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薔薇庭園からのお客人
「姫。お客様でございます」
――その日は、世話役の如月竜矢(きさらぎりゅうし)がたまたま留守にしていた。
本来ならば『姫』こと葛織紫鶴(くずおりしづる)に来る前に一度竜矢を通す話が、だから直接紫鶴に回ってきたのだ。
「客か……どうせ肩のこる客だろう」
親戚やら家の問題の人間やらを思い浮かべながら、紫鶴は渋々、営業スマイルでとことこと客を出迎えに行った。
そして、門のところで――
ぎょっと、立ちすくんだ。
「あなたが、噂の姫君?」
にっこりと微笑んだのは赤いスーツに白衣を来た、真っ赤なルージュと眼鏡をかけた凛々しい美人。
そしてその傍らには、物静かな金髪の少女がいた。
「え、ええと……」
これは親戚やら何やらの客ではない。そう直感して、紫鶴はしどろもどろになる。
それを全く気にしていないかのように、白衣の女性は言った。
「初めまして。私は紫音・ラルハイネ(しおん・―)。近所の薔薇園の主です」
――そう言えば近所に美しい薔薇の園があると竜矢に聞いていた。
「あの……ど、どのようなご用件で……」
いわゆる普通の「人付き合い」をするのが苦手な紫鶴は、びくびくしながらそう尋ねた。
「ええ。近所に家があるのにいつまでもご挨拶せずにいるのは失礼かと思いましたので」
紫音はにこりと微笑んだ。
「一緒にお茶会でも、と」
「お茶会……」
「もちろん、お茶は用意致しました。あ、そうそう」
と、紫音は隣の金髪の少女をそっと前に押し出して、
「この子はロザ・ノワール。よろしくお願いしますね」
世にも美しい微笑みと共に言った。
**********
ふと、携帯電話が鳴った。
「はい、空木崎……ああ、竜矢さん」
空木崎辰一(うつぎざき・しんいち)は電話の相手が最近知り合いになった青年だと知って、肩の力を抜いた。
如月竜矢。それはあるお金持ちの令嬢の世話役を務める青年である。
その彼がいったい何の用だろう――
「この間はお世話になりました。どういったご用件でしょうか」
話の内容はこうだった。
どうやら自分の留守中に、彼の主たる少女の別荘に客人が来たらしい。
葛織紫鶴。それが竜矢の主である少女の名前である。
しかし紫鶴は、別荘から出たことがないため、人付き合いが極端に苦手だ。
その紫鶴の元へ――今日は別荘の近所の人間が、お茶会でもと訪ねてきたらしい、とのことだった。
竜矢自身が親戚づきあいのため留守にしており、紫鶴がかっちこっちの緊張状態だと、すでに別荘にいる紫鶴の数少ない友人が連絡してきたと竜矢は言った。
『すみませんが、姫のフォローをして頂けませんかね』
竜矢はそう言った。
「貴方の代わりに紫鶴さんと一緒にお茶会に参加すればいいんですね? 分かりました。お引き受けします」
快く返事をして、辰一は竜矢のお礼の言葉を聞いてから携帯電話を切った。
**********
黒榊魅月姫(くろさかき・みづき)がその日葛織紫鶴邸を訪れていたのは、単なる気まぐれだった。
いつものごとく転々とあらゆるところを歩いていたところ、ふと紫鶴の別荘の近くを通って、かのオッドアイの少女を思い出してのことだ。
紫鶴の瞳は右目が青、左目が緑のフェアリーアイズ。
魅月姫が以前会ったときはとても衰弱してベッドにふせっていたので、却ってその瞳の色が印象深かった。
彼女が別荘の門を叩いたとき、ちょうど紫鶴の世話役の如月竜矢が出かけようとしているところで、魅月姫は快く別荘に迎え入れられた。
――俺の留守中は、もうひとり姫のご友人が俺の代わりにいらっしゃることになっているので、お願いします。
