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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【ロスト・キングダム】逢魔時ノ巻

 月刊アトラスは、山に棲む謎の一団『風羅族』のことを、大々的に報じている。大半の人々は、例によって例のごとく、眉唾な記事だと読み捨てるばかりで、そこに、日本を覆しかねない危機への警鐘が含まれていることに、気づくものは少なかった。
 それというのも、先日、大トーキョー放送とタイアップで製作した番組が、生放送中にトラブルにみまわれた。テレビ局とアトラス編集部は、それこそ『風羅族』の仕業だと主張したものの、あまりに出来過ぎた、あまりにドラマチック過ぎる事態に、それを鵜呑みにするものはかえって少なかったのだ。

 だが、その陰で、ひとりの少女が、事件にかかわったものたちのもとに、その身柄を補足されていた。
「っていうか、なんで、俺が預からにゃならんのだ!」
 電話口の向こうで、草間武彦が吠えているが、麗香は冷ややかに応えた。
「しょうがないでしょ。『二係』とはなぜか連絡が取れないの。それとも、IO2にでも引き渡す?」
「俺はそれでもいい。若い娘を一人監禁していると知れたら、俺も興信所も終わりだ」
 情けない声を、草間は出した。麗香は、草間が新聞に載るのを想像して、笑いを漏らしたが、たしかに、探偵にとってみればいい迷惑には違いない。

■少女

「これが『土蜘蛛』……これは『天狗』……それから……これは『牛鬼』だね」
 瀬崎耀司の声は、まるで、生徒に話を聞かせる先生のようでもあった。
「石燕は江戸時代の画家で、こうした妖怪の図画をたくさん残した」
 少女は――じっとうずくまって、彼の話を聞いているとも聞いていないともとれない。沈黙を続けるたったひとりの生徒を前に、耀司の講議は続いた。
「妖怪というものは、人のこころの闇がかたちを持ったものだ。こころの闇、というと大袈裟だけど、それにはほんのちょっとした、日々の暮らしの中で感じた不思議や不安といったものも含まれる。たとえば、吊っておいた蚊帳が――蚊帳って知ってる? 蚊をよけるのに吊る網のカーテンみたいなものだけど――その蚊帳に知らないあいだに切れ目ができていた。なぜだろう?と思う。そこで、もしかしたら、人知れず、それを切った『なにか』がいたんじゃないか、と想像する……」
 耀司が示した画には、あやしい異形の姿が描かれている。くちばしをもち、手がはさみになっているそれは、縁側からそっと部屋に忍びこもうとしているのか。
「これが『網剪(あみきり)』だ」
「……」
「こういった存在が実際にいたのかどうかは……それを想像するのも面白いけれど……そんな妖怪たちを空想したひとのこころや感性が、興味深いと僕は思う」
 草間興信所の、物置きになっていた一室を、とりあえず、荷物をとっぱらって空けた部屋だ。ふたりは床にぺたんと坐り込んで話している。床に広げられているのは、耀司がもちこんだたくさんの妖怪画。
 そして傍には、一頭の狼が、寝そべっていた。目は閉じているが、ときおり、その耳がぴくりと動く。それこそ、二階堂裏社の姿を変えたものである。
「ところでこの『土蜘蛛』だけど……きみたちの兵隊も『ツチグモ』というのだったね」
 ふいに、話がつながる。
 少女の表情は、あいかわらず、変わらないけれど――
「あるいはかつて、山の民に使役され、土にひそみ、野山を駆けたかれらの姿を、里のひとびとが蜘蛛の妖怪だと考えたのじゃないか……、僕はそんなことを空想したんだ。だからもしかしたら、石燕が描いた妖怪たちのいくつかは、きみたちの姿じゃないのか、と」
「……あなたは」
 突然、少女が口を開いたので、耀司は、自分から話しかけておきながら、いささか面喰らう。
「妖怪は人のこころの闇だと言った。里人が私たちを妖怪だとみなしたなら、それはかれらが私たちを畏れていたからよ」

