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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


逃亡者 〜緑の栞〜




 司法局セントラルビルの一角にあるその部屋の前で司法局特務執行部所属高野千尋は足を止めた。
 透明な強化プラスティックを一枚隔てた向こうから、青い髪の男が椅子に座ってこちらを見つめている。彼のアイスブルーの瞳が全てを吸い込んでしまいそうな程深くて、千尋は無意識に息を呑んでいた。
「待っていたよ、ゆき」
 向こう側とこちら側を繋ぐ音声スピーカーから彼のくぐもった声が聞こえてきた。
「空野彼方……いや、朱」
 そう呼びかけて千尋は反射的に目を閉じていた。その名に敬愛の念がこもってしまうのを隠し切れなくて、その事がまるで禁忌のように奥歯を噛む。
 きっかり一秒、間をあけて返ってきた空野彼方、いや朱の声は驚きを微かに含んでいた。
「嬉しいな。僕の名前ちゃんと覚えててくれたんだ」
「何故……?」
 千尋は問いかけた。
「青い絵本を空野彼方に渡してはいけない。ここを開けてくれるね、ゆき」



 ◇◇◇



 この世には不思議な色の絵本があった。

 『白い絵本』は、その日見た夢を映す。
 『黒い絵本』は、心の闇を映す。
 『赤い絵本』は、血に飢え生き血を啜る。
 『青い絵本』は、天を翔る。



 ◇◇◇



 司法局セントラルビルの二階にあるカフェテラスで、のんびりとランチを楽しんでいた司法局特務執行部オペレータ藤堂愛梨は、突然のエマージェンシーコールに頬張っていたナポリタンを噴出しかけた。
 何事かと慌てて立ち上がりながら通信機開く。
 液晶画面には事務的な一行。
『空野彼方脱走』
 12時17分の事であった。

 愛梨がオペレーションルームに戻り詳細を聞かされたのは、それから更に10分後の事である。内容は愛梨を愕然とさせるものであった。
 空野彼方脱走には手を貸した者がいる。
 それは監視カメラから高野千尋と断定された。

 手を貸した者が司法局員であるという一点に於いて、司法局はC4ISRの導入を先送りにした。それは単に、司法局の汚名は司法局自らが雪がなければならない、というくだらないプライドによるものだった。だが、手を貸したのは司法局が誇る特殊部隊の人間である。一般の者達の手に負える相手ではない。それ故に、捕縛にあたる者達は細心の注意をもって選ばれた。

 司法局特務執行部所属仁枝冬也が司法局に呼び出しを受けたのは13時3分の事であった。事件発生からこれだけの時間が開いたのには、いくつもの理由があったが、その最大の理由は官僚システムによるものだろう。
 そしてもう一つ、彼が今回の作戦に選ばれるにあたり危惧される事があったからだ。

「今回の件は、司法局の恥である。何としても止めねばならん。恐らく奴らは封印された『青い絵本』の奪還に向かう筈だ。高野の生死は問わん。何としても奴らをCITYから出すな!」

 それが司法局が彼に下した命令であった。

「せ……生死は問わないですって!?」
 驚いたように声をあげたのは愛梨だった。冬也をゆっくり振り返る。
 上司の顔をまっすぐに見返す彼の顔からは、何の感情も読み取れない。
「そんな、だって高野くんは……」
 愛梨はそのままやるせない気持ちで言葉を詰まらせた。
 千尋は冬也の親友でもあり、幼馴染でもあるのだ。

「わかりました」
 冬也が静かに頭を下げてその部屋を出て行ったのは13時17分の事であった。

「どうして!?」
「彼にしか高野くんは止められないからね」
 納得のいかない顔で愛梨が上司に詰め寄ろうとした時、彼女の背後から宥めるような声が届いた。
 冬也が出て行った扉の前でその男は両手を白衣のポケットに突っ込んだまま軽い笑顔をつくっている。
 見知った男の顔に愛梨は眉間に皺を寄せて嫌そうにその軽薄そうな顔を睨み付けた。
「どうして警察付きの観察医がこんなところにいるのよ?」
 TOKYO−CITY衛生局医療計画部医療計画課監察医務院勤務の監察医、瑞城東亜は愛梨の視線に困惑げに肩を竦めて見せる。
「ゆうべ、NATで変死体が見つかってね」
「珍しくもないでしょ」
 そっけなく切り捨てる愛梨に、東亜はやれやれと頭を掻く。
「それがどうも俺の見立てだと、空野彼方の仕業なんじゃないかと思うんだ」
「なっ!? ……どういう事?」
「そういう事」
 東亜はそう言って説明するのも面倒げに踵を返した。彼の言葉に何か心当たるものがあったのか、愛梨は慌てて自分の席に戻るとオペレータコンソールのパネルをたたき始める。
「さて、俺はウェストゲートにでも行きますか。予想が当たってれば、高野君は仁枝君にも止められないだろうけどね。事の顛末ぐらいは見届けましょう――いや、顛末ではなく幕開けとでも呼ぶべきか」
 東亜がそうして司法局セントラルビルのロビーをのんびりと横切ったのは13時23分の事である。






