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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


マリオネット・シンドローム


 明日なんていらない。昨日なんて捨てたい。わたしはただ、何も感じず、何も考えない、今日だけを生きる人形でいたいだけ。
 痛いのはもう嫌なの。
 哀しいのも、苦しいのも、淋しいのも、もう嫌なの。
 だから、お願い……わたしに、わたし達に、永遠の安息を……



「友達が壊れた?」
 興信所のソファに向かい合わせで座りながら、草間武彦はもうじき14歳になるという少女に怪訝な表情を向ける。
 めったに降らない雪の中を何度も転びながら歩いてきたのだろうか。
 微妙に痛みを堪えるような仕草を見せる彼女は、濡れたコートを膝に抱き、思いつめた顔で友人が壊れてしまったのだと告げた。
「で、それはどういう意味だ?」
「本当に、壊れたの……腕が……つかんだ腕が外れて、ビックリして落としちゃったらカランって鳴って……なのにヒロミさん、何でもないみたいに腕を付けなおして笑ったの……」
 カタカタと小刻みに身体が震え、血の気の引いた顔には怯えの色が濃く滲んでいる。
「笑ったまんま、人込みの中に紛れちゃって……」
 ネットで知り合った、本名以外はほとんど何でも知っている、大切な友達。
 毎日のようにチャットで話し、毎日のように携帯でメールを交わし、そして時々は2人きりで会ったりもした3つ上の友達。
「突然連絡が取れなくなって……ずっと心配してたし……もしかして死んじゃったかもしれないって考えたら、ホントに怖かったから……」
 何度も電話して、何度もメールして、同じネット仲間にも呼びかけて。
 返事をもらえないまま数日を過ごして。
 それでもようやく街中で彼女の姿を見つけられた。
 とびきりの偶然に感謝して、ホッとして、嬉しくて、とにかくこんなにも喜んでいると彼女に伝えたかった。
「……でも、私のこと、知らない子みたいに無視するから……それでつい、腕を引っ張っちゃって……そしたら」
「そうしたら、相手の腕がオモチャみたいに外れたって?」
 コクリと少女は頷く。
 そのままほんの僅か逡巡するように視線を足元の辺りに彷徨わせ、それから、
「お願い、探偵さん。ヒロミさんを探して。人形じゃなくて、ちゃんとホンモノのヒロミさんを」
 必死な瞳が草間を正面から捕えた。
「ヒロミさん、きっと悪い魔法使いに騙されて、囚われているに決まってるもの」
「悪い魔法使い……?」
 一瞬、もしかしてコレは単なる少女の空想ゴッコかという疑惑が草間の中で頭をもたげた。
 あるいは、彼女の友達が仕掛けた性質の悪いイタズラじゃないのかというオチも。
 そう思わずにはいられないほど、彼女の言葉には現実味もなければ、一貫性も見当たらない。
 だがその一方で、探偵としての思考回路が全く別の可能性に辿り着こうともしていた。
「ヒロミさんが教えてくれたの。わたし、魔法使いに人形に変えてもらえることになったのよって……他の子も来るし、ケイちゃんだって同じなんだから来ていいんだよって」
「キミはそれに応えなかった?」
「だって……」
 俯いた彼女の瞳に暗い影が落ちる。
「夢を永遠にしてくれる場所なんて……そんなのは絵本の世界だけだもの……」
 重く暗く、何かを決定的に諦めてしまった深い翳りが少女を覆う。
 触れてはいけないのかもしれない、けれど見て見ぬふりをしてもいけない危うさが、彼女の中には確かにあった。
 壊れた人形少女に、悪い魔法使い。そして少女の心を捉えるのは夢を永遠にしてくれる場所。
 お伽噺めいた物語の背景に見え隠れしているモノに眉を潜めながら、草間はゆっくりと頷きを返した。
「……分かった。この依頼、引き受けよう……」
 深く頭を下げて事務所を後にする少女を見送ると、草間は黙って時代遅れの黒電話に手を掛けた。
 果たしてこの時期に調査を受けてくれるものなどいるだろうかという一抹の不安を覚えながらも、ファイルを繰り、ひとり、ふたり……
 5人目との交渉が始まったところで、ライター業の締切が明け、買出しを兼ねて出勤して来たシュライン・エマが顔を出した。
 電話の合間に視線で促がし、彼女はソレで大体の事情を察してしまったらしい。
 そうして5人目の調査員が決まったところで、草間は改めて彼女にも『壊れた少女』にまつわる話を語って聞かせた。
 お伽噺のような、それでいてどこか現実的な不穏さを感じる物語。
 シュラインは軽く眉を寄せ、そして唇を指でそっとなぞりながら、ゆっくりと視線を上げた。
「ねえ、武彦さん……?」
「ん?」
「もしかして……今回の依頼の裏に虐待の可能性とか考えてる?」
 彼女の小さな問いかけに、草間は受話器を戻しながら渋い表情を返した。
「ちょっとは、な……」
 危うげで不可解な魔法使いを信じ、永遠を夢みる少女たち。
 彼女たちが手を伸ばし、触れたものとは果たしてなんなのだろうか……



 痛いのはいや。ツライのはイヤ。怖いのは嫌。
 だからねえお願いだから、私たちから私たちを奪わないで。ここにいさせて。何もかもをこのままそっとしておいて。



 榊遠夜は高層ビルの屋上から、くすんだ青い空を見上げる。
 人形になろうというその誘いはヒロミさんが初めに言い出したことなのでしょうか?それとも、彼女もまた他の誰かから?
 この問いかけに、ケイの視線は戸惑うように床の辺りを彷徨っていた。
 語ることを見つけられていないのか、語ることをためらっているのか。瞬く間に冷たく病んだ翳りが全身を覆い始めていた。
 ケイさん。
 彼女の瞳をまっすぐに捉え、もう一度同じ問いを繰り返した。
 彼女は自分を見つめる。
 自分の深淵に何かを見つけ、そしてふぅっと、雪が暖かな陽射しの中で融けるように彼女の中の凍りついた感情も穏やかさを取り戻していった。
『ヒロミさんが言い始めたんです。少なくとも、私が知っている【部屋】でその話を切り出したのはヒロミさんが最初でした……』
『どんな悪いヤツも絶対に追いかけてこれない魔法の王国に行くから大丈夫って』
『そうして人形になって、昨日も明日もない緩やかな永遠を手に入れましょうって……』
 あの時語ってくれたケイの言葉も、やはり草間が感じた通り、どこかふわふわと頼りなげで現実感を欠いたお伽噺のようにしか聞こえなかった。
 それはそのまま、ヒロミの言葉が持つ現実味のなさに繋がるのかもしれない。
 悪い魔法使いは何を考えて、ヒロミに【王国】の存在を仄めかしたのだろうか。
「ヒトが人形になる……でも、どうやって……?」
 かつて自分は【捩れた家】で永遠の孤独に嘆く『天使』の塑像に出会った。
 こんなはずではなかったと口々に上げるあの悲鳴は、今も榊の耳の片隅に残響となって留まり続けている。
 だからこそ思う。
 少女たちは何故永遠を望むのだろうか。
 永遠とは変化を止めたものだ。
 変化のないままに、逃げることも壊すことも出来ないまま、それを延々と見続けることでもある。
 これはある種の拷問にも等しいはず。
 なのに何故それを選ぼうとするのだろうか。何故、自らそれを手に入れようというのか。必ず破綻するだろう世界に何を望むのか。
「汕吏、お前はネバーランドの入り口を……少女たちが望む王国の入り口を探しておいで……響、お前は少女たちを迎える王国の主のことを調べておいで……」
 彼の手を離れて、空へと飛ぶのは鳥と黒猫……その影だった。
「僕は……あの子達について調べてみるよ……」



