|
早津田
フィクションよろしく、がば、と起き上がるところだった。
早津田恒は、汗みずくで目覚めた。
障子の向こうではスズメがさえずり、太陽が部屋を明るく照らしている。今日は平日だ。学校に行かなければ……。
いつもの癖で、慌てて、恒は時計を見た。いつもなら、ここで「やっべ!」と叫びながら布団から飛び出しているところだ。しかし、気がかりな夢に叩き起こされたためか――目覚めは、いつもよりも1時間以上早かった。
夢。
「あの人を死なせるわけにはいかない」
「なんだと」
「この街を――街そのものを、呪詛返しに使う!? 莫迦な! ……なにを、莫迦な!」
「あの人を、死なせる、わけには――」
恒が近頃見る夢の中では、いつも、そんな会話が交わされていた。とうの昔に交わされた会話なのか、はたまたどこかの未来で交わされるものなのか。誰と誰が話しているのかもわからない。なにを話しているのかもわからない。
ただ、そんな話が見えない話の中に投げ出されているというのに、どうしようもない焦燥が胸を焼くのは確かなのだ。痛みと苦みが胸を突き、絶望の果てに判断を下す。取り返しのつかない判断を。
背景も、色も、時さえも見えない夢の中、おぼろげな会話が、おぼろげなあらましを恒に囁きかけてくる。
呪詛だ。
早津田家は、古今東西の呪詛と向かい合い、呪詛とともに生きねばならない宿命を持っている。夢をみていてもなお、早津田は呪詛に触れている。
恒は、いつもそこで気がつく。
街ひとつを天秤にかけるという、途方もない決断に、反発しながらも妥協している、その声は――
早津田恒の、ものなのだ。
近頃見る夢は、いつもそこで終わった。血を吐くような絶望の声が、自分のものであることに気づくと――途端に、恒は目覚めるのだ。きまってひどく寝汗をかいて、息を弾ませながら。
またこの夢だ、と頭をかきながら、恒は顔を拭って、部屋を出ようとした。
「ぁ、いッ――!」
突然の痛み。
胸だ。
左胸。
五寸釘や杭を心の臓に打ち込まれたら、こんな重くするどい痛みを味わうのだろうか。むろん、刺された経験などない恒であったから、そのたとえが正しいのかどうかはわからなかった。
寝巻きにしているTシャツをまくりあげて、恒は自分の胸を見た。……なにも、異状はないように見える。傷も、痣もない。そして、痛みはまるで嘘のように消えていた。
夢のつづきを見ていたのではないかと、拍子抜けするほど、恒の身体は健康だ。
「……」
どうかしている、と恒は呆れたが、同時に怖くもなっていた。二度寝に入る気にもならない。早朝ではあるが、ひと風呂浴びようかと、立ち上がった。夢と痛みのせいで、彼の身体は不愉快な汗に包まれていた。
恒の父、早津田玄の朝は早い。少なくとも午前6時には目覚めており、さっさと支度を整えている。夏の、日の出が早い時期ともなれば、5時台に起きることさえあった。
秋だろうが冬だろうが、玄が朝のうちにやることと言えば、庭で乾布摩擦だ。玄の身体のあちこちでは痣や腫瘍が見られる。彼はあまりそれを他人や息子に見せる気がないのだが、午前6時の庭で上半身をさらけ出したとして、誰かに見られる心配はなかった。庭は塀と庭木で囲まれているし、息子は昔から早起きをしない。
玄のその痣や出来物は、痛々しく醜い見かけとは違って、玄に苦痛をもたらすことはほとんどない。それらは病や傷がもたらしたものではなかった。
呪詛がかたちを持ってあらわれているだけの話だ。
彼の――正しく言えば早津田の血や知識が、呪詛という呪詛を無力化してしまう。やむなく玄が引き受けた呪詛は、玄を滅ぼすことも苦しめることもできずに居座っている。
ただ、
左胸の、ひときわ色濃い痣はべつだ。
この痣は、ときおり玄に『痣の存在』を認識させる。まるで呪詛が、自己主張をしているかのようだ。左胸の痣は、まれに、しくりと痛むことがあった。悲鳴や呻き声を上げるほどの痛みではないにしろ、気を留めてしまうのは確かだ。玄は、この胸の痛みが忌々しい。
乾布摩擦をして温まった身体の奥が、しくり、と痛んだような気がした。
けれども、いつものことだと玄は深く考えず、着流しの袖に腕を通す。
古い縁側を通る足音がした。
ぎしり、ぺたり、ぎしり、ぺたり――
裸足が縁側を歩んでいる。
振り向いた玄は、驚いてしまった。珍しいこともあるものだ。髪を寝癖でくしゃくしゃにした恒が、あくびをしながら歩いている。
「オウ」
思わず玄は、息子にそう声をかけていた。
「なんだ、やけに今朝は早ェじゃねェか」
いつも、「やっべやっべ」と悪態をつきながら、どたばたと支度をしてあたふたと学校に向かう(しょっちゅう忘れ物をする原因のひとつだ)のが、玄の息子というものだ。近くに時計の類はなかったが、恒がいつもよりずっと早く起きているのは確かだった。のたのたと余裕で風呂場に向かう余裕があるのも頷ける。
しかし、玄の挨拶は恒にとって、大きなお世話にすぎなかった。むっとした顔で言い返す。
「早起きしちゃ悪いのかよ」
「そうは言ってねェだろう。珍しいこともあるもんだ、ってエことだ」
「あーあー、どうせいつも遅いスよ。今日は大雨になる、とか思ってんだろ」
「わかってンじゃねェか」
「あッたまくんな!」