【起承転結の起】 本はただ物語をつむぎ続ける

 ■133001■

 都立図書館――。
 普段は子供たちでごった返す土曜日の午後。
 にもかかわらず児童書コーナーには人っ子一人、大人さえいない。いや、この表現には少し語弊があるだろうか。
 一人しかいなかった。
 いくつも並ぶ本棚の片隅に用意された閲覧コーナーでCASLL・TOは一人男泣きに泣いていた。
 柱に貼られた【静かに】という文字がむなしくなるほど豪快な泣っぷりである。手にしているのは『嵐の晩に』という絵本であった。強面の脛に傷持つ一匹狼が、心優しい人間の女の子と種族を超えた愛を育む切なくも愛しい物語である。
 とはいえ、子供向けの絵本である。
 絵本を手に大の男が人目も憚らず大号泣。
 それだけでも、皆がドン引きする要素は大きい。
 しかし、彼が絵本を読み始める前から、そのフロアーはほぼ閑古鳥であった。
 CASLL・TO。職業、悪役俳優は強面が命。子供が泣きながらフロアを飛び出していったのも仕方ない事であった。
「うぅっ……みうちゃんが可哀想です〜〜〜」
 溢れる涙を腕で拭いながら、溢れる鼻水までは拭いきれずにタオルを濡らす。今にも絞れそうなほどぐしょぐしょにしながら彼は泣いていた。
 完全に狼と自分が重なってしまっているらしい。
「あぁ…ひどいっ!!」
 彼は再び嗚咽を漏らしながら、びしょびしょのタオルに顔を埋めた。最早涙でその先は読めぬといった風情だ。
 そんな彼に近づこうなんて考える者はそうはないだろう。
 図書館の館員でさえ、注意する事を躊躇うほどの強面が相手なのだ。
 しかしそんな彼に近づくどころか肩を叩く者があった。
「はい?」
 CASLLが振り返る。顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして、それでなくても凄みのある顔を、言葉では言い表しようがないぐらい壮絶に歪めて。どんな凶悪犯人でも裸足で逃げたくなるような顔は、普通の人ならそれこそその場で失神したかもしれない。
 という事はどうやら彼は普通の人ではないのだろう。
 彼は迷彩色の上下にカーキ色のブルゾンを羽織って人懐っこい笑みを向けた。
「お久しぶりです」
 CASLLは暫し考え込む。
 彼の顔が記憶になかったからだ。
 けれど、それも一瞬。
 何故だか旧知だったような気がして答えた。
「お久しぶりです、高野さん」
「ちょっと、お願いがあるんですが、お手伝い願えませんか?」
「はい。私に出来る事でしたら」
 そうしてCASLLは濡れた顔をタオルで拭くとティッシュで鼻をかんで、読みかけの絵本を閉じたのだった。



 ■134501■

 何かがどこかにピタリと収まったような金属音がその屋上にわずかに響く。その音を聞いただけでリオン・ベルティーニは生唾を飲み込んでしまった。無意識に口の端があがってしまうのは如何ともし難い。今のは恐らく7.62ミリ・アキュラシー・インターナショナルPMの弾が装填される音に違いない、と当たりをつけて、リオンは彼のもとへ歩み寄った。一部ミリタリーマニアの血が混じっている。
 銃尾から銃身を覗き、目の前の都立図書館を睨んでいた男がゆっくりとリオンを振り返る。慌てた風も動じた風もないのは、随分前から彼が近づいてきている事に気づいていたからだろう。かといって迎撃の準備をしているようにも見えない。見えないだけなのか、本当にしていないのかはわからなかったが。
 振り返りもしない男にリオンは喫茶店マスターとして培った愛想のいい笑みをその顔に貼り付けて声をかけた。
「司法局特務執行部、仁枝冬也さん?」
「…………」
 彼は否とも応とも答えずリオンに一瞥をくれただけで再び作業に戻ってしまった。
 リオンはその手元を見ながら自分の予想が当たっていた事に、一人握り拳を握る。勿論それは、彼が仁枝冬也である、という方ではなく、さっきの金属音が7.62ミリ・アキュラシー・インターナショナルPMである、という事実の方だ。仕方がない。所詮ミリタリーマニアなのだ。勿論、触りたいとか。撃ってみたいとかは思っていても口に出さない分別は持ち合わせていたが。
「ま、お互い仕事の邪魔はしないという事で」
 なんて嘯いて、リオンは欄干に肘を付くと持っていた双眼鏡を覗いた。
「……どういうつもりだ?」
 初めて冬也がリオンを振り返った。この屋上から目標となる図書館まで距離は直線にして500m。しかしリオンにはその距離を埋めるような武器類を持っていないように見えたからだろう。事実、リオンは愛用しているワルサーP38を胸ポケットに忍ばせている以外何も持ってはいなかった。とはいえ特に、その距離を埋められるような特殊能力があるわけでもない。
「ま、あれだ。あんたと組んだ方が楽そうだから」
 リオンが肩を竦めてみせる。
「断る」
 冬也は相変わらず見向きもせずに、冷たく言い放った。
「連れないねぇ……ま、俺はいないものと思ってくれて構わないからさ」
「…………」






