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『零の想い人』
◆プロローグ◆
草間武彦は新聞に顔を埋め、ご機嫌で事務所内を掃除する零を盗み見ていた。
「ルーラララー♪」
鼻歌交じりに軽快なステップで零は箒を動かす。部屋の角を丁寧に丸く掃き、埃を掻きだしてチリトリで回収していった。
(おかしい……)
そんな様子を武彦は新聞越しに、さっきからずっと観察し続けていた。
零が突然機嫌が良くなったのは三日ほど前。ニコニコと笑顔を絶やすことなく、炊事洗濯をこなしていく。別に一日くらい上機嫌であっても何の不思議もないのだが、これだけ続くと何かを勘ぐりたくなる。
そして武彦の直感が告げていた。
(零のヤツ、きっと好きな人が出来たんだ)
零は心霊兵器という人工生命体ではあるが、人格には少女が適応されている。それに多感な年頃だ。異性に興味を持ったとしても何の不思議もない。
(零は俺の妹だ。その妹が幸せになる。兄として、これ程嬉しいことはない。しかし……!)
――しかし、何かが引っかかる。
心の奥底に澱(おり)のように沈んだ不純物。それが武彦に良からぬ妄想をかき立てさせる。
(零は人見知りせず、誰かを疑う事を知らない非常に良い子だ。だが、それだけに騙されやすい面がある! ここは相手を確認しなければならない! 兄として!)
いつになく鼻息を荒げて武彦は決意したのだった。
◆深まる疑惑◆
「なっ! なっ!? どう思う!? 絶対におかしいって! コレは大事件だ! 草間興信所始まって以来の難解な事件だ!」
目を血走らせ両手をブンブンと大きく振りながら力説する武彦に、シュライン・エマは額に手を当てて軽く頭を振った。
「武彦さん……いいから落ち着いて」
柳眉を伏せて瞑目し、シュラインは重い溜息をつく。
「だってあの機嫌の良さは普通じゃないって! 絶対に好きな人が出来たんだ! お前だって気になるだろ!?」
年季の入ったデスクに強く拳を打ち付け、武彦は熱弁をふるい続けた。
「俺だってそのことに関しちゃ嬉しいんだ! 素直に祝ってやりたい! けどな! 心配なんだよ! ひょっとしたら零はソイツに騙されてるんじゃないかって!」
「分かる……分かるから……」
シュラインの耳元で悲鳴に近い怒鳴り声をあげる武彦。理性を失ったかのようにまくし立てるその姿は、さながら人間騒音機。零を思いやる気持ちは確かに伝わってくるが、直情的な思考を押しつけられるのは、それ以上に鬱陶しい。
「考えてもみろよ! 零の性格を! いつ変なヤツに誘惑されたとしてもおかしく……!」
スパーン! という小気味いい音と共に武彦の声は止み、前のめりに崩れ落ちた。
「武彦さん。とりあえず冷静になりましょう? ね?」
どこから取り出したのかハリセンを片手に、シュラインはデスクに突っ伏した武彦を笑顔で見下ろす。目元が痙攣しているのが自分でもハッキリと分かった。
「は、はい」
こちらを見上げた武彦の顔が恐怖に引きつるのを確認して、シュラインはクッションの弱くなったソファーに座り直す。
「武彦さんが不安になる気持ち、私にもよく分かるわ。零ちゃんは人を疑うことを知らないから。でもちょっとは信じてあげてもいいんじゃない?」
背中まで伸びた長い髪の毛をかき上げ、シュラインは諭すような口調で武彦に言う。しかし武彦は不満そうに呻り、口を尖らせた。まるで子供がダダをコネるような仕草に思わず苦笑しながらも、シュラインはどことなく微笑ましいモノを感じた。
(まったく……人の恋愛にはこんな敏感なのに。私の想いはいつになったらに汲み取ってくれるのかしら?)
