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<東京怪談ノベル(シングル)>


夢をみる




 硬く閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
 カーテンからは淡い光が差し込んでいる。
 ――朝の六時。

(寝ている間に泣いたみたい)
 枕が涙でグッショリと濡れているのを感じて、あたしは頬を手で拭った。だけど、乾いた涙が頬について剥がれない気がする。
 ――どんな夢をみていたんだっけ。
 思い出せない。
 寒色のもやが記憶の奥でちらついただけ。
 きっと、ひどい夢だったんだと思う。
 思い出したくないくらいの――。
 突然涙が溢れてきた。布団を強く掴んで、声を漏らして泣いた。

「何であたしは泣いているの?」

 理由もわからずに泣くなんて変だと自分に言い聞かす。
 辛いことがあったとしても、それは夢の中の出来事。
 現実のあたしには、泣く必要なんてない。
「辛くなんてないのに……」
 あたしは枕に突っ伏してさっきよりも大きな泣き声を上げたのだった。
 こうして目を瞑っていると、さっき見た夢の断片を思い出せそうになる。
 ――夢で何を見たんだろう?
「こわい」
 何が?
「こわいよ助けて」
 黒い塊が記憶をよぎる。幾つもの影が折り重なって、捻じ曲がって、手になってあたしを追いかけてくる。
 これを夢に見た?
「はあ、はあ、はあ」
 息を切らした幼い自分が闇の中を走っている。辺りが暗いのは夜だからじゃない。地面も空もみんな影に多い尽くされているからだ。
「みんながあたしを捕まえようとしてる」
 足を影に取られて倒れた。
 上から声が聞こえる――“お前も影になるんだ”。
 冷たいものが足首からふくらはぎへと這って行く。触られたところから順に闇と混ざう。
「真っ黒な影になっちゃうよ」
 たくさんの影たちの息遣いが聞こえた。温かい息が耳に吹きかかる。“さぁいい子だ。もう怖くないよ”
「こわい……」
 “そんなことないさ。もう君は立派な影だ。みんなと混ざり合って、ゆっくり生きていくんだ。誰も君を異質なものとして見たりしない……”
 ああ、とあたしは声を漏らす。
 そうだった、怖くなんてない。
 ここでは人の目に怯えることも、背伸びする必要もないのだ。
 それに身体だって、目には映らないけれど――神経はいつもどおり動くし、みんなの柔らかい感触がある。
 水の中で泳ぐみたいに、影でいるのは気持ち良くって。
 “おいで、みなも。もっと溶けよう、一つの影になろう”
 うん、とあたしは頷いた。
 感覚だけの身体を寄せ合って、トロトロと蜂蜜みたいに混ぜ合わさりたかった。


 ――どれくらい眠っていたんだろう。
 代りに肩と腕と足が、怖がりの子供のようにガタガタと震えている。
 今の夢は、怖いようで怖くない。
(悪夢のようで理想だった)
 夢の中の影になった自分が羨ましい。
 小さい頃のあたしは、自分が人魚になることが怖くて、同級生の目や先生の目から逃げようとして――逃げられなくて。
 今だって、先輩みたいに自分の夢を持っていないことに焦っている。
(あのまま溶けてしまいたかった)
 身体を消して、心を消して、思い出を消して、“みなも”を忘れたかったのに。
 この部屋を見渡せば、机や鞄やハンガーにかけた制服が目に入る。
 それらから透けて見える、海原みなもという少女の生活風景。
 ――ここから逃げたい。
 夢から目覚めなければ良かったのに。
(ううん、今からでも遅くない)
 あたしは鍵をかけていた机の引き出しを開けて、中身を手に取った。
 それは例の専門学校でのバイトで撮られた写真。
 最後にお世話になったのは、変な人に誘拐されて犬にされたときだったはずだ。
(そう、犬に)
 そのときのあたしは我を忘れて自由に暮らしていたらしい。
 犬になってしまえば、あたしは“みなも”を忘れられる――。


 見慣れた教室で、生徒さんたちがあたしのことを見ている。
「あたしを犬にして欲しいんです……もう元に戻らないように」
 そう言って頭を下げた。
「ここに来る前……家で支度をしているときに、残されたお父さんやお母さんのことも考えました。妹や、姉や、友達のことも……そうしたら自分のやろうとしていることが怖くなって、やめようかと思いました」
 だけど、嫌だったのだ。
 こんな風に周りを考えては大人しくする自分のことが。
「我侭なのはわかっています。永遠に犬になるのが駄目なら、せめて数日間だけでも……お願いします、犬にしてください……」
 懇願すると、生徒たちはあたしを犬にしてくれると約束してくれた。
 あたしを本物の犬にする、と。