【起承転結の承】 栞抜き取り本開かば物語りは続き

 ■140002■

 双眼鏡を覗いていたリオンは、ふと背後に気配を感じて剣呑と振り返った。そこに、青い髪に青い目をした男が立っている。空野彼方と特徴が一致していた。
「お久しぶり……と、初めまして」
 愛想よく笑う男にリオンは身構える。
 冬也と一緒にいれば向こうから出向いてくるのでは、とふんでいた彼は、自分の予想が当たった事に満足しながら問答無用でワルサーの引鉄を引いていた。
 銃声は二つ。ダブルタップは基本中の基本だ。
 よもやこの至近距離ではずすまい。だが、確かに彼方の太ももを狙ったそれはどちらも手ごたえがなかった。
「はずれ」
 おどけたように彼方が両手の平を肩の高さで空に向ける。
「…………」
 リオンは不満げに眉をしかめた。
「じゃぁ、今度はこっちの番」
「!?」
 彼方が指を弾いた。
 空気の弾丸がリオンを襲うのを彼はぎりぎりで躱が、かまいたちが走ったように彼の頬からうっすらと血が滲んでいた。リオンは頬を伝うそれを舌で舐め取ってゆっくり銃口を移す。
 今ので、彼の位置がわかった、とでもいう風に。
 今見えている彼とは全く別の、貯水タンクの上へ向けて再度引鉄を引いた。
「当たり。でも、ちょっと惜しかったね」
 そこに姿を現した彼方が、よく出来ました、と嗤う。
「ちっ」
 リオンは舌打ちしながら走りだした。
 彼方はタンクを軽やかに飛び降りると地面を蹴る。
 それに銃声が二つ重なった。
 互いの動きは止まらない。
 更に銃声が続く。
「はい。また、はずれ。弾は後二発かな? 大事に使わないとね。こんな見通しのいいところで弾を装填する暇ができると思ったら大間違いだし」
 人の神経を逆なでするかのような笑顔を貼り付けた彼方の言葉にリオンは、何をやってるんだ、という面持ちで冬也を振り返った。
 彼は手を出すつもりもないのか、そこにただ突っ立っている。
 まさかこの期に及んでまだ、手を組まないなどと言い張るつもりなのだろうか。
 そんな一瞬の隙に彼方の攻撃が割り込んでくる。
 避ける暇もなく反射的にリオンは引鉄を引いた。
 攻撃を自らの弾で相殺して、更に目を凝らしその向こうの彼方を狙う。
 弾は彼の胸の中に消えた。
「!?」
 幻影を貫いた弾にリオンは舌を出す。
 彼方の本体は目の前にいた。
「これで、The End」
 嗤う彼方にリオンは生唾を飲み込んで、冬也を振り返っていた。
「……おい。おーい。仁枝くーん」
 彼方もその視線を追いかける。
「おーい」
 しかし、冬也はチラリともリオンを振り返らなかった。
 ただ、彼方を呆然と見つめている。
 彼方が冬也の正面に歩いた。
 距離にして十歩分といったところか。
「千尋……」
 冬也がその名を呼んだ。
「やっぱり冬也は誤魔化せないね」
 そう言って首を傾げる彼方の青い髪は茶色に、その瞳は紫に変わっていく。
「へ?」
 呆気に取られたように見つめるリオンを他所に冬也が声を絞り出した。
「何故だ?」
「…………」
 冬也の問いかけに、千尋は無言を返すだけだった。
「答えろ千尋っっ!!」
 怒号はどこか悲鳴にも似て、屋上に響いた。
 きっかり十秒、二人は睨みあったままで蚊帳の外に置かれた、リオンはただ無意識に息を呑む。
「……答えたら、冬也は俺を見逃してくれんの?」
 千尋の問いに今度は冬也が沈黙を返した。
「ま、いいや。行くよ、冬也」
 まるで仕切りなおすように。
「なっ……」
「さぁ」
 促すように手を伸ばしてくる千尋に冬也は半歩後退った。
「どういう事だ、千尋」
 戸惑うような冬也の様子にリオンは二人を交互に見やる。明らかに冬也の様子はおかしい。勿論、リオンは冬也と旧知というわけではなかったが、噂に聞く彼とは違っているように見えたからだ。トラッカードッグ。彼の異名はその冷徹なまでの職務遂行ぶりに所以しているわけではないのか。何故、それに戸惑ったり、躊躇ったりするする必要がある。彼と千尋が親友であったとしても、彼の逡巡は別のところにあるような気がした。まるで、どこかからプレッシャーでも受けているかのような。
「冬也、一緒に行こう」
 千尋の誘いに抗うように後退る彼の顔が見る見るうちに蒼褪めていく。
「何を…言ってる?」
「お前が追ってくる事はわかってた……」
 千尋が一歩踏み出した。
「一緒に行こう」
 突然、冬也の体が傾ぐ。
「はぁ…はぁ…」
 荒い息を吐きながら、彼は膝を付いていた。
「冬也」
「何言ってんだあんた」
 リオンが慌てて二人の間に割って入った。
 刹那、一発の銃声と共に、千尋の頬を何かが掠めた。
 別段景色が変わったわけではなかったが、何かが壊れたようにふとその場の空気が軽くなる。
 まるで緊張の糸が切れたような唐突さで冬也がその場にくずおれた。
「あ…お、おい!?」
 千尋の顎を紅い珠が伝っていた。彼の視線は図書館を睨みつけている。
「邪魔を……するか」
 呟いた千尋が冬也の元へ歩み寄ろうとした。
 リオンが冬也を背に庇うように身構えている。
 彼の足がふと止まった。
「!?」
 冬也の体が一瞬闇に解けたからだ。
 そこに倒れていた筈の彼がいなくて、千尋は瞼をわずか伏せ、ゆっくりと辺りを見渡した。
 そこに、冬也が倒れている。
 その傍らに一色千鳥が立っていた。
「セレスティさんの予想通りでしたね」



