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<東京怪談ウェブゲーム あやかし荘>


『天王寺綾の過去−デジャヴュ−』
◆プロローグ◆
「うちになんか用か?」
 後ろからつけられている気配を感じ、天王寺綾は足を止めて振り返った。
 いつもの散歩道。ココは都心から離れている分、自然が多い。紅葉の匂いに誘われて綾はブラブラと辺りを散策していた。
「気付いていたの。さすがに勘が鋭いね、綾ちゃん」
 曲がり角の影から姿を現したのは爽やかなサラリーマン風の男。ストレートの黒髪をボブカットにし、灰色のスーツに身を包んでいる。中肉中背のどこにでも居そうな男だったが、唯一目だけが異様だった。
 別に外見的におかしいというわけではない。笑っているのに怒っている。喜んでいるのに泣いている。そんな相反する感情が複雑に入り交じったような光を目の奥に灯していた。
「誰や、あんた。何でうちの名前知ってるん」
「ああ、そっか。記憶を無くしちゃってるんだね。当然か。だってあの時キミは死にかけたんだもんね。生きている方がおかしいんだ」
 口に薄ら笑いを浮かべながら、男は綾は近づいた。
「近寄らんといて! 人呼ぶで!」
「冷たいなぁ、綾ちゃん。僕とキミとの仲じゃないか。それに周りに人なんて居ないよ」
 くっく、と底意地悪そうに微笑し、男はどこか狂喜的な表情を浮かべる。
(誰や、コイツ。知らん、ホンマに知らんで)
 焦燥と恐怖に混乱する頭の中で、警報機がけたたましく鳴り続けた。
 この男は危険だ。逃げろ。綾の本能がそう告げている。
「キミは本当はもうあの時死んでいるはずなんだ。それが手違いで、今までのうのうと生き延びやがって……。ふざけてんじゃねーぞ!」
 さっきまで穏和な喋り方から一変して、乱暴な怒声を叩き付ける。
(あ……うち、コイツ知ってる……)
 綾の頭の中で断片的な記憶が繋ぎ合わさっていく。それは普通に生活していたらまず出会うことのないパズルのピース。短絡的で直情的な、精神の不安定な男。綾は小学校の時、この男と会っている。
 そして――殺されかれた。
「い、いやあぁぁぁぁぁぁ!」
 名状しがたい不快感と嫌悪感が綾を襲う。
 両目に涙を浮かべながら綾は男に背中を向け、全力で逃げ出した。

