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悲しみの咆哮
出社した桂を出迎えたのは三下の悲鳴だった。
「どうしたんですか」
事態を大体予測しつつも桂は儀礼的にそう尋ねる。くしゃくしゃのワイシャツにくまの張り付いた目でおろおろとオフィス内を行き来していた三下は桂に縋るようにして飛びついた。
「どどどどうしよう桂くん。編集長に怒られる〜!」
「締め切り前夜に徹夜で作業しようと会社に泊まったのはいいものの、結局寝てしまって原稿は上がらず・・・・・・ってところですか」
「あれ、どうして知ってるの?」
「分かりますよ。いつものことでしょ」
言いつつ桂は三下のパソコンを見るともなしに眺める。どうせ未完成の原稿であろうと大した興味も持たずに。
が、いつしか桂はモニターに見入り、マウスを手にとって画面をスクロールさせていた。
「ああ〜どうしよう〜! 怒られる〜! 殺される〜!」
「なんだ、ちゃんとできてるじゃないですか」
「へ?」
桂の声に三下はぐすっと鼻をすすり上げて振り返った。
「バイトのボクが言うのも生意気ですけれど、なかなか面白いじゃないですかこれ。このまま編集長に見せたらどうです? きっと採用されますよ」
言われてパソコンをのぞきこむ三下は眼鏡の奥の目を激しく瞬かせた。確かにそこには完成原稿が表示されているではないか。昨夜半分も書かずに眠ってしまったはずなのに・・・・・・。
「え〜どうして〜?」
「新たな能力に目覚めたんじゃないですか。眠ってる間にもうひとりの自分が覚醒して素晴らしい原稿を書き上げたとか。もしくは夢遊病ですかね」
桂は乾いた笑いを浮かべた。
不気味ではあったが、怒られる――程度で済めばいいが――よりはましである。三下は自分のパソコンに入っていた誰が書いたか分からない原稿を恐る恐る碇麗香編集長に差し出したのであった。
すると碇女王は即採用の決を出し、その原稿はそのままアトラスに掲載された。そればかりかその記事は読者の反響を呼び、上・中・下の三回続きのシリーズとして特集を組むことになったのである。
慌てたのは三下であった。元々自分が取材を担当していた事件なのだから続きを書くことは不可能ではない。しかし碇のお気に召すようなクオリティのものを書けるかどうかは別問題である。おろおろしながら過ごす日々が続き、疲労とプレッシャーと気疲れとで三下はまた締め切り前夜にダウンしてしまった。未完成の原稿を抱えたままで。
しかしまたしても同じことが起こった。三下が目を覚ますと、記事の続きがきちんと書かれていたのである。三下の書いた部分に手を加えて別人のようなクオリティで仕上がった文面が。
「本当にみのした君が書いたの?」
シリーズ第二回の原稿に目を通しながら、碇は珍しく三下を本名で呼んでそう言った。「別人が書いたみたいね。三下君とは思えないわ」
三下は引きつり笑いを浮かべるしかなかった。碇の言うとおり、この記事は三下が書いたものではないのだから。
「――でね、これがその記事なんですよ」
そして今、三下は二回目「中」として掲載された記事を示しながら訪問者に懸命に訴える。
「六十年前の都築村(つづきむら)惨殺事件です。僕が生まれるずうっと前のことなので詳しいことは知らないんですけど、猟奇大量殺人事件として当時は相当騒がれたんですって。都内の都築村という村で、村人三十人全員が殺されたと・・・・・・」
話しながら三下はぶるっと震え上がる。
「全員が猛獣の牙や爪で引き裂かれたような傷を負って死んでいたそうなんです。大型の野犬やイノシシの仕業かと騒がれたんですけど、そんな動物では説明のつかない大きさの傷で、傷口から検出された獣毛も何の動物のものか特定できずじまいで・・・・・・あ、人間のものではないことは確からしいですけど」
訪問者は三下の説明を聞きながら前月号と今月号のアトラスに目を通す。一回目「上」は事件の概要とそれに対する推理から始まり、二回目「中」は証拠をつまびらかに列挙してその推理を補強し、最後は事件の真相をにおわせるような記述で終わっている。この展開で続くならば「下」では事件の謎解きがなされるのであろう。
「都築村があった場所は今は八代市(やつしろし)になってます。ほら、心霊ドキュメントなんかで必ず登場するあそこですよ、廃墟になった研究所が村を見下ろすように建ってる山の中のあの場所。いろんな心霊現象が起こるって・・・・・・。色々ね、いわくつきの場所なんですよ。夜中に獣の足音や遠吠えが聞こえたり、子供の泣き声がしたり。僕も取材のために一応あそこに行って来たんですよ。だ、だからそのときに幽霊を連れて帰って来てしまったんじゃないかって思うんですよぉ。きっと幽霊が僕の代わりに原稿を書いてるんですよぉ!」
三下はぐすんと鼻をすすり上げて訪問者に縋るような目を向ける。
「このまんまじゃ怖くて眠れませんよぉ〜! 何とかしてくださいよぉ〜!」
冬の日光は柔らかく、静かだ。書棚に囲まれた薄暗い書斎で栄次郎(えいじろう)は揺り椅子に体を預けて静かに目を閉じる。断熱ガラスの下に広がる庭園は寒々として、緑の息吹は感じられない。もっとも、手入れをする者もない庭だ。春になったところで雑草が伸び放題になるだけであることに思い至って栄次郎は小さく苦笑する。
「栄次郎さま」
というしわがれた声に栄次郎は目を開く。色白の、ひょろ長い白髪の紳士がいつもの黒スーツに身を包んでいつの間にか部屋にたたずんでいた。
「例の記事の続編です」
「ああ。ありがと、古川(ふるかわ)」
栄次郎はけだるそうに体を起こして『月刊アトラス』の最新号を受け取った。“例の記事”のページには古川の手によって付箋が付されている。他の記事には興味はない。“例の記事”だけを開いて読み進めていく。
やがて一通り読み終わると、栄次郎は「読むか」とでもいうように古川にとひょいと雑誌を差し出した。しかし古川は首を横に振り、やや顔を歪める。
「旦那様を苦しめた事件など見聞きしたくもありません」
「だな」
俺も知りたくないよ、と栄次郎は呟いてアトラスをサイドテーブルに置いた。
「ずいぶん詳しく書いてあるもんだ。俺ですらここまでのことは知らないのに」
「同感です」
「おまえも知らないのか、ここに書いてあること」
栄次郎はやや意外そうに首を持ち上げ、長年父に仕えた執事である古川を見た。「それなら、この記事を書いた人はどうやってこの情報を手に入れたんだ?」
「知りませんし、興味もありません」
そっけなく言って古川は暗い目を栄次郎に向けた。
「私が憂えるのはただひとつ。この記事によって旦那様の過去が明るみに出て、旦那様や栄次郎さまが世間の好奇と非難の目に晒されることだけです。刑事的には時効といえども、道義的には・・・・・・」
「だな」
栄次郎は物憂げに頬杖をついて書棚の上の壁に目をやった。棚の上に立てかけられた写真の中で、父はくたびれきった表情で微笑んでいた。
その記事は確かに三下が書いたとはにわかには信じ難かった。理路整然とした記述、見事に整合のとれた事実関係。推理もしっかり筋道が通っており、証拠を列挙する順序もこれ以上ないほど妥当かつ適切。緻密な論説と展開は出来のいい推理小説を読んでいるような錯覚にさえ陥る。自身も文章に携わる仕事をしているだけに――秘密裏にではあるが――、シュラインはこの記事が素人の筆によるものではないことを敏感に読み取った。