 ■143001■

「それ、返してもらえないかな」
 千尋は自分の胸にピタリと照準の合わせられたリオンのワルサーには目もくれず、千鳥の傍らに倒れている冬也を指差して言った。
「それ?」
 物か何かのように言ってのけた千尋に不快感を募らせながら、千鳥は彼との間合いをはかるように手の平を彼の方へ突き出した。
「その前にお聞きしたい事があるんですが」
「何?」
「彼は、本当に空野彼方だったのでしょうか」
 千鳥の問いに千尋は困ったように首を傾げて言った。
「……空野彼方は空の絵本を持つ者に与えられるいわば称号のようなものだよ。そして、今までで空の絵本が出現したのは、後にも先にもただの一度、五年前だけだ」
「…………」
「もう、いい? それ、返してくれる?」
「お断りします」
 即答してみせた千鳥に、千尋がムッとしたように一歩を踏み出した。しかし互いにそれ以上の動きはない。ただ相手の隙を伺うように身構えているだけだ。
 彼らの間に一触即発の空気が漂った。
 それを断ち切るかのようにビルから屋上へと続く扉が勢いよく開く。
「お待たせ、ゆき」
 そこから顔を出したのは、青い絵本を持った彼方であった。
 千鳥がそちらを振り返る。
「行こうか」
 千尋が彼方の方へ歩み寄ろうとした足元に、銃弾が穿たれた。
 千尋はリオンを睨みつける。
 リオンの銃口が千尋の心臓を向いた。
「参ったねぇ」
 彼方の方が千尋に歩み寄ろうとした。
 リオンが牽制するように引鉄を引く。わざとはずした筈の弾がそこに赤い花を咲きほころばせた。
「なっ……!?」
 冬也が彼方を庇うように立っているのに、リオンは我が目を疑って驚いたように何度も目を瞬かせた。気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。血に染まった胸を押さえながら倒れる冬也の体に、感情を押し殺した冷たい視線を注いだ。
 千鳥はただ、息を呑んでいた。
 と、再び大きな音を立てて、扉が開いた。
「まだ話が途中よ、空野彼方!」
 まるでそこにあった空間を壊すかのように。
 飛び出してきたのは、シュライン・エマと綾和泉汐耶だった。
 その後に、セレスティ・カーニンガムも続く。
 千尋の傍らに彼方が立ち、冬也は千鳥の足元に倒れていた。
「また、幻覚か……」
 呟いたリオンのこめかみに汗が滲む。千尋がそれまでに見せていた幻覚とは質量が全く違うような気がしたからだ。
 今のは、彼方がやったのか。
「うるさいおばさんだな」
 彼はめんどくさそうに髪を掻きあげてみせた。
「なっ……」
 いきり立つ汐耶とシュラインに彼方が楽しそうに指を弾く。
「じゃぁ、こんな幻影はどうですか?」
「え……!?」
 刹那、シュラインと汐耶は固まった。
 特にシュラインは大きく目を見開いて硬直してしまった。
 そこに、やたらテカテカとした茶色の羽を持つ体長3cmくらいの虫がいたからだ。
 シュラインは生唾を飲み込みながら何度も何度も自分に言い聞かせた。
 これは幻覚。これは幻覚。これは幻覚。
 けれども恐怖の方が勝るのか、幻覚でも嫌なものは嫌なのか、それは一向に視界から消える気配がない。
 本物だったらどうしよう。
 目を閉じてもカサカサと音がする。
 そんな音は実際にはしていないのだが、頭でわかっていても、全身がその存在を捉えてしまうのをどうしようもない。
 幽霊だろうが、妖怪だろうが、モンスターだろうが物怖じしない彼女である。
 しかし、これだけはダメなのだ。
 全身全霊をこめて忌み嫌う存在なのだ。
 その名を言葉にするのもおぞましい。イニシャルにしてG。想像しただけで全身が総毛立つ。
 これは幻覚。これは幻覚。これは幻覚……。
 お願いだから、消えて! と内心で叫んでみた。
 しかし消えてはくれない。
 カサカサカサカサ。
 自分のもとへ大群で押し寄せてくる。
 一匹でもおぞましいのに!!
 幻だとわかっていても気が遠くなってきた。
 その内の一匹と目が合ってしまったような気がする。
 恐怖はあっという間に臨界点に達した。
「キッ……キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
 彼女の悲鳴が屋上に響き渡り、誰もが咄嗟に耳を塞いだ。
 殆ど壊れかけているシュラインが発する悲鳴はまるで超音波となって辺りのものをなぎ倒した。
 周りにいた者達もそうであったのだから、彼女の正面にいた者はその比ではなかっただろう。
 千尋と彼方の二人が欄干の向こう側へ飛ばされた。
 やがてGの幻覚も完全に消失した頃、シュラインの悲鳴がやっと止まる。
「…………」
 暫くその場に沈黙が横たわった。皆、耳が麻痺してしまって、もう誰の声も聞き取れない感じである。
 リオンが体を起こして欄干から下をのぞいた。
 一台の車が二人をのせて走り出すのが見えた。
「ちっ……」
 舌打ちしてリオンはそこに落ちていた冬也のライフルを拾いあげた。
 照準を合わせる。
 引鉄を引いた。
 弾はテールランプの片側を穿っただけだった。
 スコープの照準が合っていないのだ。当たり前か。図書館までの距離500mに調整されているだろうから。リオンは素早くエレベーション・タレットを2回転させてスコープを覗くと先ほど撃った弾の軌道から風向きを算出して補正をかける。狙撃は専門分野ではないが、何とか一矢報いたい。
 引鉄を引く。
 車の後部座席の扉を穿った。
 もう一度補正。
 赤信号に停車していたその車の車高が下がった。
 パンクしたのである。
「これで少しは時間稼ぎになるだろ。どうせ奴らはウェストゲートに向かう」
 リオンはライフルを下ろして言った。
「現時点で絵本は開かないようですね」
 セレスティが尋ねる。
「えぇ。まだ封印は解いていないから本の位置は大体わかるわ。たとえ、別のゲートに向かったとしても」
 汐耶が答えた。
「くっ……Gの恨み晴らしてやるっ!」
 シュラインが拳を握る。
「ウェストゲートには直江さんが先に待機してくれています」
 千鳥の言葉に皆、扉に向かいかけて、そこに横たわっている冬也に足を止めた。
「彼は……?」
 そこへ一人の女が現れた。
「私が見ます」
 長い髪を一つ束ね、バレッタでまとめあげた女が立っている。
 見知った顔にシュラインが笑みを零した。
「……お願いね」
「はい」
 藤堂愛梨が頭を下げた。