「ほう。ヒロミさんは、こんな場所で発見されたわけか……」
 繁華街と呼ばれるにふさわしい、人で溢れた表通りの真ん中で藤井雄一郎は足を止め、ぐるりと周囲を見回した。
 様々に着飾ったマネキンたちをショーウィンドゥに並べ立てて季節と流行を演出している。
 華やかというよりは雑多としか言いようのない、不可思議で騒々しい空間。こんな中からケイはヒロミを見つけ出し、そして見失った。
「早く、原因をつきとめなくちゃな」
 だが聞き込みをしようにも、半径3メートル以内に声をかけるべき相手がいない。
 いや、人がいることはいるのだ。
 ただ何故か自分たちを避けて歩いているだけで。
 その証拠に、左右に分かれた人の流れは、自分たちの後ろで再びひとつとなっている。
 頭の片隅で有名なモーゼのワンシーンを思い出しながら、藤井は自分の隣に立つ人物を見上げた。
「なんとしてもヒロミさんを助けたいです。お役に立てるならどんなことでも」
 そこには、モーゼの現象を起こしている張本人……右目に眼帯をした『いかにも悪役』と言わんばかりの長身の男が控えている。
 MASAの俳優――CASLL・TO。
 彼の真剣な眼差しに周囲はほんの一瞬怯えた表情を浮かべてそそくさと道を開けていく。
 いっそ凶悪ですらあるその表情が、実は悲しみの表現であることに気付けるものはあまりにも少ない。
「ケイさんの為にも、早く何とかしてあげたいです」
 事務所で顔を合わせたケイはあまり怯えもせずにCASLLの思いを受け止めた。それはこのような容貌故に子供に泣かれることの多い彼にとって、かなり嬉しい出来事だったと思われる。
 彼女と会った後には、更なるやる気が彼を動かしていた。
「でも……女の子が人形になりたいと願う時、そこにはどんな意味が込められているのでしょうか……」
「……成長しない身体が欲しいのかもしれんが……どうだろうな」
 永遠というものを信じていないわけではない。
 暖かな幸福ならば、望めばきっと永遠になりうるだろう。
 だが、彼女たちが望むものが、そして彼女たちが身を委ねようとしているものが明るい未来へと続くものだとは到底思えなかった。
 少女たちの抱える不安を思う時、藤井はいつもその向こうに自分の娘たちを重ね見る。
 人形になりたいと望んだ少女。
 深く暗い海に落ち込むように、彼女たちが死のベクトルを持って行動していると感じる時、藤井はそこに言いようのない悲しみを覚える。
「なんにせよ、あの子達の心を玩ぶような真似は許せんな」
「でも、ホンモノを見付けたところで、私たちは本当にヒロミさんを助けることになるんでしょうか?」
 疑問はどこまでも心に降り積もっていくだけで、正しい答えを導き出してはくれない。
「とりあえずは聞き込みだよな」
「はい。聞き込みですね……ではさっそく」
 気合を入れて頷くも、CASLLが携帯を片手に一歩踏み出せば、その分だけヒトの波が引いてしまう。
 まるで反発する磁石、あるいは洗剤のCMで見かける洗面器に張った油膜と洗剤一滴の関係に似ている。
 何度試みようと、真剣になり、焦れば焦るほど人が引いていくのだ。
「こっちの方が確実だと思わんか、青年?」
「……こっち、ですか?」
「そう、こっちだ。ただ行きかうだけの通行人よりはよほど街も人も見てるぞ」
 そういって藤井が足を向けたのは、路地裏へと続くビルの壁面を囲んでいる植樹だった。
「あの、藤井さん……?」
 精霊たちは木の上でひっそりとおしゃべりをしている。
 CASLLは意図的に自身の目を塞いでいるが、藤井にはこの日常はけして隠すべき物ではなかった。
 堂々と胸を張って、彼は彼等に問い掛ける。
「こういう女の子を見なかったか?」
 携帯の画面上で大人びた笑みを浮かべる少女の画像に、精霊たちが顔を寄せる。
 見た?見てない……見たような気がする……でもこの子じゃなくなってる……この子だけどもうこの子じゃない……見たけど見てない……
「あの……皆さんはなんと?」
「この子だけともうこの子じゃないと言ってるんだが、その意味がさっぱり分からん」
 ヒトモドキなら見たよ……カラッポ……ね、カラッポのね……あ、ほら、きた……
「え?」
 まるで謎かけのような精霊たちの言葉につられて振り返る。
「あれは」
「藤井さん、あの子はたしか……」
 彼女がやってくる。
 ふわふわとどうにも不安定で覚束ない彼女の足取り。存在感すら希薄な彼女には魂すら存在していないかのようだ。
 あの子……あの子じゃなくなったあの子が来た……ほら、カラッポのニンゲンモドキ……
 精霊たちのさざめきは、そのまま2人の求める答えをも導き出すこととなる。
「追いかけるか」
「はい!」
 自分たちが避けなくとも、周囲が勝手に自分たちを避けてくれる。
 こんな状況に苦笑を浮かべつつ、そして僅かに傷付いた顔を見せるCASLLの頭をくしゃくしゃと掻き撫でて、藤井は少女人形の尾行を開始した。



 高級というイメージ以外の一切を受け付けない黒塗りの車、その車内でセレスティ・カーニンガムは優雅な手つきでサイドテーブルにパソコンを開いた。
 ケイからメールで送ってもらったアドレスを開き、画面にいくつものサイトを同時に立ち上がらせると、それらを指でなぞりながら、カーニンガムは思考を巡らせていった。
 王国の話を切り出した時、ヒロミさんはどのような感じだったのかお教えいただけませんか?
 そう問いかけた自分に対して、ケイが示した微かな怯えと微妙な距離感。興信所に自らやってきたということは、決定的な対人恐怖症などではない。なのに彼女が纏う空気はあまりにも不安定だ。
 何を怖がっているのか。
 何が彼女をそうさせるのか。
 しかし、見極めようとした次の瞬間には、彼女を覆う恐怖や不安は別の感情によってすぐに隠されてしまう。
『チャットメンバーは……えと、常駐組はヒロミさんと、後はミヤさんとユカさんで……』
『あんまり多くはなかったの……あんまり、たくさんいるのは怖いし……不安だから……』
「他者への依存と拒絶、ですか……」
 車内にパソコンを通じていくつもの音楽が混ざりあいながら広がっていく。
 開いているのは、ケイ達がよく訪れていた様々なサイトだ。
 クラシック、ポップス、オリジナルのBGM……それらの中に刻まれているのはどうしようもなく冷たい痛み。
 カーニンガムの手が止まった。
 指先から流れ込み羅列されていく情報の中に、ふと、奇妙な違和感を覚える。
 魔法使いが集める人形。連想されるのはコレクターの存在だ。美しいモノたちをあつめては愛で楽しむ感覚。
 それ自体はけして非難されるべき行為ではないのだが、その対象と入手方法によってはかなりの犯罪性が絡んでくる。
 そして今、自分の指先は確かにそこに微妙な罪の介在を見出した。
 しかし、そのカタチが些か微妙なのだ。
 少女たちの失踪事件。
 それがどこにも記されていない。
 一体どの程度の規模で彼女たちがいなくなったのか、ソレを把握しようにも、警察によって公開されいる捜索者の中にその姿はなかった。
 ケイを通じて入手したヒロミの写真。
 ヒロミ達の出入りしていたサイトからデータを集めた少女たちの写真。
 それらをもとに、ありとあらゆる場所に紹介を重ねて行っても彼女たちの姿はどこからも見つからなかった。
 ケイが会ったという等身大の人形の目撃談も、彼女以外からは一切どこからも拾うことが出来なかった。
 噂のひとつにでもなっていなくては不自然だ。
 人間が人形になる、そのアカラサマな異常に誰ひとり気付かないというのはあまりにもおかしすぎる。
 彼女たちは世界から断絶された存在なのか、それとも、『魔法使い』によって巧妙な細工が施されているのか。
 カーニンガムの儚げな美貌の上に憂鬱の影が落ちる。
 そして、モニターから意識を引き離すように、物憂げな視線を窓の向こう側に向けた。
「……彼等も辿り着いている頃でしょうか……」
 興信所で顔を合わせた時、カーニンガムはシュラインからひとつの依頼を受けていた。
 調べるべきなのは、むしろ少女たちの背景にあるのかもしれない。
 魔法使いを信じてしまった彼女たちが本当に望んだ永遠の正体はなんなのか。
「楽になりたい、ですか……」
 憂鬱を乗せた車は、しばらく街中を疾走した後、シュラインの指定した児童相談所の前で停車した。



 周囲の一切が遮断された一室で、光月羽澄は自身のパソコンモニターに映し出されていく文字を滑らかに追いかける。
『あまりにも小さいコミュニティだが、互いの依存度はかなり高いな、ありゃ。ちょっと前から流行ってる集団自殺サイトとも違う独自の世界だ』
 ネット仲間の告げたデータは、羽澄を僅かに戸惑わせた。
 ディスプレイの中でひっそりと立ち上がるサイト。
 彼女の中に浮かび続けるいくつもの疑問。
 魔法使いの話はいつ頃出たものだったのか。
 誘いを受けて、人形になった彼女と再会するまでにはどのような経過があったのか。
 ヒロミが抱えている悩みとはなにか。
 彼女と最後にコンタクトを取ったのは果たしていつなのか。
 事務所で会った時、ケイはそれらの問いに不安げな視線を彷徨わせ、おもむろに自分の携帯を取り出すとカチカチ操作を繰り返していた。
『あんまり……昔じゃない、と思う……えと……』
 小さな端末にどれだけの想いが蓄積されているのか。
 彼女の指の爪はボロボロになっていた。
 どれだけの不安をこの少女は抱えているのだろう。
 その指がふと止まった。
 何かを見つけたのか、それとも不意に別の何か辛い出来事を思い出してしまったのか、彼女の瞳に闇が降りて来る。
『……ヒロミさんが誘ってくれた日の翌日が……ヒロミさんとお話出来なくなった最初の日……』
 それが丁度十日前。
 そして、『魔法使い』の話がほのめかされたのは、それより更に7日前。
 半月の間でヒロミはどこで何を見つけたのだろうか。
 広大なネットの海で知り合った少女たちの拠り所は、何故か可愛らしさとはアンバランスな危うさを秘めている。
 ログインはしない。ちょっとした裏技を駆使して、外側から彼女たちの言葉を拾い上げ、ヒロミが消えたその日までデータを遡っていく。
 好きな本、好きな映画、今日あったこと、楽しいこと、嬉しかったこと、他愛のない空想の物語。
 ポップな色調のチャットには、ソレに見合ったポップな話題ばかりが並んでいる。
 けれど。
 一歩でも裏側に踏み込めば、そこに氾濫しているのは驚くほど暗く壊れた言葉の数々だ。
 ――『今日、目を離した隙に掛けてあったコートをずたずたにされた』『また物置に入れられたよ……最低』『そうだ、新しい傷口見る?』『体育の時ってヤダよね』『人前じゃ着替えらんないよね』……
 匿名性が高い。だからこそ話すことが出来るのだろうか。
 ――シニタイ……デモ……シニタクナイ……
 その意思がそこら中に溢れている。
 日付を更に遡る。
 遡り、そして、ようやく見つけたのは隠しページの存在を仄めかす僅かな軌跡。
 ――ねえ、永遠が欲しくない?
 奇妙に浮いて見える言葉をなぞる、その羽澄の瞳にふと訝しげな色が浮かんだ。
 引っ掛かるのだ。
 クラリとするような、聴覚に訴え、眩暈を引き起こすような微妙な振動……まるで結界を生じさせる時の僅かな呪術的旋律が絡みついてくる感覚。
 何かある。
 アングラと言ったものではない。
 代わりにちょっとした条件が付与されているのが分かる。
 迷うよりも先に、羽澄は彼女の台詞――『永遠』という文字にカーソルを合わせ、そのままクリックを押した。
 瞬間。