ただ、ひとつ不自然な点を挙げるとすれば「真摯さ」だろうか。実直に事実を連ね、読者に懸命に訴えかけるような文面はどちらかといえば朴訥で、「面白いものをより面白く」というアトラスの方針にはそぐわないようにも思える。
「元々、私が夢を見たのが始まりなの。お告げとでもいうのかしら。都築村の事件について調べてみろ、って誰かに言われたところで目が覚めて。ちょうど六十年目だし、まあ一応やってみようと思って三下くんに担当させたんだけど・・・・・・三下くんが書いたとは思えないでしょ?」
デスクから苦笑いを送るのは碇である。シュラインはごく薄く色のついた眼鏡を外し、手元の「上」と「中」の記事から顔を上げて美貌の編集長に顔を向けた。
「分かっていながら採用したんですか?」
「誰が書こうが出来がよければいいのよ」
いかにも碇らしい言葉にシュラインは「なるほど」と小さく苦笑を返し、その後で言葉をつなぐ。
「確かに興味深い記事ではありますが・・・・・・地味な文章ですよね? 従来のアトラスの雰囲気とは若干違うように思いますが」
「それはそうね」
碇は素直に肯いた。「面白い・・・・・・というのとは少し違うわ。激しく興味を惹かれる、っていう感じかしら。地味だけど、強く惹きつけられるのよ」
「同感です。それに・・・・・・先入観かも知れませんが、何となく理系の人が書いたような文章に思えますわ。内容には感服しますが、文章自体はそれほど洗練されているとは言えません」
文章の美しさや表現技法は二の次にして、事実と自分の考察を伝えることに重きを置いた書き方。それはデータを示しながら自らの持つ結論へと導いていく論文の紡ぎ方に似ていなくもない。“理系”にこだわるのもまずいが、ひとつの手がかりになるのではないかとシュラインは睨んでいた。
次にシュラインは三下が集めた資料に目を通した。六十年前の事件だから無理もないかも知れないが、資料にそれほど目新しい情報はない。それでもいくつか収穫はあった。
まず、都築村はある研究所を囲むようにしてできた村だということ。元々研究所が山の中に出来て、そこに通う関係者や家族が集まって形成されたのが都築村らしい。研究所は戦後間もなくに外国の援助を受けて創立されたということ。何の研究を行っていたのかはまだ分からないが、どうやら公然にはできない内容であったらしいということ。それに、研究所に勤めていた研究者や関係者も全員村人と同様に殺されたこと。研究所からも被害者の傷口から検出された獣毛と同じものが大量に発見されたということ。事件が起こる前の村には大型の獣が生息していたという話もなく、またそのような動物の姿を見たという目撃談もないということ。
「獣の目撃談はない・・・・・・でも、それは単に“人の目には触れなかった”ということよね」
とシュラインはひとりごちてページを繰る。「厳重に警備された研究所の中に獣がいたのだとしたら・・・・・・それが極秘の研究だとしたら。獣毛と研究対象は関係あるのかしら」
しかし、研究内容に関しては“公然にはできない内容であったらしい”とあるだけだ。詳しい情報どころか手がかりすら見当たらない。だとしたら・・・・・・。
――ある悲しい想像を頭に浮かべたところでシュラインは小さく首を横に振る。可能性としてはあるだろうが、あまりに突飛だ。先入観を持つのは危険。シュラインは碇の許可を得て資料をコピーし、梧・北斗(あおぎり・ほくと)と待ち合わせているインターネットカフェへ向かった。
ネットカフェで合流し、アトラスで得た情報を北斗に告げる。北斗はいちいち肯きながら聞いていたが、シュラインの言葉が終わるとマウスを手に取った。
「とりあえずゴーストネットOFFを見てみた。エマさんの読みが当たったよ。結構あったぜ、それ系の書き込み。やっぱりいたんだな、記事を読んで実際に八代市に行った人」
「そう。反響のあった記事なら当然でしょうね」
アトラスに行って記事や資料を熟読している間にネットでの調査を北斗に頼んでおいたのだ。いくらシュラインとて体はひとつ、分担できることは分担して調査を進めたほうが効率的である。
「もう都築村や八代市に関するスレッドが出来てるよ。まあネタがネタだし、ネットの書き込みだから全面的に信頼するってわけにもいかねえだろうが・・・・・・むかし都築村があった八代市の山間には男の子と女性の幽霊が出ること、男の子と女性の悲しげな泣き声や歌声が聞こえること、それに大きな獣の遠吠えやそれっぽい姿が目撃されたことは大体共通してるな」
「八代市に行って危険な目に遭ったり、帰って来られなくなったりした人はいないようね。獣は関係ありそうだけど、男の子と女性・・・・・・それに歌声っていうのは何なのかしら」
シュラインは顎に指を当てて呟く。
「それをこれから調べるんだろ?」
「そうだけど、何か取っ掛かりがないと」
シュラインは青い瞳を静かにディスプレイの上に戻す。その間も頭脳がフルスピードで回転していることは眉ひとつ動かさぬクールな表情からは読み取れない。
「六十年前なら当時の関係者が生きてるかも知れないわね。事件を担当した警察関係者やマスコミ、その家族から何か情報が得られれば・・・・・・。研究所を基点に作られた村なら食料は外からでしょうし、近隣の村や町に住んでいた人なら何か知っているかも」
「なるほどな。そんなら警察に聞けば手っ取り早いんじゃねえ? 警察ならいろんな関係者の情報持ってんだろ。刑事の話を聞くついでに当時の関係者の所在も教えてもらえば一石二鳥じゃん。そしたらそれを元に関係者の所に話を聞きにいけるじゃねえか」
「でしょうけど、どうかしら」
肯きつつもシュラインは柳眉を寄せた。「そういうのって、いわゆる“捜査資料”でしょう? いくら昔の事件とはいえ捜査資料を民間人に公開するなんて――」
言いかけてシュラインは「あ」と唇に手を当てた。
「何? アテでもあんの?」
訝しげに問う北斗にシュラインは小さく笑って肯いてみせた。以前依頼を受けて事件解決に協力した宮本署刑事課二係の沢木・氷吾(さわき・ひょうご)警部補に頼めば何とかなるかも知れない。沢木自身に資料を流す力はないとしても、沢木のパトロンである桐嶋・克己(きりしま・かつみ)管理官に頼めば無理も聞いてくれるのではないか。
そしてシュラインの読みどおり、沢木は桐嶋に話をつけてくれてあっさり捜査情報を送ってくれることになった。もちろん“極秘に”ではあるが。事件そのものはとっくに時効を迎えているため捜査に直接関係する資料はなかったが、当時事件を担当していた刑事や近隣に住んでいた関係者等の手がかりはかろうじて残っていた。
通りいっぺんの挨拶を済ませ、資料を渡した後で沢木は口を開いた。
「久留巳・栄次郎(くるみ・えいじろう)さんと古川・仙一(ふるかわ・せんいち)さんというかたをご存じで?」
「いいえ。そのかたたちが何か?」