そう言い残して、竜矢は別荘を出て行った。
紫鶴は大喜びで魅月姫を出迎えてくれた。
今日は新月ではない。以前出会ったときと違って紫鶴は、魅月姫がいわゆる『魔』に属する存在だと知っても何ら気にもしなかった。
美しい庭園のあずまやに二人で腰かけて。
紫鶴にせがまれてまた色々な話をしていたところ――
「失礼致します」
とやってきたのは、和服のひとりの女性だった。
天薙撫子(あまなぎ・なでしこ)。聞けば彼女こそが竜矢の留守中に、代わりに紫鶴の世話を任された女性らしい。
撫子は退魔の家の者らしく、『魔』の気配を持つ魅月姫の姿を見て一瞬警戒したが、
「撫子殿。魅月姫殿は私の友人だ」
という紫鶴の言葉を聞いて、力を抜いて微笑んだ。
そしてそこからは、女三人による簡単なお茶会――
紫鶴は撫子と魅月姫という、数少ない友人の二人と一緒でとても楽しそうだった。
と、そこへ。
「姫。お客様でございます」
メイドがしずしずとやってきて、紫鶴を呼んだ。
途端に紫鶴が渋面になった。
「客か……どうせ肩の凝る客だろう」
そう言って立っていったきり――
紫鶴がなかなか戻らない。
予期せぬ客人。それがその日の始まりと言えたかもしれない。
**********
撫子は竜矢の代わりを自覚していたため、まっさきに紫鶴の様子を見に門へと向かった。
そしてそこに、見慣れぬ女性と少女を見た。
白衣を着た美しい女性に――
金髪に黒い服、髪に黒薔薇を挿した少女――
紫鶴がしどろもどろに、言葉になっていない言葉でうなっている。
「あの……どうか致しまして?」
撫子は紫鶴に訊いた。
「え、ええと……その……」
「初めまして」
お客人のほうが先に口を開いた。白衣を着た女性のほうである。
にっこりと微笑む様は、なんとも魅惑的で美しい。
「私は紫音・ラルハイネと申します。この家の近くに薔薇庭園を開いております」
撫子は、そう言えば、と思い出した。
この紫鶴の家の近くに、とても美しい薔薇園があると聞いたことがある。
「この子はロザ・ノワール――」
と傍らの金髪の少女を紹介し、紫音は言った。
「ご近所ですのにご挨拶が遅れましたので。今日はご挨拶も兼ねまして、お茶会でも一緒に……と」
――紫鶴様が緊張なさるわけですわ、と撫子は胸中で思った。
紫鶴は親戚づきあいのような、作法の決まりきった肩のこる付き合いには慣れきっているが、代わりに普通の人づきあいがからきしできない。撫子や魅月姫にしたって、世話役の如月竜矢がいてこそ何とかスタートが切れたのだ。
竜矢のいない日、突然の近所の人間の訪問に、がちがちに緊張している――
「初めまして、わたくしは天薙撫子と申します」
撫子は丁寧に礼をし、それから「少々お待ちいただけますか?」と紫音に言った。
「ええ。突然のことは承知ですもの」
紫音は気を悪くした様子もなく微笑む。
傍らのノワールという少女は、ぴくりとも表情を動かさない。
撫子はかたまっている紫鶴の腕をそっと引いて紫音に声が聞こえなさそうな場所まで離れ、
「紫鶴様。せっかくのお誘いですから、お断りするのも失礼ですし、快くお受け致しましょう?」
と優しく促した。
「そ、そう、か?」
紫鶴はがちがちで、言葉が言葉になっていない。
そしてそんな状態のまま、がちがちな動きで再び紫音の元へ行き、
「そ、その、お気持ちはとても感謝して、お受けした――」
……おそらく自分でも何を言っているのか分からないのだろう。
と、そこへ――
「紫鶴さん。どうなさったの?」
魅月姫がやってきた。遅いので様子を見に来たらしい。
そして撫子から話を聞くと、がちがちの紫鶴の隣に立ち、