 耀司が部屋を出ると、応接スペースでは、モーリス・ラジアルがお茶を入れてくれていた。
「いかがです?」
 それは、「お茶はどうか?」と言ったのか、それとも「少女の様子はどうか?」と訊ねたのか。それともその両方だったのか。
「特に変わりはない」
 耀司は思案顔でソファに身を沈め、ティーカップに手を伸ばす。
「ただいま」
 シュライン・エマが、零をともなって帰って来た。手には近所のスーパーの袋を提げている。
「アトラスにも寄ってきたの。編集部の人たち、総出でコンセントと電話器を分解していたわ」
「え? どうして?」
「あとでここもやったほうがいいかも。念のためにね。……それより、例の失踪事件のリストらしいものも手に入った。編集部で集めた人たちが動いてくれているけどね」
「ああ、あの事件。失踪者の出生を調べるように伝えてくれたかい?」
「ええ、瀬崎さんからの伝言は確かに」
「たぶん、ほとんどが例の産院か、それに類するトケコミの関係だろう」
「山に呼ばれた、というわけですね」
 モーリスの緑の瞳が、きらりと光った。
「あるいは彼女が……電波を通じてなんらかの暗示や、メッセージのようなものを送ったのかもしれません」
「彼女はあのプロデューサーを身替わり人形にして、かれらの意志を代弁させただけだろう?」
 耀司が懐疑的な眼差しを向けた。
「あれはむしろ、僕たちへのメッセージだったのじゃないか」
「第一にはそうでしょうね。しかし、かれらの情報伝達についてはわかっていないことも多く――」
 話し合うふたりを残して、シュラインは零とともにキッチンへ。
 しばらくすると、興信所には、コンコンと包丁がまな板を叩く音と、だし汁の匂いがたちこめはじめるのだった。

 視線を感じて顔を上げると、狼がこちらを見ていた。
「……」
 獣は、床に身をよこたえて、首だけをもたげている。まったく狼にしか見えぬのに、その瞳が知性を宿しているのが、ありありとわかった。それが、じっとこちらを見つめているのだ。
「……なに見てる」
 とうとう耐え切れなくなって少女は口を開いた。
 動物相手に馬鹿げているようにも思えたが、これがただの狼でないこともはっきりしているのだ。
 狼――裏社は、ただじっと、少女を見つめ返すばかりだ。
 少女は、おもむろに身を起こすと、狼へと歩み寄った。
「おまえ、ここに飼われているのか。ただの狼じゃないだろう」
 手をふれようとすると、ウウウと、低い唸り声。
 その黒い姿が、ゆらり――と、ゆらいだようだ。
 黒い色はそのまま、こわい毛並みの表皮が、なめらかな質感の別のものへと変貌してゆくのを、少女は目を見開いて見つめる。
「失礼」
 ノックのあと、シュラインが、盆を手にあらわれた。
「……?」
 どうかした?と目で問いかける。床にへたりこんでいた少女は、放心したような顔つきをすぐにさっと硬い無表情の仮面で覆い隠した。
 狼が(狼に違いなかった)のっそりと起き上がり、シュラインが開けたドアの隙間から出ていった。
 盆の上には、シュラインが手際よくつくった食事が載っている。

 狼は、よく図鑑にある、猿が人へと進化する図のように、四足歩行の獣から、ひとりの巨漢へと姿を変えた。これが本当の姿……というわけでもないらしいから、いろいろとややこしいが、東京では、多くのものが、彼をその格好で、二階堂裏社として認識している。
「大人しいもんですね、彼女。すこしだけおどかしてみたんですけど、可哀想だったかな。……あれ、どうしました?」
「彼女のことをもっとよく調べたほうがいいと申し上げているだけです。ある意味で、私たちが今まで手に入れた中で、もっとも風羅のことがよくわかるサンプルなんですから。そう、それそのものという、ね」
 言ったのはモーリスだ。
「なんですって?」
 シュラインも部屋から出てきて話に加わる。
「病院で詳しい身体検査をしてはどうかと言ったのです。他の日本人と違いがあるのかどうか」
「彼女は」
 耀司が、低い声で言った。
「生きた伝説だ。……捕虜なんかにしておいちゃいけない。僕たちの……そう、隣人なのだから」
「瀬崎さん」
 シュラインが、彼の言わんとすることを悟って、その隣に腰を降ろした。
「心配ないわ。モーリスさんだって、興味深く思っているだけで、彼女を検体と思っているわけじゃないから」
「もちろん。女性に対して失礼なことはしませんよ」
 モーリスは肩をすくめた。
「特に、彼女たちの《声》に興味があります。喉の構造など、CTをとってみたいですね」
「……」
 耀司は無言だった。
「そうそう。モーリスさん、お願いがあるんだけど。結界のようなものを張っていただけないかしら。彼女の能力――例の傀儡のわざを封じられるような。今のところ明確な敵意や逃げ出そうという意図はないようだけど、念のため、私とふたりきりになっても問題ないように」
「俺がいますよ」
 裏社が口を開いたが、シュラインはちょっと困ったように微笑んだ。
「ええ。でもドアの外にいてもらわないといけないこともあるから」
「私は構いませんよ。どこに施しますか?」
 モーリスの問いに、シュラインは答える。
「バスルーム」

