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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


廻音


「厄介事さ」
 さしていつもと変わらぬ艶然たる笑みをのせ、アンティークショップ店の店主である蓮は煙管を口に運んだ。
「厄介事ですか」
 対する紳士もまたさしたる驚嘆をみせるでもなし。振る舞われた紅茶を口に運ぶ。
 紳士の名はセレスティ・カーニンガム。財閥を執りしきる多忙極まるはずの身でありながら、しかしこの英国紳士めいた風体のセレスティは、怪奇なる事象に事の外強く心を寄せるのだ。
「それで、今回はどのような?」
 カップを受け皿へと戻し、セレスティはやんわりと告げて足を組みかえる。
 その問い掛けの先に続くであろう言葉は、わざわざ形を成すまでもなく、蓮の耳をさわりとくすぐる。
 蓮はしばし紫煙を吐き出した後、一本の鍵をテーブルの上へと載せた。
「これは……家の鍵として使うには随分と小さなものですね」
 うなずきがてらそう告げて、蓮の顔をちらりと盗み見る。
 蓮はまっすぐにセレスティの顔を見遣っていて、しかし言葉を返そうとはせずに、沈黙だけを守っていた。 
 煙管から立ちのぼる紫煙が空気を揺らす。
「日記かなにか……そういったものの鍵ですか」
 静かに言葉を落とす。と、ようやく蓮は身を動かした。
「その通り。で、その日記がこれさ」
 セレスティの言葉を待っていたかのように首尾よく、蓮は一冊の分厚い帳面をテーブルへと載せた。
 真白な、なんの装飾も施されていない装丁。が、しかし、目を惹いたのは明らかに後付けされたものだろうと思しき真鍮の鍵穴。先に伸べられた小さな鍵は、この鍵穴に合わせて作られたものなのだろう。
「なるほど。それで、これが果たしてどのような曰くを、」
 訊ねつつ、出されたその帳面に指を触れる。
 次の瞬間。
 セレスティ・カーニンガムの姿は、アンティークショップ店内の中から消失してしまったのだった。



6月13日
今日も頭痛がひどかった。処方されている薬も、回をおうごとに強力なものへ変わってきているのがわかる。
夕食後に一度、入浴後に一度。ようやく頭痛がおさまった。
痛みのないうちに少しでも休んでおこう。

6月29日
処方された薬が効かない。これ以上強いものは処方できないといわれた。
頭が痛い。気のせいか、体のあちこちに小さなあざが出来ている。なにかの病気ではないだろうか。

7月6日
あざが大きくなってきている。気のせいじゃないと思う。こんなにもはれあがってきている。
頭が痛い。

7月10日
わんわんわんわん声がする。となりの犬かと思ったからまどを開けてどなってやった。ざまあみろ。

7月12日
犬の声がうるさくてねむれない。頭も痛い。ねむれない。あざが顔みたいになってきた。

7月24日
おまわりが来た。うちの庭から犬の死体が出てきたらしい。わたしじゃない。わんわんわんわんうるさい。

7月30日
こえがする。しらべてみたら肩のうしろからわんわんわんわんきこえてくる。スプーンでほじくったらおとなしくなった。



「それでは、セレスティ様はこの日記帳の中に入りこまれてしまったのだ、と」
 蓮からの連絡を受けて足を運んできたのは、リンスターの庭園の総てを一任されている美貌の庭師モーリス・ラジアル。そして同じくリンスターの所有する美術品の管理を全面的に一任されているマリオン・バーガンディだった。
 テーブルには冷め切った紅茶が入ったままのカップが一式と、真白な装丁の分厚い日記帳が一冊。
 蓮は頭を抱えながら大きなため息を漏らした。
「すまないね、ふたりとも。セレスティさんならあるいはと思ったのさ。……あぁ、でも、まさかセレスティさんそのものが取り込まれてしまうとはねえ」
 かぶりを振りつつそう述べる蓮に、マリオンは肩を竦めて微笑んだ。
「当主なら心配いらないと思うです」
「セレスティ様はこれに触れたことで、中に引き込まれていったというのですね?」
 モーリスの視線が、まるで蓮の表情を値踏みするかのようにゆったりと細められる。
「ああ、そうさ。……日記は一度にひとりしか取り込まない。取り込んだ相手を食い潰し、そうして日記の中の記録を更新し続けていく」
 気を落ち着かせようとでもしているのだろう。蓮は忙しなく手を動かして煙管を吹かしている。
 モーリスは蓮の言葉にうなずいて、先ほど鍵を開けた日記のページをはらはらとめくってみた。
 日付は8月21日で止まっている。平仮名で羅列されたそれは日をおうごとに病的な文へと移り変わっているのだ。
 ある意味では非常に興味をそそられるものでもある。――それはモーリスが医者としての側面を持ち、そしてマリオンは美術品に関わる立場であるがゆえの好奇心によるものでもあるのだろうか。
「セレスティ様が入られた後、日付の更新はなされていないのですね?」
 訊ねるモーリスに、蓮はあいまいな声をひねりあげた。
「わからない。……でも多分、更新はまだされていないだろうさ」
「わかるのですか?」
「ああ。……更新がされたっていうことは、取り込んだその相手を侵食するのに成功しだしたっていうことさ。喰ってしまえば、日記はまた新しい書き手を取り込もうとする。……あんたたちが触ってもまだ何てことにもなっちゃいないだろう?」
「なるほどです」
 マリオンがうなずいた。
「でも、厄介なのには変わりないのです」
「マリオン、お願いします」
「もちろんなのです」
 マリオンとモーリスは互いの顔を見合わせてうなずき、それから未だ不安げに煙管を吹いている蓮の顔を見据えて微笑んだ。
「セレスティ様は連れて戻りますし、あなたがセレスティ様に依頼しようとなさっていたことも解決してきますよ」
「……どんなことを依頼しようとしていたのか、わかるってんのかい?」
「はいです。連鎖を止め、以後この日記の犠牲者となるひとが出ないようにする――違うですか?」
「……頼むよ。物好きな客に売りつけるにしろ、そのまんまじゃあ売り物にもなりゃしない」
 深いため息を漏らした蓮に、ふたりはゆったりと頬を緩ませた。