だってなぁ……と納得のいかない顔でタバコをいじる武彦に姿に、シュラインは観念したように嘆息する。
「はいはい。分かりましたよ。ちょっと過保護すぎるけど、零ちゃんは私にとっても大切な存在だもの。それとなく探りを入れてみましょうか?」
「本当か!?」
さっきまで暗かった表情を一転させ、武彦は満面の笑顔を浮かべて立ち上がった。
「ただし」
と、人差し指を立ててシュラインは武彦に念を押すように言う。
「調査は私に任せること。武彦さんが出てきたら、なんだかややこしい事になりそうだから」
その条件に武彦は眉間に皺を寄せながらも、渋々頷いたのだった。
次の日からシュラインの『調査』は始まった。
とりあえず零が買い物に出た隙を見て、リビングの奥にある彼女の部屋に忍び込む。悪いとは思いつつも部屋の中を一つ一つ丁寧に観察し、以前と違ったところがないかを確認していった。
ベッドに寝かされたウサギのヌイグルミ。三着しかない愛用のエプロンドレス。シュラインがいつかプレゼントしたオルゴール。百均で買った手鏡とリップクリーム。
別段、室内に変化はないように思える。
「あら」
と、鏡の隣に置かれた卓上カレンダーで目が止まった。
二月十四日に赤い星印のマーキングがされている。そしてソレまでの日付が一つずつ消されていた。今は二月七日。一週間後が零にとって何か特別な日であることは疑いようがなかった。
(バレンタイン?)
二月十四日といえば誰もが知っているバレイタンイン・デー。女性が男性に、愛情を込めてチョコレートを送る日だ。シュラインも武彦のために手作りチョコのデザインを考えていた。
(本当に誰か好きな人でも出来たのかしら)
その相手が武彦だと言うことは十分に考えられるが、それでもあの機嫌の良さは腑に落ちない。
「ただいま帰りましたー」
思索に耽っていたシュラインの耳に零の声が届く。どうやら買い物から帰ってきたようだ。
(まずいわ。まさかこんなに早く帰ってくるなんて)
リビングに来ればシュラインが今居る零の部屋はすぐに見える。事務所内にいる時はいつもウサギのヌイグルミを肌身離さず持っている零だ。すぐにでもリビングに上がって、部屋に戻ってくるだろう。そうなれば完全にはち合わせしてしまう。
「あ、兄さん。すいませんけど、またちょっと出てきますね」
事務所の方からそんな零の言葉が届いた。買い物袋を事務所内にあるキッチンに置く音がして、扉が開閉音が続く。そして小さな足音共に、零の気配は遠ざかっていった。
(とりあえず助かった……。けど)
胸中に疑念を残しながら、シュラインは零の部屋を出る。
「シューラーイーンー」
そして真っ先に飛び込んできたのは、滝のように涙を流す武彦の顔だった。思わず軽く悲鳴を上げて、後ずさりしてしまう。
「なー、最近いつもこうなんだよー。前は、すぐにお昼ご飯作ってくれたのにぃー」
確かに。ここ二、三日、零は買い物から帰ってもすぐにどこかへ行ってしまう。ほんの十分ほどで帰ってくるのだが、毎日どこへ行っているのかは不明だ。
「わ、わかったわよ。調べてみるから。ほら、鼻水を拭いて」
自分のハンカチを武彦の鼻に押しつけ、チーンとさせるとシュラインは零の後を追った。
零の脚はそんな速くない。裏通りにある事務所の入り口を出て、大通りにさしかかったところで零の姿を見つけた。楽しそうに鼻歌を歌いながら、信号待ちをしている。
(どこに行くつもりかしら)
電柱の影に身を隠して信号が変わるのを待ち、シュラインは人の波に紛れて零の後を付けた。
いつも零が通っている商店街を抜け、郵便局の角を左に曲がる。公園の中を通り、さらに交差点を二つほど越えた後、右に曲がった。
(っ!)
