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勘違いか否か。
バレンタインを間近に控えたある日の事。
いつも通りに慎霰――天波慎霰が駅前マンションの最上階にある自宅――と言うか自室と言うか居候先と言うか――に帰って来ると。
台所方面から何やら派手な音が聞こえてきた。
…とは言っても、別に泥棒が入った云々では無いらしい。その部分だけは言い切れた。
何故なら聞こえる音の内、人の声には聞き覚えがあるしその聞き覚えのある声も別段切羽詰まった様子は無い。更によくよく様子を伺ってみれば、台所で派手な音を立てている――と言うか何やら悪戦苦闘しているのは春華――伍宮春華であったから。
つまり、親友でもある同居人の一人である。
いったい何事かと思い、それでも慎霰は邪魔をしないよう春華の背後に黙って近寄る。そしてその肩口からひょっこり覗き込んで見ると。
黒に近い茶色の四角い固形物――つまり板チョコレートを、包丁で刻んでいると言うか削っていると言うか砕いていると言うかそんな感じ。慎霰の見る限り、俎板の上やらボウルの中だけで無く、春華の手許以外にもあちこちにその刻んだものが飛んだらしい痕跡、黒っぽい点が散らばっている。…一部溶けたりもしている。台所のあちこちにチョコレートの斑点が出来ている。
…春華は――なんでこんな固いんだよ面倒なんだよ、そのまんま溶かしたっていいじゃんなんでどれ見ても刻むってあるんだよ、と恨みがましそうに悪態を吐いている。
まぁ、それでも止めずに板チョコ相手に孤軍奮闘。…一応、止める気配は無い。
無造作に開かれた菓子の作り方――と言うかピンポイントでバレンタイン向けチョコレートの作り方――の料理本が、数冊。春華の前、俎板の横に置かれているものと、足許に落っこちているものまである。…それらを拾う余裕すら無いらしい。
そして慎霰が自分を見ている事にも、春華は気付いていない。まぁ、警戒の必要が無い――そのくらいは気を許されている間柄と言う訳でもあるのだが。
…。
「なぁ」
「…ん? あ、慎霰おかえりー。…あーもうすげえ面倒臭えーっ。…でもあともうちょっとで刻み終わるし」
やってやるっ。
…。
決意を新たにし、包丁片手に挑み続ける春華には…自分の行動に疑問は無いらしい。
少し自分の中で考えを纏めてから、慎霰は春華にちょっと訊いてみた。
「それってどう見てもチョコレートだよな」
「うん」
「えーと今の時期と、散らばってる本からして…そのチョコレートはバレンタイン用」
「そーだよ」
「…それってサ」
――普通、女から男に渡すものじゃねェの?
素朴な疑問。
数瞬、間。
春華はきょとんとした顔で慎霰を見返してくる。
「バレンタインって、チョコレートを一番好きな奴に渡す日じゃないのか?」
「…いやそりゃ完全に間違いって訳でも無いけどな」
実際他の国ではそんな感じ(?)のノリなところもあった気もする。もしくはお世話になった人とか渡す対象も色々で、そして物はチョコレートではなく花だとか何とか――とにかくチョコレートに限った物では無いと聞いた事があったような無いような。
が。
少なくとも日本の場合でチョコレートを送るバレンタインに関しては、恋愛絡みが一番の動機になる筈だ。そして菓子屋や各種企業の便乗戦略も当然のようにそっち側。義理云々の話もあるが、それは基本的に二の次。今現在ここにある、春華が用意したと思しきチョコレートの料理本にも確りそれは書いてあると思うのだが。…手作りと来ればやはり本命が一番初めに考えてあって当然だ。
…そして春華の場合、そんな相手が…居るのか?