【起承転結の転】 開かずとも本は他人を巻き込みて

 ■145001■

 セレスティのリムジンの後部座席は対面型で六人乗れるになっている。そこに、セレスティ、汐耶、シュライン、リオン、千鳥が順に乗り込んだ。
「直江さん。そちらに向かいました」
 通信用マイクに向かってセレスティが声をかける。ここからゲートまで約18km。ギリギリか。
 スピーカーから直江の声が返ってきた。
『了解しました』
「彼方は、青い絵本を持っていますが、絵本の封印はまだ解けていません。幻覚に気をつけてください」
『わかりました』
「お願いします」
 そこで一旦通信を切って、セレスティは一同を振り返った。
「腑に落ちない事があるの」
 シュラインが口火を切った。
「まず、空野彼方がS級犯罪者であるという事」
 五年前の事件でも警察の管轄ではなく司法局の扱いだった。だが、それより遡った空野彼方の犯罪履歴が何もない。犯罪者は警察から司法の手に移って初めて司法局管轄になる筈だ。どんな犯罪者でも一番最初に関わるのは警察の筈である。勿論、これは全てに於いてそうというわけではなかった。NATが警察の管轄区域から外れているからだ。しかし、五年前に起きた事件はCITY内の、警察の管轄区域内の出来事である。
「二つ目、彼は何故CITYに入る前に本を開いたのか?」
「それは私も疑問でした」
 シュラインの言葉にセレスティも頷く。
「高野さんの、空の絵本が出現したのは五年前のただ一度、というのも気になります。彼の言った事が本当なら、あの時捕まえた男はやはり空野彼方ではないという事に」
 千鳥が言った。
「それを裏付けるように高野さんは彼の脱走を幇助していますし」
「彼が空野彼方本人でなかったとするなら、彼はどうやって絵本を?」
「そう言えば、彼は台風を意図的に起こそうとしたわけではなかったみたい。不可抗力ってやつかしら」
 シュラインが言う。
 汐耶は思案げに腕を組んだ。
「これは推測の域を出ないんだけどもしかして……別の栞を使ったんじゃないかしら?」
「別の?」
「例えば緑の栞」
「!?」
「絵本には対応した栞がある。青い絵本には太陽の――橙の栞。赤い絵本には緑の栞。なら例えば緑の栞で青い絵本を開いたらどうなるのかしら」
 汐耶の言葉にシュラインが答える。
「制御できない」
「それでも絵本の栞である以上、それなりの効力はあるかもしれない」
「もしかして彼は絵本を閉じたかったのかしら。開かれてしまった絵本を緑の栞では閉じる事が出来なくて」
「では、何故、彼は絵本を開いたのでしょうか? 実験? それとも別に理由が?」
「…………」
 千鳥の疑問に沈黙が流れた。
 その答えを導き出す為の材料は、まだ足りないのか。
「そもそも、空野彼方って誰なんだ」
 リオンが言った。
「橙の栞を持つ者?」
 汐耶が首を傾げる。
「段々ややこしくなってきたわね。この前捕まえた男を仮にAとする。現在栞を持っているのはBとしましょう」
 シュラインが言った。
「高野さんは知っていたのかしら?」
「何となくですが、高野さんはAがBでない事を知っていたような気がします。しかし仁枝さんは知らなかったのではないですか」
「知っていれば、それこそ高野さんに手を貸したでしょうね」
 シュラインが疲れたように息を吐く。
「しかし、あのトラッカードッグが人違いねぇ」
 リオンが肩を竦めた。彼が人違いというのも考えられなかったのだ。
「それなら私に一人心当たりがあるんですが」
 セレスティが手を挙げた。
「え?」
「ですが、これは五十年前の話で、しかも彼は三十年ほど前に忽然と消息を絶っています」
「誰?」
「蒼」
「蒼? それは名前? 苗字?」
「わかりません。ただ、蒼、と」
 セレスティの言葉に一同が不可解げな視線を送る。
「しかし、もしその蒼が空野さんの正体なら、この前捕まえた彼は彼方ではないと断言できます」
「どういう事?」
「もしあれが蒼なら私たちは今生きていないでしょうから」
 セレスティの言葉に皆、無意識に息を呑んだ。
「……それは……」
「彼はそういう人物なんです。元司法局特務執行部にありながら、大量虐殺を繰り返し、人を虫けらのように無造作に切り捨てたS級犯罪者」
「…………」
「そして、蒼と間違えた彼が、朱ではないかと」
「朱?」
「元司法局特務執行部員にして、蒼の双子の弟です」
 だから冬也は間違えたというのか。
「だが、双子と言っても、彼が見分けるのはもっと霊的な部分の筈じゃ」
 首を傾げたリオンにセレスティが頷いた。
「えぇ。ですから二人はただの一卵性双生児ではないんです。シャム双生児だったんですよ」
「シャム双生児?」
 体の半身を共有して生まれてくるシャム双生児。それ故に魂もより近いところにあったという事か。霊視しても見分けられぬ程にそれらは酷似していたと。
「それ故に彼らは互いの半身をサイバノイド化しています」
「サイバノイド化ですって!?」
「えぇ」
 あの日、便宜上Aの空野彼方を捕らえた時、恭一郎によって切り落とされた彼の腕はサイバノイド化されていた。
「朱はずっと蒼を追っていた。そして三十年ほど前二人が忽然と姿を消した事で相打ったと思われていました。もし、彼らがその二人であるなら、まだ決着はついていなかったという事でしょう。だとするなら絵本は蒼をおびき出す為に開かれたのかもしれません」
「だからCITYの外で開いたの?」
 他人を巻き込まない為に。司法局がいつも使う手だ。けれど、蒼がそれほど危険な人物なら確かにCITYには絶対に呼び込んではならないだろう。
 絵本を早くCITYの外へ……。
「急いで!!」
「すみません……渋滞で……」
 運転手が困惑げに振り返った。
 シュラインが通信マイクに手を伸ばす。
「直江さん!」
『あぁ、どうやら、おいでのようですよ』
「あのね……」
 言いかけたシュラインの言葉を断ち切るように、そこで通信が一方的に切られた。
「!? 直江さん! 待ってちょうだい! 直江さん!!」
 シュラインはマイクに向かって怒鳴ったが一向に返事はない。
「ダメだわ。彼らともう、遭遇してしまったみたい……こうなったら、とにかくゲートに急いで!!」






