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バレンタイン大作戦
【オープニング】
その日、草間興信所を訪ねて来たのは、珍しくも零の客だった。
彼女がよく行くパン屋の娘で、高校生のみなみである。
草間は、一応気を利かせたのか、用ありげに外に出て行き、零は事務所の中でテーブルを挟んでみなみと向き合う。
「私にご用って、なんですか?」
尋ねる零に、みなみは幾分ためらった後、いきなり頭を下げると叫んだ。
「お願い! 私に、美味しいチョコレートの作り方を教えて!」
「ち、ちょっと……みなみさん?」
さすがに、零も面食らう。
改めて事情を聞くと、彼女は最初の勢いはどこへやら、ぽつぽつと話し始めた。
みなみは、料理が大の苦手で、卵焼き一つ作れないし、もちろんお菓子はクッキーやホットケーキの類ですら、作ったことがない。ところが、昨年の秋に初めての彼ができた。来る二月十四日は、彼氏持ちになって初のバレンタインデーである。当然ながら、彼にはチョコレートを送ろうと、今から準備をしていた。友人に相談したら、手作りにする方がいいと言われ、レシピを教わって、チョコレート作りに挑戦することになった。
ところが。何度やっても、この世のものとは思えない凄まじい味と見た目のものしか、できないのだ。最初は励ましつつ教えてくれていた友人にも、とうとう匙を投げられてしまった。そこで彼女は、零が菓子も作れると言っていたことを思い出し、相談に来たというわけだ。
話を聞いて、零は考え込んだ。たしかに菓子作りは嫌いではないが、人に作り方を教えたことはない。それに、みなみの話を聞いただけでも、かなり大変だろうことが予想される。
しばし考え、零は言った。
「それなら、こうしましょう。私一人では、みなみさんにお教えする自信がありませんから、私の友人たちに、知恵をお借りして、みんなで教え合いながら、バレンタインのチョコを作りましょう」
「ええ!」
みなみの顔が一瞬にして輝き、大きくうなずくのだった。
【みなみの作ったチョコ】
バレンタインも近い二月十二日の日曜日。草間興信所には、零から相談を受けたシュライン・エマ、「なな」ことマシンドール・セブン、綾和泉汐耶、三雲冴波、そしてたまたま事務所へ遊びに来ていて興味を持った奉丈遮那の五人が集まっていた。
「ええっと……まずは、どんなチョコを作って、どんなふうに失敗したのかを聞いておこうかしら」
みなみにそれぞれ自己紹介した後、シュラインは口を開いた。
まず、どこで失敗してそんなひどいものになったのか、原因を探ることが肝心だと、彼女は考えたのだった。
他の者たちも、似たようなことを考えたのか、彼女を注視している。
事務所の椅子に腰を下ろしたみなみは、少しだけ居心地悪そうに身じろぎした後、答えた。
「初めて作った時には、チョコレートを溶かすのに、お水と一緒に煮込んでしまって。……それと、間違えて生地にジャムを塗ってから焼いたんです」
「そもそも、どんなチョコレートを作ろうとしたの?」
尋ねたのは、冴波だ。
「あ……。ザッハトルテっていう、チョコレートケーキです」
みなみの言葉に、シュラインたちは思わず顔を見合わせた。
それは、料理が苦手で菓子作りも初めてという人間には、難しすぎるのではないか。ちなみにザッハトルテとは、簡単に言うとチョコレートを混ぜて焼いたスポンジの間にアプリコットジャムを挟み、全体をチョコレートでコーティングしたものだ。中心となるのはスポンジ作りで、これにけっこう手間隙がかかる。
更に詳しくみなみの失敗談を聞くと、彼女は一度目を失敗した後、レシピをくれた友人に泣きついたらしい。それで、チョコを溶かす正しい方法等はわかったものの、今度は粉類の分量が、計量器の目盛りが正確にゼロ位置に来ていなかったために、全部十グラムづつ多い状態になってしまっていた。しかも、チョコを湯せんで溶かす際に、傍にあった醤油さしを倒してしまい、中身がチョコに入ってしまった。が、少しだったし大丈夫だと決めつけて、そのまま製作を続けた結果、ザッハトルテとは到底言えない味のものが出来上がった。
