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天使の導き
夕方の商店街。
買い物をする主婦たちや、学校帰りに遊ぶ子供たち。少し早く帰路についたサラリーマン。
町は、とても、賑やかだった。
「……はあ」
明るい日常風景の片隅で、誰かのため息がひとつ、零れた。けれど、気にする者は一人もいない。
隣人とのつながりの薄い都会ではあまり珍しくもない光景かもしれないが、彼らがこのため息の主を気にしない理由は、まったく別のところにあった。
ため息の主は疲れた様子でしばらくその場に留まっていた。だが諦めることなく、顔をあげる。
「すみません、少々お聞きしたいのですが」
近場を歩き過ぎていく主婦に声をかけるが、主婦は一瞥をくれることすらせずにさっさと通り過ぎていってしまう。
……こんなことを、何度繰り返しただろう。
別れてしまった弟を探し始めて幾年月。極度の方向音痴である来生一義は、ずっと、さ迷い続けていた。
「すみません、ちょっと道を教えて欲しいんですけど」
かける声は誰の耳にも止まらず、むなしく空に溶けてしまう。
人通りの多い、混雑した道のど真ん中。ぽつんと一人立ち止まっていても、誰も、目を留めない。
一義の姿は……誰にも、見えていないのだ。
今もあの日をはっきり覚えている。
赤く燃える部屋。その、熱さ。
あの日、死んでしまった自分をわかっている。
本来ならば死者はとっとと死者の国へと成仏するべきなのだろうが、一義には成仏できない理由があった。
たった一人生き残った弟の行く末がどうしても気になって、この世を離れられないのだ。
燃えてしまった家をあとにし、弟の引越し先を探して幾年月。住所は、確認した。したのだけれど、ずっとたどり着けないでいる。
極度の方向音痴である一義が地図もなしに住所だけで探そうなんてまったく無謀もいいところだ。探しまわっているうちに、まったく知らない町まで来てしまった。
……もう、諦めようか。
弟探しにも疲れ果て、いっそ成仏してしまおうか、なんてそんな思考が頭に過ぎる。
けれど過ぎった思いは、別の思いに押しつぶされた。
たった一人の、大切な弟なのだ。まだ成人にもなっていない弟がたった一人残されて、どんなに苦労していることだろう。
そう考えると、どうしても、弟のことが気になって気になって、諦められない。
「……はあ」
今日何度目かのため息をつき、歩き出す。誰にも尋ねることはできないが、ここで立ち止まっているよりは動き回った方がまだ可能性がある。
商店街を歩き始めたその時だった。
ふと、骨董品の店先においてある手鏡に目が止まった。
天使の飾りがついた、手鏡。
目が向いたついでに何気なくその手鏡を覗き込んだ瞬間、一義はぎくりと動きを止めた。
鏡に映し出された顔は自分のものではなく、人相の悪い知らない誰かの顔だった。
何の凶悪犯なのか。何故、そんなものが映るのか。
疑問に思ったのとほとんど同時、急に意識が遠のいた。薄れていく意識は数瞬ののちすぐに浮上したのだが、そこは知らない場所だった。
先ほどまで立っていた場所とも違う見知らぬ割烹店のカウンター席に座っていた。
隣には、鏡に映っていた人相の悪い男が座っている。
こんな男のことは、知らない。けれど一義は、不思議な懐かしさを感じていた。
どこかで会ったことがあるような気がする。
だが、どこでなのか、思い出せない。
気になるけれど、あからさまにじろじろと相手を見るのは失礼に当たると彼から視線を外す。どうしてこんなところにいるのだろうと不思議に思いながらも目の前に置かれた料理に手を伸ばした。
他に客はなく、静かな店内。ふと、視線に気がついた。
まじまじと見つめてくる視線。
「……」
どこかで会った事がありませんか、と問うのもおかしな気がして。ただ、肩をすくめて、ビール瓶に手を伸ばす。
瓶を軽く傾けると、男は短い返事をして頷いた。
トクトクと酒を注ぐ音。
それから、何を話したわけでもない。
会話が盛り上がることはなかったが、気まずい沈黙が訪れることもなく。
時間はゆるりと過ぎていく。
そのうち男は酔いつぶれて眠ってしまった。
……何故だろう。
感じる懐かしさのせいだろうか。
なんとなく微笑ましい思いを抱いて男の寝顔を眺めていた。――唐突に、前置きなく、視界が回った。
飲みすぎたかと思った次の瞬間、場所が、変わっていた。
立っているのはさきほどまでいたのと同じ骨董品点の前。
あれは、現実ではない。
だって今の自分は幽霊だ。
誰にも気付いてもらえない存在なのだ。
けれど、夢にしても少々不思議だ。
というか、今の自分が夢など見るはずもない。
わからない白昼夢に首を捻ったが、心に何かが沸きあがった。
疲れは消え、代わりに見える。
予感。
きっともうすぐ、弟に会える。
歩き出した一義の足取りにはもう、疲れはなかった。
少しずつでもいい。
一歩ずつでも歩いていけば、きっともうすぐ、弟に会える。
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