◆綾の過去◆
 息が詰まる。喉が乾燥して鉄錆の味が舌に伝わってきた。
「はっ! はぁ! はぁ!」
 助けを求めて懸命に走り続ける。だが誰にも出会わない。駅から徒歩で四十五分もあるような辺鄙(へんぴ)な場所だ。あやかし荘という居住用の建物が有ること自体、不思議な程人里離れた場所だった。
「思い出すよー、綾ちゃーん。昔もこうやって、追っかけっこしたよねぇー」
 背筋が凍るような男の声。先程までとは違い、明確な狂喜を孕んでいる。
(追っかけっこ……)
 男の発したフレーズが、綾の封印した過去の記憶を掘り起こした。
 確か十年程前。綾がまだ小学校低学年の頃だ。今と全く同じ状況に自分が置かれていたことがあった。
(誰や……アイツ誰なんや……。うち知ってる、絶対に知ってる……)
 ――目の前を紅く紅く染め上げる鮮血――
 突然、綾の網膜にそんな映像がフラッシュバックした。
 顔を伝い、制服を赤黒く染めていくドロリとした生暖かい液体。声も枯れんばかりに泣き叫びながら、壊れた蛇口のよう吹き出す血を茫然自失となって見ていた。
「あーやーちゃーーん」
 男の声が近くなった。恐る恐る肩越しに後ろを振り返る。
 両目に凄絶なモノを宿し、口をいびつな形に歪めながらは、男はすぐ後ろまで迫ってきていた。触手のように伸ばした両手が、今にも自分の肩を掴まんと何度も何度も空を切る。
「い、いやああぁぁぁぁぁ!」
 腹の底から湧き上がる怖れに綾は自然と悲鳴を上げていた。
「っあ!」
 その拍子にバランスを崩し、体が大きく前傾する。
 急速に変化していく視界に体がついて行かなかい。だが、それでも半ば本能的に両手を前につきだして顔を庇った。
 堅いアスファルトの感触。皮膚が削げ、焼け付くような痛みが手の平にわだかまった。
「さぁ、追いかけっこはもうお終いにしよう」
 男は息を切らし、肩で呼吸しながらも、目の奥の狂喜をさらに増幅させて綾を見下ろしている。
「覚えているかい? この傷」
 尻餅をつき、地面を這うようにして後ずさりしようとする綾。その脚を男は踏み付けて留まらせ、顔を近づけた。
「っぁ!」
 男の足の下敷きとなった右足の甲。その痛みに綾は顔を歪ませる。
「覚えているかと聞いてるんだ!」
 さっきまで浮かべていた薄ら笑いが一瞬にして消え去り、男は激昂して綾の胸ぐらを掴み上げた。
 男が見せたのは額に横走りした大きな傷。七針は縫っているように見える。
 ――右手に石の感触。ソレを無我夢中で振り上げ――
 再び、過去の映像が綾の脳裏に蘇った。
「あ、あんた……」
 思い出した。完全に。
 この男は異常性癖の持ち主。当時小学校二年生だった綾に暴行を加えようとした。
 綾は逃げたが袋小路で追いつめられ、今と同じように尻餅をついて男に詰め寄られていた。舌なめずりしながら綾の躰をくま無く鑑賞する男。綾は心底怯えながらも、後ろについた手がいつの間にか石を握っていることに気が付いた。
 そして、ソレを思い切り男の頭に……。
「思い出しようだねぇ、綾ちゃん。キミのせいで僕は一生消えない傷を負わされた。さて、どうしてくれるんだい?」
 男は更に顔を近づける。臭い息が綾の鼻にかかった。
「キミみたいな乱暴な女の子は死んだ方がいい。そう思うだろ?」
 男はスーツの内ポケットからナイフを取り出す。刃に舌を這わせ、嬉しそうに顔を歪めた。
「あの時、殺し損ねたのは僕もまだ幼かったから。でも今は違う。僕には力がある。キミを殺すくらい訳ないんだよ」
 ククク、と低い声で笑いながら、男はナイフの腹でピタピタと綾の頬を軽く叩く。
「あ……ああ……」
 頬に伝わる無慈悲な冷たい感触。
「いいねぇ。いいよ、その表情。最高だ。今まで待った甲斐があった。キミが僕の事なんて忘れ、平和を心底満喫しているこの時まで」
 ナイフの刃が綾の頬に添えられる。それが、す、と引かれた。
「さぁ、お別れしなよ。優しい優しい、あやかし荘のみんなと。もう会えなくなるんだよ?」
 幸せが大きければ大きいほど、そこから突き落とされたときの衝撃は増加する。この男は綾が幸せになるのを待っていたのだ。ソレを力一杯、崩壊するために。
「お別れはすんだかい? じぁ、そろそろ死になよ!」
「お前がな」
 甲高い奇声を上げ、ナイフを振り上げた男の手を刀が貫いた。
 カラン、と乾いた音を立て、ナイフが地面に落ちる。そして吹き出す鮮血。
「ぎ、ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 一呼吸ほどタイミングが遅れて、男の絶叫が辺りに響いた。
「お久しぶりですね、綾さん」
 にこやかな笑顔で助けに入ってくれた男は言う。見覚えがあった。
「……し、忍……」