■山の民

 ドアの向こうから漏れ聞こえる水音や話し声に、再び狼の姿になった裏社の耳がぴくぴくと反応した。
 脱衣所のマットの上に寝そべり、大儀そうに息をついた。なんだか妙なことになっている、とでも言わんばかりであった。
「ずっと気になってたのよ。閉じ込めたままだったでしょう。せめて身体を拭いてあげたいと思って。よかったわ」
「……」
 ボディソープを泡立てながら、シュラインが言った。
「ご飯どうだった? お口に合うとよかったのだけど。山で、風羅のひとたちはどんなものを食べてるのかしら」
「……」
 少女はあいかわらず黙っているが、しかし、かといって逆らいもしないのだ。
 そして、シャワーで背中を流してやっているときに。
「……里は」
 ぽつりと、彼女は言った。
「豊かだな」
「え?」
「……私も子どものときは里にいた。アズケられていたから。里と山はまるで違う」
「……」
 今度は、シュラインが黙る番だった。
「里人は、もっと恐ろしいものだと思っていた。……子どもの頃を思えばそうでないことがわかったはずだが……山にいたら、山のことが常識になってしまう」
「それはそうよ。誰だってそう。つい、自分の立場しか見えなくなってしまう。……風羅の中でも、意見の違いやぶつかりはあるでしょう?」
 できるだけ穏やかに訊ねた。
「里にはかかわらずにいるのがいいというヤゾウさまもいた」
「ヤゾウって?」
「《親方(ヤゾウ)》は《セブリ》の頭だ。山のことはヤゾウさま方が話し合って決める」
「セブリ」
「同じ動きをする集まりが《セブリ》。私は蓑火のセブリ。鬼火のセブリや、狐火のセブリがある」
「小さな集団が集まって、風羅という大きな集団になっているってことね。ヤゾウさんたちのあいだで、意見が違ったらどうなるの」
「《大親方(オオヤゾウ)》さまが決める。会ったことはないけれど。オオヤゾウさまは年寄りだ。長いあいだ、全部のセブリを治めているから」
「オオヤゾウさまは、今度のこと、どう考えていたの?」
「オオヤゾウさまのお考えなんて私にはわからない。でも、決め事をするのはオオヤゾウさまだから」
「里へ働きかけることになったのね。……ねえ、教えて。もしかして、誰か……オオヤゾウさまに、それをすすめた人がいるんじゃないかしら」
「わからない。そうであっても、オオヤゾウさまが決めたなら、その方向へ行くだけ」
「あなたが属していたセブリでは……あなたのこと、心配しているでしょうね」
 少女は、首を振った。
「はぐれたら自分で追いつくのが決まりだ」
「やっぱり山へ帰りたい?」
「そこが私の帰るところだから」
 そこではじめて、少女はシュラインを振り向いた。
 瞳の険しさがだいぶやわらいでいる。
「……もうひとつ聞かせて。あなたの、糸を使った術なんだけど……、あれで死体を操ることもできるの?」
「そんなことはしない。人を動かすから《傀儡》だ。死体に使ってどうする」
「そう……そうよね。風羅の術ではないのね?」
「鬼火も狐火もそんなことしない」
 シュラインの目に、思案の影が差す。