零の姿が塀の向こうに消えたところで不穏な気配を感じ、シュラインは後ろを振りむく。ガサッと紙の擦れる音を立てて、慌てて街路樹にもたれかかる人影が一つ。サングラスにベレー帽という怪しさ大爆発の格好で、新聞を逆さにして読みながら口笛を吹いている。
(武彦さん……)
シュラインは頭が痛くなるのを感じつつも、零と同じ角を曲がったところで立ち止まり、武彦が追いついてくるのを待った。そして首を伸ばして覗いた武彦の頭を、思い切りハリセンで叩き付ける。
「なっ……なっ」
いきなりの衝撃に目を白黒させながら、武彦はベレー帽を被りなおした。
「武彦さん……私が最初に言ったこと、忘れた訳じゃあないでしょうね」
「た、武彦とは、だ、誰のことかな?」
震える声で返し、武彦はサングラスの位置を直してシュラインから目を外す。
「それじゃあ零ちゃんを信じて、このまま放って置きましょうか」
「ゴメンヨー! 俺が悪かったー! お願いだから許してー!」
人目を気にせずシュラインに抱きついて懇願する武彦。どうせ抱きつくんなら、もっとムードを出して欲しいものだと思いながら、シュラインは武彦を引き剥がした。
「とにかく武彦さんは事務所で大人しくしてて頂戴。このままじゃ零ちゃんを見失っちゃう」
零の姿はすでにシュラインの視界にはない。だが、幸いなことにこの先は一本道だ。零が行こうとしている場所はあそこしかない。
肩を落として負け犬のように家路につく武彦を後目に、シュラインは神社へと向かった。
神社とは言ってもそれほど大きな規模ではない。小さな社と賽銭箱が有るだけの、こぢんまりとしたスケールだ。
零は賽銭箱の前に立ち、お金を入れて鈴をガラガラと鳴らした。両の掌を二回打ち、小さな声で何かを呟いている。
(何て言ってるのかしら……)
社を覆うようにして立林している雑木林の中に身を隠し、シュラインは気配を絶って零に近寄った。
「……さん、……か、願いします」
誰かの名前を呼んでいるようだ。しかし肝心の部分が聞き取れない。
シュラインは聴覚に全神経を集中させ、零の唇の動きをよく見る。その動きと合わせて、シュラインは耳を澄ませた。
「藤堂和也さん……どうか、お願いします」
確かにそう聞こえた。零は同じ言葉を繰り返し、何度も何度もお願いを続ける。それらすべてを聞き取り、シュラインも確信を深めていった。
(トウドウ・カズヤ――それが零ちゃんの想い人の名前?)
次の日。朝起きて事務所に顔を出したシュラインは何か違和感を感じた。
昨日まで無かった物が、スチールテーブルを図々しくも占領している。
「武彦さん……ナニコレ」
あきれ顔になり、シュラインはタバコをふかしながら新聞を読んでいる武彦に聞いた。
「見ての通り、目安箱だ」
昨日一睡も出来なかったのか、目の下に濃いクマを張り付かせ、充血した目で武彦はスチールテーブルに置かれた紙箱に視線を向ける。
五十センチ立方の白い紙箱の一面には『目安箱』と太い文字で書かれ、その下に『あなたのお悩みを聞かせてください。所長が親身になって解決します』と注意書きが添えられていた。
明らかに零の為に作られた物だ。
「武彦さん……頭、大丈夫?」
「だってぇぇぇぇぇぇ!」
この世の終わりのような声を上げ、武彦はデスクに顔を埋める。暗い影が後ろに見えた。
トウドウ・カズヤ。昨日、零がその名前を神社で言っていたと話すと、武彦は空気が抜けたように脱力した。それからは何を言っても上の空で、ご飯もろくに食べられなかった。結局、ボケた老人を介護するかのごとくシュラインがすべての面倒を見たのだが……。
「零ちゃん、心配してたわよ。兄さんの様子がおかしいって、私に相談して」
武彦の様子がおかしいのは零が原因だと言うことを知っているだけに、シュラインとしては力になりたくてもなれない。
(まったく……どうしてこう気苦労が絶えないのかしら)
まぁ別に良いんだけど、と付け加え、シュラインは自嘲的な笑みを浮かべてみせる。
「だいたい『トウドウ・カズヤ』って人が零ちゃんの好きな人って決まったわけじゃないじゃない」
零は神社でその人物と結ばれたいと明言したわけではない。『お願いします』と言っただけだ。その言葉の意味をどこまで深読みすればいいのか、シュラインには検討がつかなかったが、トウドウ・カズヤを零の想い人だと決めつけるのはまだ早い。
それにシュライン自身も気になることがあるのだ。
(トウドウ・カズヤ……どこかで聞いたことがあるんだけど。どこだったかしら……?)