【起承転結の結】 ただ物語をつむぎ続けり

 ■151501■

 クラクションをいくら鳴らしても無理なものは無理であった。
 この渋滞では避けて進む事も出来ない。そんな事は百も承知でそれでも押したい衝動にかられるのは、苛々を持て余してしまっているせいだろう。
 工事渋滞に車線変更を強いられる。
 前に車を入れるのさえムカつくほど気持ちばかりが焦っていた一同は、苛々と足を踏み鳴らしたり、忙しなく肘掛を指で叩いたりなどしていた。
「ウェストゲートまで後どれくらい?」
 シュラインが誰とはなしに尋ねた。
「距離にして5kmってとこじゃないですか?」
 千鳥が答える。
「5000m。走れば30分くらいかしら」
「現役の頃なら」
 リオンが肩を竦めてみせた。
「走るわ」
 言うが早いかシュラインがドアを開ける。
「え……」
 呆気に取られるリオンを他所に、セレスティがシュラインに声をかけた。
「私はこんな足ですから車に残りますよ」
「えぇ」
 シュラインが頷く。
「私も車に残るわ。万一、本が別のゲートに向かった場合も考えて」
 汐耶がインカムをシュラインに手渡しながら言った。
「わかったわ」
「では、私も走りますか」
 千鳥が続いて車をおりる。
「体力にはあんまり自信がないんだけどね」
 リオンは肩を竦めながら不承不承後に続いた。
「何としても事情を聞きだす。そして止めなきゃ」
「我々は幸い司法局の人間ではありませんからね。彼が空野彼方でないなら彼らを追う理由は目下のところ我々にはありませんし」
「場合によっては手を貸すわよ」