「考えましたね、シュラインさんも。女同士の入浴中なら、彼女も心を開くかもしれない」
 感心したように、モーリスが言った。
 再び、興信所の応接ソファ。
「どのみち危険はないと思う」
 ぽつり、と、耀司が言った。
「こちらを警戒しているけれど、敵意はない。僕にはわかる」
「随分、肩を持ちますね。彼女はよくても、仲間が救出に来るかも」
「それはある。しかし……どうしたものかな。ずっとこのままというわけにもいかないし」
「零さんに姉妹ができてしまいますね」
 モーリスは笑ったが、
「……やはり、解放すべきだと思う」
 という耀司の言葉に、表情を硬くした。
「瀬崎さん。最終的にそうすることは否定しませんが、今はまだ」
「しかし――」
「瀬崎さんの仰りたいこともわかります。ですが、今現在、かれらは、あなたもよくご存じの通り、私たちに宣戦布告を突き付けてきているんです。現に人が次々に消えている。近いうちに、かれらはもっと攻勢に出るはずです」
「それはいつなんですかね」
 ふいに、裏社が口を挟んだ。
 いつのまにか青年の姿で、そこに立っていた。
「彼女もそうだし、状況が思ったより大人しいんで、正直、拍子抜けなんですよ。俺、司令官には向かないタイプだなあ。兵隊が性に合ってる」
 どっかりと、ソファに腰を降ろした。
「ふたりは?」
 と、問うたモーリスへ、顎をしゃくった。
「いいお湯だった」
 シュラインと、少女だ。
 少女はあわいピンク色のパジャマを着せられている。
「零ちゃんのがぴったり。ちょうどよかったわ」
 悪戯っぽく、片目をつぶるシュライン。男たちは、いささか唖然と、ふたりを眺めていた。

「それでは……キョウさん。2、3質問してもいいですか」
 風呂上がりの少女を囲んで、質問会になった。
「今、東京の街から姿を消すひとが増えています。たぶん、街にすんでいた風羅の人だろうと推測されるのですが、この点を、私は、須藤さん――ご存じかもしれませんが、トリカエの斡旋をしていたトケコミの方です――に電話で確かめてみました。仰るには、トケコミを召集したり、時期がこないのにアズケたりトリカエたりした子を引き上げさせるのは例がないそうです。……あの放送を通じて、なにかメッセージが送られたのでしょうか」
「あんなものがなくても、山の意向はトケコミには伝わる。ツチグモでも使いに飛ばせばいい。子どもを集めているのは狐火のセブリだ。戦いになるのに、里に子どもを置いておけないから」
 シュラインと話して、キョウの口がだいぶほぐれてきているようだった。
「ね、これを見て」
 シュラインは、例の写真のコピーを机に置く。
「この女性に見覚えはない」
「……。見たことがある。オオヤゾウさまに会いに来ていた」
 シュラインはモーリスらと目を見交わして、頷いた。
「彼女は、当然、風羅の一員じゃないわよね。それなのに、オオヤゾウさまに会えるの?」
「大河原が連れてきたから」
「大河原博士を知ってるんだね。かれは、きみたちのあいだで、どういうふうに扱われているの」
 耀司が訊いた。
「ときどき里から来て山に加わるものもいる。ヤゾウさまが認めたらそれでいい。大河原は鬼火のセブリにいる。私は話したことはない。オオヤゾウさまにも目通りかなっているみたいだ」
「彼女――アンナというそうだけど、どうして博士は彼女を連れてきたのかしら。博士は他に誰か連れてきた?」
「この女だけだ。大河原はヤゾウさまたちにも頼られていた」
「《マヨイガ》の技術をもたらしたのは大河原博士ですよ」
 モーリスが指摘する。
「彼がいたことで風羅族の戦力は大きく向上しています」
「……博士は、風羅族が山を降りることにも積極的だったのかしら」
「わからないけど、そんな様子もなかった。ただ、鬼火のヤゾウはもともと里人が嫌いだから」
「彼女があやしいわ。一体何者なのかしら。……そうだ、こっちの男の人は知らない?」
 シュラインが指したのは、八島の兄である。だが、キョウはこれには首を振る。
「この人ね、宮内庁の人なんだけど、風羅と宮内庁は…………。――キョウさん?」
 少女のおもては青ざめていた。シュラインは、彼女の呼吸や心拍音から、非常な憤りのようなものを、キョウが感じていることを悟る。
 おそらくタブーだったのだ。
 彼女たちにとって宮内庁とは。