「あら、面白そうなお話ですね。お茶会には私も喜んで参加します」
とあっさりと言った。
「私は黒榊魅月姫。どうぞお見知りおきを」
「初めまして、紫音・ラルハイネと申します――」
再び挨拶の繰り返し。
しかし魅月姫の言葉を皮切りに、ようやくお茶会開催が決定した。
撫子はまだがちがちの紫鶴の代わりに、客人二人に微笑んで言った。
「お茶会のお場所はこちらの庭園でもよろしいでしょうか? 紫鶴様はわけあって、この別荘から出られないものですから……」
「あら……」
紫音は口元に手を当てた。「噂には聞いておりましたが、本当に別荘からお出になることができないのですね」
「ええ、申し訳ございません」
「困ったわ、ご招待するつもりでおりましたので、お茶の葉は自分の家に置いてきてしまいました」
「それならお気遣いなく。こちらにもご用意してございますわ」
「ええ。こちらの庭園も美しいですよ。ぜひいらしてください」
魅月姫が撫子の後に言葉をつなげる。
「それではお言葉に甘えますわ」
紫音は微笑んだ。そして、
「ノワール。さあ、姫君とご一緒しましょう?」
と傍らの金髪の少女に声をかけた。
「………」
ノワールは無言で、こくりとうなずいた。
紫鶴は相変わらずのがちがちさで、
「あああああありがとう」
と、訳の分からない礼を言った。
**********
撫子は勝手知ったる他人の家、メイドたちに紫音やロザも座れる席を用意するように頼んでから、とりあえずの客人と紫鶴のことを魅月姫に頼み、自分は電話をかけにいった。
相手は如月竜矢である。何かあったら連絡をくれと頼まれていたのだ。
竜矢は話を聞いて、「それはいい機会だ」と言った。
撫子も同感だった。竜矢にばかり依存していてはいけない。
『念のためもうひとりほど、助っ人を頼んでみます。姫をよろしくお願いします』
竜矢にそう言われ、撫子は「ええ」と快くうなずいた。
竜矢への連絡を終えると、撫子はすぐにお茶会の席に戻り、張り切って場を用意し始めた。
彼女は常に用意していると言っていい持参のお茶を取り出した。
今日は紅茶である。ちょうど今日の面々に合いそうな葉があった。
「本日はフランボワーズでいかがでしょうか?」
「あら、素敵な葉ですね」
紫音がにこりと微笑んだ。
中国やセイロンで採れる葉。ストレートで注げば、木苺の甘酸っぱい香りがする。
ふわり、と五人の女性を紅茶の香りが包み込んだ。
さらに撫子はお茶菓子として、カステラを五人の前に広げ、ケーキ用ナイフでさくさくと切り分けていく。
「どうぞ、召し上がれ」
「では、失礼して頂きますわ」
紫音が、ルージュを乗せた唇にティーカップを近づけた。
「……とてもいい葉……」
香りを楽しむようにすっと息を吸い込んで、紫音は魅惑的な笑みを浮かべる。
こくり
紅茶がのどを通る音さえ優雅で。
「………」
彼女の隣では、ノワールがしずしずとティーカップの中身を減らしている。
緊張して引きつっている紫鶴の隣を陣取った魅月姫は、黙々と紅茶を飲んでいた。
「紫鶴様」
撫子はくすくすと笑って、「冷めてしまいますわ。召し上がれ」
とそっと紫鶴の肩に手を置いた。
と――
「お客様でございます」
再びメイドが呼びにやってきた。
紫鶴がぎくっと体をこわばらせる。まあ、と紫音が振り向いた。
「い、今行く」
紫鶴はこちこちに固まったまま、椅子から立ち上がった。
**********
門のところにいた新たな客人の姿を見て、紫鶴は全身からぷしゅーと力がぬけていくような心地がした。
「し、紫鶴さん!」
倒れそうになった紫鶴を、空木崎辰一が抱き止める。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……だと、思う……」