三度目に挑戦した時には、ベーキングパウダーを小麦粉と間違えて大量に入れ、苦くて食べられなかった。そして四度目の時には溶かす際、チョコレートに水をこぼしたのと、卵白がちゃんと泡立っていなかったため、これまた悲惨なことになってしまったのだ。そして、ここで友人には匙を投げられてしまった。「前の失敗が克服できても、新しい失敗をするんじゃ、私には教えるのは無理」「売ってるのを買った方が、きっと彼も喜ぶ」という、いささか胸に突き刺さる言葉の数々を残して。
「なんとも涙ぐましい努力をされたんですね」
小さく溜息をついて言ったのは、遮那だった。そして、ためらいがちに続ける。
「しかし……僕は、チョコレートは簡単なのしか作ったことがないので、なんとも言えませんが……その、お題が難しすぎたんではないでしょうか」
「私もそう思うわ」
うんうんと大きくうなずいて、シュラインも言った。
「そうね。初めて作るのなら、もっとクッキーとか、簡単なものにしたらいいと思うわ」
冴波が横から言う。
「クッキーやブラウニーなら、手順が簡単で、凝って見えるわね。……一番失敗がないのは、チョコを溶かして固めるだけのものだけど、それじゃ嫌でしょうし」
考え考え、汐耶もうなずく。
「最低限の作り方や、必要な道具、材料などのデータなら、わたくしが所有していますから、それをお教えすることができますが」
セブンが補足するように、口を挟む。炊事洗濯など、一般生活へのサポート能力も有しているスペシャル機構体である彼女のデータには、当然しっかりとさまざまな料理のレシピも存在しているのだ。
「たしかに、クッキーやブラウニーも初心者向きだけど……生チョコなんかどうかしら。あれなら、切り口ゆがんでもココアパウダーをまぶすと気にならないし、固めるのも冷蔵庫だから、温度調節や時間の加減で失敗する心配もないし」
シュラインは、少し考え込んだ後、言った。
と、みなみがおずおずと口を開く。
「あの……ブラウニーとか生チョコって、どんなものですか? それと、チョコでクッキーなんて、できるんですか?」
さすがに、この問いには、全員が目を丸くした。それを見やって、みなみは身を竦めるようにうつむいた。
「私……うちがパン屋なんですけど、両親はパンのことしか頭にないような人たちなんです。それで私、パンが嫌いで……反動で洋菓子は全般的に好きじゃないんです。食べたこともないし、友達と一緒に買いに行ったこととかもありません。だから……よくわからないんです。すみません……」
話すうち、彼女の声は徐々に小さくなって行く。
シュラインたちは、再び顔を見合わせた。洋菓子が嫌いで、料理も苦手、菓子作りは初めてというみなみが、それに挑戦しようというのは、よほどその彼が好きなのだろう。
(こういうけなげなのって、いいわね。……なんだか、ますます応援したくなるわ)
シュラインは、微笑ましい気持ちでみなみを見やって、胸に呟いた。そして、チョコ作りがうまく行くように、彼女を励ましつつ、きっちり計画を立ててやってみようと決める。
「謝らなくてもいいですよ。……誰だって苦手なものや、知らないことはありますから」
優しく言ったのは、遮那だ。
「そうよ。それに、チョコレート作りも準備にちゃんと時間をかけて、分量をきっちり量って、一つ一つ丁寧にやれば、大丈夫」
シュラインはうなずいて、場を取り成す意図もあって言った。そして、尋ねる。
「そういえば、みなみさんの彼って、甘いもの大丈夫なの?」
「ええ、それは平気です。……っていうか、甘いケーキとか、大好きなんです。それで、友達にもケーキのレシピを教えてもらったんですけど……」
うなずく彼女に、シュラインはますます微笑ましい気持ちになった。とはいえ、やはり初心者の彼女に、最初からチョコレートケーキというのは、難しすぎる気がする。話を聞いた限りでは、同じようにケーキを作っても失敗する確率の方が高い気がするのだ。そして、そのことでみなみが自信を失ったり、チョコ作りに嫌気がさすのでは、意味がない。
(スポンジは、ケーキの基本だけど……あれも、それなりにコツがいるものね。市販のスポンジを使うのは簡単だけど、それじゃチョコをデコレートするだけになってしまうし)
シュラインは、やはり「ケーキ」という枠をはずして、チョコレート全般の中から初心者向けのものを選んで作る方がいいだろうと、結論する。