 加藤忍。職業不明。神出鬼没で、たまにあやかし荘にも顔を出し、三下忠雄をからかって帰る。
「あんた、どうしてココに……」
 いきなり現れた救世主に体の力が抜ける。震える指先で忍を指しながら、綾は大きく目を見開いた。
「いやぁ、本当はもう少し早く助けたかったんですか、私の予知能力も万能ではないもので」
 耳元で切りそろえた髪の毛をかき上げながら忍は小さく笑い、とぼけたような表情を浮かべてみせる。
「は? 予知……?」
「いえいえ、コチラの話です」
 忍は持っていた抜き身の刀を鞘に戻し、真剣な顔つきになって男を見下ろした。
 男はうずくまり、流れ出る右拳の血を必死になって止めようと、左手で強く抑えている。
「このクズ野郎。綾さんの顔に傷を付けた罪は重いぞ」
 いつになくドスの利いた声で、忍は男の顎を蹴り上げた。
 抵抗らしい抵抗もせず、男は仰向けになり怯えた表情で忍を見上げる。
「たっ、助けてっ。ほ、ほら。見てくれよ。血だ。こんなに血が!」
 傷つけられた自分の右手をアピールしながら、男は忍に許しを懇願した。
「お前は綾さんに何をしようとしていたのか……分かっているのか?」
 目を細め、忍は憤りも露わに男を睥睨する。「ひっ、ひぃぃぃ」と情けない悲鳴を上げ、男は脚だけで後ずさりした。
「綾さん。コイツどうしますか? 貴女が望むのでしたら、死なない程度に痛めつけて差し上げますよ?」
 忍の声は本気だ。綾が頷けば間違いなく半殺しにするだろう。そして恐らくは、忍も綾に頷いて欲しいと思っている。しかし――
「ええわ、別に。こんな、しょーもない男にあんたが手ぇ汚すこと無いやろ。後は警察に任すわ。それより、あんたこそ捕まらんよーにしーや。銃刀法違反の上、傷害罪やで」
 ここでこの男を痛めつければ、男は綾に対してさらに恨みをつのらせるだろう。そうなればまたいつか復讐を企てるかもしれない。綾はそれが恐かった。四六時中ボディーガードに守られて過ごすなど、まっぴら御免だ。
「そうですか。まぁ貴女がそう言うのでしたら」
 少し残念そうに、忍は肩の力を抜く。
 綾は男につけられた左頬の傷口を乱暴に拭い、無理矢理気丈な顔つきになって立ち上がった。そして悠然と男の前に立つ。
「これで見逃したるから、二度とうちの前に現れるんやないで」
 ぎゅっ、と歯を食いしばって震える口元を抑え、綾は男に凄んだ。
「は、はぃぃ! も、もぅ二度と!」
 土下座し、男は額を地面に擦りつける。
 フン、と鼻を鳴らし、綾は携帯をとりだして警察へと連絡を入れた。

◆過去を乗り越えて◆
 自室でワイングラスを傾け、忍は目つきを鋭くして虚空を見つめていた。
 一週間前。綾を助けた後からずっと心にわだかまった、嫌な予感がいつまで立っても拭い去れない。それどころか日に日に大きくなっていく。
 あの狂気的な男は今頃、冷たい牢屋で臭い飯を食べているはずだ。
 なのに何故。
 事件はまだ終わっていない。忍の直感がそう告げていた。
(綾さんの側にいなければ)
 霊刀『夜魔王』を取り、忍はあやかし荘へと向かった。