ありがとうと辰一の手を借りて体勢を立て直し、紫鶴は辰一を見つめた。
「どうして……ここに?」
「ええ、今日は僕が竜矢さんの代わりにお茶会に招かれることになりましたのでよろしくお願いします」
辰一の服装は、濃いグレーのスーツに、空色のセーター、茶色の革靴を履いている。お茶会用に揃えたのだろうか。
紫鶴はほっと息をついた。
「よかった……心強い味方がまた増えた……」
にっこりと微笑む紫鶴に、
「あの……失礼なことを訊くようですが、紫鶴さんは人見知りが激しいのですか?」
間違っていたらすみません――と詫びながら、
「……他の方との交流がないように思えましたので」
「ああ……」
紫鶴は少し遠い目をした。
「いや……私は、……うん。人見知り、というのかな、これも……」
別荘から出してもらえないんだ、と彼女はつぶやいた。
「私は『魔』を寄せる力が強すぎる。だから別荘に閉じ込められている。辰一殿なら分かるだろう? この別荘には薄く結界が張られている」
「ああ……」
「し、親戚との付き合いなら慣れているんだが。その……他人となると……」
紫鶴はぽつりと寂しそうに言った。
「……出会いもあまりないしな。本来、この別荘に他人を呼ぶことは禁じられている」
「そうですか……」
辰一は優しく紫鶴の肩に手を置いた。
紫鶴が顔をあげる。
「今日は僕がついているから大丈夫ですよ」
元気づけるように、辰一は微笑んだ。
「さあ、行きましょう。お誘いくださったかたをお待たせしてはいけませんしね」
紫鶴は微笑んで、屋敷の庭園へと迎え入れた。
相変わらず広大な庭園。庭師の手による美しい世界。
その中央に設けられた、即席のお茶会場。
すでに女性が四人座っている。ひとりは辰一も知っている顔だ。
紫鶴はメイドを呼びつけ、席と茶器を一組増やしてくれるように頼んだ。
それから辰一をつれて、お茶会の場へと戻った。
紫音の艶やかな笑みと、無表情のノワールが待っていた。
紫鶴はこほんと咳払いをする。
「え、ええと、紫音殿、ノワール殿。こちらは空木崎辰一殿で」
「初めまして。紫鶴さんの友人の空木崎辰一です」
辰一は長い黒髪の、白衣の美女と、金髪の物静かな少女に礼をした。
「空木崎さん? 初めまして」
白衣の美女が微笑んだ。
「私は紫音・ラルハイネ。この子はロザ・ノワールです。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
辰一は愛想よく微笑む。
そして、そっと視線を横にずらした。
――紫鶴の横に、もうひとり知らない少女がいる。
「紫鶴さん」
その少女本人が、紫鶴を呼んだ。「私にも紹介してください」
「あ、ああ、そ、そうだった」
あわあわと紫鶴はあわてふためいて、「辰一殿、こちらは黒榊魅月姫殿。魅月姫殿、こちらは空木崎辰一殿……」
「初めまして。よろしくお願いします」
魅月姫と紹介された黒髪の少女は、辰一に向かって淡々と挨拶をした。
「………」
辰一は退魔師として、ただならぬ雰囲気を持つその少女を一瞬警戒したが、
「その、魅月姫殿も私の友人だ」
という紫鶴の言葉を聞いて力を抜いた。
紫鶴が友人と言うのなら大丈夫だろう。そう思ったのだ。
「よろしくお願いします」
と魅月姫に挨拶をしていた辰一に紫鶴が慌てて声をかける。
「さ、さあ辰一殿もどうぞ座って、」
「紫鶴さん。空木崎さんはまだ席がありません」
魅月姫が静かにつっこむ。
「あ、ああ、そうか。じゃあここへ座って――」
紫鶴はなぜか自分の座っていた席を辰一にすすめようとする。
「落ち着いて紫鶴様」
撫子が紫鶴の肩をそっと押さえ、それから辰一を見て微笑んだ。
