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消された記憶
小学六年生のとき、みなもは現実を知った。“普通の人間と違う者”がどういう扱いを受けるのかを、目の当たりにしたのだ。
みなもは絶望した。
――これは彼女の記憶に存在しない話だ。
みなもは自分が絶望したことを知らない。
――けれど、それは実際に起きたことだった。
詳細を記憶している唯一の人物――みなもの父親は回想する。
元々、海原みなもは、いじめられっ子だった。
相手の気持ちを慮るあまり、自分の気持ちを抑えてしまうところがあった彼女は、陰口を叩いている相手にも強く出られなかった。
(どうしたら、みんなと仲良く出来るようになるんだろう)
自分をいじめてくる相手が、みなもを指さして遠くから何か言っているのが見えるたび、みなもは逃げ出してしまいたかった。
一人悩んで、いっそ誰かに相談した方がいいのかな、と時々考えることもあった。
(でも先生に言える訳ないし、家族に話したりなんかしたら……クラスの子がひどい目にあわされちゃいそうだし……)
もし家族が何かしたら、と想像するだけでみなもは震えた。そんなことになったら、自分は泣くだろう。いや、相手に対しては泣いたって済まない。
(やっぱり、あたしが我慢しよう)
結局、いつも同じ答えしか出てこないのだ。
そのうちいじめも止んでくれるかもしれないし、などと自分を慰めて。
しかし、いじめは終わるどころか、エスカレートしていくようだった。
(あたしがきっぱりと文句を言わないから)
そう反省するものの、クラスの子を目の前にすると何も言えなくなる。言い返すどころか、唇は震えて音が出ないし、視線も揺らいだ。
(もうこんなのは嫌だよ)
この頃から、朝になることが苦痛になり始めた。
(今日も学校へ行かなきゃならないから)
どんなに嫌がっても朝は来るのだ。
そんな気持ちが身体に出るのか、朝食を食べているとお腹が痛くなってきて、家族が心配そうにみなもの顔を見る日もある。
「具合が悪いの?」
「ううん、だいじょうぶ。……行って来ます」
そう返して、みなもはランドセルを背負う。この頃のみなもは、学校を休むことは滅多になく、むしろ熱があっても学校へ向かおうとしていた。学校を休んではならないという一種の強迫観念に囚われていて、高熱で寝ていなければならないときは悪夢を見た。夜になればなったで、熱が治って学校へ行く日がたまらなく恐ろしく感じられた。
(絶対に行かなきゃ、学校に行かなきゃ……)
強く思うほど、腹痛は益々ひどくなるような気がした。
通学路は俯いて歩く。
(クラスの子を見たくないから……)
家は早めに出るようにしていた。四年生になったのを境に、持ち物が壊されていたり無くなっていたりしていて、「もし何かあったら」と思うと、自然と早めに登校して自分の机を確認しないと気がすまなかったのだ。もっとも盗られるものなんて、防災頭巾くらいしかない。みなもは、教科書は勿論、上履きも持ち帰るようにしていたのだから。
――まだ誰もいない教室で、自分の机と防災頭巾を確認すると、みなもは安堵の溜息を漏らした。それからすぐに、ランドセルごと持って校庭裏で時間を潰す。……授業前の時間に、誰に何を言われるかわからないからだった。
(怖い……帰りたい……でも帰れないんだ)
校庭の裏にはひっそりと授業で使う菜園があって、プチトマトの葉っぱが風に揺れている。近くにはオトギリソウも生えていて、指でつっつくと葉が動く。
(かわいいな)
ランドセルを背負ったまま一人でこうしていると、みなもは和むような、それでいてひどく取り残されたような気になるのだった。怖くて、学校の人と会いたくなくて、一人で隠れて――寂しい。
人魚の血が目覚めた直後とあって――みなもの心は、渦に飲まれるか、飲まれないかという際どさで漂っていた。
だから、壊れてしまったのだ。
みなもの父親は、瞼を閉じさえすれば“あのときのこと”をまざまざと思い浮かべることが出来る。
――場所は、そう、鉄棒の前だ。
その少し前から、みなもは自分と似た少女を見つけていた。菜園へ向かう途中の、校庭の端で独りうずくまっている子。
(あの子はどうして一人でいるんだろう)
その子の、遠くを見つめている目が寂しそうで。
もしかして、自分と同じなんじゃないかな、とみなもは思った。
(違うかな。どうなんだろう)
だけど、声をかけることは出来ない。相手は一度も話をしたことのない子なのだ。
(何て話しかければいいのかもわからないし……)
気にはなっていたが、みなもは彼女を素通りして菜園へ行く――。
そしてその日。
みなもは彼女がいじめられているところを見たのだ。
(あの子は……!)