「加藤忍だな」
 人気のない閑散とした場所。あやかし荘まであと十分といった場所にある、開けた空き地で忍は後ろから声を掛けられた。
 随分と前から尾行されていることは気付いていた。だから、おびき出したのだ。動きやすい場所に。
「なるほど。実に分かり易い行動だ」
 不敵な笑みを浮かべ、忍は後ろを振り向く。
 そこにいたのは十数名の男達。黒いスーツに身を包んだリーダー格の男を筆頭に、目つきの悪いチンピラが様々な得物を片手に構えている。
「お前が坊ちゃんの右手を刺した。間違いないな?」
 サングラスを取り、リーダー格の男は低い声で確認した。
 『坊ちゃん』というのは綾を襲ったあの男のことだろう。明らかにカタギではない雰囲気を持つ目の前の男から察するに、どうやらヤクザの息子だったようだ。
「だったら?」
 『夜魔王』に手を掛け、忍は重心を僅かに低くする。
「殺す」
 それが合図だった。
 男は懐から拳銃を取り出すと、躊躇うことなく引き金を引く。銃声は殆どない。サイレンサー付きらしい。
(左胸)
 予知能力により、あらかじめ感じていた弾道の位置から体を外す。そよ風を残して弾は忍の後ろへと消えていった。
「ちっ!」
 男の舌打ちと共に立て続けに放たれる凶弾。それらすべてを冷静に見切り、忍は男との距離を詰めていく。
(右脚元。左目。鳩尾。額)
 一つかわすたびに一歩。二つかわして三歩。間合いを詰める速度を加速度的に上げて行く。そして九つ目の弾丸をかわしたところで、忍は『夜魔王』の射程範囲内に男を捕らえた。
「ふっ!」
 丹田に乗せた気合いと共に抜刀する。鞘を滑り、居合い抜かれた『夜魔王』は正確に男の右手に命中した。
「ぎゃ!」
 悲鳴を上げて男は銃を落とし、右手を抑えてうずくまる。
 今は『夜魔王』の刃と背を入れ替えている。いわゆる逆刃の状態だ。手首を切り落とされてはいないにしろ骨は粉々だろう。
「どうした。ザコはザコらしく、大勢でかかってこいよ」
 痛みに打ち震える男を足蹴にしながら『夜魔王』を鞘に収め、忍はかかってこいとばかりに指を軽く折り曲げて、残ったチンピラ達を挑発した。
「て、テメェ!」
「ぶっ殺してやる!」
 銃撃を顔色一つ変えずに避けた上、自分達のリーダーを倒された。その恐怖を押さえつけるためか、無意味に大きな声を出しながら、チンピラ達は一斉に忍に襲いかかった。
(遅い……)
 以前、とある異界に迷い込んだ時に不死の眷属の戦ったが、アレと比べると動きが止まって見える。予知能力など使うまでもない。
 長いドスを振り上げたチンピラAの懐に半歩踏み込み、相手のタイミングをずらす。一瞬の戸惑い。だが忍にとってはそれで十分だ。
「あぐぁ!」
 自分の腹にめり込んだ『夜魔王』の柄部に覆い被さるようにして体をくの字に曲げ、チンピラAは気を失った。その影に体を屈めて身を隠し、鋭角的な動きで左手のチンピラBの真っ正面に立つ。
「な――」
 拳銃を構えようとした姿勢のまま固まり、彼は驚愕に目を見開いた。
 当然だろう。瞬発力が人間のモノではない。
「オヤスミ」
 笑みすら浮かべた忍の膝が鳩尾にきまる。低い呻き声を上げ、彼は悶絶した。
(後ろ)
 背後に感じた二つの気配を鋭敏に察知し、忍は右脚を軸に流れるような動きで外側に反転する。振り下ろされた二本の木刀が、先ほどのチンピラBの脳天に炸裂した。
『あ……』
 チンピラC、Dが声を揃えて短く呟く。その時にはすでに忍は二人の後ろに回り込んでいた。
「不意打ちとはこうやるんだ」
 講弁しながら右の手刀を素早く、そして正確に二人の延髄へとたたき込む。白目を剥き、糸の切れた人形のように崩れ落ちていく彼らを後目に、残のチンピラに目をやった。
 皆、得物を持って構えてはいるが、かかってくる気配はない。
 実力の違いが分かったのだろう。忍が『夜魔王』に手を掛けた次の瞬間、さっきまでうずくまっていたリーダー格の男を含め、残った全員が背中を向けて無様に敗走を始めた。
「つまらん……」
 嘆息し、あやかし荘に向かおうとしたその時、下劣な声が忍ぶの鼓膜を揺さぶる。
「まったく、役に立たない奴らだ」
 声のした方に振り向く。忍の背後、約十メートル。右手に包帯を巻いた男がいた。
 綾を襲った異常嗜好の持ち主だ。
「貴様……」
 ギリ、と奥歯を噛み締め、忍は敵愾心(てきがいしん)を剥きだしにして男を睨み付ける。
「おっと、変な気は起こすなよ。綾ちゃんの頬の傷が増えることになるぞ」
 綾の腕を背後からねじり上げ、男はナイフを見せつけた。
「忍……」
 苦しそうな声を上げる綾。痛みのためか、額にはうっすらと汗が滲み出ていた。
「本当はお前が痛めつけられている前で綾ちゃんを犯そうと思ったんだが、残念ながら計画を変更せざるをえなくなった」
 苦言を呈するが、それでも顔は愉悦に歪んでいる。圧倒的優位な立場に立った強者が弱者をいたぶるときの顔だ。
「どうやって外に出てきた」
「言ったろ。僕には力があるって。警察を丸め込むのなんか、パパにちょっと頼めばアッという間さ」
 綾の喉にナイフを当て、男はゆっくりと忍の元に歩み寄ってくる。
「綾ちゃんはわりとすぐに捕まえられたよ。どこの財閥の令嬢か知らないけど、ガードが甘すぎるんじゃないのか?」
 口の端をつり上げ、悪魔的な笑みを作って見せる。
「けど、お前の居場所はなかなか分からなかった。今日みたいにノコノコ出て来てくれて助かったよ」
 綾が逃げ足さないようにチラチラと彼女の方を見ながら、男はついに忍の目の前まで来た。
「僕がこれから何をやろうとしてるか、分かってるんだろうな」
 忍は胸中でほぞをかむ。なんたる失態だ。女性を人質に取られるとは。
「分かってるんなら返事しろ!」
 怒声と共に男の爪先が忍の腹に突き刺さった。
「ぐっ」
 鈍い痛みが腹筋に浸透してくる。
「忍!」
「じっとしてろ! このクソ女!」
 綾は男の手を振りほどこうとするが、逆に更にきつくねじ上げられた。
「っあぁぁぁぁぁぁ!」
 無理な方向に腕を押し上げられ、綾は悲痛な叫び声を上げる。
「やめろ! クズ野郎!」
 叫んだ忍に、男は怒りに顔を染めて目元を痙攣させた。
「テメェ……今、何て言った! お前にそんな事言う権利が有るとでも思ってんのか!」
 完全に逆上し、男は力任せに忍の腹を、脚を、腕を蹴り上げる。
「どうした……そんなナヨナヨした蹴りじゃあ、日が暮れるぞ……」
 片目をつむり、忍は弱々しい声で男を罵倒する。
「テ、メエェェェェェェ!」
 その挑発に乗り、男は脚に力を入れやすいように綾を右脇に捕らえなおして忍に蹴りを見舞い続けた。
(綾、さん……貴女の手で断ち切るんだ……)
 男の蹴りが当たる直前に僅かに体を動かして急所を外しているとはいえ、何度もやられるとダメージは蓄積してくる。
(いつまでも怯えてないで……さぁ、過去の悪夢と決別しよう)
 苦痛に顔を歪めながら、忍は綾と視線を合わせた。
「忍……」
 その目から何かを汲み取ったのか、綾の顔つきが変わる。
(そうです。貴女はそっちの顔の方が良く似合う)
 意志の強い眼差し。強靱な精神力を内包させた綾の目を確認した忍は満足そうに微笑み、右後方に倒れ込んだ。
「ざまぁみろ!」
 それを倒したと勘違いした男が、満面の笑みを浮かべる。
 ――そして、綾を捕らえていた右腕が僅かに弛んだ。
「はあぁぁぁぁぁぁぁ!」
 一瞬の隙をついて綾は男の腕から逃げ出し、さっきまで自分を束縛していた右腕を掴んで体を沈める。
「な――」
 両手で男の右腕を前に引っ張りながら彼の体を腰に乗せ、長い足を力一杯伸ばした。
「せやああぁぁぁぁぁぁ!」
 男の体が綾の背負い投げで宙に浮く。空中で反転し、背中から地面に叩き付けられた。受け身を取ることすら出来ない。
「コイツでとどめや!」
 起きあがろうとさえしない男の足下に綾は回り込むと、思い切り股間を蹴り上げた。
「ーーーーーーーー!」
 声にならない声が空き地に響く。
 そして男は白目を剥いて、気を失った。