「お久しぶりです、空木崎様」
「ええ、お久しぶりです天薙さん」
「辰一殿席に座って」
「ですから紫鶴様、そこは紫鶴様の席で――」
パニックになった紫鶴を、慌てて辰一と撫子がなだめようとする。
魅月姫とノワールは淡々と紅茶を飲み続け、紫音はくすくすと笑っていた。
――メイドがようやく辰一の分の椅子と茶道具を持ってきた。
辰一が椅子に落ち着いた。
「今、空木崎様の分もお茶をお淹れしますわ」
撫子が優雅な手つきで辰一の前のコップに薫り高い紅茶を注ぐ。
「ありがとうございます」
辰一が笑顔で応えたそのとき――
「姫、お客様でございます」
今日何度目か分からないメイドの声が、お茶会の場に割り込み、ずるりと紫鶴は椅子からすべり落ちそうになった。
**********
戻ってきた紫鶴は、ひとりの少年をともなっていた。
「ええと……皆、こちらは阿佐人悠輔(あざと・ゆうすけ)殿だ」
紫鶴が少しだけなめらかになった口調で少年を紹介する。
「初めまして」
悠輔はその場にいる面々に頭をさげた。
十七歳ほどだろうか。右手首に赤いバンダナを巻き、手にケーキの箱を持っている。
全員の間で、何度目か分からない挨拶が交わされる。
それから悠輔に、お茶会が催された理由が説明された。
「薔薇庭園?」
悠輔は紫音とノワールを見る。
「ええ。あなたも一度いらしてみてね」
紫音は微笑んだ。
ノワールは軽く頭をさげたきり、何も言わない。
――やがて悠輔の席が整い、撫子が慣れた手つきで悠輔の分の紅茶を注いだ。
悠輔は少し考えてから、
「そのケーキ、今食べるのがいいかもしれませんね」
「あら、とてもいいお茶菓子ですわ」
撫子が微笑んだ。「では失礼して……」
箱をあけ、中からホールのケーキを取り出す。
ホイップクリームをふんだんに使った、シンプルなケーキだ。偶然にも木苺で飾られていて、さらには色つきクリームが薔薇をかたどってケーキの中央にある。
「あ……」
初めて、ノワールが声を出した。
「薔薇……」
撫子がケーキ用のナイフを再び持ち上げる。
切り分けようとする撫子に、紫鶴が、
「薔薇は――もったいないから、切らない方法はないかな」
とつぶやいた。
撫子が手をとめる。
「クリームの薔薇ですものね……どうしましょう」
「とりあえず、その部分だけ取り分けてはどうでしょう?」
辰一が皿を一枚用意しながら言った。
「そうですわね」
撫子は器用に、クリームの薔薇を下のほうで切り取って皿に分けた。
「え、ええと……」
紫鶴がぐるりと面々を見渡し、
「……ノワール……殿、この薔薇、召し上がるか?」
「………」
ノワールの赤い瞳が、初めてまっすぐと紫鶴を見た。
そして――ほんの少しだけ微笑んだ。
「いいえ。……どうぞ、あなたが」
「い、いいのかな」
「どうぞ私たちにはお構いなく」
と紫音が言った。「本来は、私たちがご招待するはずのお茶会ですもの。紫鶴さんが賓客です」
「そ、そうか」
ぎこちなくうなずく紫鶴の前に、撫子が微笑みながら薔薇のクリームの乗った皿を置く。
それをじっと見つめて、紫鶴は再度「もったいないな……」と言った。
ノワールの口元から笑みが消えないことを、他の面々は皆見ていた。
撫子はそれから、見事にケーキを七等分して見せ、全員の前に取り分けていく。
「薔薇庭園か」
悠輔がつぶやいた。「美しいんでしょうね」
「ふふ。薔薇はそのエキスに美容効果があるので有名ですから」
紫音はいたずらっぽく微笑んで、「ここにいる女性たちに薔薇の香油をお分けしたら……ああ、でもここの方々はみな美しい方ばかりだから必要ないかしら」
「そんなこと。もったいないお言葉ですわ」
