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重なる面影、見えない涙
冷えて澄んだ空気が漂う朝。
四宮家に一人の赤子が生まれた。
それはこの上ない喜びであり、また同時に――罪悪感を感じる日々の始まりでもあった。
…杞槙と名付けられたこの赤子に対する、己の役割を自覚すればする程。
ルーレン・ゲシュヴィント。
祖国はドイツ。杞槙の母と共に来日。それ以来四宮家の専属として付き従い、今に至る。
専属の家庭教師として――そして、『カゴを預りしもの』として。
杞槙の前に居る。
肩書きを並べるならばまだある。
…彼女の、主治医でもある。
…オーボエの師でもある。
そして杞槙にとって自分は、生来の友人であるとも言える。
だがそれは、杞槙が外の世界を知らないが故、自然、なってしまうだけの事でもあり。
無論、望まなかった訳では無い。
杞槙の事は生まれてから――否、遡れば生まれる前からと言った方が正しいか。ずっと己の妹のように子供のように思っている。とても大切なひとの娘。家族同然で居られる事は喜ばしい事。友人で居る事も確かに望んだ。
望んだが。
――それで、それだけでいいのかと。
外の世界を知らないままで居るのが、彼女にとって本当に幸せか?
時折思う事がある。
過ぎっては消え、消えては再び浮かび。…心の中から決して消えない、迷い。
籠から飛び立たせてはならぬ。
これが自分の役目。
決して抗えないもの。
抗ってはいけないもの。
…否、抗う気など初めから微塵も無いもの。
けれど。
杞槙自身、それを望んだだろうか。
それで杞槙は幸せだろうか。
年を重ねる毎に、彼女と――杞槙自身の母と重なっていく杞槙の姿を見ていると…そう考えずにはいられない。
役目に抗う気は決して無い。
大切な約束。
必要な事柄。
わかっていても。
消えて、くれない。
この迷い。
■
「時々…ね、私を見詰めるルーの顔が、とても寂しそうに見えるの」
私がそうさせているのね。ルーにだけ、辛い思いをさせて、ごめんなさい。
ふとした時に告げて来た、杞槙の言葉。
…違う。
そんな顔をさせたいんじゃない。
そんな事を言わせたいんじゃない。
傷付けたくないだけ。
幸せになってもらいたいだけ。
ごめんなさいなどと、言わせたくはなかった。
それも、僕になど。
本当は杞槙、キミじゃなく、僕こそが。
謝らなければならない、のに。
…辛い思いをさせてと言うのなら。ごめんと言うのならば――それは、余程。
僕の、方こそが。
「杞槙…そんな事は無いよ。杞槙が悪い訳じゃない。
ただ杞槙を見ていると、彼女を思い出してね。少し昔を思い出すだけだよ」
随分と母君に似て来たから。
それは、事実。
年を重ねる毎に、面影が重なる。
杞槙の、母親と。
…心密かに想いを寄せていた、彼女に。
それもまた、迷う理由の一つなのかも知れない。
…できなかった、から。
貴女は幸せだったのだ、と。
今の自分は彼女の過ごした時について、そう言い切る事ができないから。無論、不幸だったとは絶対に言わない。そうは思わない。それだけは否定できる。だがそれでも、本当にそれで彼女は幸せだったのかと問われれば――自分は、自信を持って答えられない。
だから今、再び迷う。
杞槙は全部わかっている。僕自身の役目を知っていて、気付いていてもなお…慕ってくれる。
師だと。友だと。…家族のようなものだと。
受け入れてくれる。
だからこそ、余計に。
籠の中に在らねばならぬ事。杞槙にとって、それは望まぬ枷なのではないかと。
そのままで、いいのかと。
…問い掛けが自分の中で日々大きくなっていく。
杞槙も母親のように、籠の中で短い時を過ごすのだろうか。
それでいいのか。
自分自身に何度も何度も問い掛ける。
姿を見る度、思う。
亜麻色の髪、若緑の瞳。
疑いを持たぬ無垢な魂。
彼女は素直に籠の中に甘んじる。
■
罪悪感の始まり。
初めて悩んだあの日から――もう十数年が経ち。
ルーレンはまだ、迷い悩み続けている。
杞槙は、変わらない。
人懐っこい笑みも、その無垢な瞳も。
ルーレンを慕う姿も、何もかも。
それだけでも、堪らなくなる時がある。
…そんな、ある朝。
目覚めれば窓の外、朝の冴えた空気が感じられ。
偶然ながらも杞槙が生まれたあの日と同じような、澄んだ空気と青空が広がる日、だった。
悩みも迷いも吹っ切れるような。
心を決めるには、いいような。
いつも通りの杞槙と過ごす時間。机を挟み。学習の合間。
無垢な瞳に、思い切って、訊いてみた。
「杞槙。
ここから飛び立ちたいと思うかい?」
極力、さりげなく聞こえるように杞槙に問う。
突然のその問いに、杞槙は少し、止まって考える。
ふるふると頭を振る。
…殆ど時を置かずに、否定した。
可憐な花が咲くような淡い微笑みと共に。
告げる。
「思わないわ。
…だって、私には皆が居るから」
ルーが気にしている程、ここは悲しい場所じゃないわ。
――だから、もう、泣かないで。
言われた途端、思わず――目を見張った。
ルーレンは、泣いてはいない。
その筈だった。
事実、涙を流してはいない。
思わず確かめた。目元に指先をやる。
…泣いてはいない。
けれど。
杞槙に言われて、気付いた。
素直に自覚する事が出来た。
…心では、確かに泣いていた。
杞槙には、それがわかっていた。
本当に…驚いた。
嘘じゃない。本当の事。杞槙の発言。…飛び立ちたいとは思わない。本心だとわかる。けれどだからと言って――その発言に、僕を気遣っての部分が無いとは言い切れない。
…否、僕を気遣うと言うその部分もすべて合わせて、彼女の本心である事。
それも、わかってしまう。
だからこそ、今こうやって――『泣く』のを止めて、杞槙に優しく微笑み返す事が、できても。
今まで通りこれからもずっと、いつまででも――僕は迷い続けるのだろうと、確信してしまう。
…すまない、杞槙。
それから――ありがとう。
【了】
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