「桐嶋さんに聞いたのですが・・・・・・久留巳さんと古川さんが、エマさんたちが調べていらっしゃる都築村の事件についての情報はないかと警視庁に問い合わせてきたそうで。雑誌にあの記事が掲載されて以来、野次馬から同様の問い合わせを幾度か受けたらしくて警察も相手にしなかったそうなんですが・・・・・・都築村の研究所に詰めていた人間の中に久留巳という姓の研究員がいましてねえ」
「その久留巳という研究員の縁戚ではないかと?」
続きを察してシュラインが問う。沢木は浅く肯きつつ言葉を継いだ。
「根拠はありませんが、久留巳というのはあまり見かけない姓ですからねえ。もしかしたらということがあるかも知れません。念のためご報告までと思いまして」
シュラインは手帳に素早く久留巳栄次郎と古川仙一の名を書き付けた。
沢木の元を辞し、宮本署の玄関口で待っていた北斗に資料を見せる。警察にツテがあるのはなぜだと盛んに尋ねる北斗を軽くいなしてシュラインは資料の入った封筒を開いた。几帳面な沢木の手によってポケットつきのバインダーにまとめられている。
「事件を担当していた刑事の所在や当時近隣に住んでいた人のデータなんかもあるわ。これを元に聞き込みに出かけましょう。ちょうど八代市の近辺に関係者が集まっているようだし」
「・・・・・・ちょうどって?」
北斗がやや警戒の色を浮かべる。シュラインはあっさりと言った。
「決まってるでしょ。八代市の都築村跡地に出かけて調査するのよ。今回のことと事件が無関係とは思えないし・・・・・・もし村の関係者が記事を書いているのだとしたら、記事で何を伝えたかったのか何かしらの声で耳にできたらと思うのだけど。事件の真実を知らせたかったのか、あるいは記事を見て事件を解決してくれる人を待つつもりなのか」
北斗の顔が引きつる。確かにシュライン一人で行かせるのは危険だ。しかし北斗は自身の力によって「変なもの」が見えてしまうことをあまり歓迎していないのである・・・・・・。
当時都築村の近隣に住んでいて、食料や日用品の行商で村に出入りしていたという男性の証言。
「出入りしてた商い人は少なかったですよ。外部との接触を最小限に抑えている感じでしたね。そういえば・・・・・・あなた方、久留巳さんと古川さんというかたをご存知ですか? 久留巳さんと古川さんがあなた方と同じ用件で私の所に話を聞きにきたんですが」
すでに亡くなった事件担当記者に代わって応じた彼の娘の証言。
「ひどかったそうよ。ボロ雑巾みたいに引き裂かれた死体がごろごろ転がってたって。でも、あの村なら考えられなくもないって父が言ってた。どうも研究所で怪しげな動物を作る実験をしていたらしいとか・・・・・・具体的には分からなかったそうだけど」
当時捜査を担当した元刑事は悔しそうにこう証言した。
「解決の一歩手前まで行ったんだよ。ところが上のほうから捜査本部を解散するようにと言われてね。確証はないが、いろんな状況から察するにGHQから圧力がかかったんじゃないかって仲間内で噂していたんだ。絶対あの研究所に何かある」
聞き込みで得られた情報はこんなところだった。
「GHQ、ね」
北斗はうーんと唸って頭の後ろで手を組んだ。「事件が起こったのは六十年前だから・・・・・・1946年か。戦争が終わったのってそのくらいじゃなかったっけ?」
「そうね。終戦は1945年。1946年も“終戦直後”の時期だわ。さっきの刑事さんも言ったとおり、GHQも日本にいたでしょうし」
「GHQって、マッカーサーのだろ? そのGHQから圧力がかかったってことは、国家レベルの秘密の研究だったのかな」
「可能性はあるわね。事件の元凶が国家機密に関わるものだったら・・・・・・そこまでいかなくても公にはできない事業だったのだとしたら、トップが隠蔽に奔るのも肯ける」
「なるほどね。俺たちの前に聞き込みに来た久留巳と古川ってのも何者なんだか。事件を調べてるってことは間違いなさそうだが・・・・・・」
古川はともかく久留巳は珍しい姓である。宮本署の沢木から聞かされた二人組と同一人物と見て間違いない。研究所の名簿に名前があった久留巳・倫太郎(くるみ・りんたろう)という研究員と何か関係があるのだろうか。
都築村跡地は八代市の北端の山間にある。この場所を訪れるのは初めてだが、テレビの心霊特番や雑誌の特集で何度もとりあげられているので見覚えはあった。
長身のシュラインの腰まで届く枯れ草に、無残にも崩れ落ちた家々の廃墟。生い茂った雑木が空を隠して昼間でも薄暗い。かつて村だった場所は山間に不自然に開いた台地にできており、傾きかけた日が濃い影を落としこんでいる。村の背面からはなだらかに傾斜した道が伸びていた。その先に無言で佇むのが例の研究所であろう。
さわさわ、と北風が枯れ草を撫でる音以外は静かなものだ。ちらりと廃墟に目をやると、所々不自然に黒いしみのようなものができているのが見受けられる。血痕だろうか。六十年前の血痕がこんなに鮮やかに残っているものかと思おうとしても不気味さは禁じ得ない。シュラインの後ろで北斗はさかんに腕をさすっている。北斗の首筋に無数に現れた鳥肌がこの場所に“何か”がいることを物語っていた。
緩い斜面をのぼって研究所へと向かう。弱々しい太陽の光を背に受けて、その重厚な建物は黒々とした威圧感をもって二人に迫る。崩れてはいるが、かつてはさぞかし瀟洒なレンガ造りであっただろう。横長で平べったい三つの直方体がコの字型に並んでいるさまは大きな病院を連想させなくもない。この研究所は戦後間もなくに建ったものだというが、戦後の貧困と混乱の時代にこれほど立派な施設を造り、維持することができたのだろうか。
「ちょ、ちょっと」
不意に北斗がシュラインの腕を掴む。視線が落ち着きなく左右に揺れている。
「何か・・・・・・何か聞こえねえか?」
耳を澄ましてシュラインははっと体を緊張させた。
聞こえる。シュラインにも確かに聞こえる。か細い女の歌声が。ひゅうひゅうと、風の音と間違えてしまいそうなほど脆弱に。
ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ある日大人に手を引かれ
ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ちゃぷちゃぷお風呂に入れられて
真っ黒けっけのぼうやはね、ごはんを食べてすくすく育って
ちっちゃなちっちゃな母さんは、ぼうやがいなくて寂しくて
ちっちゃなちっちゃな母さんは、ぼうやに早く会いたくて
真っ赤っ赤になる母さんは、ぼうやの所に着く前に
わんわんわん、ぼうやはわんわん泣いたとさ
わんわんわん、母さんわんわん泣いたとさ・・・・・・
「何だろう? わらべ歌か?」
「そういえばゴーストネットOFFの書き込みにあったわね。男の子と女性の悲しげな歌声が聞こえるって・・・・・・」
この歌がそうなのだろうかと呟いた時、ふわり、と金色の影が二人の視界の端を掠めた。思わず息を呑む。金色の影はわらべ歌の節に合わせてふわり、ふわりと木立の間を移動する。
「あら?」
という透き通るような女性の声がして歌声がやみ、影の主が姿を現した。二人は何度か目を瞬かせた。金色の影と思ったのは金髪と金色の瞳で、その主は抜けるように白い肌をした細身の女性だった。
「シュライン・エマさんに梧・北斗さんでしょうか?」