その思いは、他の者たちも同じだったようだ。
結局、彼女たちは粉を使わず、固めるのも簡単な生チョコを作ることに決定したのだった。
【下準備】
必要な材料をそろえると、シュラインたちはまず、慎重に生チョコ作りの下準備に取り掛かった。
シュラインは、何より下準備に時間をかけようと、提案したのだ。
まず、レシピを書き出してすぐに見えるところに貼り、材料は分量をきっちり量って、使う順番に並べる。もちろん、調理台の上には、必要のないものは置かない。それと、みなみの作業工程を誰かがチェックし、製作終了後に、何か問題はなかったか全員で考えてみる、といったものだ。
(お菓子作りは、料理というより化学実験に近いから、化学変化を起こす分量と熱量などの計算を守れば、かならずその味が出てくれるもの。だから、全てをきっちりそろえて、急がず、一つづつ点検しながらがんばれば、きっといい結果が出るわ)
セブンが自分のデータから呼び出したレシピを、みなみが聞きながら懸命に書き写しているのを見守りつつ、シュラインは胸に呟く。
レシピは、事務所にあった油性のマジックで、まるで学校や会社の壁に貼られた注意書きか何かのように、黒々と大きく書き上げられ、調理台の前の窓ガラスにテープで貼り付けられた。
次に、これまたセブンの監督の下、材料をきっちり量る。
その間に、零、冴波、汐耶、遮那の四人は調理台付近と、念のためテーブルの上の菓子作りには必要ないもの――醤油やソースといった調味料から、沸騰ポットや灰皿まで、全てかたずけてしまう。
調理台とテーブルの上がきれいにかたずいたころ、みなみも計量を終えて、今度は材料を順番に並べ始めた。
生チョコは、まさに初心者向きのもので、材料自体も至って少ない。製菓用スィートチョコに生クリーム、無塩バター、ラム酒、ココアパウダーだけだ。それに、固めるための型とクッキングシート、小さい鍋、ボウル、チョコを刻むためのナイフか包丁、混ぜるためのゴムベラ、茶こし、まな板があれば事足りる。
それらを、まるでコース料理よろしく使う順番に並べて、下準備は終わりを告げた。後は、いよいよ作るだけである。
【チョコレート作り】
生チョコを作る手順は、だいたいこんなふうだ。
まず、チョコレートを細かく刻み、バターは室温に戻しておく。小さい鍋に生クリームを入れて弱火にかけ、沸騰の直前に火から下ろす。ボウルに刻んだチョコレートを入れ、温めた生クリームを加えて、混ぜながら溶かす。更にバターを加えて、全体がなめらかになるまで、ゴムベラで静かに混ぜる。ラム酒を加えて更に混ぜ、粗熱がとれて表面に艶が出、とろりとしたら出来上がりだ。これを、オーブンシートを敷いた四角い型に流し入れ、冷蔵庫で二、三時間かけて冷やし固める。
固まった生チョコは、仕上げにココアパウダーをふりかけて、二、三センチ角の食べやすい大きさに切ればいい。食べるまでは、冷蔵庫で保存しておくのがベストだろう。
つきっきりで教えることになったシュラインと冴波に挟まれるようにして、みなみは真剣な顔でチョコレートを刻み始めた。が、料理が苦手というだけあって、その手つきはなんとも危なっかしい。
(手を出しちゃ、だめよね。とにかく、全部自分でやらないと)
シュラインは、思わず自分が変わってやりたくなるのを、ぐっとこらえてその手元を見守る。
とりあえず、生クリームを温めるあたりまでは、問題なく進んだ。次は生地を混ぜる作業だ。部屋の隅のストーブのおかげで、室内は温かい。おかげで刻んだチョコレートも、温めた生クリームを加えると、少しやわらかくなったようだ。
「気をつけて、慌てないようにゆっくりね」
混ぜ始めたみなみに、シュラインは声をかけた。
「はい」
うなずくみなみは、真剣そのものだ。全体にチョコレートが溶けて、生クリームが茶色に染まる。
「そろそろ、バターを入れてもいいんじゃない?」
「そうね」
冴波に言われて、シュラインはうなずいた。
「バターを入れてね」
「はい」
言われてみなみは、やわらかくなって、なんとなくぐんにゃりしたバターの欠片を乗せた皿を取り上げる。やわらかいバターは、皿を傾けただけでは、なかなかボウルの中に落ちてくれない。焦ったのか、彼女は皿を軽く振ろうとした。
(そ、そんな乱暴な……!)