知らず知らずのうちに耳に残ってる名前。零とシュラインに共通する人物。彼の正体がいったい何なのか。喉まで出かかっているのにはっきりとは思い出せない。
「シュライン……俺は、見てしまったんだ……」
そんなシュラインの思考を断ち切るように、武彦は沈んだ声で呟いた。一言一言発するたびに、魂が抜けていくように見える。
「見たって、何を?」
「マフラーだよ」
消え入りそうな声で言って、武彦は仕事用のデジカメをシュラインに差し出した。ソレを受け取り、撮影された写真を一枚一枚閲覧していく。
そこに映し出されたのは毛糸のマフラー。橙と蒼のチェック模様で、一番端に『TK』と刺繍されていた。
TK――トウドウ・カズヤのイニシャル文字。
「昨日の晩。俺が夜中にその目安箱を作っていたら、零の部屋から明かりが漏れていたんだ。で、覗いてみたらマフラーを編んでて……」
涙声になりながら、武彦は言葉尻をシャックリと共に呑み込んだ。
その後は大体予想がつく。零が寝静まるのをまって、コッソリそのマフラーを撮影したのだろう。
(証拠写真なんか撮って……後で問いつめるつもりかしら)
辟易した表情でシュラインは半眼になって武彦を見た。まさかココまでやるとは。
「なぁ、シュライン。少しくらい……俺に相談してくれても良いと思わないか?」
零と武彦。一応、兄と妹と言うことになっているが、武彦から見れば娘も同然なのだろう。草間興信所に来て、徐々に人間らしい仕草を見せるようになっていく零を見守るその顔は父親そのものだ。ずっと自分の手元に置いておきたい。そう願う気持ちは分からないでもない。しかし――
「女心ってのは、男の人が思っているよりずっと複雑なのよ。ねぇ、武彦さん。零ちゃんの成長を素直に喜んであげられないかしら」
なだめるような優しい口調。武彦が零を溺愛しているのはよく分かった。しかし零もいつかは自立し、独り立ちしていく日が来るだろう。その日のために武彦も心の準備をしなければならない。今回はきっと、その第一段階なのだ。
「シュライン……」
母性溢れるシュラインの言葉に心を動かされたのか、武彦の顔つきが変わっていく。
さっきまでの煮え切らない表情が影を潜め、いつもの精悍な顔つきへと変貌していった。
「わかったよ。それじゃあ調査は打ち切りだ」
僅かな逡巡の後、武彦は小さな声で、しかしハッキリとそう言った。
二月十三日。エックスデーの前日。昼過ぎにシュラインは零に呼び出された。武彦は今、浮気調査で外に出ている。
「チョコレートの作り方?」
微笑しながら、シュラインは零の言葉を聞き返した。
ついに明日だ。あれから、武彦は温かい目で零を見守り続けていた。それでも居たたまれなかったのだろう。無理矢理に仕事を入れて、事務所にいることを出来る限り避けていた。まるで、零の笑顔から逃れるかのように。
「はい。あの、私、こういうの作ったことなくって……」
家事全般をそつなくこなす零だったが、さすがにプレゼント用のチョコレートは作ったことがないらしい。その点、毎年バレンタインで武彦だけに本命チョコをあげているシュラインは手慣れている。
「いいわよ。どんな形が良いのかしら」
キッチンへと赴き、シュラインは流し台の下から取り出した様々な抜き型をテーブルの上に並べていく。
「あ、やっぱりハートが……」
照れたように顔を赤らめながら、零はハート形の抜き型を選んだ。
「そう。それじゃ、作りましょうか。材料は私のが余ってるから分けてあげるわ」
シュラインは三日ほど前に手作りチョコを作り上げていた。キューピッドの形に整えた非常に手の込んだ物だ。
流し台の横にある冷蔵庫を開ける。
「わ」