 部屋のいたるところに鏡が飾られてある部屋だ。
 東に向けられた大きめな窓がひとつ。北向きの小さな出窓がひとつ。どちらにもカーテンはつけられてはおらず、代わりに黒と赤の画用紙のような紙がガムテープで貼り付けられている。もっともそれも今となっては用をなさず、ずたずたに切り裂かれ、窓の向こうの景色が一望できるようにはなっていた。
 家具らしいものはパイプベッドと机がひとつづつ。床には(おそらく)オフホワイト色の絨毯が敷かれてあるが、ひどく汚れ、なおかつひどい臭いを撒き散らせてもいる。
 ――――嘔吐されたもの、腐敗した食品、血痕。そういったものがあちらこちらに散乱しており、不快な空気が鼻腔をねっとりと撫で回すのだ。
 セレスティは清潔なハンカチで口と鼻とを覆い、足元を確かめながら、ゆっくりとした歩調で部屋の中を歩き回る。
 ドアは無い。窓から外は見渡せるが、それはいわば風景が描かれたポスターを窓の外側から貼り付けてあるだけのようなものだった。
 どうやら、この部屋は、セレスティを逃がそうとしていないようなのだ。
 淀みきった空気は、その中にあるというだけで、常人であれば気が触れてしまいそうなほどに不浄なものとなっている。
 セレスティは体の周りに薄い水のヴェールを作り、それをまとうことで、この不浄からの侵食から逃れることに成功していた。
 わんわんわんわんと大きな音が鳴り響く。
 窓の外に目をやれば、ガラスにへばりつかんばかりに顔を押し付けた大きな犬が、セレスティを睨みつけていた。
 床の上に、ぬめりを帯びた銀製のスプーンが転がっている。
 腐敗した肉片をつけたそれは、セレスティの目の前で、見る間に新品同様の輝きを取り戻していった。
 ――――否。
 床から現れた舌のような肉塊が、スプーンについていた肉片を余すことなく舐めとっていったのだった。
 腐臭を帯びた空気がうぞうぞとうねりあげながら這い回る。不可視のそれは、しかしセレスティの盲いた眼にはありありとその形状を示しだしてもいる。
 手足をもがれた生き物――――いや、それはもはや芋虫にも酷似していたかもしれない。
 それは床の全体をうぞうずとうごめきながら広がり、終いにセレスティの足をからめとり、舌なめずりをした。
 わんわんわんと声がする。
 東側の窓いっぱいに広がりへばりついている犬の口から硫酸めいた泡が滴り落ちている。
 セレスティはゆったりと睫毛を伏せて、すうと息を吐き出した。
 わんわんわんわんと声が鳴り響く。

 それは辺り一面をうごめく骸骨の腕のような樹木で囲まれた、深い深い樹海の中だった。
 干からびた屍のようなものと、枝からぶら下がり落ちているロープのようなもの。ごうごうと吹き流れていく風の音色も重々しく、それは地の底から這い上がってくる亡者達の恨み言のようでもあった。
 昼であってもなお薄暗い樹海の奥に開かれたドアを抜け、マリオンは大きなため息をひとつ。
「おかしいのです。セレスティ様がいらっしゃる場へと繋がるはずでしたのに」
 首を傾げてモーリスを見据える。その視線の先で、モーリスは腐敗した葉土の中に片手を突っ込み、かぶりを振っていた。
「いいえ、マリオン。……これを見てください」
 その手が崩れ朽ちた紙束のようなものを引き上げる。
「あなたはこれに惹かれてドアを開けたのではないのですか?」
 薄い笑みさえ浮かべ、マリオンを見つめ返す。
 その手の上にあるのは、今や朽ちた紙束ではなく、一冊の分厚い帳面のようなものだった。
「ここに、この帳面の持ち主だった方が眠っているようです。……土塊から元の姿に戻すことも可能ですが……」
「別にそれの持ち主を捜しているわけではないのです。では、その帳面の中へとドアを開けるです」
 モーリスの言葉をひどくあっさりと遮って、マリオンは再びドアを出現させた。
 数知れぬ屍を栄養素にしてきた土中から現れた重厚なドアは、まるで地獄の釜蓋のようでもあったが、マリオンの手は躊躇することもなしに開け放つ。
 待ち受けていたのは腐敗した肉塊と、怨嗟の声と、渦を巻く悪意そのものの権化であった。


