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『遠い思い、消えた過去』
看護士は顔を背けた。
「お姉さん♪ アタシにキスして〜。抱いて〜。ああ! はは〜んっ!」
自らを強く抱き抱いて自らを慰める『彼女』
病室から逃げ出す。職業上許されることではないかもしれない。
だが、とても正視していることはできなかった。
「‥‥どうして、こんなことに‥‥」
○月×日
入院より一ヶ月。
外面的な怪我は完治。病状も精神的にも落ち着きを見せている。
時折天使のような笑顔を見せる少女。
早く彼女の心の傷が癒え、いつも微笑むことができるようにと願いたい。
○月△日
どうして、こんなにも変わってしまっているのか‥‥。
解っていたつもりで、私は何も知らなかったのだと思い知らされる。
さっき、検温に入ったときには小さな女の子がベッドの上で眠っていた。
食事を運んだ時、彼女は怒りの唸り声を上げた。手を持たない自分には食べられないと。
ナースコールで呼び出された時、喘ぐ彼女の豊満な胸が点滴をしようとした私の手に触れる。
薬よりも、男を連れて来てと潤んだ目で‥‥訴えながら。
そして、さっきはまるで蝋人形のように、無反応に涎をたらしたまま目線を中空に向けて‥‥。
もう、どうしたらいいのか私には解らない。
ただ、できるのは「彼女」に食事を与え‥‥逃げ出さないようにするだけ。
冷静に事実を記録すべき日誌にも、血の滲むような思いが溢れ出た。
それでも彼女は看護を続けている。
看護士としてのプライドと思いだけで、身体を動かす。その心は狂気に至る寸前だった。
近づくだけで殺したいと思うほど『彼女』を嫌ってしまう自分がいる。
なのに、その翌日には『彼女』に欲情し身体を熱くしてしまう自分がいる。
彼女を見ていると人の自我と言うものが信じられなくなる。
否、もう自分自身さえも信じることはできなくなっていた。
(「私はもう看護士の資格が無いのかもしれない‥‥」)
自己嫌悪に陥っている看護士をある日、担当医は呼び出した。
精神の専門医でありながらどうしたらいいか解らないと、彼女同様狂気寸前だった彼は、ついに言ったのだ。
「『彼女』の看護と対応を、彼にお任せする‥‥」
「えっ?」
鈴木です、と平凡な挨拶をした人物を見て彼女は驚いた。
こう見えても彼女とて看護士、多くの人間と出会い、対してきた。人を見る目には多少の自信があると思っていた。
だが、目の前の人物はどこから見てもただの人。医者には勿論、看護士にさえ見えない。
そんな人物に『彼女』の看護ができるのか? いや、できる筈が無い。だから抗議した。
「無茶な!! どうして?」
しかし、彼女の反論は聞き入れられず、ことは決定し、彼は無言で病室へと向かい、扉は閉められた。
悲鳴。高笑い。嗚咽。叫び。何かが割れる音。そして‥‥何かが壊れる音。
時折聞こえてくる音でしか彼女には部屋の中で何が起きているか知る術は無い。
日に数度開く扉と、そこから見える微かな光景。
僅かなそれから日ごと『彼女』の混乱が消えて、落ち着いていくのが解ってきた。
「凄いわ‥‥」
だから彼女は密かにその医師であるという鈴木・太郎氏に尊敬に近い感情を抱いていく。
『彼』と『彼女』二人の真実を知れば、そんな感情は一瞬で消え去っていただろうが‥‥。
暗い部屋は、電気が消えている。
カチリ。音と共に光が部屋に溢れる。
純白の部屋の中、『彼女』は悲鳴を上げた。
「近寄らないで!」
布団の下に潜り固く閉じこもる。入ってきた人物は男。着ていたのは白衣。
「お医者さん‥‥。こわい‥‥こわいの。近寄らないで。お願い。お願いだから‥‥」
ふんわり、優しい手が布団越しに頭を撫でる。
「えっ?」
天の岩戸ならぬ布団の口が開いて銀の頭が覗く。
「大丈夫だよ。怖がらなくていい‥‥」
柔らかく見える笑顔が『彼女』を出迎えた。
「あなたは‥‥誰?」
「‥‥‥‥‥‥」
彼は小さく囁いた。『彼女』にそれは聞こえただろうか?
微かな音を立てて飛んだナイフを、彼はほんの少し首を避けてかわす。
「ちっ!」
一撃必殺をねらったつもりだったのに容易くかわしたあの男は一体?
