう少し早い時間に足を運ぶべきだろうか。否、しかし交わした約束を無碍にしたままでいるのも失礼にあたる行為であろう。
 ――――約束。
 呟き、一人、笑う。
 実際のところ、ただ単に私がここへ来たいと思い、勝手に足を寄せて来ただけなのだ。
 彼女が私の到来を心待ちにしているとは思い難い。いや、しかし。

 己の中で、いつまで経っても終わらない問答を繰り広げた後に、私は遂に意を固めて地階へと赴いた。
 人が通ればすれ違うのがやっとといった程度の幅の階段。装飾のない壁。チカチカと点灯している小さな照明。
 ドアノブに手を掛けると、取りつけられていた小さな鈴が控え目な音色を響かせた。

「いらっしゃいませ。――――おや、詫助さんじゃないか。来てくれたんだね」
 私を出迎えてくれた店員の顔を確かめて、私はゆったりと頬を緩める。
「ええ、お言葉に甘えさせてもらいました。――――なるほど、雰囲気の良い店ですね」
「だろう? 賑やかすぎるのは性に合わなくてね。ああ、適当に腰掛けとくれ。なんならカウンター席はどうだい? マスターに紹介するよ」
「では、そちらへ。――なにぶん、こういったバーには不慣れでして。ハハ、正直緊張してますよ」
 頭を掻く私に、彼女――華子さんはいつもと同じ艶やかな微笑みを浮かべ、頷いた。
「ふふ、気楽にやってっとくれよ。ああ、そうだ。注文はどうしようかねえ?」
「ええと、メニューか何かがあれば……」
「メニューなんてもんは置いてないのさ。何ならお任せっていうのもあるけど、どうするかい?」
「では、華子さんのお勧めを」
 述べると、華子さんはゆったりとした動きで引き下がり、慣れた所作で頷いた。
「かしこまりました」
 そう述べ、艶やかな笑みを浮かべる。
 私はしばし華子さんの表情に見惚れていたが、カウンターの向こうに立った初老の男――どうやらこの店のマスターであり、バーテンでもあるようだ――と視線を合わせ、ぺこりと会釈をしてみせた。
 バーテンがシェーカーを用意し、華子さんがリキュール等の用意をする。
「――おや? それ、日本酒ですよね」
 訊ねつつ、華子さんの手にある瓶に目を向ける。
「カクテルには色々な種類があってね。日本酒を使ったものなんかもあるのさ。詫助さんが来たらどんなカクテルを出そうかって考えてたんだけどね。どうしても日本酒ベースのものしか浮かばなくってねえ」
 ふふと笑みをこぼしつつ、華子さんはマスターの手に日本酒の瓶とドライジンの瓶を渡していました。
 老バーテンは渡されたそれらをグラスに注ぎ、次いで酢漬けの生姜、レモンピールを投入する。
「サケ・ティーニ7と云うんですよ」
 バーテンはそう云って微笑みを浮かべ、完成したグラスを私の前へと差し出した。