■逃避行

「……月にでも咆えるのかい」
 狼が、とことことやってきたので、耀司は鉄柵にもたれながら、そんな言葉を吐いて頬をゆるめた。
「帰らないんですか?」
 狼は人になり、裏社として口を開いた。
 調べものがあるから、とモーリスもシュラインも帰ったようだ。その後、興信所に残った監視役は裏社ということだったはずだが、耀司はこのとおり、所在なげに、興信所のあるビルの屋上にいる。
「なんとなく去り難くてね」
「彼女、あれからは何も喋ってくれませんでしたね。宮内庁に怨みでもあるんでしょうか」
「皇室を維持する機関だから、ある意味、この国の中枢ととらえているのかもしれない。現代の皇室は政治機能がないってこと、知っているとは思うけどなあ」
「俺、思ったんですけど」
 さきほどの質問会のときも、すこし離れてじっとなりゆきを見守っていただけの裏社だ。訥々と、彼は話す。
「戦うことしか知らない民族というのも、あるんじゃないですか」
「風羅族と平和には付き合えない、と?」
「かれらは流浪の民です。俺にはなんとなくわかります。俺も、ずっと旅をしてきたから。それでも、俺には一応、もといた場所があるけど、そういうものを持たずに、さすらい続ける集団もあると思う。そしてそういう連中は、戦って奪うことでしか、自分たちを保てないんじゃないか、って」
 耀司は無言で肩をすくめると、そっとその場を離れた。
 裏社は、しばし、月を眺めていたが、やがて飽きて、屋上を後にした。
 そして、興信所に戻り――
「……」
 ぐう、と喉の奥で呻きをあげる。
 部屋はもぬけの空で、少女と耀司の姿がなかったからだ。

「夜分にすいません。彼女の声の分析が上がったところなので、メールで送りました」
「あら、そう。じゃあすぐチェックするから待って。……仕事熱心よね、私たち」
 自宅のパソコンを立ち上げながら、シュラインは苦笑する。
 電話の向こうでモーリスも笑ったようだ。
「んー。そうねぇ」
「なにか常人との違いはありますか」
「ところどころで20kHz以上の部分がある。人の耳には聴こえない領域よ」
「やっぱり」
「これを見て思い出したわ。『ホーミー』って知ってる?」
「いえ」
「モンゴルの民族音楽で歌い手が行う独特の発声法。一人の人間が、同時に2種類の音を発声できるの」
「え、そんなことが」
「喉から出す音と、口腔内での反響とで、出すらしいわ。これはそれの、ずっと高度で複雑なものね」
「やはり、常人には聴こえない音で交信しているのですね」
「でもそれだけじゃ、限界があると思うし……。このデータじゃわからないけれど、たぶん循環呼吸法なんかも身につけてるんじゃないかしら。あとは……たとえば、異界の技術を応用すれば……、声を空気じゃなくて、異界を通じて伝達させることだってできるでしょ?」
「それなら距離も関係ありませんね。逆を言えば、それを遮断すればいい。あるいは、かれらの通信を傍受することだって不可能じゃないですね」
 好奇心をさらに刺激されたか、モーリスの声が弾んだ。
「ありがとうございます。もうすこし、調べてみますよ」
「ええ。私もデータをもっとよく見てみる」
 モーリスが送ってきたのは、さきほど、彼がこっそりと録音したキョウの声を分析したデータだった。
 シュラインはそれをじっと見つめていたが、おもむろに、まるで発声練習でもするように、ア、ア、と声を出してみる。
「うん。ちょっと真似できそうだわ」
 満足そうに頷いたとき、パソコンの画面にはメールの受信を示すアラートがあらわれた。

「何故だ」
 どのくらい走っただろうか。
 誰もいない夜の公園で、息をととのえていると、キョウが訊ねてくる。
「何故って」
「私は敵だ」
「そうかもしれない。でも、きみをずっと閉じ込めておいても仕方がない」
 耀司は額ににじんだ汗をぬぐって言った。
「頼みがある」
 そして彼は告げるのだった。
「僕も、山へ連れて行ってくれないか」
「バカな!」
「どうして。大河原博士だって行ったんだろう」
「それとこれとは話が違う。そんなことをしたら…………きっと殺されてしまう」
 まるで、彼女のその言葉を証明しようとでも言うかのように――
 土中から飛び出してくる黒い影!
「!」
「危な――」
「瀬崎さんッ!」
 《ツチグモ》を殴り飛ばしたのは、裏社だった。
「き、きみ」
「別に俺は止めませんよ。……でも肩が凝ってたので、すこし暴れさせてください」
 風が唸った。
 どこからともなく、沸いて出るようにあらわれた黒装束どもが彼に飛びかかってくる。
「行こう」
 戦いは裏社に任せて、耀司はキョウの手を引いた。
「それは駄目」
 少女の顔に、言い難い痛みのような表情が浮かんだ。
「……里人に捕まったら、殺されると思ってた。でもそうじゃなかった。……あなたたちは私を助けてくれたもの。……お願い、やめなさい、みんな!」
 最後の叫びは、裏社と戦う《ツチグモ》たちへ向けたものらしい。
「……梟(キョウ)」
 打たれたように、彼女は振り返った。
 そこにいたのは、僧形の男である。
「……ヤゾウさま……」
 それではこの男が――、と、耀司は緊張に身をこわばらせた。
 もしもシュラインがその場にいれば、かつて、トケコミと偽ってアトラス編集部にアクセスしてきた男が彼だったと、気づいたことだろう。

