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羽が生えたら
学校までの道のりを急ぐ。
チャイムが鳴るまでにはまだ余裕があるけれど、いつもみたいに歩いて向かう訳にはいかない。
(どうしよう……)
はやく、はやく学校に着かなくては。
でないと通りすがりの誰かに気付かれてしまうかもしれない。ましてやクラスの子に声をかけられたりしたら――と思うと、冷や汗が出てしまう。
(もしあたしの異変を知られたりしたら……)
曲がり角を曲がり、誰もいない通りへと入ったところで足を止めた。
「ああもう……もうだめ!」
鞄をアスファルトの上に置くと、あたしは制服の上から背中に爪を立てた。
もう我慢出来ない!
さっきから身体中が痒い上に熱くて仕方がないのだ。
特に背中。
(思い切り引っかいてやりたいくらい)
それなのに、柔らかい感触に邪魔をされて背中に触れられない。制服と、今は身体に細工をしてあるせいもあるけれど、それ以上に邪魔をしているものがある。
――人間には付いていない筈のモノ。
真っ白くて、まだ小さな翼が。
(お父さんの……ばか……)
それは昨日のことだった。
学校から帰宅したあたしが居間に入ると――。
「空き巣!?」
そう誤解してしまう程、家の中が荒らされていた。
居間どころか、冷蔵庫の中まで。
「卵なんてポケットから落ちちゃってるし……お父さん……」
茶碗や汚れたフラインパンが残されているのを見ると、お父さんはご飯を食べたみたい。
あたしが帰ってくるまで待っていてくれたら――せめて事前に連絡してくれていたら、何か作ったのに。
(でも、きっと急なことだったんだろうなぁ)
お父さんのお仕事って不規則だもん。
部屋が荒れたままなのも、時間がなかったのだろう。
「仕方ないよね」
夕食の準備をする前に片付けてしまおう。
まずは食器洗い。夕食後にまとめて洗ってもいいんだけど、ご飯を作るときに食器が出ているとどうにも落ち着かない。さっさと片してしまう。
ついでに冷蔵庫の整理も。これは食材の残りも知ることが出来て都合がいい。
あとは居間に散らばっている本やら書類やらを拾って……っと。
「あれ?」
足元に落ちている羽が目に入った。
それは雪のように純白で、一本一本の毛が細かいものだ。
(鳩の……には見えないよね)
本をお父さんの部屋の棚にしまってから、その羽を取り上げてみた。
「すっごく綺麗……」
蛍光灯の冷たい光に透かしてみても、柔和な印象を抱く程に。
何ていう鳥のものなんだろう。
(それに何処からきたの?)
妹が拾ってきたものでもなさそうだし……。
(多分、お父さんが拾ってきたんだろうな)
だとしたら、珍しい鳥のものかもしれない。
感触も弾力があって気持ちがいい。
指で挟んで軽くつまむ。すると、おずおずと押し返してくるのだ。
(うーん、捨てたらいけないものかもしれないし……)
とりあえず取っておこうか。
(そうだ、栞なんていいかも)
せっかくだし、使っておこうっと。
教科書に挟んでみた。分厚いものでもないから、ピッタリとおさまる。
(うん、丁度いい)
栞を変えただけでも気分は変わる。自然と勉強したくなったような気さえするくらいだ。
(ちょっと得したかなぁ)
教科書を一旦しまうと、あたしは機嫌よく夕食の支度に取り掛かったのだった。
――あのとき、何でもっと疑ってかからなかったのか、と思う。
あの羽は“誰が”持ってきたものか、大体想像がついていたというのに。
(あたしのばか……)
全身のむずがゆさに目を覚ましたあたしを待っていたのは、全身に小さい羽を生やした自分の身体だったのだ。
短い叫び声をあげて、羽を何度触ってみただろう。
動転のあまり、「やだ……」と「どうして!」を繰り返し言ってもみた。
だけど騒いだって意味がない。
羽は生えたままで、あたしの腕や胸や足は痒いままで、それどころか、引っかいたせいで痛くもなってきて。
ようやく冷静さを取り戻したあたしは、急いで原因と思われる人――とあえて言ってしまうけど――に電話した。
これは天使病――というらしい。
あの羽に触ることで感染するもので、症状は文字通り「天使になる」とのこと。具体的には「肢体は純銀へと色を変え、それを純白の羽が覆い、背中には大きな翼が生える」。
明日までにワクチンを送るよ、という声が電話口から響いて、電話は切れた。
「えええ……」
それを聞いて、あたしは弱々しく座り込んだ。
明日までには……って。
「それじゃあ、今日はどうすればいいの?」
今学期は誘拐もされたし、出席日数がひどいことになっている。
テストだって近いのに、休める訳がないのだ。
タイミングが悪すぎる。
せめて春休みに入ってからだったら――。
だけど落ち込んでいる暇はない。
「学校に行くなら、今日一日気付かれないようにしなきゃ……」
幸い今は冬だから、腕は長袖の制服で隠すことが出来る。
足もスカートとソックスがあるし――。
(ああ、でも)
ソックスは紺色とは言え、半透明だから心配だ。