思わず声が漏れた。
中にはぎっしりと詰め込まれた沢山の食材。肉から魚までかなりの量が用意されている。
「これ……零ちゃんが買ったの?」
「あ、はい。明日のために……。あっ、でも私のお小遣いから出しましたから、家計費は使ってませんから、大丈夫ですから」
焦りながら、手をパタパタする零が実に可愛らしい。別に悪いことをしているわけでもないのに、まるで厳しく追及されたようにあたふたしている。
「明日って、何か特別な日なの?」
恐らくトウドウ・カズヤに会いに行くのだろう。これはお弁当の材料だろうか。そんなことを考えながらも、シュラインは少し意地悪く聞いてみた。
「エヘヘ。ソレは明日のお楽しみですっ。明日は重大発表の日ですから」
顔を赤らめながら、零は口元で人差し指を立てる。
「そう。それは楽しみね」
こんなに活き活きしている零を見るのは初めてかもしれない。こうしてみていると本当に中学生くらいの女の子にしか見えなかった。
「それじゃ、作りましょうか」
「はいっ」
シュラインは冷蔵庫から取り出した生クリームとハチミツを鍋に入れ、強めの中火にかける。沸騰したら火からはずし、すぐに荒く刻んだ製菓用のチョコレートを入れて、ひと混ぜ。それをボールにあけてさらに混ぜ、チョコレートを完全に溶かした。
「ねぇ、零ちゃん」
手際よくチョコレートを作って行きながら、シュラインは隣で熱心に見ている零に声を掛けた。
「このチョコレート、武彦さんにあげるの?」
何となく気になって、そんなことを聞いてみる。
「はいっ。勿論、兄さんにも上げます」
『兄さん”にも”』という事は、もう一人別に誰かが居るということだ。
(間違いない、か……)
パラフィン紙を引いた流し箱にチョコレートを流し込みながら、シュラインは複雑な心境で零の紅い目を見た。
◆零の想い人◆
二月十四日。ついに、この日が来た。零は朝から料理作りに大忙しだ。昨日見た大量の食材が、次々と美味しそうな料理に変わっていく。
外は晴天。絶好の行楽日和だった。
さすがにこの日ばかりは、武彦も朝から事務所にいた。タバコを吹かし、新聞を読んで平静を装いつつも、頻繁に零の方を見ている。
――明日、重大発表があると零が言っていた。
そのことを伝えた時の武彦の表情がシュラインの網膜に焼き付いて離れない。
至福と悲嘆。愉悦と恐怖。相反する感情をない交ぜにしたような顔。口で笑って、目で泣いていた。
こんなにも弱々しい武彦は見たことか無い。それ程、零のことを可愛がっていたのだろう。実の妹であり、実の娘として。
「はーい、出来ましたよー」
そんな武彦の心中を嘲笑うかのように、零は明るい声で出来た料理をスチールテーブルに並べていく。ローストチキンに鯛の尾頭付き。ベーコンサラダにサーモンソテー。そしてみそ汁と白ご飯。どれも出来たてで、湯気にのって食欲をそそる匂いが事務所内に充満していく。
(あら、お弁当の残りかしら……?)
それにしては量が多い。クルクルと良く動く零に訝しげな視線を向けながら、シュラインは眉を顰めた。武彦の方を見るとやはり困惑したような顔で、料理と零を見比べている。
「はいっ。お二人ともお待たせしましたー。さっ、たーんと召し上がれー」
幸せそうにニコニコと微笑みながら、零は両手を広げてシュラインと武彦に料理を勧めた。
「え?」
零もスチールテーブルの前に座ったのを見て、さすがに武彦が声を上げる。
「零、お前。今日は特別な日なんじゃないのか?」
「そうですよー。あっ、覚えててくれたんですか? 今日が何の日か」
「何って……」
バレンタイン・デー。そして零がトウドウ・カズヤと一緒に楽しく過ごす日、ではないのか?