しかめっ面でそう吐き捨てると、恒は大股で風呂場に向かっていった。
恒が早起きをするとは。今日は大雨だ。
玄がそう思ったのは事実だが、見上げてみれば、空は雲の切れ端ひとつない青一色だった。
しかし、玄は恒の父親だった。最近は――いや昔から、なのかもしれない――まともに会話を交わしていない。会話をしようとしても、どういうわけか途中から口喧嘩になってしまうのだ。
それでも、玄は恒をよく知っているつもりだった。恒は、わかりやすい若者だ。
なにかあったのだ――
なにかがあって、恒は早くに目を覚ますはめになったのだ。
玄にはそれが、わかっていた。
風呂に入って、さっさと汗を流し、着替えている間も、恒の脳裏から夢の残滓は消える気配を見せなかった。まるで、忘れるなと言わんばかりに、記憶にしがみついている。
夢の中での会話は、『自分』たちが交わしていたものだった。
けれども、そんな会話を実際に交わした覚えはない。
未来を見たか。
それとも……過去か。
過去。はるか昔、早津田恒が生まれる前の時代。
「――まさかな」
ひょっとして、と導き出したファンタジックな推測を、恒は髪を拭きながら笑い飛ばした。恒は、前世というものを信じていなかった。信じていないのに、そんな推測をした自分がおかしかった。
――でも、待てよ。
誰かの魂や記憶が、新たな命に引き継がれるはずはないとは思う。
けれども、血や遺伝子はどうだろうか。
早津田の血が、かつての焦燥と絶望、決断と苦痛を記憶していたとしたら――。
なにせ、早津田の血は『普通』ではないのだ。恒には破邪の力が備わっているし、父の玄は呪詛を無力なものにしてしまう。科学では説明できないなにかが、血や遺伝子の情報の中に詰まっているとしか思えない。
「……そーゆーのを、矛盾っつーんだよ」
前世は信じないが、血の力は信じる。
そんな自分が、どうにも、信じられない。
「なンか俺に言うこたアねェのか」
玄のするどい黒い瞳に射抜かれて、恒はあえなく白米を喉に詰まらせた。
納豆、味噌汁、白飯、漬物に、焼いた鮭。早津田家の『純和風』はなにもその家屋だけではない。恒はこの日、ゆっくり、のんびりとこの朝食をとることができていた。早起きのおかげだ。
しかし、その早起きの理由を、玄に言うか言うまいか迷いながら食べていた。
この空気では、言わなければならない。玄の猛禽の目には、なにもかもお見通しだ。だが恒は、そこで無意味に、いつものように反発していた。
「なんだよ、いきなり」
「てめェはわかりやすすぎて駄目だ。なンかあったんだろ。また赤点か」
「ちがう!」
「じゃア、なンだ」
「……」
恒は観念し、左手に茶碗、右手に箸を持ったまま、玄からは目をそむけて、ぽつりぽつりと『夢』のことを話した。玄も、味噌汁と箸を持ったまま、相槌も打たず、射るような眼差しで恒を見つめ、黙って息子の話を聞いた。
洗いざらい話したあと、恒はそろそろと玄に目を向けた。玄はいかめしい顔で、口を真一文字に結んでいた。
「血だ」
まず、玄はそう言い放った。
「阿呆が。てめェはなンにも考えねェで力使ってるが、その力は早津田のモンだ。使えば使うほど、血が目を覚ましてくンだよ」
「それって、ヤバイのか?」
「ヤベェかどうかなんて問題じゃアねェ。覚悟の問題だ。血が目覚めれば、てめェは『早津田』を継ぐことになる。この力は――継ぐか継がねェか、自分で決められる、ってエことになるかもしれねェ」
そこでようやく、玄は箸と碗を置き、いつもの癖で、銀の顎鬚を撫でた。
「てめェは力を使ってる。ってェこたア、真面目に修行もしてねェが、心のどっかで、この血を継ごうと考えてるってことかもしれねェな」
「……」
「ま、じいさまもそのまたじいさまも、本当は継ぎたくなかったのかもしれねェ。俺だってな――若ェ頃は、ちったア迷ったこともあったさ。だが、結局早津田の血は途切れてねェ。俺がいて、てめェがいる。宿命だとか……運命だとか……必然だとか……そういうモンを、俺たちは背負ってるのかもな」
「宿命だなんて、そんな。……大げさだ」
「ま、どうにもならねェことになりゃア、てめェも決められるさ」
「なにを」
「それを、てめェで考えろ」
「……」
もう一度、恒は玄から目をそらす。その目がとらえたのは、皮だけになった鮭、漬物、あとひと口ぶんの白飯が残った茶碗、味噌汁。
そろそろ支度をして、そろそろ学校に行かなければならない。早起きで得られた時間は、もう幾許も残っていなかった。
「家業のこと……もうちょっと、真剣に考えてみっかな」
ふと、自分に突き刺さる視線がいっそうするどくなった気がして、恒は上目遣いに父を見た。案の定、父は眉間に皺を寄せていた。
「あ、いや、真剣に考えます」
今度は、玄が恒から目をそらす。
「……けッ」
父親は、渋面だった。けれども、恒の覚悟に、茶々を入れるような真似はしなかった。
「さっさと学校行け。せっかく早起きしたってのに、遅刻するつもりか?」
「わかってるっての!」
かかかか、と残りの朝食をかきこんで、恒は立ち上がる。
「ごちそーさん!」
玄は、冷め始めた朝食に、しばらく手をつけようとはしなかった。恒が身支度を整えて家を出て行っても、まだ顎を撫でていた。
いろいろと――いまから覚悟を、決めていた。
〈了〉
|
|
|