■火蓋

「世話をかけた様子ですな」
 男の手にした錫杖が、しゃん、と鳴った。
「私は蓑火のヤゾウ――道玄坊と申します」
「僕は瀬崎耀司だ」
「存じております」
 ふふふ、と、低く笑った。四十がらみと見える、色の黒い男だ。
「彼女はこう見えて、なかなか優れた使い手です。お返しいただきましょうか」
「いいだろう。そのかわり、僕にもっと風羅のことを教えてくれないか」
 耀司は言った。
「僕はきみたちとむやみに敵対するつもりはない」
 道玄坊と名乗った男は、彼を値踏みするように眺めた。
「われらとともに山へ来るというのかね」
「僕は知りたいんだ。現代の日本に、僕らとまったく違う暮らしをしている人々がいることに感動した。独自の歴史を持ち、独自の習俗を守り、長らえてきたきみたちと……争わねばならないことは残念以外の何でもない」
「……」
 道玄坊があらわれると同時に、《ツチグモ》の襲撃はやんでいた(もっともそれまでに、相当数が裏社によってのされていた)。黒装束たちは遠巻きにかれらをねめつけている。
 しばし、緊張をはらんだ沈黙が続いた。
「梟(キョウ)」
 名を呼ばれて、少女の身体がふるえた。
「ともかく、おまえは来なさい」
「はい、ヤゾウさま」
「……『ヤシマ・ノート』という文書があるといいます」
 キョウが傍に来るのをみとめてから、道玄坊は言った。
「それをお探しになるといい」
「なんだって。それは一体」
「真実が記されている」
 男は短く答えた。そして。

 ザ、ザ、ザ、ザ、ザ――

 風が騒ぐ。
 その中に、道玄坊とキョウの姿は、溶け込んでゆくのだった……。

  *

 数日後。
 碇麗香は、各方面からの報告に、渋い顔をしながらコーヒーを啜っていた。
 失踪事件については、予想通り、風羅族の集結を意味しているようだ。調査員たちの活躍で、一部、山へ帰ることを思いとどまったものがいたという。
 逮捕されていたらしい八島真も、近く釈放される見通しだと聞く。
 それはいい。
(問題は)
 麗香は考えをめぐらせた。
(あれをどう扱うかよ。考えるのよ、麗香)
 三下が、眉間に皺を寄せている麗香のもとにやってきた。
「あのぅ、編集長、お客さんなんですけど」
「誰?」
「そ、それが……」
 顔を上げると、三下の肩ごしに、ひとりの老人の姿が目に入った。
 どこかで見た顔だ。たしか……
「はじめまして、ですな」
 カツン、とステッキをついて、老人は言った。
「私、大河原正路です」
「お――」
 がたん、と、思わず腰を浮かせた拍子に、マグカップがひっくりかえった。机の上の書類がコーヒーに染まる。
「大河原博士!?」
 机上の惨事は無視して、麗香は叫んだ。その背後で、ぴしゃん!と音を立てて、障子が閉まった。
「え……?」
 編集部のあちこちから、悲鳴が上がった。
 床から木の柱が生え、畳があらわれ、襖が重なり……。あたかも、編集部のある場所に、無理矢理、新しい建物があらわれ、とってかわろうとしているようだった。
 麗香は、方向感覚を失う。床が傾いているようだ。いや、まるで天地が逆転したようにさえ感じる。そして、視界にあるものが、ダリの絵画のように歪んでいく。
「失礼しますよ」
 大河原正路と名乗った老博士の声が、いんいんと響いた。
「われらのために、場所を開けていただきたい」