【マリオネットランド――人形遣いの館へようこそ】

 画面が変わると同時に、聴覚を刺激して、そのまま夢の世界に引きずり込んでしまう危うさを持った音楽、そして黒を基調とした世界の中で、糸で吊るされた木の人形が恭しく頭を垂れるアニメーションが羽澄の来訪を迎えた。
「ここに『悪い魔法使い』がいる……のね」
 このサイトの主とは果たしてコンタクトが取れるだろうか。
 アトラス経由での取材という手段も念頭に置きながら、羽澄はひとつ目のコンテンツを開いた。



 シュラインは同行を願ったケイを連れて、藤井・CASLL組と別れてヒロミの自宅付近に来ていた。
 とりあえず彼女の状態を確かめておかなくてはならないと考えたのは彼女も同じだ。
 ケイが持参したノートパソコンからヒロミの接続場所を探り、そこから少々裏を通せば住所は思いのほか簡単に割り出せる。
「ケイさん……ん……ケイちゃんって呼んだ方がいいかな?寒いし人も多いから、手、繋ぎましょっか?」
「あ……」
 そうして、ヒロミの家に近付くごとに不安をましていくらしい彼女の手を、シュラインは優しく握りこむ。
 冷たくて小さな女の子の手。
 優しく握った手のぬくもりに、彼女の口元がかすかにほころぶ。
「こんなふうに誰かと手を繋ぐの……久しぶり…かも……」
 そうしてしばらくうっとりとした沈黙に身を任せていた彼女は、ふとまた翳りを落として俯いた。
「そうだ……もう少しだけ、お話、聞かせてもらってもいいかな?」
「あ、はい……私で分かることなら……」
 本名以外なら何でも知っている。
 ケイはそう言った。
 なんでも。
 ソレが含む意味を考えながら、シュラインは彼女と雑踏の中を歩いて行く。他愛のない話からゆっくりと距離を埋めていくように。
「ヒロミさんとは、いつもどんな話をしていたのかしら?」
「いろいろ……好きな小説とか、面白かった映画とか……学校であったことも話したし、ウチのこととかも、いっぱい……」
「サイトのお友達とも?」
「楽しかった……ううん……今も、楽しい……」
 だからヒロミにも帰ってきて欲しかった。
 好きなモノの話。楽しいひととき。現実から離れた場所で、顔も知らない、でもだからこそ純粋な心で繋がったと思える友人たちとの時間。
「ケイさんはどうしてヒロミさんの誘いを断ったの?」
 出来るだけやわらかく、何気なく、慎重にシュラインは問いを投げ掛ける。
「永遠に憧れたりしなかった?それとも彼女の言葉になにか引っ掛かった?」
「……だって……」
 反射的にケイが繋いだ手にきゅっとチカラを込め、戸惑いを含んで俯く。
 そうして足元に視線を落としたまま、ほんの僅かな逡巡と沈黙とを挟み、彼女は雑踏に掻き消されるギリギリの声で小さく小さく呟いた。
「どこかに逃げたいなぁって思うことはあったけど……でも、そこから逃げたって何も変わんないもの」
 地面を彷徨う視線。不安定な心。揺れて、危うげで、必死になにかをこらえて戦い、ソレにひどく疲れてしまった少女の姿がそこにある。
「チャットに入ればアタシとおんなじ子がアタシを待っていてくれるし……本当の私はネットの世界に存在してる……だから学校に通う私のことはどんどん忘れちゃえるの……」
 泣くことが出来たらどんなに楽になれるだろう。
 小さな少女の中に蓄積されて行く哀しさを、彼女の両親は気付いているのだろうか。
 彼女の心を誰か守ってくれる人はいないのだろうか。
「ケイちゃんはエライね」
「えらくないよ……ケイは悪い子だもの……本当はいらない子なのに、そんなことないって思っちゃうんだもの」
「ん……でも、私はやっぱりえらいと思うな」
 シュラインの中で、何とも言えない切なさが揺れる。
「逃げることって、けして悪いことじゃないと思うの。無理してそこに留まって壊れちゃうくらいなら、いっそ逃げたって構わないのよ」
 逃げずに戦うことはすごいことだとは思う。けれど、戦うことで得られるものがないのなら、いっそ回避したって構わない。
「少なくとも私はね。自分が駄目になるくらいなら、そんな場所から離れちゃうのもアリかなって思ってる。そういう意味では、人形になってでも生きようってしてるヒロミさん達もエライなぁって思うかな」
「シュライン、さん……」
 驚いたように見開かれた瞳に、みるみる涙がこみ上げてくる。
「シュラインさん、好き……ヒロミさんとは違うけど、優しいニオイがする……」
 おずおずと身を寄せて来る少女を抱き止めるようにして、シュラインはそっと思考を巡らせる。
 彼女達が抱える傷は、あまりにも生々しい。癒えるまでに長い長い時間が掛かるような、もしかすると血は止まっても傷痕は一生残るかもしれないような、そんな少女たちの傷だらけの心を、一体誰が……
「あの、ここでいいんでしょうか?」
 ケイの言葉で顔を上げる。
 そこには人形になったと言われた少女――ヒロミこと、本名永瀬悠子の自宅が寒々しい空気をまとっていた。



 逃げたい。ここにいたくない。お願いだから終わらせて。終わりたい、逃げたい、傍にいたくない、一緒にいたくない、一緒にいたい好きって言って愛してるって言って優しくして笑ってほめて好きって言って――無視、しないで―――



 藤井とともにCASLLが追いかけた少女モドキは、周囲に何の違和感も与えないまま電車に乗り込み、駅から商店街を抜け、当たり前に立ち並ぶ住宅街の一軒へと入っていった。
「やはりどう見ても人間、ですよね……」
 滑らかな質感、滑らかな動き、こうして見る限りではとても触れた先から腕が外れるような人形とは思えない。
「でも、人じゃない」
 ただCASLLの鋭敏な嗅覚だけは、彼女がヒトでないことをはっきりと嗅ぎ取っていた。
 生者の気配がまるでしない。内側に血が流れ、呼吸し、人間ならば当然行っているはずの一切の生命活動の形跡を自分の鼻は認識できなかった。
「気をつけてくれ、あの少女はかなり脆いらしいからな」
 取り扱いを間違えれば、取り返しのつかない事になるかもしれない。そう危惧する彼の思いを察し、CASLLは一瞬沈黙する。
 そして、
「藤井さん、ちょっとだけお願いがあるんですけど、聞いていただけますか?」
「ん?なんだ?俺が聞ける範囲なら構わんが、娘を紹介しろって言うなら断じて許さんぞ?」
 不穏な顔で見上げてきた彼に、CASLLは軽く首を横に振り、ソレからこそりと奇妙なお願いを耳打ちした。
 面白いことをいうな。
 そういってほんの少しだけ笑った藤井の目は優しい。
「それじゃ、行くか。頼んだぞ」
「はい」
 少女人形の入っていった玄関の前に立ち、藤井はインターフォンに手を伸ばした。
 電子音が家の中に響く。
 そして、『はぁい』という返事とともにぱたぱたとスリッパを鳴らしながらの足音が近付き、何の疑いもしていない母親らしき中年の女が、がちゃりと扉を開いた。
 彼女が薄く開いた扉から顔を出したそのタイミングで、
「アクション」
 ポツリと言ったその藤井のその言葉が、CASLLの中にある「役者」のスイッチを入れる。
 魂のあり方から変わってしまうような、瞬間的変身。あるいは瞬間的ななりきり。2メートル近い男が纏う空気は一瞬にしてベツモノに変化する。
 ずいっと一歩前に出て、CASLLは真顔で母親の目を覗きこむ。
「少々お願いがありましてね。娘さんにお話を聞かせてもらいたんですよ」
「え、あの……どちら様、でしょう……?」
「どちら様?この方をご存知ないのですか?」
 CASLLの言葉に乗って、藤井が重々しげに口を開く。
「お嬢さんの魂は今、悪霊によって支配されている……このまま放っておけば更なる災いに見舞われる……」
「先生はこう仰ってます」
「そんな、急に、そんな」
「最近おかしなことが起きていませんか?最近、この家がどこか軋んでいませんか?この家に不幸を撒き散らすモノを払わなければあなた自身の破滅に繋がりますよ」
 丁寧な言葉遣いは崩さない、しかし、確実に脅迫めいたものがちらつき、母親を内側から揺さぶっていく。
「で、でも……主人に相談しませんと、その……あの、叱られますから……」
「ご主人が帰るのを待っていては手遅れになります」
「え」
「事態は一刻を争う」
「分かりませんか。無数の霊が訴えかけて来ているんですよ。私は先生から頂いたこの包囲によって守られているのです。ですがあなたは違う」
「あ、あぁ……」
「さあ、中に入れてください」
 そのあまりにも堂々と威厳に満ちた態度と言葉によって、母親はCASLLの構築する演劇世界に引き込まれ、そのまま空気に呑まれるように彼等を家にあげた。
 CASLLが纏うのはただのロングコートだ。しかし、今の彼女にはソレが何らかのチカラを宿した霊能力者の衣装に見える。
 彼女の案内で彼等は少女のいる2階へと足を向けた。