シュラインはぎょっとして、思わず叫ぶ。
「ゴムベラを使って!」
「ダメよ!」
「おちついて!」
同時に冴波と、テーブルの方で自分のブラウニーを作っていた汐耶の二人も、声を上げた。
「は、はい!」
とっさに返事したものの、みなみは返って焦ってしまったのだろう。バターは皿ごとボウルの中に落下した。
「あ……」
みなみが凍りつき、キッチンに一瞬、沈黙が訪れる。
それを破ったのは、セブンだった。
「大丈夫です。ここにある皿は、零様やシュライン様、わたくしが清潔に保っていますから、食べ物の中に落ちても、まったく問題ありません」
言って彼女は、調理台に歩み寄ると、どこからか取り出したトングで、ボウルの中の皿をつまみ上げた。まだ呆然としているみなみの手から、ゴムベラを奪い取ると、それできれいに皿についたチョコと生クリームの混合物、それにバターをこそげ落とす。
「これによる材料の損失は、必要量の0.05パーセント程度です。味、香り、外観などに、問題はありません」
「ななさんの言うとおりです。材料をこぼしたわけじゃないんですし、大丈夫ですよ」
取り成すように、零も横から言った。
それでようやく、シュラインたちも我に返った。
「そ、そうね。……食べる時には、お皿に入れる場合もあるんだし」
冴波の言葉に、シュラインはとっさに自分が動揺してはいけない、と感じた。なので、うなずくと何事もなかったかのように、みなみを促す。
「ええ、問題ないわ。さ、続きをやりましょ」
「は、はい」
みなみは、幾分泣き出しそうな顔になりながら、それでもけなげにうなずいた。
再び生地を混ぜ始めたみなみを見やって、シュラインは内心に小さく安堵の息をつく。そして、呟いた。
(彼女の失敗の原因は、この大雑把さというか、そそっかしいところかも。……たしかにさっきのは、一度に叫んだ私たちもいけなかったけど)
とはいえ、冴波と汐耶が大声を上げた理由もわかる。彼女自身もまさか、あそこで皿を振るとは思わなかったのだ。やはり、一番簡単な生チョコにして、正解だったかもしれない。
そんなことを考えつつ、シュラインはテーブルの方をちらと見やった。そちらでは、汐耶とセブン、それに零がそれぞれ、誰かに渡すつもりなのか、手作りチョコ製作の真っ最中だ。もっとも、一心不乱にそれに取り組んでいるのはセブンだけで、汐耶と零は時おり心配そうに、みなみの方に視線を巡らせている。
一方、真剣な顔でみなみの一挙一動を見詰めているのは、シュラインがみなみのチョコ作りの工程チェックを頼んだ遮那だ。
しかし、その後は彼女たち全員の祈りが通じたのか、みなみは失敗することもなく、無事に生チョコの生地を練り上げ、型に流し込んで、冷蔵庫に収めるところまでこぎつけた。
冷蔵庫の扉を閉めて、みなみは大きく溜息をついた。
「これで、固まるのを待てばいいんですね?」
「そうよ。ちょっと時間がかかるけれどもね」
シュラインは、うなずく。
「それじゃあ、待つ間、お茶にしませんか?」
そう提案したのは、零だった。
「私、チョコミルククレープを作りましたから」
「私の作ったブラウニーも、みんなに味見してもらおうかしら。たくさん作ったし」
うなずいて言ったのは、汐耶だ。
そんなわけで、シュラインたちは、少し休憩することにした。
【休憩――お茶の時間】
なんとなくホッとしてテーブルに腰を下ろしてから、シュラインはいつの間にかキッチンが、チョコの香りで充満していることに気づいた。みなみの行動に注目していたせいで、あまり気にしていなかったが、この香りは汐耶や零、セブンの作った菓子のものだろう。
やがてテーブルの上には、セブンの入れた紅茶と、零が切り分けたチョコミルククレープ、それに汐耶が作ったブラウニーが並んだ。
そこへおりよく、草間が帰って来る。
「いい匂いだな」
「お兄さん。少し早いけど、バレンタインのチョコを作っていたんです」
匂いにつられてキッチンへ顔を覗かせた草間に、零がうれしそうに言って、中へと誘う。どうやら、彼女の作ったケーキは、本来草間のためのものだったようだ。彼の前に置かれた皿のケーキには、チョコレートのバラが添えられていた。
(材料を買いに行く前に、真剣な顔でレシピブックを見ていたのは、こういうわけだったのね)