舌を打ちながら『彼女』は自らの身体をバネのように飛ばし、男の喉下をさらに狙う。
「獲った!」
だが、その攻撃は感嘆に弾かれる。
「牙を見せすぎる獣は生き残れないよ‥‥」
「何!」
生まれた感情は狼狽、驚愕、そして‥‥。
何かが砕け散るような微かな音がして『彼女』は自らが生まれた闇に堕ちていった。
「‥‥私を、抱いて。身体が、身体が火照って‥‥どうしようもないの‥。貫いて! そして、メチャクチャにして!! 壊して!!」
サカった雌猫のように『彼女』は豊満な胸を揺らし、白い腰を前後左右に振る。
目の前の男が誰であろうと関係ない。ただ今『彼女』が考えるのはこの身体に溢れる欲求を何とかして欲しいだけ。
枝垂れかかった男の身体に触れる、熟れた、完熟しきった大人の女の身体男であれば誰もが味わいたいと願うであろう果実。
『彼女』は欲求を叶えて貰えることを疑いさえしなかった。
「止めたまえ‥‥」
だが、目の前の男は「誰もが」の分類には入らなかったらしい。
点滴を用意し、手際よく『彼女』の腕に繋ぐ。
「えっ‥‥。あ‥‥? な、なに‥‥」
正常位に返されたベッドの上で『彼女』は蕩けた目で彼を見た。
奪われる身体の自由。失われていく意識‥‥。
「あっ‥‥」
恍惚の表情のまま『彼女』は静かに眠りについた。
パタパタパタと部屋中を飛ぶ『彼女』
「みあおをいじめないで! いじめるやつはゆるさないんだから〜!」
小さな嘴で髪をひっぱり、手をつつく。
目の前の男はまったく効果は無い。まるで子供に身体を叩かせるように目を閉じて笑っている。
こんな攻撃、威嚇にもならないと解っている。
「私に囀っても仕方ないだろう?」
彼の言うとおり。だが‥‥
「解っているわよ! でも、あたしは、あたしはねえ!」
涙を流す目があれば泣き出しそうな必死の叫び。青い小鳥の涙に
「あたしは、あたしは‥‥」
「大丈夫‥‥心配しなくていい」
静かな声が答えた。
「本当に? 本当に?」
目の前の男を見て、小鳥は信じるように静かに目を閉じた。
何も見えない‥‥。
何も聞こえない‥‥
何も解らない透明な心。白い‥‥記憶。
彼は蝋人形のように動かない『彼女』の緩んだ口元を拭き、白い体を清拭する。
理解でき泣けれど感じる献身的な介護。身体に触れる‥‥温もり。
「ん」
彼は胸元に目を見下ろした。白衣を掴む小さな手。
「‥‥あ‥‥」
ただ、触れるだけ。
ぺた、ぺたり、ぺたり‥‥。
「あ‥‥‥‥」
何も解らない。純白の世界。そこにあるたった一つのもの。
「‥‥あ‥‥‥‥‥‥」
無言で彼女は彼の胸に顔を埋める。
唯一つの真実。唯一愛することができるもの‥‥。
彼女がそこまで考えられたかどうか解らないけれど、いつまでも彼女はその感触をただ、感じていた。
『彼女』は膝を付いていた。
白い翼を広げた神々しい天使は、当たり前の人間に膝を付く。
「貴方は‥‥いえ、貴方様は‥‥」
彼は答えない。ただ、献身的に部屋を片付け、介護を続ける。
「貴方様がお側にいてくださるのであれば‥‥、安心です。私の唯一の存在として貴方を尊敬、崇拝いたします。我が‥‥」
そこから先の声を聞いた者はいない。
静かに『彼女』は『彼女』に戻っていく。
彼は、変わらず働く。何も無かったかのように‥‥。
薄闇の中から、外を感じる『彼女』
もう自分が自分である実感も感じられないほど希薄になった『自分』
本来は『私』を守るべくして生まれた『彼女達』の筈なのに。
そう思わない事も、無いとは言えない。
(「静かに眠っておいで‥‥」)
出会った彼はそう言った。
外の世界に、元の人生に興味が無いわけではないが‥‥。
「あの恐怖に比べれば‥‥いい‥‥のかも‥‥」
意識が溶ける。
表の彼女の悲鳴が聞こえる。弄ばれた心の悲鳴。
組み替えられる心の軋み。
『私』は眠る。深い、深い眠りに‥‥落ちる。
現実を『彼女』達に任せて夢の中に‥‥。
「ありがとうございました!」
「良かったわね。みあおちゃん」
「はい!」
そう言って小さな少女は看護婦達に頭を下げた。
まだ医者には及び腰だが、看護士達には徐々に心を開いて、やっとここまで笑ってくれるようになったのだ。
それが彼女は素直に嬉しかった。
この笑顔を生み出してくれた存在はきっと、あの人だろう。
思っていた所に、迎えに来た人影が見える。
「お母さん」
とみあおが呼ぶ明るい笑顔の女性。そして
「お父さん」
手を振った照れた笑顔の『彼』。
「そうなんですね」
彼女は確信した。みあおを救ったのは『彼』なのだと。
「じゃあね!」
彼女は笑って走っていく。その後についていこうとする彼がいた。
「元気でね」
と手を振ってから彼女は『彼』に声をかけた。
「私は、貴方のような看護人になりたいと思います」
その言葉に『彼』は苦笑しながら言った。
「私のようにだけはならない方がいい」
「えっ?」
『彼』は去っていく。
『彼女』と一緒に。
そして『彼女』は病院を退院した。
その記録は隠されている。
勿論『彼』の記録も。
年月を経て、彼女がいたという記憶すらも、もう曖昧だ。
海原・みあお。その名前以外に残っているものは何も無い。
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