 カーニンガムを奥の応接間へと案内した児童相談所の女性職員は、彼の訪問の意図を知らされて幾分迷う仕草を見せた。
「あまりこういうお話を外部の方にお話しするわけにはいかないのですが……」
「ご無理をお願いして申し訳ございません。ですがどうしても必要なことなのです」
 そう告げる物憂げな表情に、彼女はうっとりとした眼差しを向け、はっと、我に返ると慌てて取り繕うように『上のモノと相談してくる』と席を立った。
 どれだけ待てばいいだろうか。
 そう懸念する間もなく、すぐに彼女は、分厚いファイルを数冊抱えたやや腹の突き出た実直そうな壮年の男について戻ってきたのである。
「カーニンガム様ですね……ここの相談者についてお尋ねしたいコトがあるとか……私はここの所長を努めている岩屋と申します」
 そういって幾分緊張した面持ちで微笑みながら、彼はテーブルの上に資料を置いた。
「お忙しいところ申し訳ありません」
「いやいや。こと、子供たちに関わることですから、協力は惜しみません」
「そういっていただけると助かります」
 カーニンガムは、ほとんど光しか捉えることの出来ない瞳の代わりに、指先でファイルの情報を読み取って行く。
 相談者の中で最近様子の変わったもの、急に連絡の取れなくなったもの、あるいはその兆候がありそうな者達の履歴を求めるが、しかし、ファイルに並べられている中にヒロミの本名も、そしてケイが交流しているという少女たちの名も見つからない。
「ここに乗っている以外にもリストがあるのですか?」
「もちろんあります。というか、最近、この手の相談は増える一方なのですよ……そして、救いを求めている子供たちの声が我々の元に届かないまま、痛ましい結末を向かえることも少なくないんですよ」
 岩屋はそういって深い溜息をついた。
 子供たちは口を閉ざすのだ。
 親への愛情ゆえというのもあれば学校での級友たちからの報復への怖れ、あるいは自身への過剰な嫌悪感によって、子供たちは助けの求め方も分からないまま、日々の苦しみに苛まれている。
「衝動で自殺する子も増えてるんです……子供の方が大人たちよりずっと簡単に死に飛び込んでしまう……」
 女性職員もまた、所長の溜息に重ねて嘆きをこぼす。
「あ、そういえば、最近妙なことを言っている子がいました」
 その嘆きがふと彼女に何かを思い出させたらしい。
「相談者の中に、ですか?」
「ええ」
 沈痛な面持ちで、彼女はゆっくりと記憶をなぞっていく。
「パパもママもアタシのことを見てくれない。2人が欲しいのはただ自分のいうことを聞く操り人形なの。だから人形を与えて、アタシは永遠の世界に行く……そう言って……」
「ああ、あの子か……そうか、あの子も……」
 ファイルの中から一枚の書類を引っ張り出し、所長は18歳の少女の背景を簡単に説明してくれた。
 その後に生まれた相談員たちの何とも言えない沈黙の間、カーニンガムの中ではひとつの可能性が閃いていた。
 あるいはこれが、事件の根幹に関わるのかもしれない。
「その彼女は今どちらに?」
「相談にはもう来ていませんし、我々も手出し出来ない状態なんです。ただ、失踪したという情報は入っておりませんわ」
「住所を教えていただけませんか?」
 そう続けた彼の足元で、影から生まれた黒猫が、影へと潜っていった。



 シュラインとケイを迎えたのは、不自然な愛想笑いを浮かべたヒロミの父親だった。
 だがその笑顔も、シュライン達の訪問の目的が自分の娘にあり、しかも彼女たちが学校の人間ではないと分かった途端、態度を硬化させた。
「何の権利があってだ?おたくら、一体ウチの娘に何の用があって来たんだ?」
 歪んだ笑顔が唐突に剥がれ落ち、代わりに現れたのは粘着質で疑り深げにねめつけてくる威嚇の表情だった。
「あいつはあんまり言うことを聞かないんで罰を与えているところです」
 躾の一環だと、自身の行為に一片の異常性も感じない男は高圧的な態度でそう言い放つ。
「悪いがあんたたちと会わせることは出来ない」
「ですが」
「出来ないって言ってるだろうがっ!」
「――っ!」
 瞬間的に振り上げた男の腕はしかし、シュラインにもケイにも振り下ろされることはなかった。
「暴力を振るう人間は、同じだけの暴力で返されることを知った方がいいかもしれない……」
「榊くん……」
 ケイを後ろに庇い、応戦しようと構えたシュラインも、突然の介入者に幾分驚きの表情を見せる。
「お嬢さんに会わせてください。腕、折られたくないですよね」
 忌々しげに舌打ちし、それでも男は明らかに分が悪いことを察したのか、3人を裏庭の方へと連れていった。
 足を踏み入れるゴトに、陰鬱な空気が覆い被さってくる。
 その中で男は一通りの言い訳をぶつぶつと繰り返していた。
 娘は夜遊びが過ぎる。最近親に反抗するようになった。この間はついに無断外泊まで覚えたのだ。やめさせなくちゃいけない。教えなければいけない。この家の、いや、社会のルールを。
 諾々と続く言葉が途切れた時、茂みの中から小さな土蔵が姿を現した。
「娘はここだ」
 そう言って乱暴に南京錠を外しに掛かる。
 だが、
「おい、客だ!」
 開け放たれた扉の中が陽光のもとに晒された瞬間、哀しみとも怒りともつかないモノがシュラインの全身をザワッと駆け上がった。
 そこにいたのは、下着姿のまま、蔵の中でじっと膝を抱えてうずくまっている少女だった。
「な――っ」
 思わず駆けよって手を伸ばせば、彼女はあっけないくらい簡単に冷たいコンクリートの床に崩れ落ちた。
 背後でケイが悲鳴を上げる。
 どれほどの間、少女はここに閉じ込められていたのだろう。
 その苦しみを人形が肩代わりしてくれたのだとしたら、少女はどこに消えたのだろう。
「ヒロミさん……ヒロミさん……」
 ぽたぽたと涙をこぼしながら、ケイは横たわる少女人形に手を伸ばす。
「……こんな……こんなふうに……ヒロミさん、ずっとこんなふうに……」
 人形は動かない。
 ただ倒れた衝撃で外れた腕が、コロリと男の足元へ転がっていった。
「な、な、何をした?おい、あんたたち、ウチの娘に一体何をしたんだ!?ウチの娘をおかしな名前で呼んで……なんなんだ?」
 泣き崩れた少女、彼女に付き添う2人の人間に、男はうろたえ、ソレが怒りへと変換されてか弱いモノへと矛先を向ける。
「いや、それよりアイツは?アイツは逃げ出したのか、畜生。お仕置きだ。今度はもっと――」
「少し法律について学ばれた方がいいんじゃないかしら?」
「罰せられるのは、あなたの方でしょう……」
 シュラインの激しい怒りを含んだ突き刺す視線に、そして、榊の凍傷を起こしそうな冷たい視線に晒されて、男は唇をわななかせ、ジリ…っと後退りして押し黙った。
「ヒロミさん……」
 榊の凍りついた表情には一切の感情が浮かばない。
 代わりに彼の目が捉えたのは、少女人形に絡みつく不可視の糸だ。
 この糸の辿り着く先はおそらくネバーランドの入り口、つまりはあの人形師の元になるだろう。
「すみません……僕はこれで……行くべき所がひとつ出来ましたから……先に、行ってます……」
「榊くん……?」
「汕吏と一緒なら、きっと皆さんも辿りつけますから……」
 榊の指先から生まれたかのように土蔵に舞い降りてきた鷲がするりとシュラインの肩に止まった。
「それでは、これで」
 淡々と全ての感情を内にしまいこんだまま、少年は身を翻し、地上のどこかへと向かって走り去ってしまった。
 ケイもヒロミの人形もそして彼女の父親も置き去りにして、彼はどこに行くのか。
「行くべき所……辿りつける場所、ね……あなたが教えてくれるの?」
 重さを感じないその猛禽類の首筋に、シュラインは指を添えてやわらかく撫で上げた。