シュラインは、納得してうなずく。彼女自身は、すでに草間に渡す分のチョコレートの材料は、家の冷蔵庫の中に用意が整っていた。明日の夜に作って、十四日に渡すつもりにしている。
自分のために作られたものだと、気づいているのかいないのか、ケーキを食べ始めた草間を見やりつつ、シュラインも零のケーキに口をつける。ココアパウダーを混ぜて焼いたクレープの生地の間に、チョコカスタードを塗ったものを何枚も重ねて、ケーキ状にしたもので、しっとりとした口当たりがなかなか悪くない。
(美味しい。さすがに、気合が入っているわね)
食べながら、シュラインはそんなことを思う。
汐耶のは、胡桃やアーモンド、干しぶどう、ココナッツを細かく刻んだものを、ココア入りの生地に練り込んだ、ブラウニーだった。素朴だが、芳ばしいケーキである。
彼女はずいぶんたくさん焼いたらしく、テーブルの隅には、きれいにラッピングされたものがいくつか積み上げられていた。
シュラインはそれを見やって、思わず彼女に尋ねる。
「あれ、全部誰かにあげるの?」
「ええ。義理チョコだけど……ここでよく顔を合わす人たちと、草間さん、それに妹尾さんと三月うさぎさんにもあげようと思って」
「ああ……」
答える彼女に、シュラインは納得してうなずいた。義理チョコでも、友人知人には手作りしたものを渡す、というのは彼女自身もやることなので、よくわかる。その場合、本命には手の込んだものを作り、義理は比較的簡単なものを作るというのが、定石だ。ちなみに、今年の彼女の義理チョコは、トリュフチョコの予定だった。外観は工夫次第でそれなりに華やかになるが、作り方は至って簡単という一品である。
(バレンタインは、料理好きにはまた別の一面のあるイベントだってことかしらね)
シュラインは、ふとそんなことを思って小さく苦笑すると、紅茶のカップを取り上げた。
【完成――ラッピング】
おしゃべりしながらお茶を飲むうちに、三時間があっという間に過ぎた。
みなみが冷蔵庫から、型に入れた生チョコを取り出す。まな板の上には、茶こしでココアパウダーが広げられ、生チョコが来るのを待っていた。
「おちついて。慌てないでね」
シュラインは、型から生チョコを取り出しているみなみに、そっと声をかける。
「はい」
みなみはうなずいて、型から出してオーブンシートをゆっくりはがすと、生チョコをまな板の上へと乗せた。そして、その上に慎重な手つきで茶こしを小さく揺すりながら、中身のココアパウダーをふりかける。
それが終わると、今度は包丁で切り分ける作業に入った。最初もそうだったが、どうにも彼女の包丁を持つ手つきはおぼつかない。
チョコの切り口は、幾分いびつになってしまっているものもあった。しかし、シュラインの助言で、みなみがそこへもココアパウダーをふりかけると、それもあまり気にならなくなった。
「できた!」
茶こしを脇に置いて、みなみが声を上げる。シュラインたちも、思わず大きく息を吐き出した。
「おめでとう。よくがんばったわね」
「初心者とは思えない、素晴らしい仕上がりです、みなみ様」
「おめでとうございます、みなみさん」
シュラインとセブン、零が次々と言う。
「あ、ありがとうございます!」
みなみは、感激したように、彼女たちに礼を返した。
「一つ、食べてみたら? 自分で作ったチョコの味を、覚えておくのも悪くないわよ」
汐耶がそれへ言う。
「あ……。はい」
うなずいて、みなみはそっと一つをつまみ上げ、口に入れた。
「美味しい……」
ややあって、その口から低い叫びが漏れる。
「私、今までチョコレートって、こんなに美味しいものだとは思いませんでした」
「それは、みなみ様の真剣な心がこもっているからだと思います」
セブンが、ふいに優しく微笑んで言った。
「そうね。……真剣に作ったから、きっと美味しかったのよ」
冴波も、うなずいて言う。それへ同意するように、遮那も言った。
「みなみさんの彼氏も、きっとよろこんでくれますよ。だって、こんなに一生懸命作ったんですから」
「はい。ありがとうございます」
みなみは、もう一度、シュラインたちに向って、頭を下げた。
