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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


今年こそはと勇ましく


 今年のバレンタインデーに、葛城伊織は携帯電話を忘れなかった。
 去年は、うっかり携帯を忘れて、一緒に2月14日を過ごす予定だった恋人と連絡を取れなくなったのだ。苦い思い出だったが、……甘い思い出でもある。連絡は取れず、街でデートの予定もお流れになってしまったが、伊織は恋人とふたりきりの時間を過ごすことができた。
「……そうだった!」
 去年のバレンタインの記憶が、まざまざとよみがえってくる。
 ふたりきりの時間を過ごすことはできたが、よくよく考えてみると、「いいバレンタイン」だったとは言いがたい。伊織の恋人は仕事で無理をしすぎたせいで風邪を引き、よりにもよってバレンタインデーに、自宅で倒れてしまったのだ。伊織が、そんな恋人をつきっきりで看病した――そんなバレンタインだった。
 今年は倒れていやしないだろうか。
 伊織は不安になった。彼の恋人は、去年と変わらず、ここ最近もずっと忙しそうだった。もしかしたら、と考えてしまうのも無理はない。
 けれども、伊織は結局、携帯を使わなかった。どのみち、彼は新宿に――『胡弓堂』に向かっている。今日も想い人が店番をしているはずの、雑多な調達屋に。
 道すがら、彼は評判も名前も知らない花屋で花束を買った。店先の花が生き生きしていたし、店員の愛想もよかったから、たまたまその店を選んだ。愛想のいい店員は、丁寧に、かわいらしく、花束を包んでくれた。
 ブーケのように。


 もちろん、光月羽澄が忘れるはずもなかった。
 自分が招いた、去年のバレンタインの失態を。若いんだから大丈夫、という過信が、結果として彼女を打ちのめすことになってしまった。仕事に入れ込みすぎて、自分の身体のことも顧みなかったせいで、羽澄は大事な日に倒れてしまったのだ。
 入院するほどの大事には至らなかったが、バレンタインの予定はお流れ。
 恋人には、悪いことをした。
 自分はひとりではないのだということを、あらためて考えさせられもした。倒れると、苦しむのは自分ばかりではない。
 だから今年は、気をつけた。あまり無理をしないように、けれど仕事は好きだから、そのジレンマを手なずけながらスケジュールを組んだ。2月14日には、万全の体調で挑んだ。
 ――そう言えば、バレンタインだけじゃなかったんだった。
 記憶の糸を手繰り寄せると、悲惨なバレンタインの記憶のほかに、去年のホワイトデーの記憶ももれなくついてきたのだった。
 ホワイトデーも、羽澄は、仕事で疲れて眠ってしまったのだ。恋人とまったり時間を過ごしている間に、いつの間にか、恋人の膝を枕にして。
 他人から見れば、甘いホワイトデーかもしれない。けれど羽澄は、やはり、恋人に悪いと思った。バレンタインが散々だったのだから、ホワイトデーはまともに過ごしたい、と考えたはずだ。お互いに。その大切な日を、睡眠で潰してしまった。
 羽澄の想い人は、そんなあんまりなバレンタインとホワイトデーに、文句をつけたりはしなかった。こういうイベントがあってもいい、と笑い飛ばしていた。

 けれど、
 ……悪いことをした。

 ため息をつきながら、羽澄はチョコレートのラッピングを終えた。着替えは、もう済ませてある。
 タイミングを見計らっていたかのように、『胡弓堂』を――羽澄の想い人が、訪れた。


「うぃーす」
「ひどい挨拶」
「ひどい反応だな。ほれ、メリー・バレンタイン」
 それを言うならハッピー・バレンタインではないだろうかと、羽澄が伊織に突っこみを入れる余裕はなかった。伊織は笑顔で、赤とピンクの花でできたブーケを渡してきたのだ。気取るふうでもなく、照れている様相も見せず。
 羽澄は驚いて、緑の目を見開きながらブーケを受け取った。
「どうしたの、これ――」
「買ったんだよ」
「そんなこと聞いてるんじゃなくって、」
「お、準備万端だな。よし、行こうぜィ」
「ちょっ――」
 ブーケを持ったままだ。
 ブーケを持った手を、伊織が掴んだ。そのまま、ぐいっと引っ張られて――
 ブーケと一緒に、羽澄は『胡弓堂』をあとにしていた。

 羽澄と伊織のふたりがデートをするのは、べつに珍しいことではない。けれども、特別な、大事なデートの日に限って、いろいろと信じられないことが起きるのだった。ふたりは、自分たちが呪われているのではないかと思ったことさえある。クリスマスやバレンタイン、誕生日――そんな日に、熱で倒れたり、妖怪退治をするはめになったり。
 ふたりが出会った時と場所が、よくかったせいだろうか。宿命というものか。
 今年のバレンタインこそはと、ふたりはいやに意気込み、2月14日の街へ繰り出している。
 夕食時の繁華街では、心なしか、いつもより恋人たちの姿が目立つ気がした。
「今回は羽澄のほうが店探してくれたんだよな。大丈夫か?」
「下見にも行ったし、わかりやすいところにあるから大丈夫。いつかのクリスマスとは違うの」
「あのクリスマスはねエよな……」
「ないわよね……」
 いちばん新しいクリスマスの記憶に辿り着いて、ふたりは揃ってげんなりした。その下降したテンションも、羽澄が予約した和風創作レストランを目の前にしたときには、たちまちもとの通りの高さに戻ったが。
「おー、和食か!」
 落ち着いた、黒と焦げ茶が基調の店構えに、著名な書家が筆を取った看板。趣き深い引き戸。伊織が思わず歓声を上げた。
「伊織、好きでしょ?」
「好きってなモンじゃねエ。和食は呼吸だ。俺の生き様だ」
「大げさなんだから……。デザートの豆腐プリンが、とんでもなく美味しいの!」
「料理すっ飛ばしてデザートの感想を言うか!」
 しかし、きび入りご飯、くらげとツバメの巣の和え物、海産物のバター焼き、造り、牡蠣の田楽、ゆずの香りの吸い物、そして豆腐プリンは、すばらしく上品で、すばらしく美味かった。