その大前提からしてやや疑わしく思いながら慎霰は本の写真に目をやる。と、そこにはやはり、ハート型のチョコレートやら『I LOVE YOU』のデコレーション文字やらがあちこちに踊ってもいる。
ちょうど良いやとばかりに慎霰はその中の一冊、足許に落ちてしまっていたものを取り上げつつ春華に説明開始。好きな相手に渡す事、それは間違いない、ただ、好きの種類が恋愛感情な場合に渡すのが普通。て言うかそれ以前に、バレンタインの場合は男ではなく女が渡すのが普通であると。
そんな慎霰の説明を聞き、春華は手を止め少し考え込む。
「…んじゃ、俺の勘違いがあったって事なのか」
女が渡すのが普通なんだったら…俺男だし。
「…おう」
「でもさ」
「ん?」
「やっぱり好きな奴に渡す、ってのは間違いじゃないんだろ?」
「いや、だから…」
「…折角ここまでやったんだし、今更投げ出すのも悔しいから続ける。完成させる。当初の予定通り絶対渡す」
ここまで刻むのにどれだけ根気が必要だったかっ…!
くうっ、と唇噛み締め拳を震わせ、春華は切々と訴える。そして暫しそうしていたかと思うと、再び残り僅かな板チョコを地道に刻み始めた。…本気で続けるつもりらしい。
■
…暫し後。
ぐらぐらお湯が煮えている。
煮え立っている。
そしてそのお湯の中に、刻んだチョコレート入りのボウルが無造作に入れられている。
湯煎をする、そこまでは良い。
春華は調理器具の中から適当に引っ張り出した菜箸でチョコレートをのほほん掻き混ぜている。
…やがて、チョコレート自体がゆっくりと溶け始め――溶けるのみならず、ぷつぷつと沸騰し始めた。
それでも気にしない。
「…待て」
「ん?」
「…温度を測る気は無いのか」
「溶けりゃいいんじゃないのか?」
んで、適当に型に入れて、冷やして固めればいいんじゃん。
刻むのはすぐ溶けるようにする為って理由みたいだし。
「…春華…そこらに転がっている本の意味あんのか…?」
「? …湯煎で溶かせって本に書いてあったけど」
直接火に掛けた方が手っ取り早いと思ったんだけど…そこは守ってるぞ。
「…チョコレートは温度が命なんだ」
本の方にも結構重要事っぽくそう書いてある。
「ふーん。そんなに変わるのかなぁ…。て言うかそもそも温度計ってうちにあったっけ? …おーそうだ、救急箱の中に体温計ならあったな。それ使おう」
「待て待て待て」
体温計が壊れる。
…て言うかそもそもそんなもので直接食い物の温度を測る気か。
「温度計っつってもその筋の店にゃちゃァんとそれ用のが売ってるっての」
「…そうなのか」
んじゃ買って来るべきか。
言って、春華はそのまますたすたと台所から出て行く。
…コンロの火、止めてない。
「待て春華、火くらい止めてけ!」
言いながら慎霰はコンロのスイッチに手を伸ばし火を止める。
春華はああ、と目を瞬かせていた。
「あ。…忘れてた。ありがと、慎霰」
「…」
これは、放っておいたらチョコ作りどころかこの家自体ヤバくなかろうか。どうも見たところ、春華はこの作業、続けると言いつつ…関心が離れ気味になっている。完成させる気に変わりは無さそうだが、それは単に意地の問題か。何となく、この作業に飽き掛けているようにも見えてきた。
そして目の前に広がる台所の中途半端な惨状。
…仕方無い。
慎霰は心を決め、ぽむと春華の肩に手を置く。
「…手伝ってやる」
「お、サンキュ。んじゃ一緒に温度計買いに行こーぜ」
「その前に。…足りないものは本当に温度計だけか?」
言って、慎霰がその場に散らかっている本の一冊を拾い上げ、台所のあちこちを引っ繰り返し必要とされている道具があるかどうか照らし合わせてみる。ここは男所帯だ。…元々、大した調理器具が揃えられているとは思えない。…そもそも春華がチョコレートを混ぜるのに特に疑問無く菜箸を使っていた事実がある。それ用の箆すらここには無いのかもしれない。
更には春華がどんな形の物を作る気なのか改めて確認してから、やっと外出、小遣いと相談しつつお買い物。そして――足りない道具使いそうなトッピング云々を何とか買い込み戻って来ると、今度は二人で改めて、板チョコの刻みからチョコ作りを再開。…当然のように台所に並んだ慎霰と春華。結局、男二人で台所に立ちバレンタインチョコを作ると言う何やら妙な事態に発展してしまった。