その後、シュラインたちもみなみに勧められて、一つづつ味見をした。たしかにそれは、口溶けのやわらかな、美味しいものに仕上がっていた。
やがて、完成品を箱に詰め、きれいにラッピングする。みなみは、けして不器用なわけではないらしい。四角い箱を丁寧に包装紙に包み、リボンをかけた。
それを見やって、シュラインは口を開いた。
「ところで、作業中の反省点だけど……。失敗の一番の原因は、注意力が足りないというか、ちょっとそそっかしいところじゃないかしら」
「あ……。工程をチェックしていて、僕もそう思いました」
うなずいて言ったのは、遮那だ。
「その……別に、時間が決められていて、大急ぎで作らなくちゃいけないってわけじゃないんですから、一つ一つ自分で確認しながら、丁寧にやって行けば、そんなに失敗はしないと思います」
「そ、そうでしょうか……」
みなみは、神妙な顔で二人の言葉を聞いていたが、おずおずと言った。
「そうね。レシピのあるものは、おちついてそのとおりにやれば、大丈夫なんじゃないかしら。もしかして、料理も今まで、慌てすぎて失敗していたとか?」
汐耶に問われて、みなみは少し頬を赤らめた。
「そ、そうかもしれません。学校の調理実習でも、塩と砂糖を間違えたりとか、水の分量を間違えたりとか、よくしてました」
その言葉にシュラインは、ふと彼女が雑談の中で、両親はパンの工房はおろか、台所へも自分を入れてくれない。だから家では、料理の手伝いもしたことがなく、そんな両親への反発から自分はよけいにパン嫌いで、料理が苦手になったのだと話していたことを、思い出した。そして、ふと気づく。
(あ……。もしかして、みなみさんのそそっかしさを危なく思って、台所に入れないようにしていたんじゃないのかしら)
たいていの料理は火を使うし、パンの方は売り物だ。みなみに危険なことがあっても、パンに問題があっても困る。彼女の両親は、そう考えているのではないか。
(でも、そうやって台所や料理から遠ざけていたら、よけいに欠点は改善されないように思うけれど……)
一度、母親とだけでもそのことについて、話してみたらどうかと考え、シュラインが口を開こうとした時だ。冴波が言った。
「みなみさん、一度、お母さんと一緒に料理を作ってみたらどうかしら。事前に、何を作るのかお母さんに聞いて、材料や手順のことも覚えて、今日やったみたいに。そしたら、お母さんも食事の手伝いをするのを、許してくれると思うけど」
「え……」
みなみが、驚いたように顔を上げる。
「ああ、それはいいですよね。そしたらきっと、料理の技術もつくし、慣れたら最初からおちついてできるようになりますよ」
遮那が、大きくうなずいた。みなみは、そんな彼を見やり、それからシュラインたちを順番に見やった。そして、うなずく。
「はい。やってみます」
その顔には、明るい笑顔が浮んでいた。
【エンディング】
そして、二月十四日。
夕日の名残の色が、まだかすかに空を染めているころ、興信所の中でシュラインは、みなみはどうしただろうかと考えながら、帰り支度を始めていた。
(そういえば、ななさんの作ったチョコレートムースも、美味しかったわね)
ふと、あの日の帰り際、セブンにもらった菓子のことを連鎖的に思い出し、彼女は胸に呟く。他の者にも渡していたが、セブンの本命は草間と零、それにシュライン自身だったようだ。もっとも、「本命」といっても、きっと彼女の場合は家族的な意味合いだろうけれども。
(ホワイトデーには、何かお返ししないといけないかしらね)
そんなことをも、シュラインは思う。
あの日は、零も草間にケーキを食べてもらえて、うれしそうだった。
汐耶はラッピングしたブラウニーをいくつか、顔見知りに渡してほしいと、興信所に預けて帰った。草間と遮那の分は、あの場ですでに二人とも食べていたので、その中にはなかったが。
そして遮那は、思いがけず美味しいチョコレートをいくつも食べられて、これまたうれしそうだった。ただ、最後にみなみの書いたレシピの紙を、彼が折りたたんでポケットに入れていたのが、今でもシュラインには少しだけ疑問だ。
(遮那くんって、チョコレート好きだったのかしら。それとも、誰かにリクエストして作ってもらうとか?)