撫子が袖で口元を隠してくすっと笑う。
魅月姫がそっとティーカップをコースターに置いて、
「でも、薔薇の香油には興味があります」
「ではぜひうちにおいでください。たくさんの種類の香油を用意していますから」
紫音が微笑んだ。「お嬢様方にはぜひいらしてほしいわ。クレオパトラの気分を味わってください。男性にはアントニウスの気分かしら?」
「皇帝ネロの気分よりは、アントニウスの気分のほうがいいかもしれませんね」
魅月姫が淡々とつぶやく。
「な、なに? 何の話だ?」
紫鶴が好奇心に目を輝かせる。
「有名な話です。クレオパトラ――一番有名なクレオパトラ七世は、アントニウスを招いたパーティで部屋を五十cmほどの薔薇で埋め尽くしてアントニウスの心を射止めたとか」
「皇帝ネロは夜な夜な開いたパーティで、薔薇水のお風呂、天井から薔薇をまく仕掛け、薔薇の香りをつけたワインにデザートの薔薇菓子でもてなしたと言われています。香油ももちろん薔薇でね」
「……豪華ですね」
悠輔が呆れたようにつぶやいた。
「薔薇の香水か……」
辰一が悩むように腕を組む。
「どうかしました?」
紫音に問われ、慌てて「いや」と彼は手を振った。心なしか頬が染まっている。
「恋人でもいらっしゃるのではないですか」
魅月姫があっさりとつっこむ。辰一が真っ赤になる。
「ああ……そう言えばそうだったな」
紫鶴が微笑んだ。
「まあ」
紫音がくすくすと笑った。「なら、彼女と一緒にぜひいらしてくださいね」
「は、はあ……」
辰一はぽりぽりと照れくさそうに首の後ろをかいた。
「薔薇庭園、か……」
紫鶴は寂しそうにつぶやいた。「私も見たかったな……」
「ええ……残念です」
紫音が困ったように微笑する。
「紫鶴さん」
魅月姫が静かに言った。「こちらの庭園にも薔薇園が出来たらさぞかし美しいでしょうね」
「そ、そうかな……この庭園の花は意外と雑多なものだから」
と、ノワールが急にきょろきょろと庭園を見渡し始めた。
「ノワール?」
「……紫音」
ノワールが魅月姫に負けない淡々とした口調で言った。
「このお庭なら、薔薇を咲かせられるのではないですか」
「ああ、そうね」
とてもいい条件の揃ったお庭だわ――と紫音は言った。
紫鶴が身を乗り出した。
「この庭でか? 薔薇を育てられるのか?」
「おそらくは。手入れさえうまくできれば」
「薔薇の手入れなら、私たちにお任せくださいな」
紫音が微笑む。「ノワール、このお庭にも通って薔薇を育ててみる?」
「……考えてみます」
「それはいいですね」
辰一が笑みを作った。「僕も見てみたいです。この庭に薔薇が咲くところを」
「似合いそうですね。ここは洋館だし」
と悠輔が屋敷を見上げて言う。
「こちらのお庭でしたら、赤い薔薇より黄色い薔薇や白い薔薇が似合いそうな気がしますわ」
撫子が紫鶴の庭園を見渡して言った。
「青い薔薇も最近出回るようになったと聞いています」
と、魅月姫。「緑の葉をつけた青い薔薇……紫鶴さんにぴったりではありませんか」
皆の視線が、紫鶴に集まった。
――紫鶴の、右目が青、左目が緑のオッドアイ。
「素敵なお話ですね」
紫音が微笑んだ。「青い薔薇は希少価値が高いのでなかなか手に入りませんが……たしかに紫鶴さんにお似合いです」
「わ、私は……」
紫鶴はそっと、うかがうようにノワールを見た。
「その、ノワール殿が髪に挿していらっしゃる、黒い薔薇が……気になるのだが」
全員の視線が、今度はノワールに集まる。
ノワールの鮮やかな金髪を飾る、黒い薔薇。
「黒薔薇は、私たちのオリジナルです、紫鶴さん」
紫音が笑った。「本来黒薔薇は存在しません。自分で作りだすしかありません」