 蓮の手元に残されたままの日記帳が、まるで蒸発でもしたかのように消失したのは、蓮がわずかに目を離していたその間のことだった。
 
 鼻先をくすぐるのは耐え難いほどの酷い悪臭だった。
 血と肉とが腐りおちた後の臭いとでもいうのだろうか。あるいは路地裏の薄汚れたゴミ箱が放つ臭いとでもいうのかもしれない。
 それはもはや人間と呼べるものではなかったのだ。
 セレスティの体を取り巻き、深い暗黒のあぎとを開き、泥沼の底を思わせるような深い呪の唄を口ずさみ、彼らはうねりをあげている。
 数知れぬ蛇か芋虫――あるいはなめくじ。どちらにしろ決して心を躍らせるものではないその感触が、セレスティの首まわりまでを埋め尽くした。
 腐臭が鼻をふさぎ、犬の声が耳を舐めまわし頭の奥を走り回る。
 全身は薄い水の膜で覆われている。いざとなれば自らの体内を流れる水分をも武器となせば良い。
 が、セレスティの頭には、今、サイレンをも上回る騒音だけがあった。
 
 あ、
 あ、
 あたまが、

 ――――ぐしゃり

 肉塊が飛び散る音がして、わんわんと鳴り響いていた喧騒がひたりと気配を消した。
 体には未だにぬめりを感じる。が、セレスティは弾かれたように眼を開ける。
「モーリス……それにマリオン」
 深い息を吐き出しながら言葉を告げて、そうしてセレスティはひどく久しぶりに風の流れを頬に感じた。
 楔のように巻きつく怨嗟の触手を確かめ、初めて不快を露わにする。
「消え失せなさい」
 断じる。
  
 あぎとを開けていた暗黒の釜が、醜くひしゃげるような音をたてて弾けとんだ。


「じゃあ、なにかい。店にあったのは、あれは生きている人間を取り込むためだけのための囮だったってことかい」
 紅茶を振る舞いながら、蓮は珍しく驚嘆した。
 花の香りが店の中いっぱいに広がり、心地良い音楽がホーンから鳴り響く。
「おそらくは、そうだろうと思われます」
 うなずいたのはモーリスだった。その手には樹海から持ち帰ってきたのだという分厚い帳面が握られている。
 はらはらとめくられた帳面の中に記されている日付は6月12日で途切れている。
「書かれてあるのは、とても暗い、陰鬱な記録ばかりなのです。多分、持ち主がそういった思考をしていたんだと思うのです」
 モーリスが開くページを横から覗きみながら、マリオンが小さな息を吐き出した。
 些細な日常にも、怨嗟の言葉は過分な反応を示し、残されている。
「”覗き見れば”元々の持ち主であった方のお名前や住所――そういった部分までも知ることが出来るでしょうが」
 紅茶を口に運びながら、セレスティは大きく肩を竦めた。
「モーリスの検分結果ですと、持ち主のものであるらしい死体は死後十数年を数えているらしいとの事。……もはや土に返ったものであるならば、ほじくり返すようなことをせずに、そのまま静かにしてさしあげるべきかもしれません」
「そうかい」
 うなずき、蓮は新しいレコード盤を選び出す。
「わからないのは、蓮さんの手元にあった日記に鍵がついていたということなのですが」
 モーリスが首を傾げる。
「餌を手にいれるための道具であったのならば、鍵をつける必要などなかったのではないかと思うのですよ」
「そうだね」
「でも、鍵のついているものは、ついていないものに比べれば、一層強く心を惹かれるものであると思うです」
 モーリスの言葉に同意をみせた蓮を見つめ、マリオンが穏やかな笑みを浮かべる。
「強く心を惹かれれば、その分、心を合わせやすくなる」
 カップを戻したセレスティがやんわりとうなずいた。
「蓮さんが引き込まれなかったのは、蓮さんにとり、これは商品のひとつにしか過ぎない品であったからではないでしょうか」
「……ひとを金の亡者みたいにいうのはやめとくれよ」
 苦笑いを浮かべる蓮に、セレスティは穏やかな笑みを返して目を細ませる。
「今回の報酬として、この日記帳はいただいて帰ることにします。……これはなかなかにして興味深いものでもあるようですし」
 穏やかに微笑むセレスティに、蓮は肩を竦めてうなずいた。

 新しい音楽がホーンを揺らし、鳴り響く。
 かすかに響く――そう、まるで犬の鳴き声のようなかすかな音が、心地良い音楽に織り交ざり、じわりと空気を震わせていた。


―― 了 ――