 CASLLと藤井が案内されたのは、2階の一番手前の部屋だった。家の構造的に、下手をすれば家族と一切顔を合わせることなく少女はここから出入りが出来る。
 扉を閉めてしまえば、彼女は家族と住んでいながら、たったひとりきりになれてしまう。
「キミコ、お客さん」
 コツコツと控えめにノックをする。
「すみません……あの子、私とも全然喋る気がないらしくて……ねえキミコ、お客さんよ」
 こちらに言い訳をしながら、弱々しげにまた扉を叩く。
 扉の向こう側でようやく何かの動く気配がした。
 だが、
「キミコ……」
 扉を開き、そこに立っていたのは……
「お母さん……コレが本当にアンタの生んだ娘なのか?」
 それまでCASLLの演技に任せて沈黙を守っていた藤井が、まっすぐに『彼女』を見つめたまま、不安げに控えていた母親に声を絞り出す。
 彼の怒りを抑えた震える声に、彼女は怯えたように首を傾げる。
「え?あの……何を仰ってるんでしょう?」
「よく見てください!これは本当に娘さんなんですか?」
 電気のついていない、カーテンすら締め切った薄暗い部屋。パソコンのモニターから洩れる光だけを受けて彼女はそこにいた。
ニコニコと笑う少女。
 ニコニコニコニコ、まるでその表情しか与えられていないかのように、少女人形はカラッポの笑顔をこちらに向け続ける。
「ウチの子に、間違いありませんわ……ウチの子に……」
「人形が娘さんになり変わっている、その事実にどうして気付こうとしないんだ?目を逸らすのに慣れすぎたか?」
 ふつりとたぎる熱い思いを押さえつけながら問いかける藤井の言葉は、哀しい色を乗せて母親を突き刺した。
「……人形、だ……」
 こんなにも。
 こんなにも哀しい無関心の中で彼女は生きていたのか。
 こんなにも葉は親に距離を置かれたまま、ヒトリで苦しみを抱えていたのか。
 その光景、その現実を目の当たりにしたCASLLの胸を締め付けるのは、どうしようもない遣る瀬無さだ。



 少女たちは塀の上……壊れてしまえば、もう誰にも元には戻せない……



「でも、だからこそ、人形は壊れた自分を保護する格好の卵の殻となるんですよ」
 羽澄を前にして、彼女は自身の理想と創作理念を淀みなく披露し、そうしてにっこりと微笑んでみせた。
「卵の殻、ですか?」
「人形は何も感じない。感情もない。感覚もない。過去も未来もない。だからこそ安息の地を手に入れることが出来るのです」
「でも、感情が無ければ喜びだって感じられないわ……例えば、そう……人形になりたいと望んで人形になれた、それすら認識出来ない。喜べない……それでも?」
「ええ、だからいいんですよ」
 彼女は微笑む。
 目を細めて、口元にやわらかな笑みを湛え続ける。
サイトのことから始め、少女そっくりの人形が本人と入れ違っている事件について触れ、それについての意見を問いかけた……これがその答えなのだ。
「逃避とは本来そうあるべきなんですもの。あなたも人形になって見れば分かるはず……永遠はすぐ傍にあるわ」
 どんな苦痛も存在しない。
 そして誰も、自分がいなくなったコトに気付かない。だから、捜されたりもしない。追いかけられもしない。大丈夫。安心して身を委ねて。
 具体的な方法を示すわけではない。
 なのに、彼女のこの、いっそ子供っぽいとすら思える絶対的な自信はどこから来るのか。
「あの……」
 不意にどこか遠くからチャイムの音が響いて来た。
「あら、来客だわ」
 ここで少し待っていてね。
 そう言い置いて彼女が部屋を出ていくそのタイミングで、羽澄は立ち上がり、もう一度注意深く耳を澄ませた。
 ここには塑像の妖精や天使、幻獣たちがあふれている。
 けれどそこから何かが発せられているわけではないのだ。ただただどこまでも人形たちはこの、アトリエと呼ぶには広すぎる箱庭で銘々の時間を止めて過ごしているに過ぎない。
 突然現れた美貌の人形師。マリオネットのコレクターとしての知名度もその界隈ではかなり高い。
けれど、その経歴は驚くほど謎に包まれているのだ。誰も彼女を知らない。誰も彼女の過去を知らない。どれほど知りあいを、そして自分自身のネットワークを駆使しても、彼女のことはサイトに書かれている以上の分からなかった。
 なのに、異様なほど謎に守られた存在でありながら、彼女は自分の申し出を簡単に受け入れた。
 そう、簡単に、あのサイトのメールフォームから『会いたい』と、そう送っただけで、すぐに招待状が届いたのだ。
 まるであのサイトに辿り着けたことそのものが、ここへ来るべき資格を示す通行証であるかのように。
 何かあるべきだと考えた方がいいのか。
 魔法使いが隠し持つ王国には、いかなる罠が存在しているのだろうか……
 羽澄は彼女の帰りを待たずにそっと席を立った。


 どうしても一緒について行くとケイに強く握り返されて、結局シュラインは彼女を伴ったまま、ここに来てしまった。
 アンティークショップ獏――表通りから外れた場所でひっそりと佇むこの店を訪れるのは既に3度目となる。
だが、いまだに最初に覚えた奇妙な違和感を拭い去ることが出来ない。
 あらゆる場所にあらゆる微妙な捩れを感じる世界。時間も空間も揃えられた品物も、全てがどこか捩れたまま。
「あ……」
 ケイの小さな戸惑いに目を向ける。
 美しくディスプレイされたショーウィンドウの中には、お伽噺にでも出てきそうな豪奢なドレスを纏った等身大の少女人形が僅かに目を伏せてアンティークの椅子に腰掛け、飾られていた。
 彼女の指先からは透明な糸が幾筋も伸びて絡まっていた。
「……マリオネット……」
 それは予感。
 あるいは決定的な現実。
 一度目、ここに展示されていたのは美しいナイフだった。
 二度目、ここには緩やかに明滅するクリスマスツリーがあった。
 そして三度目の今日、ここには……
 魔法使いというフレーズで真っ先に思いついてしまったここの店主を思い描く時、シュラインの中には言いようのない感覚が広がる。
 そして。
 こちらが扉へ手を掛ける前に、それは意思を持って相手を誘うように自然と内側へ開かれた。
「いらっしゃいませ、シュライン様」
 透明な声がリンと響く。
 ヒトの熱を感じさせない整った顔の店主は、漆黒の装いに白いエプロンといういでたちで、今日もにこやかに自分を出迎えてくれた。
 高純度の闇を内包する危険な存在。
 シュラインの脳裏に、ナイフの不穏なきらめきと、そして人魚の少女の泣き顔が不意に蘇った。
「お久しぶりですね、店主さん……」
「ええ、お久しぶりです。今日もやはりお客様としてお越し頂けた訳ではなさそうですが」
 そう問いながらも、彼の視線が興味深げな色を乗せてケイに向けられる。
「あなたがヒロミさんを捕まえた魔法使い?あなたが、ヒロミさん達を捕まえて人形に変えた人なんですか?」
 眉を寄せて、精一杯の勇気を振り絞って、先ほどよりも強くシュラインの手を握りながら、ケイは顔を上げて店主に挑む。
「だったら……だったら、ホンモノのヒロミさんを返して」
「ケイちゃん……」
 握った手から、触れあう肌から、彼女の震えが伝わってくる。
 だが少女の勇気を、店主は微笑みで受け止め、そしてやんわりと否定の言葉で返す。
「当店をご利用になられたお客様の中で、人形となって留まっていらっしゃる方はおりませんよ」
「ウソ……」
「こちらに足をお運びになられた……ここに辿り着ける資格を有する方に私は嘘を申しません」
「じゃあ、ヒロミさんは……ヒロミさんが見つけた魔法使いって誰?あなたは何をしたの?」
「ここは夢を永遠にする場所……お客さまが思い描く『永遠にふさわしい願い』を、お客様ご自身によって叶えていただく為に、私は僅かなお手伝いをするだけですよ」
「永遠なんてどこにもないじゃない……どこにも……あるわけ、ないじゃない……」
「本当にそう思われますか?」
 彼女はここには来ていない。
 それは事実かもしれない。だがシュラインは店主の微妙な言いまわしに引っ掛かりを覚えてもいた。
「ヒロミさんは来ていない。ここにもいない。でも貴方は今回の事件に関わっている、ソレは認めるのかしら?」
 シュラインは彼女を守るように抱き寄せ、2人の会話を断ち切るように質問を挟みこむ。
 いつまでもケイを彼に触れさせているのは危険だ。店主が紡ぐ音にはどこか呪術的な波長が存在している。
 なによりケイは不安定なのだ。
ここを訪れるものたちと同じように、彼女もまた内側に押さえ込んだ自身の望みを口にしてしまいそうな、彼の誘いに身を任せたくなるような気になってしまうかもしれない。
 腕の中で、ケイが息を呑む。
「シュライン・エマ様は、ハンプティ・ダンプティというものをご存知ですか?」
 はぐらかされる覚悟はあったが、店主が差し出してきたのはその予想より幾分外れたものだった。
「有名すぎるぐらい有名なマザーグースね」
「鏡の国のアリスに出てきた……頭のいい卵……」
 ケイも読んだことがあるのだろう。ルイス・キャロルの言葉遊びで彩られた名作に出てくる卵だ。
「では、その詩の内容もご存知ですか?」
「諳んじましょうか?」
「いいえ。けれど、それではこれから私の言う意味がお分かりでしょう?」
 店主は口の端を綺麗に吊り上げて、笑みの形を作る。
「壊れた少女は、もう元には戻らないのです。どれほど手を尽くしても、ね」
「それは……」
「だから壊れてしまう前に、私は殻を作るための道具をお売りしたのです……永遠の王国を作りたいと願ったあのお客様の為に……」
冷たいコンクリートの床に崩れ落ちたヒロミの人形――あの痛々しい姿が痛みを伴って蘇り、店主のやわらかな微笑に重なった。