 その日。
 池袋の街を歩いていた人々は、その光景に唖然としたことだろう。
 アトラス編集部を含む白王社ビルが……、まるで、丸太にキノコがはえるように、ビルの外壁からはえだした壁や石垣や柱や屋根瓦に覆われてしまったのだ。
 できあがったものは、奇妙にデッサンの歪んだ、屋敷のような、城のようなものだった。
 忽然と、池袋のビル街にあらわれたそれは、低い、唸り声をあげて、まるで生きているような脈動をはじめた。

 それが、風羅族の、いよいよ本格的に開始された侵略であることはあきらかであった。
 白王社ビルを呑み込んで、そこに出現したのは、間違いなく、かれらの――いまだかつてない規模で出現した巨大な《マヨイガ》であろう。

 そしてまた、長年、歴史の暗がりに蓄積された、怨嗟と悪意の塊であると、言えたかもしれない。

 あの後……
 『ヤシマ・ノート』は探すまでもなく、瀬崎耀司の手元に転がり込んできた。
 シュラインが受取ったメールがそれであり、同時にモーリスも同じものを入手していた。
 かれらだけではない。 そのメールは、草間興信所を通じ、アトラス編集部を通じ、ゴーストネットOFFを通じ……、東京の闇にかかわる多くの人々へと届けられていたのである。

  挨拶抜きで失礼。こちらはササキビ・クミノ。
  『ヤシマ・ノート』を入手したので、その情報を転送する。
  これが、風羅族の侵略開始の背景と思われる。
  『ヤシマ・ノート』の内容とは、およそ十年前、
  宮内庁の秘密機関『調伏一係』によって行われた、
  大規模な作戦行動の記録である。
  すなわち――
  風羅族に対する、組織的な虐殺行為の。


(逢魔時ノ巻・了)

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1166/ササキビ・クミノ/女/13歳/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】
【1282/光月・羽澄/女/18歳/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1538/人造六面王・羅火/男/428歳/何でも屋兼用心棒】
【1708/夏目・灰/男/7歳/小学生】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2098/黒澤・早百合/女/29歳/暗殺組織の首領】
【2318/モーリス・ラジアル/男/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【2694/時永・貴由/女/18歳/高校生】
【2748/亜矢坂9・すばる/女/1歳/日本国文武火学省特務機関特命生徒】
【4164/マリオン・バーガンディ/男/275歳/元キュレーター・研究者・研究所所長】
【4424/三雲・冴波/女/27歳/事務員】
【4487/瀬崎・耀司/男/38歳/考古学者】
【4836/桐藤・隼/男/31歳/警視庁捜査一課の刑事】
【5130/二階堂・裏社/男/428歳/観光竜】

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■         ライター通信          ■
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おまたせいたしました。
『【ロスト・キングダム】逢魔時ノ巻』をお届けいたします。
便宜上、登場人物リストは同一にしておりますが、
ノベル本文は3種類あります。他のパートのノベルもお読みいただくと、また違った事件の側面があきらかになるでしょう。

お届けしました本作は、風羅族の少女をめぐるお話が描かれています。

>シュライン・エマさま
いつもありがとうございます。いろんな意味でドキドキしましたよ、今回は(笑)。興信所に風呂とかついてるのか?という気もしますが、住居用の物件なんでしょうか。(公式では草間さんの自宅兼事務所のようですが、2号は事務所専用のイメージだったんですよねー)

>モーリス・ラジアルさま
そういえばモーリスさまは医師でもいらしたんだなあ、と、あらためて思い出す(おい)のですが、なんとなく身体検査という語にアヤシイ響きを感じるのはライターの偏見ですか?(笑)

>瀬崎・耀司さま
キター! いつか誰かがこういうプレイング書くんじゃないかと思ってましたが、そうですね、考えてみれば瀬崎さまがいちばんふさわしかったかもしれません。どこまでいけるものか、ギリギリまで悩みましたが、ごらんのような結果になってます。

>二階堂・裏社さま
狼形態が多くなってしまいましたが、それはそれで萌え(何)。脱衣所のマットの上に寝そべるくだりがわりと好きです(笑)。

さて、本シリーズもいよいよクライマックスとなります。
今回の内容については、あえて語らないことにします。
もうまもなく訪れる予定の、この物語の結末を、どうぞ見守っていただければと思っています。