◆エピローグ◆
「あんたにはえらい世話になったなぁ」
 あやかし荘の二階。綾の部屋に忍は招かれ、手当を受けていた。とは言っても痣になっている部分に湿布を貼ることくらいだが。
「いえいえ。綾さんが無事なら私はそれで充分ですよ」
 ジャケットを羽織りなおし、忍は人の良い笑みを浮かべてみせる。随分とボロボロになってしまった。お気に入りだったのだが仕方ない。綾を守るためだったのだ。
「それにしても背負い投げに金的とはね。実に鮮やかな連続攻撃でしたよ。アイツも、さすがに懲りたでしょう」
「ああ。あのアホはもう二度と日本に戻って来られへんようにしたったしな」
 ――あの後。綾が携帯でどこかに連絡をすると、十分ほどでヘリが到着した。中から白いスーツにを身を固めた屈強なガードマン達が現れ、気絶している男を運んでいったのだ。あれからどこに連れ去られたのかは知らないが、ロクな場所でないことは確かだろう。さすがに金持ちのやる事はスケールが違う。
 相手が日本の裏に通じているなら、外国に飛ばせばいい。目には目を、と言うヤツだ。
「でも、あんたにはホンマ感謝してんで。コレでもうアイツに怯えんですむわ。あんたのおかげや」
「いえ。あれは正真正銘、綾さんの力ですよ」
 綾は助けられたのではない。自分で窮地を乗り切って見せたのだ。忍はそれにほんの少し手助けをしたに過ぎない。
「なー、あんた。なんか欲しいモン無いん? 何でも、こーたるで」
「そんな別に結構ですよ。私は私の仕事をしただけですからね」
 女性に対して常に紳士で居続けること。それも忍にとっては仕事の一つだ。
「けど、それやったらうちの気ぃおさまらへんねん。ホンマなんかないん?」
「そうですねぇ……」
 そこまで言われては仕方がない。
 忍はたまたま思いついたモノを口に出した。
「それじゃあ缶コーヒーを一つ、頂けますか?」