 音楽が聞こえる。
 細く高くほのかな憂いを帯びて狂った音楽が、うんとたくさんの壁を隔てた向こう側から漂い流れてくる。
 誰の歌なのだろうか。
 誰が奏でて居るのか分からないくらいに拡散していながら、胸だけが痛む。
 それはまるでかつて受けた自身の傷に直接響いてくるかのようで。
 少女は永遠を求めた。
 自分も永遠を信じていた。
 あの人達が傍にいてくれた、あの日はもう遠く……
「お待たせ」
 音に耳を傾け、そのまま自身の中に沈みかけた羽澄の心を、人形師の声が引き戻した。
 思わず反射的に振り返り、そこで見たのは……
「この子もね、マリオネットランドの向こう側に興味があるそうよ……アナタと一緒ね」
 微笑む彼女を間に置いて、羽澄は自分と同じ目的を持ってやってきた少年――榊と無言のまま視線を合わせた。
 人形師は彼と自分の関係には気付いていないのか。
 まるで疑うことなく、2人を王国まで案内しようとしている……それともこの気安さと優しさは演技なのか。
「それじゃあ行きましょうか?永遠の場所へ……ね?」
 人形師に促がされるまま、羽澄は彼女の後に続いて部屋を出る。
 その指先に、部屋に飾られたマリオネットと結ばれた不可視の細い鎖を繋いだまま。



 寂しかったなんて言わない。怖かったなんて言わない。ずっと傍にいて。ずっと傍にいるわ。私は鏡の向こう側の王国で、ずっとずっと守ってあげる……



 カーニンガムが提供するホテルの一室に午後8時に集合する。その約束のはずだったが、いまこの場所に榊と羽澄の姿はない。
 代わりに羽澄からパソコンを通じて送られた情報をカーニンガムが、榊から使い魔を託されたシュラインがそれまでの経緯を簡潔に公開する。
「そうですか、お2人は人形師の家に……」
 藤井と行動をともにして来たCASLLは、あの後もかなりの少女モドキを訪問して回っていた。
 ある時は宗教家として、またある時は教師として、相手に合わせて様々な役割を演じながら彼等が見たものは気の塞ぐものばかりだった。
「イジメ、虐待、引きこもり、自殺願望、自傷行為、抑うつ、アイデンティティの崩壊……彼女たちを取り巻く環境を挙げていけばキリがない……」
 藤井の表情にどうしようもない怒りと哀しみが浮かぶのは、娘を持つ父親としての不安が滲み出た結果なのかもしれない。
 CASLLはそんな彼に視線を投げ掛け、そして猫のように背を丸めて何度目か分からない沈痛の溜息をこぼす。
「私も思うのですが……ケイさんの言うホンモノを見つけても、あの子達を本当の意味で救うことにはならないのかもしれません……」
 どこかで予感していたはずだ。
 草間がこの依頼を持って来た時から、こんなジレンマに陥ることは分かっていた。
 CASLLが掻き集めた情報は、どうしようもないくらいに哀しい結末を示唆している。
 精霊がニンゲンモドキだと噂する等身大のマリオネット達。
 自分たちが辿り着いた家以外でも、きっと表面からでは分からない問題によって少女たちは自分の家から逃避しているだろう。
 どうにかできることがあるかもしれない。
 だが、どうにも出来ない問題の方がきっとずっと多いのだ。
「それから、ケイさん……彼女は学校でイジメにあっているようです……それを家族は気付いていないようで……」
 その中でCASLLはケイ自身についても調べていたのである。
 彼の言葉に、シュラインはズキリと胸の痛みを覚える。
 ――シュラインさん、また会ってね……
 そう微笑んで手を振ってくれたケイを思い出しながら、静かに深い溜息をつく。
「いろいろ話してくれたわ……でも、肝心なことは何も話そうとしなかったのよ……多分、まだ誰かに話せるほど自分で消化できていないんだわ……」
「思うんだがな……ケイさんはあまりにも辛すぎて感情が麻痺してるってこと、ないか?」
 藤井の言葉は、まるで経験者のような重みと実感を伴っていた。
 環境に慣れたわけではないのだ。
 中学生の少女にとって、学校は日常の半分以上を閉める世界であり、逃げ出そうと思って逃げ出せる場所ではない。
 だからケイは学校に通い続ける。
 ヒロミ達とのコミュニケーションを心の支えにして、友人の帰還を心の底から望みながら、彼女は日常を繰り返し続ける。
 けれど、痛いものは痛い。
 痛くないふりは出来ても、治さない傷は膿んでいくだけ。
「……壊れた少女はもう元には戻せない……」
 店主の言葉の重みが辛い。
「それでも、彼女たち全員の意向を確かめない限り、私たちは彼女たちをそこから連れ出す使命を放棄するわけにはいかない……違いますか?」
 カーニンガムは、いま自分たちがやるべきだろう方向性をやんわりと指摘した。
 自分たちはケイからの依頼を受けた。
 そして、ケイの為にヒロミを見つけると約束した。
 ならばまずはそれを果たす為に動くべきではないのか。
「少なくとも、ね……私は彼女達がどうしたいのかだけでも聞きにいくわ……彼女たちがみる夢を壊すだけの権利はないのかもしれない……それだけは忘れないつもりだけど」
 逃避することを責めたりは出来ない。
 微かに首を傾げて微笑むケイが、笑みのままその大きな瞳からボロボロと涙をこぼした、あの瞬間の映像が胸に刺さっている。
 あたたかいものを求めている少女たち。
 縋れる場所を求め続けた少女たち。
「アンティークショップ・獏……あの店主が人形師に売った物は針と糸、なのよ。マリオネットを操る為の……」
 そして、店主からその【道具】を買い取った彼女は、自らの手で永遠を生み出す。
 紛いものかもしれない、ただの虚構かもしれない、けれど追い詰められた少女たちにとってはどうしようもなく魅力的な世界。
「ああ、ではこちらの情報がそれに繋がりますね」
 セレスティが豪奢なテーブルに広げて見せた資料のひとつを指差す。
 美大を目指していた18歳の少女の失踪。彼女は両親に操り人形を与え、自分は王国に逃避すると告げていた。
 彼女が全ての始まりではないだろうか。
「……どうにかできるはずなんだ。いや、どうにかしなくちゃいかん。前を見て、立ち向かう場所ときっかけを手に入れるべきだと俺は思っている」
 藤井は熱のこもった拳を更にきつく握りしめる。
 後悔に震える親の姿を彼は目にしている。
 子供のSOSに気付けなかった己の不甲斐なさをただただ悔やむ小さな背中を彼は見てしまっている。
「……人形になって『めでたしめでたし』ってのは、あまりにも残酷だ……」
 この中でただひとり、親という立場で子供たちのことを考える事が出来る藤井の、その重みのある言葉に、シュラインは俯く。
 唇に指を添え、眉を寄せ、静かに巡らせて行く思考。
「もし連れ戻すなら、もし帰ってこいというのなら、その言葉にチカラを与えるのは環境……なのかもしれないわ」
「シュライン……」
「ねえ、藤井さん。彼女たち自身はまだ生きることそのものに絶望してはいないはず。だとしたら新しい環境がきっとひとつの幸せの形にはなるかと思うんです」
「幸せの形、ですか……我々でもそのお手伝いが出来るでしょうか?」
 藤井につられるように、CASLLが縋るようにシュラインを見る。
 忙しさのあまり気付けなかったと親が後悔できるなら、きっとやり直せる。
 学校でのイジメが問題となり、それが転校して済む話ならそういう方向転換も可能だろう。
 だが、ソレらに親の無関心を含む虐待まで混ざりこんでくるとしたら。学校を辞めた後の道が見えないとしたら。幼すぎて、進むべき道が閉ざされているのだとしたら。
 調査員でしかない自分たちに出来ることは限られている。
「……では、私からひとつ提案があるのですが……ソレを切札に使ってみますか?」
 沈黙が場を支配する前に、カーニンガムが携帯電話を手にして微笑む。
「切札?携帯電話で、か?」
「どういうことでしょう?」
 藤井とCASLLが同時に投げ掛けた問いに視線を向け、目を細め、どこか艶のある笑みを口元に広げる。
「彼女たちが救いを求めて逃避するのなら、その場所を提供出来るのはなにも虚構の魔法使いばかりではないということですよ」
 リンスター財閥の総帥という立場は、このように利用することも出来るのだ。
 そう示してみせた『救いのカタチ』が、堂々巡りの議論に終止符に打つ。
 はじめに立ち上がったのはシュラインだった。
「それじゃ、今日だけが存在する鏡の国に出発しましょ?」
 大人になってしまった彼等がやるべきこと、大人だからこそ示すことの出来る可能性の為に、4人は人形師が築き上げた逃避の王国へと向かう。
 彼等を王国へ導くのは、榊と繋がる使い魔――汕吏の役目だ。