金髪の女性はいきなりそう言った。そして、なぜこちらの名前を知っているのかと訝しがる二人に彼女はふわりと微笑む。
「ラッテ・リ・ソッチラと申します。このたびは月刊アトラスの調査でご一緒させていただくことになり・・・・・・」
「ラッテ・リ・ソッチラ?」
語学に長けたシュラインは思わずその名を復唱する。ラッテは「はい」と肯いたがやや怪訝そうな視線をシュラインに送った。
ラッテ・リ・ソッチラ。イタリア語のLATTE DI SUOCERAだろうか。直訳すれば“継母のミルク”あるいは“継母の乳房”。不思議な名だ。確か同名のイタリア産リキュールがあったはずである。幻のリキュールと呼ばれるほど珍しい酒と聞く。そんな酒の名前を冠しているのはただの偶然なのだろうか。各所にリボンやフリルをあしらった服装と愛らしい外見には不似合いな礼儀正しい言葉遣い、落ち着いた雰囲気、そして人ならざるものの気配さえ醸し出すラッテを見ていると、そんな所まで深読みしてしまう。
「“真っ黒けっけのぼうやはね、ある日大人に手を引かれ”・・・・・・」
流れるように歌いながらラッテはくるりと舞う。その透き通った声はどこかふわふわとしていて、つかみどころがないようにすら思われた。
「この歌、先程この辺りで聞こえたんですのよ」
一通り歌い終わった後でラッテは二人に微笑んだ。「“ぼうや”の歌詞は男の子が、“母さん”の歌詞は女性が・・・・・・最後の“わんわんわん”のくだりは二人が一緒に歌っているようです」
「それじゃあ、その歌を歌っている男の子と女性は母子なのかしら」
「ええ、恐らく」
ラッテの言葉にシュラインと北斗は顔を見合わせた。これでゴーストネットOFFの書き込みにあった「男の子」「女性」「歌声」がつながった。だが、歌詞の内容はどうだろう。お風呂に入ることや、ごはんを食べてすくすく育つことが悪いこととは思えないが・・・・・・。
「研究対象である獣がまだ生きているのではないかと踏んでここに来たのですが」
ラッテは小さく苦笑した。「残念ながらそうではなかったようです。ただ、存在は感じますわ。霊体になってとどまっているのでしょう」
「霊体っていっても別に害はねえんだろ。変な声や歌声が聞こえるってだけで、何かの被害に遭ったなんていう噂は聞かないぜ」
北斗は腰に手を当ててぐるりと辺りを見回した。「別に祓う必要も――」
言いかけて北斗は「う」と呻き声を上げた。頭を抱えて膝を折った北斗の顔は青く、手といわず顔といわず首筋といわず無数の鳥肌が浮き出ている。
「何かいるの?」
と小声で問うシュラインに北斗は何度も首を縦に動かした。
「来たようですわね」
ラッテが静かに言って顔を上げた。
ざわざわ、と木枯らしが枯れ木を鳴らす。北斗は懸命に体をさすって熱を生み出そうとしている。シュラインは北斗とラッテの視線の先を注視した。静かだ。しかしどこか気持ちがざわめく。何かが、起こる。
三人の視線の先で、かさり、と枯葉が鳴った。地面に積もった枯葉がかさかさと音を立てて動いている。やがてそれらは螺旋状に浮き上がり、つむじ風にでもあおられるかのように回り始めた。くるくると。ひらひらと。枯葉は徐々に数を増してその場に壁を作る。
ひゅう、と音がした。風だろうか。いや、違う。これは人の声。泣き声だ。細く、脆弱で、今にも消えてしまいそうなほどかすかな声。
くるくると。ひらひらと。舞い続ける枯葉は勢いを増し、やがて竜巻のように天にのぼり、音もなくはじけた。
枯葉の後に現れたのは小さな男の子だった。真っ黒い体をして、ぼろぼろの半ズボン一枚で立ち尽くす男の子だった。
――ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ある日大人に手を引かれ・・・・・・
しくしくと泣きながら男の子は歌う。この子がわらべ歌の主なのだろうか。
北斗につつかれてシュラインは耳を澄ました。かすかに聞こえる。男の子に応えるように歌う女性の声が。男の子よりも脆く、弱く、そして悲しく。
「大丈夫・・・・・・泣かないで」
ラッテがそっと男の子に歩み寄る。ゆらゆらと陽炎のように揺れる男の子は顔を上げてラッテを見た。
「君がこの歌を歌っているの?」
シュラインは男の子の視線に合わせてしゃがみこんで尋ねた。男の子はこくんと肯いた。
――会いたいの。
と男の子は言った。
「誰に?」
――おかあさん・・・・・・。
男の子はまた泣き出してしまう。ラッテがシュラインに目配せする。シュラインはラッテが目で示した男の子の体を見やって息を呑んだ。
男の子の体は真っ黒だった。顔といわず手といわず足といわず、真っ黒な短い毛にびっしりと覆われていたのだ。
“毛深い”という程度のものではない。明らかに普通の人間とは違う。これではまるで――獣だ。
「まさか・・・・・・これが研究の内容なのか?」
北斗が震えた声で呟く。シュラインは無言で唇を噛んだ。人工の獣、あるいはキメラの類。村人を材料にした研究。内心で考えてはいたものの、突飛であると斥けたその可能性がにわかに現実味を帯び始める。
「その子を渡してもらえないか」
そのとき、背後から静かな男の声がかかった。
三人は弾かれたように振り返った。
そこに立っていたのは四十前後の精悍な顔立ちをした男性と、黒いスーツに身を包んだ白髪の男性だった。彼らの背後には数人の男女が控えている。
「久留巳・栄次郎さんと古川・仙一さんですね?」
シュラインが咄嗟に察して問う。若いほうの男は小さく目を見開いた。
「知ってるのか。大したもんだ、さすが興信所調査員。いや、正確には事務員だったか、シュライン・エマさん」
「俺たちのことも調査済みってわけか」
北斗が立ち上がって身構える。栄次郎と古川の背後に並ぶ男女が退魔師や能力者であることを北斗は同業者の直感で見抜いていた。
「無関係な人を傷つけたくはありません」
白髪の紳士は穏やかに口を開くが、目には厳しい光が燃えている。「さあ、早く」
「少々不躾なのではありませんか」
ラッテが静かに口を挟んだ。「これは私たちが調べている事件。あなたがたも同じ事件を調べているようですけれど、それならそれで事情を説明するのが礼儀ではありませんの?」
「その質問こそ不躾だ。誰にだって人には知られたくないことくらいある」
栄次郎は背後の数人に目配せした。退魔師の男女が男の子を取り囲む。男の子は明らかに怯えの色を浮かべた。能力者たちは両腕を突き出して一斉に同じ印を組み、口の中で何かぶつぶつと唱え始める。男の子は頭を抱え、悲鳴を上げて地面を転げ回った。
「駄目だ」
北斗がはっとして顔を上げた。「やめろ!」
錯乱して我を失った男の子の悲鳴はやがて低い獣の唸り声に変わる。シュラインは信じられない光景を目にした。男の子の体が陽炎のようにゆらゆらと揺れ、ギシギシと音を立てて軋んでいる。体表を覆う黒い毛が爆発的に成長し、小さな体は揺らめきながら徐々に巨大な狼の姿へと変貌を遂げた。
いや、正確には狼ではない。異形の獣。そんな形容がよく似合う。鋭い犬歯に爪、そして猪のような鼻。頭に小さく突き出ているのは角だろうか。複数の動物を組み合わせたかのような容貌である。まさかこの狼が都築村の事件の犯人――?