「そうなのか……」
そのとき、ノワールの視線が少しだけ泳いだことを、紫鶴以外の全員が見ていた。
「黒薔薇は美しいな、と思ったのだが」
「……今度……」
ノワールが、小さな声でつぶやいた。
「あなたの分も持ってきます」
「い、いいのか?」
紫鶴が頬を紅潮させる。こくんとノワールがうなずく。
紫音が驚いたように、隣の金髪の少女を見た。
「いいの? ノワール」
「はい」
ノワールはもう一度うなずいた。
紫音の目元が和らいだ。
――なにやら色々あるらしいが、それでもその場を取り巻く雰囲気は暖かかった。
「あ、すみません天薙さん」
「はい?」
「お茶のおかわりをいただいてもよろしいですか?」
辰一の言葉に、「はい」と撫子が微笑んで、ついでに全員のコップに紅茶を足していく。
悠輔が、それを改めて口にしてから、
「ええと。紫鶴さんは花が好きなんだな」
と紫鶴に訊いた。
「好きだ。だって別荘を出られない私でも見られる数少ないものだから」
「なら薔薇以外にも色んな花に興味があるんだな」
「僕の神社にも素敵な花がありますよ。蓮なんかはおすすめです」
「あら、わたくしの神社にもありましてよ」
「なら私は世界の不思議な花の伝説のお話でもしましょうか」
魅月姫が話を始める。
彼女独特の淡々とした、静かな話し口調がますます雰囲気を盛り上げ――
その幻想とも現実ともつかない話に誰もが引きこまれた。
「ではこちらは素敵な薔薇のお話で対抗しようかしら」
紫音が笑って、「イタリアに『ボッコロの日』という日があるんですよ。男性が愛する女性に赤い薔薇を贈るという……」
「あ、ええと……聞いたことがあります。たしかある恋人同士の、男性のほうが戦場に行って傷つき倒れ、そのときたまたま近くにあった白薔薇が赤く染まって……その赤く染まった薔薇を男の戦友が女性の元に持っていって、女性が恋人の死を知った、とか……」
「あら悠輔さん、よくご存知ですね」
「……家族に漫画が好きなヤツがいまして」
悠輔は、自分がそんな話を知っていることに照れたのか、少し赤くなりながら紅茶を飲んだ。
「そうです。『ボッコロ』とは薔薇のつぼみの意味。悠輔さんがおっしゃった伝説がきっかけで、毎年四月二十五日が『ボッコロの日』として、薔薇を贈る日となったの」
バレンタインに似ているでしょう――と、紫音が微笑む。
「切ない日なのですね」
撫子が頬に手をあて、ほうと息をつく。
「さすがイタリア人、と言ってもいいですが」
魅月姫が淡々と言ったので、紫鶴とノワール以外の全員がふきだした。
意味の分かっていない紫鶴が、笑っている面々を見渡す。
「な……なんだ?」
「イタリア人は、女性に優しいので有名なのですよ」
魅月姫はどこまでも淡々と解説した。
「女性に優しい? 辰一殿や悠輔殿のようにか?」
紫鶴が目をぱちくりさせる。
「……俺は別に女性に優しいわけじゃないが……」
以前、家庭教師から逃げ出した紫鶴の従姉を、けっこう乱暴な手口で連れ戻したことのある悠輔が遠い目をした。
もっともあの時は、紫鶴の従姉のほうがケンカを売ってきたのだが。
「紫鶴さん。イタリア人はね、女性を見たら必ず口説くのが礼儀と言われているんですよ」
紫音がいたずらっぽく紅唇を微笑ませる。
「クドク?」
「綺麗だね、とか美しいね、とか……褒めたたえるとでも言いましょうか」
「ははあ……」
紫鶴はぽけっとした顔で、「“ナンパ”というやつか?」
と言った。
再びノワール以外の全員がふきだした。
「口説く、を知らなくてナンパを知ってるなんて、不思議ですね紫鶴さん」
辰一が必死で笑いをこらえながら言う。
「いや、前に竜矢が私が外に出たら『ヘンな男にナンパされて一発で危ない目に遭いますよ』とか言ったから……」