ギクリとして足を止める。
心臓の音が速くなるのと同時に、みなもはその光景から視線をそらせなくなった。
“あの子”を取り囲んでいる人たちが、何か喚いている。
次の瞬間、突き飛ばされた“あの子”が、鉄棒に背中をぶつけるのを目の当たりにした。
「やめて!」
身体が急激に熱くなる。肌に痛みが走って、手の指の付け根に違和感を覚えた。興奮で人魚の血が騒いでいる証拠だったが、みなもは構わずに金切り声を上げた。
「――やだ、やだ、やだ、やだ!!」
脚が鞠にでもなったみたいに、ぐんにゃりと曲がった。
激しい痛みに、みなもは再び悲鳴を上げた。
数分後、我に返ったみなもが見たのは、鱗を露出したヒレを持つ自分の姿と、呆然と立ち尽くしている“あの子”だった。
どうやら、無意識に能力を使っていたらしい。いじめっ子たちがいないのは、逃げたからだろうか?
「あ……」
何か言わなきゃ、とみなもは思った。何か、何か、何か。
(何を?)
(何を言えばいいの?)
「あの」
と、みなもは震える声を出した。
「もう大丈夫です。あの人たちは逃げちゃったみたいだから……あなたは怪我してないですか?」
近づこうとしたみなもに、“あの子”は口を開いた。
その掠れた声は、喉から無理矢理音を捻り出すように喋って。
「お願い……殺さないで……」
目に涙を溜めて、唇を震わせて。
恐怖に引きつった“あの子”の顔が、みなもの目の前にあった。
――もしこのとき“あの子”から言われた言葉が、みなもを罵るものだったとしたら、どんなにみなもは救われたか知れない。
言葉は何でもいい。“あの子”の口から発せられたのが、みなもに対する命乞いでさえなければ、まだ良かったのだ。
みなもの身体はドロドロに溶けていくようだった。自分の身体が生温かく、ぬめついたものに変わって行くのがわかった。
(違う)
(あたしがしたことは、あなたを)
(怯えないで)
(どうしてそんな目で見るの)
(助けようと思って、)
(あたしを見ないで)
鱗のいくつかが剥がれ落ちて、血のような液体になって地面に散った。
ア、ア、ア、ア。
人魚の姿さえ崩れ落ちて、異形の者と化したみなもは――喉を抉られるような“あの子”の悲鳴を聞いた。
――それは「ヒッ」というような音で。
(違う)
(違う)
(あたしはただ、)
(……見ないで)
――音は他にもたくさん聞こえた。
崩れて、壊れていく音。
ア、ア、ア、ア。
(お願い、やめて――)
――助けが必要だろう。
人の姿に戻らせた自分の娘を抱きかかえて、みなもの父親は考えた。辺りを破壊しつくし、複数の人間を死亡させたままと言う訳にはいかない。
死者を甦らせ、建物を修復しておくことは、彼にとって容易い。みなもを含めた人々の記憶を処理することも、だ。そこから成り立つアカシックレコードと、予知に関わってくる書類を書き換えるには――平凡な異能者が暴走したことにすればいい。
問題はみなもなのだ。
このようなことが起こらないようにするには、能力を封じてしまえばいいが、それでは根本的解決にならない。みなもの精神をどう支えるかが一番大事だった。
だから、父親はあえて不完全な能力の封印を行った。みなもにペンダントを渡して、それを通して暗示をかけた。
――みなもは弱くない。精神的に強い子だ――
父親はみなもと話をするために、一年間を通して頻繁に家に帰った。みなもにとっては家族の交流として、父親にとっては事後の“処理”として。とは言え、帰るたびに、娘が自分のあげたペンダントを身につけているのを目にするのは――きっと、良い気分なのだろう。
今もはにかんだ表情で、ペンダントを指で触っているみなも。父親が外さないのかと訊くと、笑顔で返してくる。
「だって、可愛いし、それにせっかくお父さんがくれたんだから」
するとみなもの父親は、嬉しそうに頬を緩めてみせるのだった。
終。
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