「何をしている、早く抑えろ!」
栄次郎が動揺した声で配下に命ずる。
「待ってください」
たまらずにシュラインが口を開く。「どうしてですか? この狼を・・・・・・あの子をどうするつもりなんです?」
「消すのさ」
栄次郎は激しい舌打ちとともに答えた。「この獣がいなくなればここが心霊スポットとして注目を浴びることもなくなる。そうすればやがては都築村の事件だって忘れ去られる!」
「あなた、研究員の久留巳・倫太郎さんの親族なんですね?」
シュラインのハッタリに栄次郎は明らかな動揺の色を浮かべた。賭けが成功したと悟ってシュラインは内心で会心の笑みを浮かべる。
「それがどうしたというのです。さあ、おどきください」
古川が進み出てシュラインの腕をひねり上げる。シュラインの整った顔が苦痛に歪んだ。初老の人間とは思えない膂力だ。
「もはや一刻の猶予もならない」
古川は狼を顎でしゃくった。「このままでは我々がやられてしまいます」
退魔師たちの術の影響で錯乱した狼の周りにいくつもの黒い影が吸い寄せられている。やがてそれらは獰猛な猪や獅子の姿に変わり、猪を守るように両脇を固める。研究で犠牲になった獣たちの霊を呼び寄せているのだろうか。ぎらぎらと光る金色の眼に燃えるのは憎悪と敵意――そして、懇願と悲哀。シュラインは敏感にそれを読み取っていた。
不意にシュラインの腕を掴んだ古川の目が大きく見開かれた。そのままうっと呻いて膝を折る。その隙にシュラインは逃げ出すことができた。北斗が古川に全体重を乗せたタックルを食らわせたのだ。
「駄目だ」
シュラインを背後にかばいながら北斗が懸命に首を横に振る。「消すなんて駄目だ! 消す必要なんてねえよ! あの子はお母さんに会いたいだけなんだ、そのためにここにとどまってるだけなんだ! 人間に害を及ぼしてるわけでもねえのに――」
「村人全員を殺害したのはその子だぞ!」
栄次郎が北斗に負けぬ迫力で叫ぶ。北斗は思わずびくっと身を震わせた。
「そいつが事件の犯人だ。そいつさえいなくなればこの研究はうやむやなまま済まされる。アトラスの発行をつぶせれば手っ取り早いが、そんな荒っぽい真似をすれば後から必ず勘繰られる。しかし、アトラスが発行されてもこいつがいなくなれば心霊現象なんて起きない! そうすればこの村は忘れられ、研究所が人目に触れることもなくなる!」
「どうしてそんなに隠したがるのですか」
ラッテが静かな怒りの目を栄次郎に向けた。「知れてはまずいことなのですね?」
「悪いか! 貴様らに何が分かる! 父さんが受けた苦しみは――」
「なるほど。研究員の久留巳・倫太郎さんはあなたのお父上なのですか」
冷静なラッテの言葉に栄次郎の目が大きく揺れる。
「それはおかしいわ」
シュラインが疑問の声を上げた。「あの事件で研究員や村人は全員殺されたはず。仮に養子か何かだったとしても、六十年前に死んだ人の息子がこんなに若いわけが――」
言いかけてシュラインははっとする。
「生きていたのですね? 久留巳倫太郎さんは実は生き延びていたのではないのですか?」
「だとしたらどうした! いいから早くどけ、貴様らもただでは済まんぞ!」
ヒステリックな栄次郎の叫び声と充血した目はシュラインの推理が正しいことを如実に物語っていた。
「駄目だ。消したりなんてさせねえ!」
北斗は両手を広げて狼の前に立ちはだかった。
「あんな小さい子が三十人も殺したりできるもんか。きっと変な研究材料にされておかしくなっちまったんだ! この子は犠牲者なんだよ! この子を実験台に使った奴が悪いんじゃねえか!」
「黙れガキ! 父さんだって好きであんな研究をしていたわけじゃない!」
叫ぶ栄次郎の目に涙が光っていることに気付いてシュラインははっとした。
「逆らうなら力ずくでも渡してもらう!」
栄次郎の配下が一斉に狼に飛び掛る。解決にはならないが、時間稼ぎにはなる――そう判断したラッテが狼に対して“隠蔽”の能力を発動しようとした時、北斗の胸の辺りで炎のような激しい光が炸裂した。結界符・火月(かづき)だ。北斗が素早く印を切って札を狼の頭上に掲げるのと、術師たちが何か見えない電流にでも触れたかのように弾き飛ばされたのはほぼ同時だった。
「なるほど、考えたわね」
狼を囲むように出現した結界を見てシュラインは感心したように言う。北斗はふうっと息をついて体の力を抜いた。一か八かの賭けだった。退魔用の火月がこの狼を護るために発動するかどうかは疑問だったが、元は北斗の深層意識や想いの欠片を繋ぎ合わせて物質化された結界符である。「この子を護りたい」という北斗の思いが結界を有効たらしめたのだろう。
「この結界を解くことができるのは北斗くんだけ――」
シュラインは栄次郎たちに厳しい目を向ける。「結界が解かれなければあなたたちの目的は達せられない。そして、あなたたちがこの子に手出ししようとする限り北斗くんは結界を解かないでしょうね」
栄次郎が激しく舌打ちする。
「今のままこの子を祓ったところで、また同じようなことになりますわ」
ラッテは静かに言った。「この子は母親に会いたがっているんですもの。この世に強い未練を残したものを完全に祓うのは至難の業。あなたがたにそれほどの力がありまして?」
「それならどうすればいい」
栄次郎はぎりっと歯を鳴らしてラッテを睨めつける。「貴様らなら完全に消せるというのか?」
「お母さんと会わせる」
北斗はまっすぐに栄次郎を見詰めた。「消すんじゃねえ。助けるんだ」
「なるほど」
やってみるがいいさ、と栄次郎は皮肉っぽい笑みを浮かべて空を仰いだ。いつしか太陽は地平線に近付き、研究所に赤い光と濃い影を投げかけている。
「提案を呑もう。この術者たちには手出しさせないと約束する」
「栄次郎さま!」
「構わん。こいつが消えてくれればそれでいい。そしてこいつらが言うには俺たちではこいつは消せないようだ」
栄次郎は古川を制して三人に顔を向けた。「本当にこいつを何とかできるか?」
三人は栄次郎を見据えたまま同時に肯いた。
「私はアトラス編集部に戻りますわ。血なまぐさいことは嫌いですので・・・・・・」
ラッテは栄次郎たちにも聞こえるようにそう言い、その後でシュラインと北斗に囁いた。
「三下さんに聞いたところでは、次号の締切は明朝。記事を書いている人が何らかの動きを見せるかも知れません。恐らく、記事を書いているのはあの子ではありませんわ。どんな方法をとったにしろ子供があんな緻密な文章を書けるとは思えませんもの」
「お願いするわ」
私はここに残る、と言ってシュラインは栄次郎たちに目をやった。栄次郎ご一行は研究所から少し離れた場所に車座になって焚き火で暖をとっている。
「何か分かったことがあったらお互い連絡を取り合いましょう。解決し次第私たちもそっちに戻るわ」
シュラインは自分の携帯の番号をメモ用紙に書き付けてラッテに渡した。ラッテは紙片を受け取り、小さく微笑んでから文字通りふうっと姿を消した。やはり彼女は人ならざるものなのだろう。
「さて、と」
北斗は二、三度首を鳴らしてから栄次郎たちの前にずかずかと歩み寄った。
「そろそろ教えてくれるか。おまえら、何を隠してる? この研究所で何をやってたんだ?」
「新型の食料の生産だよ。父の遺品の中にあった日記に細かく書いてあった」
栄次郎はあっさり言った。古川が眉を逆立てて栄次郎を制する。栄次郎は鷹揚にそれを制して焚き火で手をあぶった。