 あなたは可愛い私の人形。髪を梳いて、可愛らしいお洋服を着せて、お誕生日以外の日におめでとうを言いましょう。
 後ろ向きに前向きで。
 お茶会の後はナゾナゾを……



 重厚な扉を開け放たれたその瞬間、羽澄と榊の目の前に広がったのは目の眩むような硝子と大理石の劇場だった。
 磨きこまれた床。ゴシック様式の柱。シャンデリアが天井で揺れ、観客席から舞台に至るまでビロードの布が縦横無尽に張り巡らされている。
 溜息の出るようなお伽の国はどうしようもないくらい心地良く甘い香りに満ちていた。
 現実に生きる少女たちの世界にはなかった、優しい色。
「人形遣いの王国へようこそ」
 人形師は微笑んでいる。
 優しげに、愛しげに、まるで痛みを共有するただひとりの理解者であるかのように。
 そして、
「いらっしゃい」
「あら、お友達?」
「ようこそ、夢の国へ」
 思い思いの場所でお喋りに興じていた色とりどりのキレイなドレスを纏った人形たちが嬉しそうに立ち上がり、榊たちへお辞儀する。
 糸のない操り人形たちはみな、自分の半分の大きさもない。
「君たちは……」
 ニコニコと屈託のない笑顔で自分に手を差し伸べてくれるその姿は、忘却の幸福を享受したモノ特有の安らぎを湛えていた。
 カーニンガムが、藤井とCASLLが、そしてシュラインが出会った少女モドキの面影を残しながら、それらよりもはるかに生き生きと楽しげで。
 逃避の先に、彼女たちは得たのだろうか。
 ふとその中に、榊は探していた少女の姿を見る。自分が彼女の家からたどり続けた糸の先に繋がるもの。
「ヒロミ、さん……」
 ネット世界でそう呼ばれていた少女。キレイな子。でも、彼女の本当の名前を呼ぶひとはどこにもいない。
 本当の名前と一緒に全てのモノを外の世界に置いてきて、彼女はくるくると踊る。仲間たちと一緒に、くるくると。
「抱き上げてみる?とても繊細な子たちだけど、ここに来るのことの出来たあなた達になら触れることを許すと思うの」
「この子たち、もしかして全員あなたが人形に変えたんですか?」
 羽澄の耳に届くのは、限りなく澄んだ響音だ。ありとあらゆる場所でリンと弾く硝子細工の弦楽器のような不可思議な音色。
 あの部屋で聞いた音楽はここから来ていたものなのだろうか。
「全員ではないわ。全員があの子達ではない。でも望んでそこに座っているのは全員そうかもしれない」
 彼女の穏やかな、そしてどこか陶酔した笑みは崩れない。
「それじゃ、彼女たちの身体はどこに……」
「どこでもないわ。彼女たちはここにいる、そして彼女たちのマリオネットが向こうの世界にいるの」
 秘密を打ち明ける時の妙にはしゃいだ声音で、彼女はぐるりと劇場を見回し、その視線は羽澄と榊の前で止まる。
「ねえ、羽澄ちゃん……あなたは永遠を望むのかしら?」
 彼女は微笑み、羽澄に問いかける。
「ねえ、遠夜くん……あなたには永遠が見えるかしら?」
 彼女は微笑み、榊に問いかける。
「生きている人間を人形に変えて……それで永遠は手に入るのですか?」
「間違えないで。夢を永遠にする為に、私は彼女たちを人形に変えたのよ……」
 榊の声が届かないはずはない。
 けれど彼女は罪の意識もなければ、歪んだ美意識で哄笑することもなく、ただ静かに微笑み返すだけだ。
 彼女がしたこと――ソレは、殻の壊れた少女の中身をやわらかく抱きとめて新たな入れ物を用意したという意味以上のものにはなり得ないのか。
 どこか遠くで呼び鈴が鳴っている。
「あら、今日は本当にお客さまの多い日ね……2人はそこにいてね。彼女達と遊んであげて」
 彼女はくすくすと笑いながら、扉の向こう側に消えた。
 閉ざされた劇場の中に満ちていく人形の笑い声と話し声、そして哀しい音楽。
「来客……誰だと思う?」
「僕達と同じ目的を持った4人、だよ……」
「ここまで来るのは時間の問題ね。それじゃ始めましょうか?」
「ああ」
 羽澄の提案に、何を、とは聞かなかった。
「そういえば光月さん、その指先から繋がっているのは」
 代わりに彼女の指先に絡む硝子色の鎖に目を向ける。それがなんなのか分からないのではなく、その意思を確認する為の問いだ。
「キミと同じ、ね。それに、知らない場所にお邪魔する時には帰りの目印も必要よ」
「同感、だね」
 さらりと応えてみせた羽澄に、ほんの一瞬笑みのようなものを浮かべて榊は頷いた。
「さてと……」
 羽澄はぐるりと周囲を見回し、人形たちひとりひとりに届く澄んだ声で告げる。
「おしゃべりはやめにして、少し聞いてみることにしない?魔法使いが誰に会っているのか、ね?」
 リン……と、彼女の手の中で鎖が震え、この王国に満ちた音楽がゆるく聴覚から遠のいていく。
 彼女達を解放するには、音楽が邪魔なのだ。自分の意思や記憶をゆるく絡め取っていくチカラある音を消してしまわなくてはいけない。
 人形が人形であるための鍵は、たぶん、ここなのだ。
「聞かせてあげるよ……少し、痛いかもしれないけど……でも、きっと必要だから」
 そうして榊の呪が広がる。
 閉じて捩れたはずの空間に、外の世界の音が流れ始めた……



 アタシはあなたのマリオネットなんかじゃない……マリオネットでいたくない……アタシは……アタシは………




「なにぶん、少女の友人から依頼を受けたものですから……どうぞご容赦ください」
 応接間に通され、要件を簡潔に述べて交渉に臨むカーニンガムに、人形師は拒絶の色を滲ませた微笑みで返す。
「永遠を夢見て王国に辿り着けるのは子供たちだけ。大人になってしまったあなたたちにその資格はないわ」
「そうかしら?大人にだって子供を心配する権利くらいあるものよ。子供の国に踏み込むのではなく、その世界を理解したいと願いながら」
「けして、無理強いするつもりはないんです」
 シュラインが、そしてCASLLが言葉を繋ぐ。
「目を覚まさせることだって出来る。人間は変化するんだ。少なくとも、やりなおすチャンスを欲しがっている親がいる。その存在まで無視する権利はあんたにはないはずだ」
 藤井の視線を正面から受け止めて、それでも彼女は気圧されることなく首を傾げるだけだ。
「あなたに、子供たちが望む永遠を用意できるの?」
「形だけの永遠に何の価値があるんだ?その時、その瞬間にしか出来ないことがうんとある。顔を上げて、周りを見回せば、もっとずっといいものが自分を待っているはずだ」
「現実ってそんなにいいものかしら?あなたたちに彼女達を救えて?」
 自身の茶色の髪を掻きあげて、人形師は首を傾げる。
「あなたたちに、彼女たちの現実を変えることが出来て?」
 挑戦的な視線の奥に透けて見えるのは、癒えることなく瘢痕化した彼女自身の傷だ。
 学校と家庭、どちらも少女たちの世界を支配する絶対的な存在であり、そこから逃れる術を持てる子供はあまりにも少ない。
「ですが、大人だからこそ、変える為の手段を提供する事なら出来ますよ。まがいものではない、真実の幸福の為に」
 カーニンガムの手が、人形師の前に差し出される。
「そしてその対象にはあなたも含まれるんですよ……」
 彼の声が、彼女の本当の名を口にする。
 途端――