もしクラスの子に気付かれたと思うとたまらない。涙が出そうになる。
(それだけは絶対に避けなきゃ……)
となると、もうこの手段しかない。
あたしは救急箱から包帯を取り出して、足に巻いた。
足先から一応太ももの辺りまで。
(たとえ目立ったとしても、羽に気付かれるよりはずっとマシだもの)
友達に聞かれたら、怪我をしたって言えばいい。
それからブラジャーを取ると、胸と背中にも包帯を巻きつけた。こうしておけば、翼の成長を抑えることが出来るかもしれない。
翼があるせいで痛むけれど、この際我侭は言ってられない。力を込めて強めに巻いていった。
「はぁ……」
作業を終えたところで、泣き声に近い溜息をひとつ。
それからすぐに制服をつけて支度をすると家を出た。
(これで何とか誤魔化せるかも――)
あたしは淡い期待を抱いていた。
だけど、甘かった。
(ううん)
身体は確かに、ある程度みんなの目を誤魔化せている。
嘘はよくないと思いつつも、「怪我をした」と説明したら、包帯のことは大きな問題にはならなかった。具合を聞かれることはあっても、あたしの話に疑いを持つ人はいない。
(そうだよね)
あたしだって、友達が包帯を巻いて登校して来たら「怪我したのかな」と思うだろう。「羽でも生えたのかな」なんて想像することはない。
だけど――やっぱり甘かったのだ。
天使になる、ということ。
人間の身体から姿を変えていく過程が、こんなに辛いものだとは思わなかった。
肌はむず痒さや軽い痛みから、声をあげたくなるような疼きへと変わりつつあった。
ノートを取る手が震え始めて、やがて書けなくなった。
身体が熱い。
「…………ッ」
声を出してはいけない。
そんなことをしたら、先生があたしの名前を呼ぶだろう。
海原さんどうしたの、と。
クラスのみんながあたしのことを見る。
顔を赤くして、震えているあたしを眺めて、みんなは何て思うだろう。
――耐えられるわけない。
こめかみに力を入れて、意識を無理矢理集中させて。
必死に勉強をしているフリをする。
そうしなければならないのだ。
(あっ)
背中に何かが蠢く感じがする。
翼が大きくなろうとしているんだ!
(やめて!)
背中が焼けるように熱い。
鈍痛が鼓動にあわせて、ドクンドクンと息をし始める。まるで翼が呼吸を始めたように。
(お願いやめて!)
頭の中で叫んだ。
逆に、手は機械のように動いて、黒板の文字をノートに写し取っていく。
自分の息が荒くなってきているような気がしたし、時折先生に見られている恐怖を感じて、怯える目で確認しなければならなかった。
この状態で過ごすなんて――。
お昼休み。具合が良くないからと口実を作って(嘘とは言い切れないけど)、あたしは使われていない教室で一人休んでいた。
袖をまくってみると、微かに肌色が抜けてきていた。
(どうしよう……)
あともう少し。
もうちょっとすれば授業が終わるのだ。
今日は掃除当番じゃないから、チャイムさえなってホームルームが終わればすぐに帰られる。
――息が微かに乱れている。
声をあげるのを押し込めているせいなのだろうか。
肌に生えた羽のひとつひとつが存在を主張し、ひしめきあってあたしを刺激していた。
苦しい。
(我慢しないで、羽にされるがままの反応をすれば……あたしは……)
――そうだ、と思う。
その方法があったのだ。
授業中では絶対に許されないことだけど、今なら――。
ちょっとの間だけ楽になれば、あとの時間だって頑張れるのではないだろうか。
(でも、でも……誰かがここを通りかかったとしたら)
心配したあとに、自分で「ううん」と首を振る。ここは誰も通らない。
それに、小さな声でなら――。
「……ッ!」
背中に盛り上がるような感覚があった。
(翼が成長したんだ)
(包帯をもっと強く締め直さなきゃ)
(ああ、でもその前に)
もう限界だった。
床に対してうつ伏せになり、背中に天使の存在を感じながら――あたしは途切れ途切れに声をあげた。
その間に、色んなことを思った。
――怖い。
羽が生えているなんてみんなに知られたら、どうなるの。
――気持ち悪い。
人間じゃない身体にされるなんて。
――吐きそうになる。
(それなのに、どうしてあたしは反応しているの?)
羽根たちが葉っぱみたいに揺れて、ざわざわとあたしの肌を撫でている。
――自分の、人としての身体が侵されている。
(なぜあたしは声を出しているの?)
ここは誰もいない教室。
――気持ちが悪いと思うのなら、どうして、声を?
先生が黒板に書いた図について説明している。
六時間め。
あたしはそれを眺めて、学んでいる顔をしながら別のことを感じている。
――身体が熱い。
胴体に巻いた包帯が破れる前に、家に帰らなきゃいけない。
――肌が疼く。
大丈夫。すぐ授業は終わるのだ。
(もう大丈夫、もう……)
あたしは教科書を覗き込むフリをして、胸の内でうめいた。
――平気だと思いながらも、気付かれはしないかという、恐怖感を抱きながら。
終。
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