「この研究所ができたのは終戦直後。貧困と混乱の時代。国民に食料を行き渡らせることが国の急務だった。しかし戦争で甚大な被害をこうむった日本政府にはそんな余裕はない」
「そこでGHQが名乗りを上げたと?」
シュラインの言葉に栄次郎は薄い笑みを浮かべて肯いた。
「連合国軍の極秘の援助の下でこの研究所が設立された。食肉の研究施設として。集められたのは捕虜を使って生体実験を繰り返していた科学者や医学者たちさ。本来ならば戦犯として裁かれるべきだが、この研究に協力すれば罪を不問に付すと条件をつけてな。事実、彼らが捕虜に対して行った実験の中には貴重なデータがたくさんあったんだよ。連合国軍はそいつがほしかったんだろう」
平時であればとてもできないような残虐な実験でも、戦時においては「捕虜」という材料を使って簡単に行えた。国民とて「敵国」の人間に対する実験であれば文句は言わなかった。“戦争は医学を飛躍的に進歩させた”。それは歴史が黙認する事実であるが、シュラインは吐き気と怒りを禁じ得なかった。
「最初は牛や豚なんかの改良をするつもりだったらしいが、すぐに取りやめになった。家畜なんか戦争ですべて供出されて、終戦時にはあまり数がなかったんだ。――そこで思いついたのが、人間を材料にすることだった。人間の体に様々な動物の遺伝子や細胞を組み入れて・・・・・・な」
「・・・・・・あの子はその犠牲者なんですね?」
「ああ。時代が時代だ。“研究所に来れば毎日おいしいごはんが食べられるし、風呂にも入れる”とでも言えば簡単に“材料”は手に入った。待遇のよさは嘘じゃない。栄養状態や衛生状態が悪ければ実験にならんからな。もちろん、“材料”を提供した者にはそれなりの報酬が与えられる。口減らしのために、自分が生きるために、子供を売る親だっていくらでもいたんだよ。あの子もその一人さ」
栄次郎は北斗が張った結界の中で蠢く狼に目をやった。
「“ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ある日大人に手を引かれ”・・・・・・」
北斗は呻くように詞を復唱した。「あのわらべ歌はこのことを表してたのか」
“ちゃぷちゃぷお風呂に入れられて”や“ごはんを食べてすくすく育って”というくだりは研究所での生活を表しているのだろう。
どれだけ苦しかっただろう。細胞や遺伝子を注入されて、拒絶反応が起こって。拒絶反応を抑えるためにまた新たな薬を投与されて。繰り返される過酷な実験で体も心も蝕まれて・・・・・・。
「事件が起こった経緯については父も詳しくは語らなかった。あの事件では関係者全員が殺されたことになっているが、実は命からがら生き延びた研究員も何人かいてね。父もその一人だった。口封じのために豪邸を与えられてひっそりと暮らすことを強いられたんだ。妻も子供もいたらしいが、死んだ。再婚する気も、血のつながった子供をもうける気もなかったそうだよ。自分の罪が外部に洩れた時に家族が非難されるのを恐れて。この古川を執事に雇って、大きな屋敷で寂しく暮らしていたのさ」
「でも、栄次郎さんは倫太郎さんの息子さんなんでしょう」
「両親を亡くして施設に入れられていた俺を父が引き取って育ててくれたんだよ。なんだかんだ言っても一人じゃ寂しかったんだろうな。俺の本名は橋本(はしもと)・栄次郎。父は自分の罪に対する世間の非難が俺に向かうことを恐れて、俺を籍には入れなかった。久留巳の姓を名乗っているのは俺の意志だ」
父は俺を可愛がってくれたよ、と栄次郎は思い出を懐かしむように目を細めた。
「旦那さまは苦しんでおいででした」
古川もぽつりと口を開いた。「捕虜に対する仕打ちも、あの研究も、上から命令されてやったこと。命令に従わなければご自分どころかご家族の命すらなかったのです。旦那さまのお仲間には精神に傷を負って発狂してしまわれたかたもたくさんいらっしゃいました。――あの事件で生き残った研究員たちもみな鬼籍に入り、最後まで残ったのが旦那さまでした。重い秘密を一身に背負わされた旦那さまは、早く死にたいとすら願っておりました」
「倫太郎さんはすでに亡くなっているのですね?」
シュラインの問いに古川は力なく肯いた。
「癌でした。それはひどい苦しみようで・・・・・・それでも、死に顔は穏やかでした。やっと解放されると、そんなことを呟いて笑顔すら浮かべて」
古川は目頭をそっと押さえてから顔を上げる。「誰が旦那さまを責めることができましょう。旦那さまも犠牲者なのです」
「そんなの・・・・・・そんなの知るか」
自業自得だ、と北斗は握った拳を震わせた。「研究がなければあの子はこうならなかったし、事件だって起こらなかったんだ。研究を頼まれた時にみんなでボイコットでもすりゃよかったじゃねえか。そしたらこんな研究なんて――」
「大人の事情ってやつだ。ガキには分からんさ」
栄次郎が鼻で笑う。北斗はきっと栄次郎に顔を振り向けた。
「そんな事情なんて知りたくもねえよ。そんな理屈がまかり通るなら俺はガキでいい!」
北斗はそう言い捨てて結界の前まで走った。
いつしか日はとっぷりと暮れていた。しんしんと肺を突き刺す夜気と月の高さが刻の深更を告げる。狭い空間に閉じ込められた狼は気が立っているらしい。獣特有の低い唸り声に、吊り上った口角の間からのぞくずらりと並んだ牙。しかし激しい憎悪が爛々と光る金色の眼はどこか悲しげですらあった。
「もう結界を解くの?」
北斗のたかぶりを見抜いたシュラインが待ったをかける。
「じゃあこのままでいいのか? 早く助けないと・・・・・・この子、混乱してる。苦しんでるんだ。早く何とかしなきゃ」
懸命に訴える北斗にシュラインは顔を歪める。確かにこの狼の眼はあまりにも悲しい。助けて、助けてという男の子の声が今にも聞こえてきそうだ。
そのとき、シュラインの携帯が震え始めた。相手はアトラス編集部。ラッテだ。シュラインは北斗にも聞こえるようにハンズフリーモードに切り替えた。
「記事を書いていた本人が現れました」
ラッテの口調は相変わらず静かだった。「記事を書いていたのは久留巳・倫太郎さんです」
シュラインは小さく肯いた。データをまとめるような文体から、理系の人間が書いたのではないかとシュラインは予測していたのだ。研究者であればデータまとめなど日常茶飯事であろう。
「こちらは栄次郎さんの口から研究内容を聞いたわ。倫太郎さんは何かおっしゃっていた?」
「ええ、研究内容を含めて色々話を聞けました。あの子の母親はあの子を取り返すために研究所まで来て、あの子の目の前で殺されたそうです。それを見たあの子の理性のタガが外れ、錯乱して暴走し・・・・・・元々、度重なる実験で頭も体もおかしくなっていったそうですから」
最悪の謎解きに北斗は青ざめる。シュラインはラッテに続きを促した。
「すぐに駐留軍が呼ばれ、あの子は狼の姿のままで銃殺されました。お母さんっ子だったあの子は母親に会いたくてずっとこの場にとどまっているのではないかと・・・・・・」
「“ちっちゃなちっちゃな母さんは”という歌詞はお母さんが殺されたことを表していたのね」
シュラインは額に手を当てて吐息を漏らした。それなら“真っ赤っ赤になる母さんは”というくだりの謎も解ける。母親が殺されて血まみれになるさまを喩えていたのだ。シュラインの隣で北斗は憤慨した。