顔に疑問符を浮かべるシュラインと武彦を気にもせず、零は間延びした声で続けた。
「今日は私がここに来て、丁度一年目の記念日なのですー」
『あ』
同時に声を上げるシュラインと武彦。
そうか。そうだったのか。今から一年前の二月十四日。零が初めて草間興信所の門を叩いた日。ある人物からの依頼だった。この娘をしばらく間預かってほしい、と。
来たときは氷のように無表情で、すべての感情が欠損してしまっていたかのようだった。笑うことも、泣くことも、喋ることもなく、ただ虚空を見つめたまま、睡眠や食事もせずに鎮座していた。
「兄さんっ、シュラインさんっ。これからもどうか末永く、ヨロシクお願いします」
それが今ではこうだ。たった一年で、シュラインと武彦は零の心を見事に氷解していた。
深々と頭を下げる零を見ながら、シュラインは目頭が熱くなっていくのを感じた。
「はいっ、兄さん。コレ、私からのプレゼントです」
そう言って差し出したのは例のマフラー。橙と蒼が鮮やかなチェック模様を描いている。そして端には『TK』のイニシャルが。
(あ……そっか。TKって武彦・草間……)
では零の言っていたトウドウ・カズヤとはいったい……。
「これ……俺にくれるのか?」
「はいっ。頑張って編みましたっ」
嬉しそうに零はマフラーを武彦の首に巻いていく。戸惑いながらも、武彦はその暖かさを確かめるようにマフラーに顔を寄せた。
「どうですか? 初めて作ったので自信ないですけど……」
「凄く暖かいよ。ありがとう、零」
にこやかに言った武彦の言葉に、零が破顔する。
「ところで、なぁ。トウドウ・カズヤって知ってるか?」
やはり気になるのだろう。武彦はとぼけたような口調で聞いた。
「藤堂和也さんですか? 夕方のお天気キャスターの人ですけど……」
(あっ、そうか!)
ようやくシュラインも思い当たる。どおりで聞いた事のある名前だと思っていた。夜、六時からの天気予報に出ている元タレントの男性だ。
「今日を気持ちよく迎えるために、私毎日お祈りしてたんですよ。どうかお天気にして下さい。お願いしますって」
神社で呟いた言葉の正体はそれだったのか。シュラインは何だかとてつもない脱力感に襲われた。
「あれ? どうしたんですか? 二人とも」
武彦も同じ気持ちだったのか、ヘナヘナとソファーに体を沈めて行っている。
「な、何でもないのよ。零ちゃん、気にしないで。それより、武彦さんへのプレゼント、もう一つあるんでしょ?」
もうこうなってしまっては、あまり心配することもないだろう。零はチョコレートを武彦以外にもあげるつもりでいたはずだ。
「あっ、ひどーい。せっかくご飯が終わった後でプレゼントしようとおもったのにー」
ぷく、とほっぺたを膨らませ、零は拗ねたような表情を浮かべる。そしてキッチンへ行き、冷蔵庫からチョコレートを二つ取り出して戻って来た。
「はいっ、兄さん。バレンタイン・チョコレートです」
アルミホイルでハート形に包み、赤いリボンをあしらえたチョコレートを武彦に差し出した。
「それと、シュラインさんにも」
「わ、私?」
コレは完全に予想外だった。まさか女である自分がバレンタイン・デーにチョコレートを貰うことになろうとは。
「本当はマフラーも作って上げたかったんですけど、時間が無くて……。だから、せめてチョコレートはと思って」
「あ、ありがと」
頬を指で掻きながら、シュラインは零の手作りチョコレートを受けとる。包装を解くと、ホワイトチョコレートの線で書かれたシュラインの顔が現れた。長い髪や切れ長の目といった特徴を良く捕らえている。
「いやー、なんかスマナイな、零。貰ってばかりで。ホワイトデーにはきちんと返すよ」
早速チョコレートを食べながら、武彦はにこやかに言った。部屋の中は暖房が効いているというのに、マフラーを取ろうとはしない。
武彦の言葉に零は軽く首を横に振り、
「私は、いつまでもお二人と居られれば、それが一番の幸せですからっ」
屈託無く笑った。
(良かったわね、武彦さん。零ちゃんは離れる気なんて無いみたいよ)
少し前まで暗かった事務所が急に明るくなった気がした。窓から射し込む日の光が、やけに眩しく感じる。
こんなにも天気の日だ。零の作ってくれたご馳走を食べ終わったら、三人でピクニックでも行こうかと思うシュラインだった。
【終】
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号:0086 / PC名:シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 性別:女性 / 年齢:26歳 / 職業:翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
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■ ライター通信 ■
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どうも、こんにちは。三度目のご発注、有り難うございます。今回はシュライン様の単独ストーリーとなりました。『零の想い人』いかがでしたでしょうか。いかに読者であるシュライン様をミスリーディングさせるか、という点に力を入れました。最後まで騙されていただけましたでしょうか?(笑)
今回、武彦と零の出会いに関しては、物語進行の都合上オリジナルの設定を使用させていただきました。古参のシュライン様には申し訳ありませんが、広いお心で受け入れていただければ幸いです。では。
飛乃剣弥 2006年2月5日
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