 例の事件が解決してから三日後。忍は自室で途方に暮れていた。
「おかしいなぁ……」
 目の前に山積みになった数十箱の段ボールの山を見ながら、頬をかく。
「一つって言ったのになぁ……」
 段ボールの中身。それは缶コーヒー十年分。
 どうやら綾に取っての『一つ』はこれだけの量らしい。これでは「まぁ、お一つどうぞ」なんて軽い言葉を何回も言われた日には、家が倒壊しかねない。
「まぁ、綾さんらしいと言えば綾さんらしいけど」
 苦笑しながら、忍は一本目の缶コーヒーに手を付けたのだった。

 【終】

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号:5745 / PC名:加藤・忍 (かとう・しのぶ) / 性別:男性 / 年齢:25歳 / 職業:泥棒】

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■         ライター通信          ■
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 どうもこんにちは。加藤忍様。五回もの御発注ありがとうございます。
 『天王寺綾の過去−デジャヴュ−』いかがでしたでしょうか。かなり忍様を格好良く書き上げられたのでないかと思っております。やっぱり、ヒーローはヒロインのピンチに登場しないとね(笑)。忍様のような曖昧なプレイングは大歓迎です。私も考え甲斐、書き甲斐があるというモノ。
 十年分の缶コーヒー、ゆっくりとご賞味あれ(笑)。また近いウチにお会いできることを願って。では。

 飛乃剣弥 2006年2月1日