 レストランを出たあとは、特にあてもなく、ふたりで街を歩いてまわった。しばらくは、レストランの中で流れていた琴の音色が耳から離れないような気がしていた。バレンタインとは対極にある音楽だったかもしれない。けれど、あのレストランの中でも、恋人たちの姿が目立っていた。
 いそいそと道を行くサラリーマンとは、違った時間の流れにいるかのように、恋人たちがゆっくりと行き交う。談笑しながら、手を繋いだり腕を組んだり、立ち止まって笑いあったり、街の明かりを背に話しこんでいたり。
 今日は正真正銘の、恋人の日だ。
 そんな当たり前の恋人たちの中に、羽澄と伊織がいる。
 ――なんだか、ヘンね。
 ――こうも普通にことが運ぶと、なんだか逆に不安になっちまうなア。
 ――なにも起きないのが当たり前なのに。
 ――日頃の行いが悪ィから、後ろめたいのか?
 ――このままずっと、今日こそ、普通でありますように。
 むかし、イギリス紳士の親友同士は、散歩をするとき、めったに言葉を交わさなかったそうだ。いまの羽澄と伊織も、かつてのイギリス紳士のように、黙って歩いている。目的も持たず、新宿の街を、ふたりで。
 なにかが起きるかもしれない、ということを、期待しているのではないが――案じてしまう。神経が張りつめるほどではないにしろ、奇妙な心境だった。今年こそは、普通に、恋人同士の時間を共有しようと勇んでいるのに、心のどこかではトラブルを恐れている。
 不思議だ。
 奇妙なものだ。
 しかし、ふたりはわざわざその思いを口には出さない。
 それに、もとトラブルが起きたとしても、「伊織がいたら」「羽澄がいたら」乗り越えられる確信がある。自信ではない。絶対に乗り越えられるのだ。いままで、ずっと乗り越えてきたのだから。
 羽澄はちらりと、無言の伊織の横顔を見た。街の明かりと車の明かりが、逆光になっている。はっきりとは見えないけれど、伊織がいまどんな顔をしているか、手に取るようにわかるのだ。
 真顔だ。
 きっと、自分と同じようなことを考えているに違いない。羽澄はそう思ったから、あえてなにも言わない。伊織とは、そういうことがわけなくできる間柄だ。
 ――これから、私、どうしたらいいの?
 伊織の横顔に問いかける。
 ――トラブルなんか、あったってなくたって、私たちは一緒。心が離れたことなんてないわ。だから、わざわざクリスマスとかバレンタインを特別扱いする必要なんてないはずなのに。……もしかして、私たちには、『特別』なクリスマスとかバレンタインがお似合いだって思ってる? ……思ってるのかも、しれないわね。
 言葉を交わす必要もないのに、どうして自分は、バレンタインデーにチョコレートを渡そうとしているのだろう。羽澄は、そうも考えた。
 そう考えたとき、伊織が――顔を羽澄に向けた。

 ――ああ。なんて深い黒。私とは違う目。でも、その目は、私のものでしょ? そうよね、伊織。

「なんだ、俺の顔、そんなに男前か?」
「……」
 いつものように茶化す伊織の目に、羽澄は魅入られていた。
 いつも見ている瞳のはずだ。
 どうして今日に限って、『特別』な目だと思うのだろう――。
「……これ」
 羽澄は本当にかすかな笑みを浮かべて、ラッピングしたチョコレートを伊織に手渡した。そのとき、いまさらのように、自分がブーケを持っていることを思い出したのだ。
 ずっとずっと、ブーケを持って歩いていた。この日を、過ごしていた。
「あげるわ。伊織」
「おう! どうもな」
 頬を喜びでゆるめた伊織は、いつもの伊織に違いない。中身がチョコレートだということを確信している。ここで開けるのも無粋だと、伊織はリボンを取り除けようともしなかった。
「手作りか?」
「どうだろうね。ご想像にお任せします」
「なんだ、どうして隠すんだよ」
「なんかで読んだの。男の人って、手作りのチョコもらったら実は結構引くって」
「誰だ、ンなこと言った奴ァ! ……俺たち男の評価をわざわざ下げるなんて、ひでエ裏切りっぷりだ!」
「あら、じゃあその説は本当なの?」
「俺はそうは思わねエぞ」
 きっぱりと言い切る伊織の目は、ごまかすことなく、羽澄を見ていた。
 羽澄は――笑って、信じることにした。ブーケをしっかり握り、伊織の腕を取って、上機嫌で歩き出していた。

 羽澄と伊織の、2月14日。去年も今年も、実は、悪いことなどなにも起きなかったのかもしれない。




〈了〉