 ■151502■

 今、この段階で彼らが直江恭一郎と交戦している事から考えて、恐らく彼らは恭一郎の張った呪符結界を抜けられない事は容易に想像される事だった。
 下手な戦闘は時間稼ぎにしかならない。
 彼らを追ってくる者達もいるのだ。
 一気に抜けようとするなら、自分を殺すのが一番てっとり早い。しかし、彼らからはそういった殺気が感じられなかった。
 気のせいだろうか。
 幻覚の名残なのか、それとも――。
 彼方の蹴りが鳩尾に食い込み、そこで恭一郎の思考は強制的に停止させられた。
「けほっ……」
 鳩尾を押さえながら恭一郎が数歩後ろへよろめく。
 多勢に無勢は分が悪い。
 考えてる余裕などなかった。
 思いやる余裕もない。
「もう殺しは廃業したんだがな」
 自嘲が滲む。
 相手に殺気が感じられなくとも、その気がないとも限らない。
 恭一郎は腰に佩いていた脇差を鞘ごと掴んだ。
 ゆっくりと息を吐き出し地を蹴る。
 先ほどよりはるかにスピードの増した動きに彼らの反応が遅れたのか。
 恭一郎は一気に彼方との間合いを詰めると、彼に届いた瞬間脇差を抜いた。
 まっすぐに彼方を狙う銀閃に千尋が咄嗟に割り込んでくる。
 刃は千尋の脇腹を抉った。
「ゆき!?」
 動揺したのは彼方の方だろうか。
 千尋はそれに一瞬視線を馳せたが、脇差を掴んだままの恭一郎の手首をしっかりと掴んで、まっすぐ恭一郎を睨み据えている。
 場数を踏んでいるのだろう、大して動じた風もない。もし今、彼自らが飛び込んできたように見えたのが気のせいでないなら、恐らくこの一撃で彼の内臓は傷ついていない。
 恭一郎は柄から手を離して側転した。捩れる腕に千尋が咄嗟に手を離す。恭一郎は淡々とした足取りで間合いを開けると、次の攻勢を仕掛ける機をうかがった。
「やっぱり……結界を破るには術者を殺るのが一番手っ取り早いかな」
 脇差を刺したまま千尋が身構える。抜けば返って出血が酷くなるだろうから、今は抜かない方がいいだろう。とすればこれはいい判断だ、というべきか。
 恭一郎はそれで気を緩めるでもなく蹴りを繰り出した。
 両手でクロスブロックして、千尋が叫んだ。
「走れ、朱!!」
「朱?」
 その名に恭一郎が一瞬、隙をつくる。
 千尋はそこに掌底を叩き込んで一歩退くと胸ポケットに手を突っ込む。
 銃か、ナイフか、それとも――――。

 ――来る!

 刹那、二つの結界が壊れた。


「二重結界なんて初めて見たわ」
 どこか呆れたような物言いで、ササキビ・クミノは手にしていた銃を下ろした。コルトパイソン.357マグナムの2.5インチモデルは彼女の手の中にコンパクトにおさまっている。恭一郎の呪符が一枚、黒く焼け焦げていた。
 恭一郎は不審に眉を顰めた。呪符がたとえ効力を弱めていたとしても、そう簡単に物理的手段で破られるものではない。彼女の力を推し量るように見つめやる。
「お前……は?」
「子供の出る幕ではないと思うよ」
 彼方がやれやれと溜息を吐くその傍らで、どこか気が緩んだように膝をついた千尋が思い出したように笑顔を向けた。
「君は確か……その切は、うちの冬也が世話になったね」
「これだから司法局は嫌いよ。その事なかれ主義がね」
 クミノは心底嫌そうに吐き捨てて、彼方を見据えて言った。
「空野彼方……いえ、朱」
 その名前に恭一郎が反応する。朱。先ほど、千尋も彼をそう呼んでいた。
「やれやれ、とんでもないお嬢ちゃんだな」
「誰も巻き込みたくない。ご立派だとは思うけど傲慢ね」
 恭一郎は内心でクミノの言葉を反芻する。まだ状況がうまく把握出来ていなかった。
 彼は空野彼方ではないのか。恭一郎の疑問に、だが気づいた風もなくクミノは淡々と続ける。
「本物の空野彼方をおびき出す為とはいえ」
「なっ……」

 数週間前、朱は、空野彼方――橙の栞を持つ者をおびき出す為、青い絵本を開いた。
 彼がその後、あっさり司法局に掴まってみせたのは絵本を閉じてもらう為である。それと、そこに千尋がいたからだろう。千尋は朱のディジタルボックスを継承している。朱としては手ごまが欲しかったのだ。
 そして千尋は彼が朱だと知りながら空野彼方として捕らえた。彼が朱を捕らえたのは彼が絵本を開いた理由に思い当たるものがあったからだった。
 今、橙の栞を持っているのは、朱ではなく、その双子の兄、蒼。
 蒼が、絵本の回収に図書館を襲う事は容易に想像がつく。そして彼は、何の躊躇いもなくそこにある邪魔なものを全て消し去ろうとする事も。
 絵本をCITYの中に置いておく事は、最も危険な事であったろう。
 それが今回の逃亡劇。

