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雨潦奇譚
静謐と乱層雲の帳に包まれ、雨の降り落ちる高級住宅街の一角。
一人で高校からの、下校の道を歩んで居た少女――西園寺・魅優(さいおんじ・みゆ)は、道端に蹲る或る人影を見付け、其の歩みを止めた。
今日日、時代に託つけ誰彼に構わず悪行を行う輩や、其れこそ魅優の様な純度の高い精気を持つ者を、執拗に狙う魑魅魍魎の類も少なくは無い。
其の事を、幼少の頃より身を以って知り得て居る魅優が、警戒を怠らずも緩慢な足取りで其の者へと近寄れば。次第に鮮明に為る人影は、魅優と同じ年代の少年の物で。
『貴方。如何かしましたの?』
魅優が出来得る限り手短に声を掛けると、ぼろぼろの衣服を纏った少年は、眼前の魅優を気怠そうに見上げ。僅かに漆黒の双眸を揺らがせると――。軈て、力なく頭を垂れた。
(――……綺麗な、人だな……)
然う、少年が頭に過ぎらせたのは。其の意識の途切れる、何時の事であったか……――。
* * *
少年が気付くと其処には、「知識でのみ知って居る」ホテルの様な一室が、眼前へと広がって居て。気を失う前迄身に付けて居た筈の衣服は、何時の間にやら小奇麗なパジャマへと着せ替えられて居た。
其の目紛しい状況の変貌に、少年が只管茫然と意識を飛ばす中。又「知識でのみ知って居る」メイドが部屋の扉から現れ、少年に恭しく挨拶をして見せる。
『あ……――』
『後で御嬢様も来られますので、未だ此方で御休みに為って居て下さい』
先から何事も異常は無いかの様に振る舞うメイドに、少年は返す言葉も無く。其の一通りを手持ち無沙汰に眺めて居ると、軈て入室と同様。形式張った挨拶を告げて、メイドは部屋を出て行って仕舞った。
(此処は、一体……?)
改めて部屋を見回し、少年は朧げに残る記憶を手繰ろうと試みるが。今此の場に斯うして身を横たえられて居る状況等、如何考えても繋がる手掛かり等無くて。
暫くの長考の後、意識を失う其の直前に見た少女が、護衛の様な使用人を伴って部屋へと入室して来る事で。少年は漸く、或る一つの可能性へ辿り着いた。
『漸く眼が覚めましたのね』
『あ、の。此処、は……――?』
艶やかに流れる金髪に、碧眼の双眸。其れに劣らず少女にしては高い身長と豊満な体躯が、一連の動作にも何処か威厳の様な物を伴って。
少年が未だ戸惑った儘に、魅優へと問いを投げ掛ければ。魅優は自身が少年を双眸に収めてから彼を自身の住居迄搬送した、其のあらましを説明した。
『貴方、御名前は? ――……何故彼の様な場所へ居たんですの?』
『……覚えて、居ません……』
『其れでは、貴方は一体何処から彼の場所へ? 御両親は此の付近の住居には居りませんの?』
『……済みません。本当に、何も分からないんです』
一般に高級住宅街と称される此の場所へ、先のぼろぼろの衣服の有り様を思えば、少年の関係者が此の周囲に住んで居るとは魅優には到底思えなかったが。何処か高飛車とも思える魅優の態度にも、依然不快を示す事無く、少年は切に謝罪を漏らした。
次々と掛けられる尋問の様な問いにも、少年は自分自身の事を全く把握出来て居ない様子で。魅優は嫌な意味で、自身の慣れ親しんだ異形絡みかと、其の存在を訝しむ。
『……まあ、良いでしょう。一先ず今日の処は、ゆっくりと此方で療養して行くと宜しいですわ』
一向に進展を見せない言葉の応酬に、軈て魅優は一つ軽く息を吐き。
其の場は其処迄に収まると、最後に少年へと声を掛け。魅優は使用人と共に、少年に充てられた部屋を後にした。
そして、夜は其処に在る者総て平等に。深々と、更け落ちて行く……――。
* * *
――ガシャン……――
『――……っ?!』
木々のざわめきだけが漏れる静やかな寝室に、硝子の割れる音で少年は眼を覚ます。
無意識に布団を脇へと放り起き上がると、少年は本能の赴く儘に邸宅を駆け。そして軈て、何かと交戦する魅優の姿を確認した。
彼女の護衛と思われる者達は、既に床へと平伏して居り。刀で応戦為る魅優も又、苦戦を強いられて居る様に思える。
――……軈て、総てが緩慢な流れの中に。
異形の者の鋭い、四肢の何れかとも言い難い何かが……。魅優の心の臓を目掛けて、空気を裂く鈍い音と共に繰り出された。
『――……止せ……っ!!』
其の瞬間、何かが途切れた様に。
少年は激しい咆哮と共に、無我夢中で異形の者へと飛び掛かる。
刹那。少年の腕が、丸で鰐の顎の様に変容を遂げ。異形を貪る様に、其の総てを喰らい尽くした。
『……貴方は……――』
其の一部始終を眼に収めた魅優は、柄に無く。僅かに見開かれた双眸で、立ち尽くした儘に少年へと視線を寄せる。
暫し其の儘、言葉も無く二人は其の場に相対して。
窓から漏れ出でる、未だ雨滴の残る草木の。其の風と戯れる音だけが、何時迄も其処に響いて居た……――。
* * *
時は、流れ。低い雲の隙間から、暖かな日差しを覗かせる或る冬の朝。
馴染みの登校風景に映り得る。魅優に合わせ其の後ろを緩慢に歩む、一つの影が在った。
『――……御嬢様』
颯爽と歩を進める魅優に従う、何時かの其の少年が。恭しく声を掛ければ、魅優はきっと振り向いて。
『二人きりの時は呼び捨てにしなさい。と言ったでしょう? 修!』
真摯な眼差しを向け、窘める様に少年へと返された言葉に。
少年――工藤・修(くどう・おさむ)は何とも朗らかな微笑を浮かべ。魅優の後へと変わらず添い、何時しか二人、其の路地の先へと消えて行った……――。
【完】
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