 華子さんはゆったりとした動きながら、足を休める事なく店内を動き回っている。
 白いシャツに黒いエプロン。あの衣装はこの店の制服なのだろうか。そんな事を思いながら、私はグラスを口にする。
「これは、今までに味わった事のない味ですね」
 感嘆を述べてバーテンを見る。老バーテンは皺の刻まれた顔にあたたかな微笑みをのせた。
「もう少しでクローズですから」
 バーテンが告げた言葉に頷いて、改めて華子さんの姿を探す。
 歩くたびに揺れ動く黒髪は背中で一つに結いまとめられ、明るすぎない照明が艶やかな横顔をぼうやりと照らしだしている。
 と、私の耳に入りこんできた音楽に、私は思わず顔をあげた。
「この曲は聴いた事のある曲ですね」
 独りごち、店の中のどこからともなく流れてきたジャズナンバーに耳を寄せる。
「My Favorite Things。最近、CMなんかでも使われていた曲だねえ」
 華子さんの声がした。見れば、いつの間に来ていたのか、華子さんが頬づえをついた姿勢で腰掛けていた。
 華子さんは私の目を覗き見てニコリと笑い、軽い息を吐きながら前髪を掻きあげている。
「表の看板片付けて来たよ」
「ええ。今日もお疲れさまでした」
 華子さんはバーテンと短い会話を交わした後、つい今しがたまで浮かべていた笑みとは少しばかり異なる微笑を浮かべ、首を傾げた。
「待たせちまったね」
「いえ、これっぽっちも。こういう店にお邪魔するのは、実はこれが初めてでして。物珍しさもあって、ちっとも退屈じゃあなかったですよ」
 私がかぶりを振って答えると、華子さんの、紅のひかれた唇が、ふと綻んだ。
「そうさね。詫助さんのあの茶屋は、どう譲ってみたところでジャズなんざ流れそうにもないしねえ」
 眼を細め、ふふと笑う華子さんに、私は――そう、ほんの少しの間、知らず視線を奪われた。
「ハハ、いや、全く」
 照れ隠しに頭を掻く。華子さんは私の顔を見て、さらに小さく微笑した。
「この間は、プレゼント、ありがとうね」
 そう述べて、華子さんはゆっくりと席を立った。どうやらカウンターの向こう側へと回るつもりらしい。
「俺には、女性に贈り物をするなんて機会がありませんで。どんなものがいいやらと思っていましたら、何だか珍しい品を目にしましたんでね」
「へえ、意外だね」
「……?」
 返された言葉に、私はしばし思案する。
 華子さんの手にはシェーカーが用意されていた。
「いや、女に贈り物をした事がないなんてさ。なんだか意外だよ」
「ハ、ハ。そうですか? ――――おや、また曲が変わりましたね」
「Night And Dayってんだよ。これも有名な曲だから、どこかで聴いた事があるかもしれないね」
 云いつつ、シェーカーに続き数種の瓶を並べ始めた華子さんを、私は思わず口を噤み見守った。
 数種の材料をシェーカーの中に入れると、華子さんは、老バーテンに比べればどこかまだぎこちないような手つきで――私からすれば、充分にバーテンらしい所作であったのだが――シェーカーを振り出した。
「これはね、春の雪って名前のカクテルなんだよ」
 艶然と微笑む華子さんの作ったカクテルは、柔らかな緑色をしていた。
「日本酒をベースに、グリーンティリキュールなんかを使うのさ。ジンも入ってるから、多少は特有の風味がするかもしれないけどね」
 華子さんの説明を受けながら、グラスに注がれたカクテルを一口含む。
「……いや、でも飲み口はひどくさっぱりとしていて」
「レモンジュースも入ってるからね」
 私は大きく頷きを返し、再びグラスを口にした。
「名前とか色味とか、なんだか詫助さんみたいなイメージがあったからさ。マスターから習って、練習したんだよ。――――どうだい?」
「ええ、とても美味しい」
 そう云って、私は空になったグラスをカウンターの上に置く。
「お替わりをいただけますか」
 華子さんの顔が、満面の笑みを浮かべた。

 流れるジャズナンバーと、華子さんが作ったカクテル。間接照明のぼうやりとした橙色と、それが生み出す薄い影。
 ジャズナンバーは、また新しいものへと移り変わった。が、私はもう、曲名を訊ねるような事をしようとは思わない。――曲名など知らなくとも、その音楽の良さを堪能する事は幾らでも可能なのだ。

 カウンターの向こうで、華子さんが頬づえをつき、ゆったりとした笑みを浮かべている。
 ……私は、どうやら、少しばかり酔ってしまったのかもしれない。
 華子さんの頬が、ほんの少しだけ、薄い紅をさしているように見えるのだ。
「ねえ、詫助さん。あの万華鏡だけどさ」
 ゆったりと、ささやくように言葉を編む。私はただ黙したままで頷いた。
「……とても綺麗な世界を見せてもらえて、嬉しいわ」
 そう告げられた言葉と同時、聴いた事のないナンバーが静かにその流れを止めた。

 地階の店を後にして、冬の夜風の吹きすさぶ中へと足を踏み出す。後ろには、一緒に店を出てきた華子さんが立っている。
「お家はどの辺りですか? 送って行きますよ」
 そう訊ねると、華子さんは身につけていたコートの襟元をただしつつ前髪をかきあげた。
「そうさね。せっかくだから甘えておこうかな」
 艶やかに微笑むその表情に、私は再び目を奪われる。
「散歩がてらっていうのも、楽しいかもしれませんしね」

 カツリ。華子さんのブーツの底がアスファルトを鳴らす。
 私は華子さんの歩幅に合わせ、ゆっくりと歩みを進めた。
 ――――なるべく、一分でも長く、この時を過ごせるようにと思いながら。

―― 了 ――