■
…で。
バレンタイン当日。
はい、と何やら見覚えのあるチョコレートを、春華は慎霰へとおもむろに差し出した。皿の上にでんっとそのまま乗せられただけで色気もへったくれも無い代物。…初めは春華が作っていて、途中から慎霰が手伝い、結局二人で何とか完成させたバレンタイン用チョコレートである。
訳がわからず慎霰は目を丸くして暫し停止。
「…慎霰?」
と、その反応に春華の方が訝しげな顔をして小首を傾げている。
それで、慎霰の方が漸く我に返った。
「って、春華?」
自分を指差して見つつ、困惑気味に慎霰は春華の名を呼ぶ。
と、春華は至極普通にあっさりと頷いた。
「俺が一番好きなのは慎霰だから」
一番好きだし、一番の親友だし、一緒に居て一番楽しいし。
だから、あげる。
真っ直ぐ過ぎる春華のその言葉に、慎霰はすぐに言葉を返せない。春華は恋愛感情自体いまいちわかってない節がある。そうなれば妙な他意は無い。それもわかっている。本当に、ただ、慎霰の事が好きなのだと。
わかっていても――慎霰としてはさすがに正面から返すのは少々気恥ずかしい。
そんな訳で。
「なーにこっ恥ずかしい事言ってんだって」
言いながら、額を軽く小突く。
俺だって充分春華の事好きだけど、とは口に出さない。
「ってぇ。やったなこのっ」
小突かれた額を押さえむくれつつ、なんで恥ずかしいんだよっ、と反論する春華。と、慎霰はその言葉を無視し、差し出された皿からチョコレートを一つ抓んで口に放り込む。…一応、ひとくちサイズに作ってはある。
「ん、美味い」
「そりゃ当然だ、俺と慎霰で作ったんだからなっ」
「…肝心なところは殆ど俺が作ってた気がするんだけど?」
「いいんだって、俺の気持ちはちゃんとこもってるんだから!」
「ほー。気持ちがあれば技術はどうでもいいってのか」
「気持ちの方が重要だろ?」
だからわざわざバレンタインで手作りとかってあるんじゃないのか?
技術の問題だけなら料理人の作ったものとかその辺で売ってる既成品の方が美味いの当然だし。わざわざ作る必要無いじゃん。
「…ま、食え」
「慎霰にあげる為に作ったんだけど…いいのか?」
「俺も一緒に作ってただろーが。つゥか俺にこの量を全部食えってのかよ」
…『この量』。それは――殆ど変化の無いひとくちサイズのチョコレートが、春華の持つ皿の上にはこれでもかと山盛りになっている。
…実は様々試行錯誤の結果、何だかんだで完成品は凄い量にもなってしまっていたりしたので。
が、それでも春華は慎霰にあげる為に作ったものと言う事で、一切手を付けない気だったらしい。
「んじゃ、俺ももらう事にする」
「おー、食え食え」
「…美味い。あ、これ慎霰からお返しもらったって事にもなるよな??」
「お返しならホワイトデーってもんが別の日にあるぜ?」
「でもこれ一緒に作った訳だから…慎霰から勧められたって事は、俺も慎霰からもらえたんだって考えても、成り立つだろ?」
にこりと嬉しそうに満面の笑みを浮かべる春華。
慎霰はまた、停止し掛けた。…真っ直ぐ素直過ぎる春華の態度は…本心では嬉しい反面、絶対に素直には返せない。故に慎霰もいちいち反応に困る。
が、何とか堪え、突き放すように茶化すように言い放つ。
「…あー、勝手にしろって。ま、その方が別にお返し考えなくていいから楽か」
「ホワイトデーにも二人でお互いにお返し作ろう!」
「…ってまた『あの』大騒ぎやんのかよ」
「………………いや、やっぱやだ。面倒臭い」
「だろ?」
「んじゃやっぱりこれでお返しも成立だな♪」
「…面倒だからもうそれでいいだろ」
…と、まぁ多少、世間一般から考えればバレンタインとしては変な感じではあるけれど。
結局どちらがどちらにあげたのだかよくわからない状態ながら、二人で一緒に食べるチョコレートは、美味かった事だけは言い切れる。
それで、よし。
【了】
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