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明日は笑っていられるように
夏の向日葵のような力強い笑顔。
明るく綺麗な綱の笑顔。
彼が見せるいつもの表情。
それは彼が彼である所以。
渡辺綱と言う、少年である証。
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夢は、甘くない。
何も都合よく変わったりはしない。
夢の中では現実が圧し掛かる。
…現実より、余程、酷い。
夢であるだけで、ただその現実の重さが、増す。
甘い夢は、見ない。
本当に、稀にしか。
期待する事なんか忘れるくらい、稀にしか。
その夜に見た夢も、言葉になど表したくないくらい、酷い夢。
渡辺綱の名を継ぐ少年の、心の闇を抉るような、夢だった。
その夢の中で。
…綱は、自分を見ていた。
自分自身を客観的に見る事など、そうはない。
そんな余裕がない。
いつも。
渡辺家当主としての御役目をこなす自分は。
いつも、その時々で、精一杯で。
そう。
いつも『鬼払い』に奔走している。
いつも危険に身を晒している。
ただ、目の前の出来事に当たるだけで。
気なんか抜けない。
余裕なんかある訳ない。
場面が自分の家に移る。
無言の迎え。
刺さる視線。
向けられる怯え。
…もうずっと、変わらない。
場面が更に、学校に移る。
友人の存在。
他愛無い、僅かな救い。
…けれどだからこそ、別れた後の寂しさが、より強調される事になる。
他愛無く騒げる彼らとも、下校の後にはそれっきり。
…両親には己の持つ異形の力を恐れられ、友人とは共に過ごせる十分な時間もない。
いつもひとりぼっち。
いつもきずだらけ。
それでも誰も褒めてくれない。
褒める代わりに降りかかって来るのはマイナスの感情だけ。
…とても惨めに見えた。
それで、目が覚めた。
夢の中の自分が消えない。
この漠然とした嫌な感覚が、消えない。
惨めな。
不安な。
寂しい。
ひとりにしないで。
おいていかないで。
そばにいて。
いたいよ。
たすけて。
おれをこわがらないで。
なんでさけるの。
おれはおれなんだよ。
なにもかわっちゃ、いないのに。
どうしてこわいの。
そばにいちゃいけないの。
あそびたいのに。
みんなといっしょにいたいのに。
どうしてだめなの。
どうしてみんなおれからはなれていくの。
…ぐるぐると頭の中を巡る感情。どうしたって消えない、絶望に近い感情。自分の境遇が。何故自分は渡辺家の当主なのか。こんな力さえ無ければ、両親は。
マイナスの感情が、消えない。
そんな事思っても仕方無いのに。
しなければならない事、嫌だとか何とか、褒めてもらうとか、そんな言葉で済ませてはいけない事なのに。
今の生活は。
…『鬼払い』は。
俺自身が渡辺家当主として覚醒したからこそ与えられた、崇高なる使命なのだから。
…本心からそうは思っていても。
漠然とした不安も、そう簡単に消せるものじゃない。
綱は布団の中に居る。目が覚めたそのまま、暫く身を縮こめていた。自分の中、何処からとも無く襲い来るそのマイナスの感情に必死に耐える。
けれど。
ひとり闇の中、布団に潜って居ると。
余計に。
辛くなる。
この漠然とした不安に、呑み込まれそうになる。
耐えられなくなりそうになる。
でも。
…こんな気持ちになるのは珍しい事じゃない。
どちらかと言えば、よくある。
よくある事。
だから。
だから、綱は布団から出、自分の部屋をも出て――ひとり、武道場に向かう。
月明かりの照らす静謐の場に。
向かう。
…『御霊髭切』を携えて。
現実が夢の形を借りて。
自分を試しているのだろうと、綱はただ、無自覚ながらも悟っている。
細かい事は考えてもいない。考えても始まらない。考えるだけ悪い方に進む。もう、わかっているから。何度も何度も、同じ事は、あったから。
だから、何も考えない。
ただ、迷いを断ち切らねばならないと。
それだけを覚えておく。識っておく。
既に自分の中にある。
だから。
そんな不安を覚えた時には、する事は決まっている。
自宅の敷地にある武道場。その場を借りる為、道場に、その神前に礼を取る。
心の細波を静める為、瞼を閉じる。
精神統一。
そして。
…ただ、振るう。
もうすっかり手に馴染んだその刀を。綱が綱である理由。使役して長い、渡辺家正統の証――『御霊髭切』。
一太刀、一太刀。
確かめるように、丁寧に。
力強く。
静寂の中で唯一人、その床板を軋ませ、演舞のように。
振り抜く。
振り貫く。
空を切り裂く。
迷いを、切り裂く。
仄かな月明かりの下。闇の中に細い軌跡が残る。僅かな間の事。すぐに消える。けれど余韻が残る。その刀。振り抜いた事実。その場には何も残らずとも、心の中の不安は真実切り伏せる事が叶っている。『髭切』の鋭い光が綱の迷いを、不安を断ち切る刃になる。
…『髭切』。これが全ての源。だがこれを振るうのが自分。それが出来るのも自分。必要な事。使命。迷うのは当然。境遇を恨むつもりはない。栄誉である事。わかっている。それでも迷うのは――自分が弱いから? そうだ。俺は弱い。弱いからこそ、負けてはいけない。迷う事は、負ける事じゃない。
迷う事なら、いつでもある。
けれど。
戻って来なければならない。
戻って来れなければ、その時こそ、負けになる。
大丈夫。
俺は戻って来れるから。
大丈夫。
だから、俺はここに来る。ここで、『髭切』を振るう。用意されている竹刀でも木刀でもない――『髭切』を。俺の役目。逃げてはいけない。すべて受け入れてその上で。
頑張らなきゃ。
そう。
例え今宵は、不安に呑み込まれそうでも。
――…明日は笑っていられるように。
【了】
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