 素材研究所から回された道具を見せてもらった。
 今までのものと違って、元の姿に戻れなくさせるものだ。道具はあたしの器官となって、身体の一部として機能することになる。正真正銘の犬になるのだ。
 獣の匂いのする犬の皮膚、それに根付いた数え切れない獣毛。
 小型の変声器。
 歯は、今にも噛み付いてきそうな程リアルに作られている。
 今回使う生触媒の色は、透明ではなく真っ赤。鼻を近づけると血なまぐさい匂いがしそうで、悲鳴を上げたくなる。
(怖がっていてはだめ)
 あたしはこれからこの姿になるんだもの――。
 ドロドロとした赤い生触媒を肌に塗りこむ。
 底なし沼に身体を沈めていくみたいな感覚に囚われる。
 粘っこい感触が肌に纏わり付いて離れない。
「ん……ッ」
 あたしは今生徒さんたちにお願いしてメイクしてもらうのだから、動いてはいけない――と自分に言い聞かせて。
 今度は血の色に染められた肌の上から犬の皮膚を貼り付けて行く。生きている獣の匂いが鼻腔をくすぐった。
 顔を背けてしまいたくなるのを抑えて、なるべく息を止めて終わるのを待つ。途中耐えられなくなって呼吸をするときには、反射的に眉をひそめていた。
 足や腕を犬の毛で覆い、それが顔のところまで来る頃にはこの匂いにも慣れている。シャンプーでも石鹸でもなく、自分の匂いは元から獣のものだったという気になるのだ。
 口を開けさせられて、歯をつけられ、奥歯のところには変声器を設置される。
 その間、ずっと静止しているのは難しい。それに、異物感で嘔吐しそうになるのを我慢しなくてはならない。
「ん……ぐ」
 溜まった唾液が喉を通って行って、ゴボゴボと音を立てた。
「大丈夫、大丈夫よ」
 そう言われる度に、同じ言葉を自分の胸の内で繰り返して辛抱した。
 後のことを考えれば、少しくらい無理したって構わないのだから。
「フ…………ウウ!」
 慣れた筈の生臭い体臭が、急激に鼻をつく。
(嗅覚が鋭くなったせい?)
 ひどく催す吐き気を隠すように、口を地面に押し付けて呻いた。冷たい床の上で開いた唇を何度も擦る。四つ這いになっている状態では、手で口を覆うことが出来ないからだ。
(ううん、もう“手”なんかない――)
 あるのは毛で覆われた四本の足。
 ――意識がぼんやりしてきた。
 視界の色がだんだんと失われてきている。
 もうあたしは人間じゃない!
 もうあたしは“みなも”じゃない!
 一頭の犬として生きていけばいいんだ。
 なんて気が楽になる事実なんだろう。
 このまま眠った方が良いという生徒さんたちの声が聞こえてくる――。


 目を覚ましてからあたしを待っていたのは、犬としての生活だった。
 朝は早く起きて散歩係りの人が来るのを待っている。
 首輪をつけて尻尾を振っている自分の姿を鏡で見ても何の違和感も覚えない程、生活に馴染んでいた。
 人間からすれば長く感じる時間も、犬にしてみれば短い。一日一日が目まぐるしく過ぎていく。
 甘えた声を出して身体を撫でてもらい、器に口をつけてご飯を平らげてはおかわりをねだっていたあたしもすぐに成長し、一頭の大人しい犬になっていた。
 そろそろ年頃だと飼い主さんに言われ、気付けば隣には雄の犬が寄り添っている。
 この子はだんなさんになる犬だよ、と説明されていたけれど。
(最初はこの犬に近づかないようにしていた筈なのに)
 あたしは五匹の子供を産んだ。だんなさんと同じ黒い色の犬が一頭と、あとはあたしと同じグレーの犬だった。
 出産をしてから、あたしは変わった。
 飼い主さんに甘える回数が減ったし、母性本能が出てきたのだ。
 子供たちが欲しがるままにミルクを与えて横になっていると、愛しさがこみ上げてくる。だからいつも子供たちの頬を優しく舐めていた。
 そんなときに、傍でだんなさんがウトウトしているのを見ると、とても満たされた気持ちになった。
 窓から午後の光が零れているのを眺め、今日一日を家族でどう過ごすかを考える――。
 もう立派なお母さんね、という声が聞こえた。
 あっという間に子供たちは大きくなって、やがて孫が生まれた。
 無邪気に辺りを駆け回っていた五匹の子供たちの姿を見ることはもうない。
 それだけ時が経ったのだ。
 孫があたしの子供のお乳を飲んでいるのを見ると、いまだ自分の胸にくすぐったいような感覚に囚われるのに――。
 だんなさんも自分も、足が弱くなった。日光の当たるところで寝そべる時間が多くなったことにも気付く。
「クーン……」
 窓から空を見上げて、微かに鼻を鳴らした。
 穏やかな気持ちのまま目を閉じる。
 永遠の眠りが、優しげに微笑んでいた。


 ――時計を見れば、ちょうど朝の六時。
 淡い光がカーテンを通して部屋に入ってきている。
 パジャマがぐっしょりと濡れていた。
「初夢なのに……」
 自分が犬になって、おまけに子供まで産んじゃうなんて――。
 頬を拭っても涙の感触が消えない。
(あたしがあたし自身を捨てたいから犬になる……か)
 そんなことを本気でしてしまった自分。
 ――怖い夢だ。
(犬になって暮らすのを、あんなにあっさりと受け入れるなんて……)
 笑うことができない。
 心のどこかであたしは犬に――人間以外になることを望んでいるのだろうか。
 ふわりと、獣とミルクの混ざった匂いが鼻をくすぐった。
(……あんな夢はだめ……。あんなことをしてはだめ……)
 呪文のように自分に繰り返して。
 冷や汗で湿ったパジャマを脱いで着替えると、手鏡を覗いた。
(あたしは犬じゃなくって、人間だもの)
 たとえあたしが、あたしをやめたいと思うときがあっても。
「それでも“みなも”のままでいるんだから」
 空元気のような声を出して――あたしは居間へと向かった。
 家族と一緒に御節を食べようと思って。




終。