「……たしかに危険だな」
悠輔がぽつりとつぶやいた。
紫鶴の世間知らずは、間違いなく危険だ。
「もし別荘から出られるようになったら、ボディガードでもする」
「ありがとう悠輔殿」
紫鶴がにっこりと微笑むと、
「まあ悠輔さん。ならノワールのボディガードもお願いいたしますわ」
と紫音が優しくノワールの髪をなでながら言った。
「……分かった」
真面目な悠輔はこくりとうなずく。「遠慮なく呼んでください」
「ありがたいわ。ねえノワール」
「……はい」
「ならノワール様と紫鶴様で並んで散策なされば一番ですわ」
撫子が両手を組み合わせて、柔らかく微笑んだ。
「お歳も近いようですし、いいお友達になれますわね、きっと」
「――……」
な、なれるだろうか、と紫鶴が頬を赤らめ、ノワールは無言で。
「ご近所なんですから。いくらでもチャンスがありますよ」
辰一が努めて明るく言った。
「紫鶴さんがこの別荘から出られないのは仕方のないことですが……よろしければお二人に、もう家族同然に好きなように出入りなさって頂いたらどうでしょう?」
彼の提案に、紫鶴がうんと大きくうなずいた。
「竜矢に言っておく。ぜひそうしてほしい」
「紫鶴さん。親戚の目はよろしいの?」
魅月姫が静かに問うと、紫鶴は眉根を寄せて、
「し、しばらくは竜矢の手腕に頼って――それから、私がもう少し成長したら、自分で立ち向かうことにするから」
魅月姫が、ほんの少し微笑んだ。
「いい心がけですね」
「紫鶴さん。何かあったら僕たちも手伝いますからね」
辰一が力強く言う。
「わたくしもですわ、紫鶴様」
撫子が微笑んだ。
「そうね、私は……紫鶴さんに害をなす者に呪いでもかけようかしら」
「み、魅月姫殿。しゃ、シャレにならないから」
「ふふ。ほんのちょっぴり本気です」
ありがとうございます、と紫音が微笑んだ。
「私たちは薔薇のお話くらいしかできませんけれど……ぜひ」
「………」
ノワールが目の前に置かれたケーキを一口、口にして、
「……美味しいですね」
とつぶやいた。
その言葉が、皆の微笑を誘う。
「何だか……幸せだ」
緊張が少しぬけたらしい紫鶴が、椅子の背もたれに背を預けて目を閉じた。
「どんどん知り合いが増えていく。……幸せだ」
紫鶴の微笑みが、皆の心に染み渡る。
「ありがとう……みんな……」
爽やかな空気がお茶会の場を通り抜けた。
紫鶴の前に置かれたままだった、クリームの薔薇が、ほんのりとピンク色に染まった、気がした。
―Fin―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0328/天薙・撫子/女性/18歳/大学生(巫女):天位覚醒者】
【2029/空木崎・辰一/男性/28歳/溜息坂神社宮司】
【4682/黒榊・魅月姫/女性/999歳/吸血鬼(真祖)/深淵の魔女】
【5973/阿佐人・悠輔/男/17歳/高校生】
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■ ライター通信 ■
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空木崎辰一様
いつもお世話になっております、笠城夢斗です。
今回も依頼にご参加くださり、ありがとうございました!
話題が薔薇中心だったのですが、いかがでしたでしょうか?楽しんで頂けましたら嬉しく思います。
よろしければまた次回お会いできますよう……
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