改めて、そんなふうに考えてみたりもする。
もちろん彼女も、昨夜作ったチョコレートをしっかり草間に渡した。毎年のことではあるが、普段食べ物を差し入れするのと違って、草間もこの日ばかりは一応それが特別なものだとの認識はあるらしい。少し照れくさそうな顔をして、受け取ってくれた。
(去年のホワイトデーには、帽子を買ってくれたのよね。今年は……んー。どっかで軽く食事、とかいうのも、悪くないわね)
去年のことを思い出し、彼女は考える。別に、お返しを期待しているわけではないが、そうやって自分の喜ぶようなものを考えてくれる、草間の気持ちがうれしいのだ。
と、そこに来客があった。誰かと思えば、みなみだ。シュラインが呼んだので、奥から夕食の支度をしていた零も姿を現す。
彼女たちに向って、みなみは深々と頭を下げた。
「先日は、ありがとうございました」
「いいえ、気にしなくていいのよ。それで、どうだった? 彼の反応は」
シュラインは、かぶりをふると、尋ねる。
「はい。とっても喜んでくれました」
みなみは、頬を紅潮させて答える。
「それに、私は彼にはパンや洋菓子が嫌いなことを一度も話したこと、なかったんですけど……彼は気づいてたみたいで。だから、よけいに私が自分で作ったって言ったら、感激してくれて。手作りチョコを贈るの、あきらめなくて、本当によかったです」
言ってから、彼女は付け加えた。
「それと、家でもジャガイモの皮剥きとか、野菜を切るとかいった簡単なことですけど、手伝わせてもらえるようになりました。ここで先日、みなさんに言われたこと、一つ一つ気をつけてやったら、お母さんが、これからは夕食とか手伝ってほしいって言ってくれたんです。……これも、みなさんのおかげです。ありがとうございました」
彼女は、もう一度、二人に向かって頭を下げる。そして、零をふり返った。
「遮那さんには来る途中で会ったんで、お礼を言ったんだけど……他の方たちにも、私がとっても感謝していたって、伝えてもらえる?」
「はい、もちろんです。きっとみなさん、喜びます」
うなずいて、零は言う。
「私も、みなみさんのお役に立てて、うれしいです」
「ありがとう。……あ、そうだ。お母さんが、次に零ちゃんがパンを買いに来た時には、三割引きにするって言ってたから」
「それはうれしいです。ありがとうございます」
思い出したように言うみなみに、零は笑顔で返した。もっとも、零はなぜパンを三割引きにしてもらえるのか、よくわかっていないようだ。
おそらく、みなみがチョコ作りの顛末を、母親に話した結果だろう。
(みなみさんのお母さんからの、ささやかなお礼ね)
シュラインは、小さく微笑んで、胸に呟く。
やがてみなみが立ち去ると、零はさっそく今の話を冴波と汐耶に伝えるべく、自分の携帯電話を取り出し、メールを作成し始めた。
それへ声をかけて、シュラインは事務所を後にする。外に出ると、空に一番星が明るく輝いているのが見えた。
(若い恋人たちに、幸あれ、ね)
ふと呟いて彼女は、冷たい空気の中へと、足を踏み出したのだった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 /シュライン・エマ /女性 /26歳 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【4410 /マシンドール・セブン /女性 /28歳 /スペシャル機構体(MG)】
【0506 /奉丈遮那(ほうじょう・しゃな) /男性 /17歳 /占い師】
【1449 /綾和泉汐耶(あやいずみ・せきや) /女性 /23歳 /都立図書館司書】
【4424 /三雲冴波(みくも・さえは) /女性 /27歳 /事務員】
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■ ライター通信 ■
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●シュライン・エマ様
ライターの織人文です。
いつも参加いただき、ありがとうございます。
さて、今回はこんな感じになりましたが、いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
またの機会があれば、よろしくお願いいたします。
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