 かしゃん……っ

 魔法使いによって閉ざされた王国の扉が、硝子色の少女と闇色の少年によって開け放たれる。
 彼女たちの後ろには、劇場で時を止めていた人形たちがついて来ていた。

「どうして……」

 人形師の表情に初めて驚愕が浮かぶ。
「永遠は心の中にある……永遠を信じ、ソレが叶わないことで傷付くかもしれない……でも、信じることは出来るわ」
 もうあの頃には戻れない、けれど、信じることは出来る。それを胸に、羽澄は人形師を見つめた。
「痛くても、辛くても……自分自身で感じた全ては、無駄にならない……」
 榊は後ろを振り返り、人形たちへ向けて微笑みかける。
「聞こえるか?聞こえるな!?待ってるんだ!あんた等を助けたい、あんた等と楽しい時間を過ごすためにやり直したいって言う奴らの声が届くはずだ!」
 藤井から差し伸べられた手。
 人形師の背中ごしに、大きな存在が、優しく抱きしてめくれるだろう大きな腕が広げられる。
「リンスター財閥として、ひとつのヴィジョンを提供いたしましょう。家を出たいのなら、全寮制の学校を、あるいは就職という手順を踏めるようお手伝いします。もちろん、法律に基づいた諸々の手続きも全てお任せいただけます」
 カーニンガムの流麗な言葉は、行き詰ってしまったはずの道に新たな方向を示してくれる。
「人形になって永遠を求めることもいいかもしれません……ですが、変わらない日々というのはこれでなかなか苦痛なものですよ?」
 嫣然と微笑みかけられれば、そこにもまたひとつの救いが見える。
「私だって、少しでも皆さんのお役に立ちたいと、そう願ってここまで来たんです!」
 CASLLの強い瞳に射抜かれる。
「苛めるやつらは私が行って蹴散らしてやりますから!」
 力強く、そう宣言してくれる、これは欲しかった言葉。
「逃げることは悪いことじゃないわ……痛いものは痛いんだから、それを我慢しろなんて言えない。でもね、人形のままじゃ、温かさも優しさも感じられないわ……」
 シュラインは膝をつき、人形たちに目線を合わせて言葉を紡ぐ。
 言葉が溢れる。
 想いが溢れる。
 ずっと欲しかったのは。
 ずっと待っていたのは。
 人形たちの心が揺らぐ。
 王国から一歩でも外に出てしまえば、もう戻れない。また痛みと苦しみが待っているかもしれない。人間に戻ってしまえば、また泣くことすらままならない日々が訪れるかもしれない。
 それでも、彼女たちの心が揺らぐ。
 揺らいで、はじめに足を踏み出したのは、ヒロミだった。
「本当に……本当に、助けてくれる?」
 怯えるように、ためらうように、ゆっくりと、だが確実に彼女は自分に絡まるマリオネットの糸を断ち切り、王国の外へと踏み出した。
「ねえ、ヒロミさん……ケイちゃんがあなたからの電話を待ってるわ……」
 差し出された携帯電話を小さな手で受け取って、ヒロミと呼ばれた少女人形ははじめて目の前にあった『幸せ』に気付いたかのようにふわりと泣き顔のまま微笑んだ。
 それがキッカケとなって、夢から醒めたかのように人形たちが一斉に彼等の元に駆け出した。
 人形師の脇を抜けて、広げられたもうひとつの救いに手を伸ばす。
 彼女はそれを眺め、そして困ったように小さく笑った。
「そうね……お迎えの来る子たちは帰りなさい……厳しい現実とまだ戦える力があるなら、それでいいわ……」
 両手を振るう。
 何かを断ち切るかのように。
 何かを振り払うかのように。
 どこかで何かがプツリプツリと切れて行く音がする。
 音がして。
 人形たちは人間に戻るのだ。
 まるで夢から醒めるように。
 まるで魔法が解けるように。
 彼女達が自分の変化を感じるよりも速やかに、滑らかに、マリオネットの魔法が解けていく。
「アンタも来い。アンタにだって待っている家族がいるんだ!」
 藤井の手が彼女にも差し伸べられる。
 だが、人形師はゆっくりと頭を振った。
「だめよ……壊れてしまったらもう治せないの……あなたたちなんかには治せない傷があるのよ」
 少女は塀の上にいた。
 壊れやすいにもかかわらず、危険場所に腰掛けて。
 落ちて壊れたら、もう元には戻らない……
「あそこは夢を永遠にする場所。アタシの望みもまた永遠にふさわしい……あの店主はそう言ってくれたわ」
 彼女を取り巻く無数の糸。少女人形たちを操り、ヒトを人形のカタチに縫いあげ、永遠の劇場で夢を見ようとしていた少女がそこにいる。
「ごきげんよう、草間興信所の皆さん。そして、さようなら、可愛い私の人形たち……もう、王国は閉じてしまうけれど……あなた達が幸せを掴めること、あの人のもとで祈っているわ」
「え」
 それは別れの言葉。
 そして、終幕の言葉。
 カーテンコールのようにゆっくりとお辞儀をして。
 ふつりと。
 彼女は全員の目の前で文字通り糸の切れた人形となり、そのままクシャリと潰れるように手足を投げ出して崩れ落ちた。
 誰もが一瞬呼吸を忘れ、言葉を失い、そうして、彼女の幕切れに時が凍った。
 呆然と。
 ただ呆然と崩れ落ちた人形を眺め、そして永遠をともに夢見た少女たちは彼女のもとに駆け寄り、跪いた。
 どうしてと、なんでと、繰り返し、嘆く。
 彼女たちの涙の雫が人形に降り注ぐ雨となる。
「……彼女も……」
 榊はそんな光景を前に目を伏せ、そしてポツリと語る。
「彼女もまた、人形だった……かりそめの、他者の目から自分を守る為の人形……」
 この事件が表出する一月前、新聞にはひとりの少女が真冬の川に落ちるという事故の記事がひっそりと載っていた。
 目撃者からの通報ですぐに川をさらったが、18歳の、大学受験を目前に控えていて彼女の遺体は見つからないままだったという。
 マリオネットの少女。
 家族に傷つけられ、孤独の中で窒息し掛けていた少女。
 彼女が選んだ道は、永遠の夢。
「壊れた少女はもう元には戻らない……獏の店主が言ったのはこういう意味でもあったのかしら……」
 彼女はどこに行ったのだろう。
 ネバーランドか。
 それとも永遠が存在する本当の王国か。
 けれどその後を追いかけることが出来ないまま、切なさだけが主不在の屋敷に少しずつ広がっていった。



 愛してくれないのなら、捨ててしまっても構わない。
 信じて生きて行きたいなら、自分を護る術を身につければいい。
 逃げてもいい、戦ってもいい、仲間たちと冒険に出てしまってもいい。
 差し伸べられた手を取ることも、虚構の永遠に身を委ねることも、自らの力で切り開いて行くことも、選ぶことは出来る。
 自由なのだから。自分の意思で生きる権利があるのだから、ソレをいくらでも行使すればいい。
 でも、本当に……?
 この手に、この腕に、この足に、この心に、マリオネットの糸は絡んでいないと言えるだろうか?



And that’s all…?

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0642/榊・遠夜(さかき・とおや)/男/16/高校生・陰陽師】
【1282/光月・羽澄(こうづき・はずみ)/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員 】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2072/藤井・雄一郎(ふじい・ゆういちろう)/男/48/フラワーショップ店長】
【3453/CASLL・TO(キャスル・テイオウ)/男/36/悪役俳優】

【NPC/夢喰(ゆめくい)/男/?/アンティーク・ショップ『獏』店主】

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■         ライター通信          ■
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 はじめまして、こんにちは。
 カカオバター配合の入浴剤やハチミツ石鹸、甘いエアーフレッシュナーなどなど、ただいま『美味しい香り』に囲まれた生活を満喫中のライター・高槻ひかるです。
 さて、この度は当依頼にご参加くださり、誠に有難うございます!
 切れのいい20タイトル目の今回は、密かにシリーズ化を目論んでいる【アンティークショップ・獏】の第3弾にして、マザーグースシリーズの第6弾でもあります。
 コミカルなモチーフにもかかわらず扱うテーマがテーマなだけに、微妙にこう……暗いというか重かったりもしてるのですが、そして単独行動による個別描写が多く、相変わらずスクロールバーと熾烈な戦いを繰り広げているのですが、お待たせした分も含めて、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。


<シュライン・エマ様
 17度目のご参加、そして昨年は依頼の他にシチュノベでのご指名も頂きまして、誠に有難うございます!
 いつもいつも鋭い着眼点にクラクラドキドキさせていただいてます。
 そして今回、実は調査方法もさることながら、少女たちへの考え方、関わり方に深く感動しまして……目から鱗が落ちる勢いでした。
 シュライン様の示してくださったさりげない優しさと温かさが、物語が展開する上で大きな役割を持ったかと思います。
 すっかり少女に懐かれる役回りとなっていますが、もしかするとケイとは携帯番号を交換しているかもしれないと思いつつ描写させて頂きました。
 ちなみに、そろそろ獏の店主にも気に入られそうな予感です。 

 それではまた、別の事件でお会い出来ますように。