「それに、司法局は貴方たちの抹殺命令を出している」
 クミノが言った。
「…………」
 恭一郎は二人を見やる。その表情からは何を考えているのか読み取れない。ただ、千尋は脇腹の傷に限界が近いのか、顔を蒼褪めさせていたが。
「誤認逮捕に脱走、脱走幇助。今回の一連の不祥事をなかったものにするためにね」
 思えば、それだけで抹殺命令と言うのも乱暴な話ではなかったか。
 クミノは更に続けた。
「でも、実態はもっと根が深いんじゃないの?」
 事情を話して絵本を取り封印も解いて貰った上でCITYの外に出る手段もあった。汐耶らとて、事情がわかれば無理に止めようとする事もあるまい。
 だが、敢えて彼らはこの逃亡劇を選んだのだ。
「…………」
「可愛い飼い犬を殺されたくなければ、もう、あなたが死ぬしかないんじゃないの?」
 クミノは疲れたように息を吐く。
「どういう事だ?」
 彼女の言葉の真意を理解し損ねて、恭一郎が目を見開く。
「直江さん! 待って! 違うのよ! もしかしたら彼は朱かもしれない……」
 そこへシュライン達が駆けてきた。
 クミノがシュラインを振り返る。
「あなた……」
 思いがけない人物にシュラインが絶句していると、クミノはにこりともせず言った。
「もしかしなくても予想通りよ」
 その言葉にシュラインが千尋と朱を見やる。
「やはり、そういう事でしたか」
 千鳥が呆れたように溜息を吐いた。
「なら、止める理由はないな」
「でも、力づくで止めて欲しい理由があるんじゃない?」
 クミノが千尋に尋ねる。
「ああ。確かに……君の言う通りだよ」
 千尋はどこか困ったような笑みを零した。
「朱……俺は必ず後を追う。だから先に…行ってくれ」
「…………」
 朱は一つ頷いて踵を返した。ゲートに向かって走りだす。誰もその背を追わなかった。
 その背がゲートの向こうに消えるのを見送って、千尋は彼らを振り返る。
「せっかくの…迫真の演技が…台無しじゃないか。これ以上…巻き込みたく…なかったのに……」
「!?」
 そうして千尋は自分の脇腹に刺さっていた脇差をゆっくり引き抜いた。
 鮮血があふれ出す。
「救急車を!」
 傾ぐ千尋の身体に、シュラインが慌てたように駆け寄った。
「必要ない!」
 地面に仰向けに倒れた千尋の脇腹を圧迫しながら止血を試みるシュラインの背を男の声が叩く。
 そこに白衣の男が駆けてきた。
 シュラインの手をどけて止血の応急処置を始める男に、千鳥が眉を顰める。
「あなたは?」
 恭一郎がここへ訪れる前からここにいた人物だ。
「通りすがりの監察医」
「……救急車が必要ないとは」
「こいつは死んだ」
 監察医と言った男はそこで一旦手を休め、千尋から顔をあげると千鳥を見やった。
「という事にしておいてくれ」
 そうして、再び処置に戻る。
「そういう事ね」
 クミノがそれまで張り詰めていた緊張を解いたように息を吐き出した。
「どういう事」
 シュラインが尋ねる。
「この秘密裏の任務が失敗すれば処断されるのは彼を追ってきた司法局員……要するに、この事件の黒幕には司法局が絡んでるって事でしょう」
「死んだ事にしておいた方が、この先都合がいいというわけか」
 リオンが小さく肩を竦める。
「…………」
 そこへ一台のリムジンが止まった。
 中から、汐耶とセレスティが下りてくる。
 汐耶は倒れている千尋に息を呑んだ。
「間に合わなかったの?」
「救急車を……」
 慌ててリムジンに戻ろうとするセレスティの肩をリオンが掴んで首を横に振った。
「どういう事ですか?」
 尋ねたセレスティに、リオンが簡潔に事情を話す。
 予想はほぼ当たっていた。そして――。

「絵本はNATに持ち出されたのね。封印は解くべきなのかしら」
 首を傾げた汐耶に、傀儡符から開放されたCASLLが声をかけた。
「あ……あの、今の状況があまりよくわかっていないのですが、朱さんは『急いで解かないと、この事が奴に知れたら術者が危ない』って言ってましたよ」
「奴って、蒼の事かしら」
 呟くシュラインに汐耶が頷く。
「……そうね」
「仁枝さんにも話してあげた方がいいのかしら」
「きっと、怒るんじゃないですか? 私たちも、何となく腹立たしいですし」
「ちゃんと、話してくれれば良かったのに」
 何ともやるせない気分で、六人はウェストゲートの巨大な扉をを見上げたのだった。


 CASLLが顔に似合わず懇切丁寧な挨拶をして、大型バイクで帰っていった。
 セレスティが送ってくれるという申し出を辞退したクミノが、リムジンに乗り込む六人に声をかけた。
「彼はあなたたちを巻き込みたくなくて事情を話さなかった。だけど、納得がいかないのなら『赤い絵本』を探してみたら?」
「え?」
「朱が持っているのは緑の栞」
「あ……」
「再び彼らに交わるかもしれないわ」





■END■



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3453/CASLL・TO/男/36/悪役俳優】
【3359/リオン・ベルティーニ/男/24/喫茶店店主兼国連配下暗殺者】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【4471/一色・千鳥/男/26/小料理屋主人】
【5228/直江・恭一郎/男/27/元御庭番】
【1449/綾和泉・汐耶/女/23/都立図書館司書】
【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】


【NPC/仁枝・冬也/男/28/司法局特務執行部】
【NPC/高野・千尋/男/28/司法局特務執行部】
【NPC/藤堂・愛梨/女/22/司法局特務執行部オペレータ】
【NPC/瑞城・東亜/男/25/監察医】

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■         ライター通信          ■
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 ありがとうございました、斎藤晃です。
 逃亡者にご参加いただきありがとうございました。

 章番号の上4桁は時間です。
 また、5桁目はシリアルナンバになっています。
 章番号を参考に、機会があれば他の章を読んでみると、
 その時、他の方々がどういう状況であったのかがわかって、
 いいかもしれません。

 楽しんでいただけていれば幸いです。
 ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。