「後で取り返しに行くくらいならどうして子供を研究所になんか!」
「あの子の母親は倫太郎さんの奥様。すなわち、あの子は倫太郎さんのお子さんです」
ラッテは静かに言った。「研究の内容は極秘。となれば、まずは外部からではなく研究所の関係者から実験台の提供をつのるのが道理です」
「なんで! なんで自分の子供を!」
「倫太郎さんがすすんで申し出たわけではないようですわ。上層部が無理矢理倫太郎さんの子供を奪って・・・・・・」
「それなら取り返せよ、研究所にいたならそれくらいできただろ! 何で何も言わずに実験なんか! それも大人の理屈か、上の命令には逆らえないってことか!」
北斗は地面に激しく拳を叩きつける。シュラインは短く礼を言って電話を切った。
「とにかく、母親に会わせてあげましょ。男の子の歌に応えて歌うということは、多分近くにいるんだわ」
「ああ。でも・・・・・・出て来てくれるかどうか」
慎重に周囲の気配を探って北斗は言う。「理由はわからねえ。でも、すごく大きな怯えを感じるよ」
「そう。――それでもやってみるしかないわ」
「ああ。結界を解くぜ」
北斗は手をまっすぐに天に向け、ゆっくりと火月の結界を解除した。
狼の眼がぎょろりと見開かれる。地を這うような唸り声。口角に散る白い泡が飢えと興奮を物語る。両脇を固める猪や獅子たちは次々に狼の体に同化し、更なる巨体へと変化する。そして天に向かって口を開け、大きく咆哮した。鼓膜がびりびりと震える。寝ていた鳥たちがギャアギャアと騒ぎながら木から飛び立った。北斗はシュラインをかばいながらじりじりと後退する。ぴーんと張り詰めた空気。呼吸すらためらわれるほどに。
均衡を破ったのは狼であった。強靭な後ろ脚が地面を蹴る。巨体が宙に躍った。シュラインは間一髪攻撃を回避した――つもりだったのだが、肩口がぱっと裂け、衣服と皮膚が夜空を舞った。狼の爪がかすったのだ。傷はそれほど深くはないようだが、肩を濡らす生暖かい感触に思わず舌打ちが出る。
北斗が決意した表情で退魔弓・氷月(ひづき)を取り出した。見た目は弓道で使うような普通の弓である。しかし北斗の手に触れた瞬間、氷月は淡い水色の光を放ち始めた。北斗の右腕の周りに細い糸のような光が無数に発せられ、まつわりつく。やがてそれらは矢の形へと姿を変えた。
「待って。殺すの?」
自らの気を練りあげて作った矢をつがえた北斗にシュラインが制止の声をかける。
「大丈夫。傷を負わせるだけ・・・・・・動きを封じるだけだ」
北斗は自分に言い聞かせるようにそう呟きながらきりきりと弦を引き絞る。
「殺しはしない、許せ!」
悲鳴にも似た北斗の声とともに放たれた矢は冷たい夜気を突き破ってまっすぐに飛ぶ。狼が矢に気付く暇もなかった。見事、矢は狼の左前脚の膝を貫いていた。北斗は素早く第二矢をつがえる。狙いを定めて放たれた矢は第一矢と同様に右前脚の膝を射抜いた。これで移動力と攻撃力は半減するはずだ。
狼は低く唸りながら脚を折り、二人を睨みつける。大きな眼に浮かぶ涙は脚の痛みゆえか。耳は垂れ、尾は股の間に挟まれて、明らかに戦意は減退している。
北斗は氷月を脇に置き、敵意のないことを知らせるかのように両手を広げて狼に歩み寄った。やや逡巡した後でシュラインもそれに続く。
「落ち着いて。大丈夫、何もしない」
シュラインの声が届いたのかどうか、狼は黙って二人を睨みつけている。
「ああ。大丈夫だよ」
北斗は狼の前にしゃがみこんでその顔を覗き込んだ。「ごめんな、怪我なんかさせちまって。お母さんに会いたいんだろ? 何とかして会わせてあげるからな」
――お母さんは・・・・・・
と狼が言った。それはあの男の子の声だった。シュラインの目には狼の頭の上に泣きじゃくる男の子の姿がオーバーラップして見えた。
――お母さんはぼくのこと嫌いなんだ。だからぼくをこんな所に送ったんだ。
「それは違うのよ」
シュラインは子供を諭すように優しく口を開く。「どうしようもない事情があったの。それに、あなたは“研究所に行けばおいしいごはんを食べて、毎日お風呂にも入れる”と言われて来たんじゃないの? 我が子にいい暮らしをさせてあげられるなら、とお母さんは思ったんじゃないかしら」
――ごはんなんかいらない。ぼくはお母さんと一緒にいたかったんだ、ぼくはお母さんに嫌われたんだ!
狼が悲鳴に近い声で叫ぶ。危険を察知したシュラインは反射的に跳びすさった。が、狼の前にしゃがみこんでいた北斗は若干反応が遅れた。その隙に狼は北斗の肩口に食らいついていた。
さすがのシュラインも北斗の悲鳴と苦痛の表情、飛び散る鮮血に喉の奥で小さく声を上げる。状況を見守っていた栄次郎と古川が能力者を従えて駆けつけた。
「引っ込んでな」
北斗は顔いっぱいに脂汗を浮かべながら栄次郎たちを手で制する。「あんたたちには無理だ」
それから手を伸ばし、狼の鼻面を優しく撫でた。愛犬タロスケにそうしてやるかのように。そして北斗はかすれた声で歌い始めた。
ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ある日大人に手を引かれ
ちっちゃなちっちゃなぼうやはね、ちゃぷちゃぷお風呂に入れられて
真っ黒けっけのぼうやはね、ごはんを食べてすくすく育って・・・・・・
「出て来いよ、お母さん・・・・・・いるんだろ?」
苦しい息の下から北斗は懸命に母親の気配を探っているようだ。そして繰り返し繰り返しわらべ歌を歌った。荒かった狼の呼吸が徐々に静まる。心なしか牙の食い込み方が浅くなったようにすら感じられる。しかし、母親らしき女性の声は聞こえてこない。
ちっちゃなちっちゃな母さんは、ぼうやがいなくて寂しくて
ちっちゃなちっちゃな母さんは、ぼうやに早く会いたくて
真っ赤っ赤になる母さんは、ぼうやの所に着く前に
わんわんわん、ぼうやはわんわん泣いたとさ
わんわんわん、母さんわんわん泣いたとさ・・・・・・
母親の声に北斗は目を上げる。母ではない。彼女の声を真似たシュラインだった。一度聞いただけであるのに、シュラインの声帯は精確に母親の声を模写していた。
「ねえ、聞いて。お母さんはあなたのことが嫌いになったんじゃないのよ。きっと今でもあなたのことが好きなのよ」
そしてシュラインは更にわらべ歌の続きを歌った。母親が姿を現してくれるように、男の子の気持ちを落ち着かせられるように、即興で作った歌詞の続きを母親の声で歌った。
わんわんわん、ぼうやはわんわん泣いたとさ
わんわんわん、母さんわんわん泣いたとさ
ねえぼうや、お願いだから泣かないで
ねえぼうや、あっちで一緒に暮らしましょう
わたしは今でもあなたが好きよ
手放したりしてごめんなさいね
今度は一緒に暮らしましょう
ずうっと一緒に暮らしましょう
わたしの可愛い、可愛いぼうや・・・・・・
「ほら・・・・・・な」
北斗は荒い息を吐きながら狼の鼻面を慈しむように抱き締める。「分かっただろ。お母さんはおまえのことが大好きなんだよ。だから研究所までおまえを奪い返しに来たんだ。だからわんわん泣いたんだ・・・・・・」
狼の目に涙が浮かんだように見えたのは気のせいだろうか。シュラインは辺りを見回して凛とした声で呼びかけた。
「お母さん。出て来てください。いるんでしょう?」
心霊能力のない自分の声が霊体である母親に届くかどうかは分からなかったが、それでもシュラインは言わずにはいられなかった。
「私はこの歌詞は間違っていないと思います。あなたの気持ちを代弁したつもりです。それに、この子はあなたを恨んでなんかいません」
母親の気配は確かにあるのに、出てこない。それは怯えているからだと北斗は言った。怯えの理由は、非人道的な実験に供したことで我が子から恨まれていると思っているからではないかとシュラインは読んだのだ。
「あなたのことが好きで、ずっとあなたを待っているんですよ。お願い、出て来て。この子を抱き締めてあげて!」
その声に応じるかのようにひゅうと風が起こった。かさりかさりと枯葉が舞う。その後に現れたのはボロ布のようなもんぺに身を包んだ痩せこけた女性だった。
――ぼうや。
女性ははらはらと涙を落としながら狼に呼びかけた。狼の眼が大きく見開かれる。北斗の肩に食い込んだ牙が離れた。その隙にシュラインは北斗を救い出した。
「大丈夫・・・・・・見た目ほど傷は深くはねえよ」
北斗は応急処置を施すシュラインに向かってにっと笑ってみせる。「ちゃんと手加減してくれた。甘噛みってやつだ。第一、殺す気なら肩なんかじゃなくて喉を噛み切ればいいんだから」
まだ少しあの男の子の心が残ってたんだ、と言って北斗は狼のほうを見やった。
――おかあ・・・・・・さん。
男の子の声とともに狼の姿がふうっと消えた。後に現れたのは顔を涙で濡らした男の子だった。
――ごめんね。ごめんね。
――おかあさん・・・・・・おかあさん・・・・・・
痩せた母の腕の中で男の子の体毛はなくなり、いつしか普通の子供と何ら変わらぬ姿になっていた。
――大好きよ。もう離したりしない。やっと会えたね・・・・・・
母は涙をこぼしながら我が子の頭をいとおしそうに撫で続ける。うん、うんと男の子は泣きじゃくりながら何度も何度も肯いた。
白い月は地平線に近付き、山際の闇は徐々に藍色へと変わりつつあった。明け方の刻は移り変わるのが早い。濃い藍は徐々にコバルトブルーへと色を変えつつある。
やがて山の向こうから一筋の光が差し込む。白い光に目を射られてシュラインは思わず額に手をかざした。抱き合う母子の姿は逆光の中で黒っぽく映り、一瞬、白い光を発したかのように見えた。
やがて光が緩やかになる。
母親と男の子の姿は朝露のように消えていた。
遠くで男の子の笑い声が聞こえたような気がした。
本人が言ったとおり北斗の傷は見た目ほど深いものではなく、救急病院に行って手当てをしてもらった。念のためシュラインの肩の傷も消毒してバンソウコウを貼ってもらう。その後でアトラス編集部に戻った二人をラッテの微笑が出迎えた。三下はといえば電源入れっぱなしのパソコンの前ですやすやと眠っていた。
「倫太郎さんは去年亡くなったそうです。それで三下さんが選ばれた理由が分かりましたわ。今までも三十年、五十年という節目の年に各メディアで特集が組まれているんです。なのになぜ六十年目の今、アトラスと三下さんを選んだのか・・・・・・倫太郎さんが亡くなったからだったのですね。亡くなってからこの事件とこの国が過去に行ったことを告発しようとし、そして記事を読んだ人があの子を救ってくれないかと考えたのです。碇編集長が見た夢も倫太郎さんの思いの現われだったのかも知れませんわね」
「それも大人の理屈か?」
少し卑怯じゃねえか、と北斗はやや暗い目でラッテを見た。「何でこんなまどろっこしいやり方するんだよ。生きてる間に証拠の書類やデータでも出版社に送りつければ簡単に告発できたじゃねえか。自分が死んだ後にやるなんて、責任逃れ以外の何物でもねえ」
「それは少し違うんじゃないかしら」
北斗の言い分に肯きつつもシュラインは静かに首を横に振った。北斗の言葉も分からぬではないが、大人であるシュラインには倫太郎の気持ちも少しだけ分かる。
「あの研究に関わった人たちはみな秘密を抱えて生きていた。そして、秘密を誰にも漏らさずに死んでいったのよ。倫太郎さんが生きている間にその秘密を暴露すればどうなるの? 秘密を口外せずに死んだ人たちが報われないわ。こういう方法をとれば、少なくとも対外的には倫太郎さんが内部告発をしたとは映らないでしょ。誰かに告白して楽になりたくても、生きている間はそれも許されなかったのよ」
「それはそうかも知れねえけど・・・・・・でも」
一応は納得したようだったが、北斗は半分抗議するようにして口ごもってしまう。
「倫太郎さんも気の毒なかたでした」
ラッテが静かに口を開いた。「我が子が実験台に使われていると知ったのは実験が始まった後だったそうです。もちろん救い出そうとしたそうですよ。ですが、“子供を助けようとすればおまえも子供も殺す”と脅されたのだと。自分はともかく、子供まで殺すといわれてどうして逆らえましょう」
仕方なかったのです、とラッテは穏やかに言葉を添える。北斗はうつむいてきつく唇を噛み締めた。
「あれ〜? また記事ができてる! どうして〜?」
不意に、よだれを垂らしてデスクに突っ伏していた三下の素っ頓狂な声が三人の沈黙をぶち壊した。
「あの通り、記事も出来てるんだし」
シュラインはわたわたしている三下を横目に見て北斗の肩に手を置いた。「関係者は仮名にしてあるし、刑事的にはとっくに時効だけど、道義的な批判は免れない。でも、倫太郎さんに傷をつけることもあの子を世間の好奇の目に晒すこともなく事件を伝えられる。それが今の“最善”なんじゃないかしら」
うつむいたまま、北斗はやや間を置いてから小さく肯いた。
「三下先輩、おはようございます。例の原稿はできましたか?」
そこへ桂が出社してくる。三下はずり落ちた眼鏡をかけなおし、何度か転びそうになりながら桂に飛びついた。
「けけけ桂くん! また出たよ、幽霊だよ!」
「だから、それはもう解決してもらったんじゃないんですか?」
「えっ、そうなの? 僕は寝てたから・・・・・・」
「さて、どこからどうやって説明しましょうか」
三下と桂のやり取りを見ながらシュラインは苦笑を漏らした。 (了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
5698/梧・北斗(あおぎり・ほくと)/男性/17歳/退魔師兼高校生
5980/ラッテ・リ・ソッチラ/女性/999歳/存在しない73柱目の悪魔
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマさま
ご無沙汰しております&お世話になっております、宮本ぽちです。
当依頼にご参加くださり、まことにありがとうございました。
今回もお会いできて光栄です。
例によって相当な長文となりましたが、ここまでご覧くださって幸いです。
倫太郎の経緯もこちらに組み込みたかったのですが、字数の関係で断念いしました;
彼のことはラッテさまに納めた品に詳述してありますので、もしよろしければそちらもご覧ください。
そしていつもながら緻密なプレイングをありがとうございました。
オーダーメイドというのは「お客様との共同作業」なのですよね。
私一人だったら恐らくこの話は完成しなかったでしょう・・・
重ねてありがとうございました。
もしまたお会いできる機会がありましたなら、その折はよろしくお願いいたします。
宮本ぽち 拝
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